第13話 そして日々が始まる
久しぶりに帰ったような気がする我が家は、まだ夕方にも関わらず暗かった。ただいまを言わずに廊下に上がる。
昨夜みたいに兄が待ち構えているようなことはなかった。電気の点いていないリビングから、かすかな光と音が洩れている。
朝、神坂とは下駄箱の前で別れた。本人から友達と認められたとはいえ、昨日まで何の関わりもなかった他クラスの生徒が一晩経てばべったり、というのは端から見ても妙な話で、大した打ち合わせもなしにどちらからともなく離れ、別行動になった。
午前の授業をこなし、昼休みには神坂の母親が握ってくれたおにぎりを食べた。コンビニ以外のおにぎりを食べるのでさえ数年ぶりで、家庭の味に懐かしさを覚えた。美味しかった。
事件からそう時間も経っていないため、基本的に「いつも通り」を念頭に置いて生活することに決めていた。昼食を食べ終わって廊下に出ると他クラスの知り合いがいたため、これ幸いとばかりに話に混ざる。数分ほど経った頃、後ろから歩いてきた誰かと肩がぶつかった。
「ごめん」
そう呟くだけで止まらずに去っていった背中には、見覚えしかなかった。別人のように背を丸めていかにも地味で陰気に見えるように歩いていたが、本来の姿を知った状態で見るとやはりスタイルがいい。脚長ぇなあと漠然と思い、次に蹴りの威力を想像した。しかしそう思っているのは当然伊奈瀬だけで、血の気の多い知り合いたちは「何あれ」「感じわる」といった悪口を条件反射のように口走った。
「一発殴る?」
これは学年の中でも結構な問題児扱いをされている男子生徒が言った。冗談を言う口調だったが、伊奈瀬が少しでも前向きな姿勢を見せれば本当にやるだろうという感じの、悪趣味に獰猛な目をしていた。
「気にしなくていいって。事故事故」
伊奈瀬は半笑いでいなした。伊奈瀬の対応一つでこの生徒の無事如何が決まると思うと冷や汗が出た。
貼り付けた笑顔の余韻を残しながら何気なくポケットを探ると、覚えのない紙の感触が指先に触れた。伊奈瀬はそれとなくその場を去って、神坂が歩いて行ったのとは反対方向のトイレに入った。
神坂が伊奈瀬のポケットに忍ばせた紙片には、手書きで何かのウェブサイトのURLが長ったらしく記されていた。うわ〜と声を出さずに言って、それからポチポチと手入力でサイトを検索する。
出てきたのは今日更新されたばかりのニュース記事だった。伊奈瀬が住んでいる地域の名前と、高校生死亡の文字が目に留まる。──田町翔太さん。伊奈瀬は息を呑んだ。
落ち着いて一から目を通す。田町の死は一時自殺とみられていたが、翌日犯人を自称する人物が自ら警察署に出頭し、殺人事件と断定された、といった内容だった。記事には犯人の顔写真が載っていて、それは当然のように神坂ではない。だが、見覚えはあった。伊奈瀬を殴ろうとして神坂に回し蹴りをお見舞いされた、あの売人だ。生きていたのか、という感動のほうが先に来る。
上から下まで本文を読んで咀嚼し、感情を吐息として吐き出して、伊奈瀬は携帯を仕舞った。改めてメモを見直す。URLの下には地元のニュース番組の名称と、分単位で指定された時刻が書かれていた。それから、「283p 確認済」の文字。一度見たものはだいたい頭に残るので、メモ用紙は細かく破いて水に流した。
トイレを出てぼんやりと廊下を歩いている途中、そういえば神坂の筆跡、昨日の置き手紙とだいぶ違ったなと思った。
リビングに足を踏み入れる前に、廊下の時計を見た。田町の報道が流れる予定の時刻を五分ほど過ぎていた。条件反射のように、脳の表面を白い
でも、自分の居場所はあそこではないし、今の伊奈瀬にはやることがあった。神坂の家にばかり入り浸っていたら、きっと楽しくて何も手につかなくなる。それは、ダメだ。
伊奈瀬は吐き出すばかりに偏った深呼吸を一度だけして、リビングに片足を入れた。すぐに自室に行くからと電気は点けなかった。くぐもって聞こえるテレビのささやき。その前に設置されたソファに座る、兄の黒い後頭部。
「兄さん」
できる限り感情を込めずに、声を投げた。伊奈瀬の声の抑揚はいつも、どこかの高さで航太郎の神経を逆撫でする。苛立ちを呼び起こさせてはならない。せめて最初の一言だけは。
ややあって、黒い頭が回転してこちらを見た。細い眼鏡のフレームが光る。
「…………なんだ、生きてたのか」
航太郎の声は喉に引っかかって掠れていた。田町を死に追いやった犯人が伊奈瀬ではないと知って、何もかもが間違いだったと悟った──でももう弟は死んで手遅れになった、と思ったら生きていた、というどんでん返しの衝撃からかはわからない。神坂のほうがまだ感情を読ませてくれる。見慣れた横顔は今日もやつれていた。
「投げ捨てようと思ったんだけど拾われた。だからこれからも生きるよ、おれは」
航太郎は何も言わなかった。かといって興味を失った風でもなかった。
「兄さん、おれ、医者目指すから」
途端、兄の目の色が変わった。黒い瞳が凍えたように小刻みに震える。
兄は素早い動作で身を翻した。重みをかけられ慣れていない、革張りのふかふかした背もたれがギュムと鳴く。兄は背もたれを床にして土下座をするような姿勢になった。
そして、乾燥した唇が空気を求めて開いた。次に飛び出す言葉が喜びの形をしていないことを理解する。
だから、伊奈瀬は鋭く言葉を挟み込んだ。
「でもここを継ぐ気はない」
まるで競技かるたの試合か何かだ。先手を取った者だけが目的を果たし、敗者は黙すのみ。次の読み札が読まれるのを待つ静寂が、耳鳴りのように鬱陶しい。
「おれは外科に行く。頼まれたってそこは曲げない」
一生ものの友情にするとはいえ、卒業後もいつでも連絡できるような状態を保つのは、神坂が許さないだろう。裏社会の人間と繋がりを持つということは、こちら側の世界の人間にとってはそれだけのリスクに違いない。だから「勝手にしろ」なのだ。友情を感じるのは伊奈瀬の自由だが、神坂がそれに付き合うとは限らない。物質的な繋がりには期待できない。
なら、せめて命を繋ぎ止める立場でありたい。これから先、それこそ卒業後も無数の傷を負うだろう友人との再会を、伊奈瀬は病院で待つ。今度は自分が助ける番に回りたい。自分の、この手で。
伊奈瀬のいる病院に運ばれずに、勝手に助かったり死んだりするのかもしれないけれど、それでも。
「……だから、勉強頑張って。……航太郎兄さん」
言いたいことが山ほどあったような気がした。でも、口にしてみればそれだけだった。
あるいは、この制御しようのない病の靄が、伊奈瀬の言いたかったことの大半を覆い隠して見えなくさせてしまっていたのかもしれない。この家の中では身が縮む。臆病になる。それを悟られたら息さえもできなくなってしまうから、必死に自分を強く見せようとしている。結果、攻撃的になる。短絡的になる。考えなしになる。……伊奈瀬の一番の武器は、その頭脳のはずなのに。
でも、それなら時が解決してくれる、とも今は思う。この常時酸欠状態の家から出れば──それか、こんな家にもいつか酸素が満ちれば、伊奈瀬も航太郎も、きっともっと正常でいられるのだ。そうしたら、また改めて話せばいい。
今はまだ、これでいい。
鉢合わせた熊の前から立ち去るみたいにして、伊奈瀬はぎこちなくリビングを離れた。航太郎は追いかけてこなかった。声もしない。物音一つ。
死んだみたいに静かな家は、きっと自習室に最適だ。
心は別の場所にある。だから、大丈夫だ。
伊奈瀬は自室の机の前に腰を下ろし、テキストを開く。
まずは、今日出された宿題から。
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