第12話 籠の鳥
リビングに案内されると、あたたかいコーヒーと焼きたてのトーストと、新鮮なサラダが出てきた。カロリーメイトじゃねぇ、と思った。
「簡単なものばかりでごめんなさいねぇ」
神坂の母親が申し訳なさそうに顔の前で手を合わせるので、伊奈瀬は慌てて首を振った。
「いえいえ、そんな! 急に押しかけたのはこっちですし、全然簡単なんかじゃないですから」
それは神坂の母親の正体を知ったから出る過度の恐縮ではなく、純粋な伊奈瀬の気持ちだった。
「誰かが自分のために作ってくれるってだけで嬉しいです、本当に。あったかいだけでご馳走というか……うちの食事温度も味もないので」
「お前ん家空気でも食ってるのか?」
先に手を合わせてコーヒーに口をつけた神坂が、隣で言った。
「気になるんなら今度お礼に招待してやるよ。崩壊した家庭の空気をどうぞ存分にお楽しみください」
「絶対に嫌だ」
それから伊奈瀬は約束通り、昨夜のケーキの感想を、持てる限りの語彙と熱量でひとしきり語った。神坂の母親はとても目を輝かせて前のめりに聞いていて、神坂はなぜか笑いをこらえていた。おおかたクソみたいなテンションで暗い話ばかりしていたこれまでの伊奈瀬の言動がよぎって、道化にでも見えているのだろう。そう思って放っておいていたが、神坂の母親に、
「そんなに喜んでくれるなんて、よかった〜。あそこのケーキってすごく人気で、いっつもお店の前に行列ができてるの。その上なくなり次第閉店だから、お気に入りなんだけどちょっと並ぶのに勇気が要るところがあって。普段はたまにしか顔を出さないんだけど、昨日並んでみたのは正解だったみたい」
と返されて笑顔のまま固まった。はあ? と声が出そうになるのをこらえて隣を窺うと、神坂が口の動きだけでたぶん「バ〜カ」と言った。は? こいつ性格終わってね?
ちょっと殴りたくなったけれど、一発も入らないどころか逆に関節を
伊奈瀬は噛み潰した苦虫をコーヒーの味で上書きし、「マジで美味かったです」と強く言い添えた。神坂が意外そうにこちらを見た。
「だって、本当に美味しかったから」
伊奈瀬は神坂の目をまっすぐに見返した。ややあって、神坂が先に折れた。呆れたような微笑を浮かべて、「バカだな、お前は」と言った。
それでよかった。
「今度は手作りのケーキご馳走するから、また遊びに来てね」
出がけに神坂の母親にそう言われて、「へ?」と素っ頓狂な声が出た。同じく三和土で靴を履いていた神坂は、観念したようなため息をつきこそすれ、否定も驚きもしなかった。この親子の間では、この申し出は一種の予定調和であるらしい。
「その……いい、んですか」
「だって、お友達なんでしょう?」
○○の、と付け加えた名前の部分はやはり「優人」でも、まして「神坂」でもなかった。来た時に聞いたものと同じ発音で、ああこいつにはちゃんと本当の名前があるんだなと思った。伊奈瀬と出会う前に使っていた別の偽名などでもなく。その事実が、なんだか我が事のように嬉しかった。
「友達だよ」
神坂の声が聞こえた。あまりにもあっさりとした肯定だったため、一歩間違えたら意識の片隅にも引っかからずに素通りしてしまうところだった。伊奈瀬は唖然としたまま神坂の顔をまじまじと見る。
「マジ?」
「嫌なら別にいい。付け上がってもどうせ殺すしな」
「いやいやいやいや、そういうこと言ってるんじゃないじゃん。だって──」
神坂は伊奈瀬のことを「殺さなかった」だけだ。事情を共有したのは好意からではなく、そうせざるを得ない状況を伊奈瀬が作り出したからと言ってしまって差し支えない。信用されていることと心を開かれていることは全然違う。伊奈瀬のそれは経過観察であって、踏み込んでいい許しをもらったわけじゃない。
そういうことを口にしようと思った矢先、横から嬉しそうに弾んだ声が割り入ってきた。神坂の母親だった。
「お友達なら、遠慮しないで遊びに来てちょうだい。高校生は、お友達と一緒に遊んだり勉強したりするものなんでしょう? 私にはちょっと、よくわからないけれど」
そうよね? と続けざまに問われ、伊奈瀬は心の表層で何かを理解した。理解をしながら、それでも上手く回らない頭で「そう、ですね」と頷く。鉄板の上で氷を焼くような思考だった。溶け出した水が、上手く脳に馴染まない。
「じゃあ、行ってきます」
神坂の声が伊奈瀬の意識の手を引いた。あれからどこか茫然としたままに、昼食の入った巾着袋を受け取っていた。礼を言ったか定かじゃないが、きっと言っただろう。そうであることを祈るしかない。
ぐっと袖が引かれ、身体がつんのめる。今度は本当に手を引かれていた。
「行ってらっしゃい。また来てね」
くぐって遠ざかるドアの隙間から、神坂の母親が優しい微笑みで手を振っていた。伊奈瀬は半開きのままだった口から息を吸った。
「また来ます、絶対」
神坂の母親の頷きを見た直後、音を立ててドアが閉まる。
○
「察しがいいのは間違いなくお前の美点だが、察しがよすぎるのがお前のたまの欠点だよな」
有無を言わさぬ力で伊奈瀬を引きずりながら、神坂は言った。マンションの外廊下から見える景色は、下を覗き込めば軽くくらりとしそうな程度には高そうだった。そうだよな、と伊奈瀬は思う。この家族は、おそらく定住を前提に生きていない。
「お前、俺のことを籠の鳥だとでも思ってるんだろ」
「実際、そうだろ」
神坂が手を離してこちらを振り向いたので、伊奈瀬は噛み付くように答えた。
神坂の母親が伊奈瀬のことを友達だと言ってくれたのは、実際にそう認めてくれたというのも──神坂が自分の全てを打ち明けた相手として一定の信頼を置いてくれたというのもあるかもしれないが、一番の理由は神坂のためだろう。
伊奈瀬は神坂の「高校生らしい生活」の部品に過ぎない。普通の子供にあるべき生活を、神坂の母親は神坂に経験させたい。
なぜって、おそらくこれが最後だからだ。神坂優人は大学に行かない。高校の三年間が終われば、彼はすぐに就職する。鳥籠をぶら下げていた鎖は切られ、籠ごと誰かに引き渡される。
そして、その「誰か」は、もう既に決まっている。
「いいか、伊奈瀬。俺に過剰に気を回すな。友達なんだから」
神坂は言った。まっすぐにこちらを見て、至極当たり前のように。
「頭の回転の早いお前のことだ、今はきっとこう考えているだろう。俺が高校を卒業するまでの間に、例えば鳥の入った籠がどこか遠くへ持ち逃げされたら。あるいは、鳥籠の出荷よりも前に、その契約者がいなくなったら中の鳥は一体どうなるのか──はっきり言わせてもらうがな、お前には関係のない話だよ。俺とお前じゃ生まれた世界も住む世界も違う。あまりこちら側の事情に手を出すな」
「関係ないって……」
今までこんなにも色々なことを教えてきて、いきなりその言い方はないだろうと思う。神坂の裏事情を知っている数少ない人間だからこそ、力になりたいと思うことだってある。
「俺はな、お前の将来には期待しているんだ。たかだか三年未満の友人関係のために、一生を棒に振ることはない。別にこっちは頼んでも望んでもいないしな。俺にだって仕事にかけるプライドややりがいがある。俺は個人的な性格から言えばこの仕事は向いていないかもしれないが、案外苦ではないんだ。多分だけどな、お前が買うに値するほど、俺はまともな人間じゃないよ」
神坂が外の様子を眺めながら言った。眩しそうだった。
「それでもお前がこの関係を望んでくれたから、俺は人生で初めて友達ってやつを持てたんだ。それを俺から奪わないでくれよ。頼むから」
神坂は立ち止まって伊奈瀬に言った。伊奈瀬も同じように足を止めた。
届いていたのか、と思った。首を絞められ、窒息状態でまともに声など出ていなかっただろうに、そのかすかな振動は神坂の心にまで伝わっていたのだ。
伊奈瀬と目が合ったことを確認して、神坂は再び歩き出した。伊奈瀬はすぐには後を追えず、両者の距離が開いていく。
「──一つだけ、反論させてほしいんだけど」
一呼吸の決心ののち、伊奈瀬は口を開いた。神坂が足を止め、振り返る。
「何だ」
「おまえはこの友人関係を高校の間だけのものだと考えてるみたいだけど、オレはこの友情、一生ものにしたいと思ってる」
流石と言うべきか、その瞬間の神坂の表情からは、意図が何も読み取れなかった。驚きもしないし喜びもしないし──困惑も否定もしなかった。
「勝手にしろよ。後悔しない程度にな」
やがて、彼は笑って言った。挑戦的で好戦的な──伊奈瀬が一番やる気の出る笑みだった。
それで伊奈瀬は歩き出す。早足でその距離を縮め、後ろから背中を叩くように勢いづけて肩に手を回すと、「調子に乗れとは言ってない」と即座に舌打ちが飛んでくる。そういう容赦のなさを伊奈瀬は心地いいと感じるし、言葉のわりに引き剥がしもせず放置しておいてくれるのを嬉しくも思う。
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