第11話 資料集はいかにして忘れられたか

 一通りの支度の後、首に絞められた痕があるからと、神坂がメイクで隠してくれた。処置自体は時間も短くごく簡単なものだったが、神坂が持ってきたメイクボックスは少し本格的な救急箱ほどのサイズがあり、切り傷や打撲痕を隠す以外の用途でも使われそうな気配を十二分に放っていた。そういったメイク技術のほとんどは父親直伝だという。伊奈瀬が勝手に思い描いていた詐欺師像はその道のプロになりすまして美術品の贋作や中身のない高額な契約を売りつけるようなものだったので、認識をもう少し柔軟に変えなければならないような気がした。


「神坂って、今生物の資料集持ってたりする?」


 処置が終わり、渡された手鏡を覗き込みながら、伊奈瀬は言った。痣が消えた自分の首は、いつも通りの時間を過ごしていたかのように健康的な姿をしている。


「資料集? 長期休み前でもないんだし、持って帰る必要がないだろう」

「だよねー……」


 伊奈瀬は頷き、怪訝そうにこちらを振り返った片付け中の神坂と目を合わせた。


「オレが田町と知り合ったのって、あいつに生物の資料集貸したのがきっかけなんだよ。で、ちょっと神坂の話聞いて思ったことがあるんだけど」

「何だ」

「田町って、実は薄々気づいてたんじゃないの。家の倉庫に何があるか」


 神坂が無言で体の向きを変えた。伊奈瀬と正対する形になり、腕を組む。話せ、と態度が言っていた。


「オレって授業中暇な時にたまに資料集めくって眺めてることあるんだけどさ、端のほうのコラムか何かで見た記憶あるんだよな。『実はあなたの身近にも! 危険な植物特集』」


 みたいな、と濁さなかったのは、相応の確信があったからだ。記憶力にはそこそこ自信がある。今だって頭の中にその誌面を再現して文字を読んだようなものだし、何ならページ数まで指定したってよかった。283ページだ。


「毒を持ってて危険な草とか、栽培してると違法になる草とかを一部写真付きで紹介してる。違法になる植物の欄には写真と一緒に簡単な見分け方が解説されてて、見かけた際は警察署や保健所に連絡しましょうって真っ当な指示が添えてあった」


「つまり、田町はその指示に従って通報することを考えていたと?」


「そこまではどうだか。ただ、犯罪が身近じゃない一般人からしたら大事件だよ。自分の親が法に触れる植物を自分に隠れて栽培していて、金に換えてた可能性があるなんてさ。できることなら自分の勘違いだと思いたい、間違いだという確証がほしい──そう考えるのはまあ自然なことだと思う。田町は何かの拍子に今の倉庫の様子を見てしまって、その植物が『違法でない』確信を得るために資料集を持ち帰った。でも普段は学校に置いてある教材だ、今度は家から学校に持って行くのを忘れて、オレの教室まで借りに来た──そういう筋立てなら破綻はない」


 神坂は目を眇めて黙った。言いたいことはわかる。


「別に、だから田町を殺したのは正解だったとかおまえの仕事に意見するつもりはないよ。ただオレが個人的に反省してるだけ。オレは田町のこと、自分じゃ何も疑えない愚かな人だと決めつけてたから」


 神坂が乾いた声で笑った。「ひどいな、お前」


「今となってはほんと、ひどい思い込みだったと思ってる。目が覚めた気分だよ。田町は田町なりにデカい問題に直面してて、悩んで、現実に向き合おうと奔走してた。隠した事情を汲もうとしなかったのはオレも同じだったわけ」


 視線を落とした拍子に、鏡の中の自分と目が合った。見ていられなくて目を逸らした。


「──それにしても、お節介な教材があったものだな。知識を悪用されたらどうする」


 伊奈瀬が視線を上げた時、神坂がため息混じりに言った。伊奈瀬は苦笑する。


「そりゃもう、編者としては百パー善意だろうね。結局は使いようでしょ。薬物はやめましょうねって啓発動画を見せられて、その意図通りに『危険だからやめよう』って思う人もいれば、『そのやり方なら気持ちよくなれるんだ』って真逆の受け取り方する人もいるだろうし。そもそも興味なくて時間いっぱい寝てる人もいる」

「お前はその中のどれなんだ?」


 神坂が試すような笑みを向けていた。いい奴だなとしみじみ思った。


「そりゃあ、こう見えて真面目ですから、オレは。寝ないし額面通りに受け止めますよ。自分で自分も正せちゃうスーパーいい子だわ」


 神坂は満足したように鼻を鳴らした。それから、言う。


「一ついいことを教えてやるよ、伊奈瀬」

「ん? なーに?」

「純度百の本物の『いい子』はな、授業中に先生の話そっちのけで資料集見たりしないんだ」

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