第10話 神坂優人の裏事情

「俺の母親が、足抜けの難しい業界の有名人だったって話はしただろう」


 いつかの伊奈瀬がそうであったように、神坂は一連の事の次第を語るにあたって、まずは自身の身の上から語ってみせた。伊奈瀬は軽く頷いて答える。


「したね。それが作り話じゃないなら」

「詐欺師が雄弁に語るべきは嘘ではなく真実だ。自分にとっての本題は隠し味にして、それとわからず客に飲み込ませるのが一流の仕事──俺の父親の言葉だな」

「……それは、」


 伊奈瀬は早々に言葉を失った。


「例の、単身赴任中の」

「名前と顔を次々に変えて嘘を売り歩いている。あまり頻繁には帰ってこないが、毎月の振り込みは欠かさないし母親にはしょっちゅう電話しているから、生存だけは簡単に把握できる。俺も本当の顔は見たことがない」


 それでこの特徴のない完璧な顔か、と危うく飲み込みかける。親の整形は子に遺伝しないのだ。


「さっき話した俺の師匠っていうのは、俺の両親のことだ。父親が詐欺師、母親が元殺し屋。その二人の血を受け継ぎ、どちらにも師事している──俺の素性を端的に説明すると、そういうことになる」

「…………超人一家だな、おまえん家。嘘みたいに」

「案外全部嘘かもしれない」


 神坂がふふと笑い声をたてた。こちらに向こうの顔がほとんど見えていないせいだろうか、いつもよりリラックスしているように聞こえる。


「でも、流石いいところを突いている。……そうなんだよ。超人と超人が結ばれて生まれたのが俺だ。それも二人とも同じように裏の仕事を請け負う業界の、さらに活躍する分野は違う二人。俺の両親を知る人間が見たらどう考えると思う? 世界を獲ったプロスポーツ選手と、誰もが知る俳優やモデルが結婚するようなものだよ。その子供の能力がどっちに似ようが、テレビの前の大衆が想像するのは輝かしいスポットライトを浴びる、ただ一人の若い才能の姿だ。そして俺も、そのうちの一人だ、簡単に言えば」


 何も言えなかった。生まれた瞬間から四方八方を取り囲んでいた境遇について、神坂自身がどう考えているのかすらわからない。一般人に推測できる域を軽く超えている。


「俺の母親は俺を産み育てるために仕事を辞めた。だが、母親が仕事を辞めるために上司にあたる人物から出された条件も、結局は俺の存在だよ」


 自分の置かれた状況を説明するのに、神坂は「予約」という言葉を使った。神坂の母親の「上司」は、重大な戦力であり稼ぎ頭である神坂の母親を手放す代わりに、新たに生まれる予定の若い才能を「予約」した。母親には新たな才能を育てるという新しい役目を与え、一時的に彼ら家族を仕事から解放したのだ。


「損をしない賢いやり方だ。母親を変わらずこれからも使い続けるよりも、俺に代替わりさせたほうが長期的に見れば長く使える。どんな超人でも、一定の年齢を越えれば若さに負けることはままあるしな。……家族や恋人ができたから辞めると言い出した人間の大半は処分されることになるが、うちの母親ほどの実力者だと処分する側にもそれなりのコストがかかる。だから上司は交渉を選んだわけだ。仮に生まれてくる子の出来が悪くても、向こうにとっては状況が振り出しに戻るだけで、実質的な損害はないからな。俺ら親子が生きるか死ぬか、それだけの違いだ。……上手いよ、本当に上手い」


 神坂の言葉は、内容の割に淡々と、彼の口から澱みなく出てきた。話し慣れているはずはない。だったら、それは何度も何度も彼の中で反芻されてきた事実なのだろう。


 そのやけにあっさりとした感じが、伊奈瀬は嫌だった。


 へらへらしている自分のようで。


 現実に抵抗するのを諦めた人間のようで、胸糞が悪い。


「……それ、おまえの父親は?」

「もちろん知ってる。だがまあ、うちの父親は俺と違って戦闘はからきしだからな。運と口八丁だけで生き延びてきたような男だよ。母親の結婚相手がどんな人間かってのは上司も知っているから、報復は無論警戒されているだろうな。顔も素性も変えられる詐欺師とはいえ、うちの上司を敵に回すのは分が悪い。……まあその辺の話し合いは俺が生まれる前に飽きるほどやったんだろう。うちの家族は肩書きこそ仰々しいが、愛がないわけじゃない。むしろ溢れてる」


 それは本当にそうだ。神坂の家には、家族に対する愛が間違いなく溢れている。伊奈瀬の家にはないものばかりがある。金以外。……もっとも、それも少し「普通」とはずれているわけだが。


「毎月の振り込みがあって、顔や名前が変わっても家族に会いに来て、自分の技術を教えてくれる。その上、毎日のようにケーキを作ってくれる」

「そういうこと」

「でも、じゃあおまえは、やりたくないことをやらされてるわけ」

「どうだろうな。自分からやりたいと言ったわけじゃないのは確かだが、物心つく前から決まっていたことだ。それに、この業界自体やりたくてやってる奴のほうが少ないし、やりたくて始める奴はたいてい早死にする。その手の人間は成果を出すためじゃなく自分の欲求を満たすために仕事をやっているから、引き際を知らない。仕事以上の結果を出して余計な証拠を残したり、不要な恨みを買ったりする」


 それはそうかもしれない。でも、だからってそれが神坂がやりたくないことをやる理由にはならないだろうと思う。そういう家に生まれたから、なんて理由が通るはずが。


 ふと、航太郎はどうなのだろうと伊奈瀬は思った。自分の兄は、本当に医者に憧れて「医者になりたい」と口にしたのだろうか。それとも、束縛の度合いは違えど今の神坂と同じような動機なのか。

 自分が「そういう家」の長男に生まれたから、なんとなく現実に屈服してしまっているだけなのだろうか。本当はもう、医者になるための勉強などしたくないと思っているだろうか。


 弟に代わってもらいたいと、思っているだろうか。


「だからまあ、五歳の時に俺を冷凍倉庫にぶち込んだ母親の気持ちもわかるね。その程度で生き延びられないようじゃ、この先がもっと苦痛になるだけだ。それなら大人になって余計なことを知る前に、死んでしまったほうがマシだ」


 伊奈瀬はドキリとした。そうしたところでどうせ何も見えないのに、急いで顔を上げる。


「……おまえも、そう思ってんの?」

「そう、というと」

「大人になって余計なことを知る前に、死んだほうがよかったって」


 そんな寂しいことを。悲しいことを。


 だが、伊奈瀬の予想に反して、神坂はあっさりと即答した。


「そんなわけない。俺はあの時生き延びてよかったと思ってるよ。生きていないと美味いものの一つも食えないからな」


 その返答に、伊奈瀬は呆気に取られた。そして、噴き出すように笑う。


「……ばっかだね〜、おまえ。成長期かよ」

「なんだよ、実際そういう歳だろ」


 神坂は不服そうだったが、伊奈瀬にはその返答が可笑しくてたまらなかった。神坂が人間くさかったからかもしれないし、年相応で高校生らしいと感じたからかもしれない。


 そんな些細な理由で生きていいんだ、と思ったからかもしれない。


 電気の消えた真っ暗な部屋で笑う時間が、なんだか修学旅行の夜のようだった。いつもと違う環境で、いつもと違う時間に同い年の友達と、きっと腹を割って話して、心の底から笑いたいと思って笑う。そういう特別さだった。


 でも、きっと限りがあるから「特別」だ。


「──まあ、そういうわけで、俺は高校生でありながら組織お抱えの殺し屋だ。その必要があれば役者にだってなる。今はまだ学業がメインということになっているから、頻度も規模も専業に比べれば大したものじゃない、あくまでも軽くってところだが。新人研修というか……まあバイトみたいなものだ」


 神坂が言って、伊奈瀬は笑っていたその表情をゆっくりと止めた。


「……バイト禁止だろ? うちの学校」

「犯罪者に校則を説くのか。お前は本当に真面目だ」


 神坂はこともなく言った。流れるように話を続ける。


「上司の持つ取引先には、結構規模の大きい組織も入っててな。そういう組織の財源には、法に触れたりギリギリ触れなかったりする薬物が関わっていることもある。最近、この町の周辺で、懇意にしてる取引先の関与していない販売ルートが細々とだが確認されていた。すぐに廃れるかと思って最初はそこまで気にかけていなかったみたいなんだが、そうはならずに目障りになったから、まあ、……二度と販売ができないように制裁を加えてほしいと」


 神坂は頑張って言葉を濁したようだったが、濁すということは濁すだけ過激であるという証拠でもある。


「オレにはそれが軽い仕事とは思えないんだけど?」


 過激さどうこうという話もあるが、それを差し引いても、少なくとも複数人の対象がいることは決まっているようなものだ。作って売るのを全て一人でやっているとは考えにくい。


「普通だったらそれなりの重労働だ。完全に販売ルートを絶つには販売元を潰さないといけない。それを末端から辿って特定するのが難しいことは、刑事ドラマなんかを見ていてもわかると思う」

「じゃあ、」

「でも実際、簡単だったんだ。この件に関してだけ言えば。相手は業界のことを何も知らない素人だった。身の隠し方も、こっちの世界での常識的な振る舞いも何もわからない。だから売っている商品も市場価格より断然安かったり、価格の割に質が異常によかったりする。……全くの偶然ではあったが、客に寄り添った商売をしていたせいでそれなりに栄えていたんだよな。それが先方の気に障った」

「…………ちょっと待てよ」


 ふと、伊奈瀬はあることに気がついた。口を覆った手がかすかに震える。


「……それが、田町?」


 そもそも、伊奈瀬がこうやって神坂の家にまで上がって神坂と話せているのは、田町の死が伊奈瀬に帰る場所をなくさせたからだ。間接的にでも伊奈瀬が家を追い出された原因を作ってしまったことに、神坂は責任を感じていた。


 だったら、今の神坂の話を聞く限り田町が──あの純朴で気の弱そうな同い年の高校生が、違法薬物の製造と販売を行っていたということにはならないか。


「残念……とは言うべきじゃないかもしれないが、少し違う。俺が対応すべきは田町の両親だった」

「両親……」


 標的は田町本人ではないのだ、というまるで的外れで手遅れな安堵と、そういえば田町の両親も行方不明になっていたのだった、という気づきとが同時にやってくる。心がどういう反応を示せば正解なのか、伊奈瀬には判断がつかない。


「……でも、神坂も公園で言ってたよな。才明に子供を通わせるだけの財力が、田町の家にもあったって考えるのが妥当だって。金に困ってないんなら、そんな危ない橋渡る必要もなかったんじゃねぇの。わざわざ犯罪なんて……」

「田町の両親が金に困り出したのは、つい最近のことだったみたいだ。まあ私立に入学する人間の全員が全員、お前の家ほど金が有り余っているとは限らないからな。もともと多少の背伸びをしていたというのもあるんだろうが」

「おまえんとこもうちと似たようなもんだろ、どうせ」


 どんな形であれ、人の命に直接触れているのだ。その仕事の対価は計り知れないぐらいがちょうどいい。散々伊奈瀬のことをお坊ちゃん呼ばわりしていたが、神坂だって蓋を開けてみれば血統書付きのエリートなのだ。


「まあな。だが逆に言えば、それぐらいしか安定しているものがないとも言える。うちじゃその金を使う五体の満足と命の安全は保証しないし、お前の家には一般的な家庭のあたたかみが欠如している。違うか? どこもかしこも何かが足りないんだ、残念なことに」

「残念極まりないねぇほんと、マジでさ」

 伊奈瀬は思わず顔を歪めた。


「……でも、田町の家には愛情があった。金が心許なくても」


 田町だって無論、悩みなく生きてこられたわけではないだろう。家庭の金銭状況を鑑みて、公立校に受かるための受験勉強に明け暮れていたかもしれない。そして、公立に落ちて私立に流れるのはごく普通に考えつくリカバリー方法でもある。もちろんそこですっぱりと進学の道を諦めさせられる進路だって世の中には無数に存在しているわけで、多少無理をしてでも学校に行かせてくれる環境というのは、伊奈瀬にとって充分「愛情」に相当する。


「だが、その心許なさが本当の『余裕のなさ』に変わる出来事が、今年起こった。田町翔太の入学後に」


 神坂が椅子に座り直す気配がした。プラスチックのフレームが軋む音。


「田町の家は家族経営の工場だった。そこが潰れた」

「……」


 何を言っても陳腐化してしまうような絶望だった。……「絶望」。いかにも自殺の理由っぽい背景だなと冷淡な感想が心のどこかに浮かんで消える。


「……そっか。それは知らなかった」

「小中が一緒ならあるいはといったところだろうな。田町の家は才明学園からは少し離れた地域にある。田町はそこを自転車で行ったり来たりだ。同じ中学だった生徒は才明の同学年にもほとんどいない。……田町が失踪したと騒ぎになった時に、『もしかして』と声をあげる生徒がいなかったのも、きっとそのせいだと思う」


 神坂の声が掠れ気味に沈んだ。まるで今にも謝罪の言葉が飛び出してきそうな声色だった。


 伊奈瀬は静かに息を呑む。だって、それはおそらく自分に向けられた感情だ。神坂はきっと、その「もしかして」の声をあげる生徒が少しでもいれば、伊奈瀬があの忌々しい家の玄関でいくらでも真っ当な反論を返すことができたと思っているのだ。少しでも田町が自殺する理由が校内に噂としてでも流れていれば、伊奈瀬は今夜、心の底から寒い思いをしなくて済んだのだと。孤独にならずに済んだのだと。

 田町と同じ中学に通っていた生徒が校内に少ないことを知っていながら、自分が「自殺に見せかけて殺す」という手段を選んだことを、神坂は悔いている。


 それはもう、気遣いの域を大きく逸脱している。一体どれだけ完璧主義なのだ? そんなもの、もらい事故の範疇にも収まらない。悪いのはまともに聞く耳を持たずに難癖をつけてきた伊奈瀬の兄であり、それを真正面から受け止めて挑発に乗るように家を出てきた伊奈瀬自身だ。

 こんなのただの兄弟喧嘩じゃないか。神坂がこんな細かいところで責任を感じる必要など、どこにもない。


 だが、伊奈瀬にはそれを神坂に主張してやる暇すら与えられなかった。笑い飛ばしてやる一瞬の隙だって。神坂は乾燥した声にいくらかの潤いを取り戻して、あくまでも冷静に、こう続けた。


「田町の両親は、今はもう稼働していない工場や倉庫を使ってとある植物を栽培していた。どういう経緯でその元手となるものを手に入れたのかはわからない。そこまで調べなくとも、俺のやるべきことはもう決まっていた」


 自分の身体に覆い被さった神坂がナイフを振りかぶった瞬間のことを、伊奈瀬は思い返す。寸止めの許されない仕事だ。その後の結果は知れている。


 気づくと伊奈瀬は暗がりの中で俯いていた。映画館で流れるホラー作品の宣伝映像を見た時のように、力強く目を細めて。


「首尾よくやった。抵抗される暇もなかった。たぶん苦しまずに逝った」


 神坂は錠剤を飲み下すように言った。


「倉庫の中の植物も設備も、跡形もなく撤去した。俺の判断じゃない。先方の指示だ。在庫は全て持ち帰れ、と。だからあれは、本当に不慮の事故だった。あの場に長く留まっていなければ、なんて『もしも』は存在しない。奇跡みたいな偶然だった」


 ──お母さん? と。

 最初に倉庫に響いたのは、そんな弱々しい呼び声だったという。


 神坂が言うには、倉庫の扉は閉めていた。重く閉ざされたそれを開けてまで中に入ってくるからには、よほどの事情か虫の知らせがあったのだろう、と。


「いるはずのない人影だった。何しろ、田町翔太はその時間、パチンコ屋でバイトをしているはずだったからな」

「パチンコ屋……」

 記憶の断片が光を放った。

「あのティッシュの店か」


 公園のベンチで神坂が伊奈瀬に渡したポケットティッシュには、パチンコ店の広告が挟まっていたはずだ。


「才明学園は本来バイトはご法度だ。校則を破ってバイトをしている生徒も多少はいるだろうが、田町は正面切って堂々と決まりごとを破れるような性格じゃない。いくら学校から離れた地域に住んでいるとはいえ、同級生に見つかったらまずいと考えたはずだ。だから、絶対に高校生が入れない──入ったとしてもバイトを告げ口することができない状況下に置かれる店でなければならなかった」


 神坂は心なしか早口だった。もう去ったはずの焦燥の幽霊に、今の彼は追い立てられていた。


「田町は両親の今の稼ぎを知らなかったはずだ。犯罪行為に耐えられる性格をしているとはとても思えなかったし、しばらくの期間は家の周辺を観察していたが、田町翔太の関与は認められなかった。息子がバイトに行っている間だけ、田町夫妻は稼働していないはずの工場に足を運んだ。田町が帰ってくる時間の十分前には必ず作業を切り上げた。田町の両親は絶対に、我が子を『そちら側』に引き込まないよう必死だった。なのに……」


 はああ、と、吸うとも吐くとも知れない深い呼吸音が響いた。


「なんで来ちゃうかなぁ…………」


 その声は、失望と呼ぶにはあまりにも情感がこもっていた。ともすれば敬意さえはらんでいるように聞こえる、深く長い吐息だった。


 きっと、その声は過去の焼き増しだ。田町は同じ声を聞いた。その場にいなかった伊奈瀬にもわかった。


「……田町は言ったよ。俺のことを見て『神坂くん?』ってな。ああ気づいたら隠した顔を晒してたね。だってそれがフェアってもんだろ? 恨むにしろ困惑するにしろ。俺が驚いたのは、田町が俺の顔と名前を覚えていたことだよ。……まあ、覚えていたというよりは、認識し直したって感じなんだろうが」


「……ああ、」おれが訊いたからか。「おれのせいか」


「お前には感謝してるよ、伊奈瀬。俺はあの日の痛みを一生忘れない」


 神坂は言った。嘘ではなかった。


「俺は名前を変えても一生神坂優人なんだ、この意識のどこかでは」


 その言葉を聞いて、安心している自分がいた。この先誰を名乗ろうと、神坂は神坂であり続けるのだ。いつまたどこかで出会ったとしても、伊奈瀬は彼のことを「神坂」と呼んでいい。彼が人の心を捨てない限り、自分たちは赤の他人にはなりきれない。

 自分本位で場違いな感想には違いないけれど、そう思った。


「──初めて殺した。殺す必要のない人間を」


 ぽっかりと感情の抜け落ちた声で、神坂は言った。


「ああ」

「……って言っても、その場では昏倒させただけなんだけどな。肺に入ってるのが同じ川の水じゃないと、疑われる」

「ああ」

「俺が田町を違う方法で殺したのは、だから、田町の両親の努力を、極力壊してやりたくなかったからなんだ。田町の両親のことは仕事だから、指示通り遺体の見つからない方法で処分するしかない。でも田町は違う。あいつは無関係だって事実を、どうにかこの世界に残しておきたくて──」

「ああ……」


 その時の神坂の声には、複数の揺れがあった。感情を押し殺して事実だけを伝えようと努力する強張った揺れと、その努力すら無に帰すような抑え難い感情の波、そしてそんな感情の露出を許した己を自嘲するかのような、少し笑うような息遣い。その隠しきれない芯の震えこそが、彼の本当であり飾りようのない人間味だった。どうしようもなく魅力的な中核だった。


「……だから、悪かったな、伊奈瀬。お前を巻き込むことになるとは、全く想定していなかった。想定していないことばっかりだ。俺はこの業界でやっていく最低限の才能は持って生まれたかもしれないが、たぶん適切な性格じゃないんだ。甘い上に未熟だった。だからたった一件の仕事で余計な被害者を何人も出して……」


 伊奈瀬は首を横に振った。見えているかわからないけれど、伝わっていると信じて何度も振った。

 謝らないでほしい。自分は決して被害者なんかじゃない。


 伊奈瀬は今日、間違いなく救われたのだ。神坂とこうやって出会わなければ、伊奈瀬は今夜、仮に自殺しなかったとしても、この世界のことを確実に見限っていた。


「おまえは悪いやつじゃないよ。そりゃ悪人じゃないとはお世辞にも言えないけどさ、それでもおまえは他人ひとを思えるいいやつなんだよ」


 法律も倫理も道徳も、世の中の全てが彼のことを容易く悪と断じるだろうけれど、それでも伊奈瀬は知っている。


「おまえはすごく頑張ったんだ。自分がそうすべきだと思ったことをして、人に対してできうる限りくあろうとしたんだ。それを誰が間違いだって言える? 後悔したいなら好きなだけすればいいけどさ、間違いだなんて思うなよ。謝らなくていいんだよ。おまえはおまえの努力を謝らなくていいんだ。最後には絶対戻って来なくちゃダメなんだ、この程度のことで辞めたりしたらオレが絶対に許さない。誰が何と言おうとおまえは絶対いいやつで、だれかに対して善くあろうとするおまえをおまえは殺しちゃダメなんだ」


 もしかしたら──いやもしかしなくても、自分は今とても残酷なことを言っている。これから先もずっと同じように悩んで傷つき続けろと、伊奈瀬はほかでもない神坂に──慕ってやまない恩人に対して言っている。


 それでも止められない。止まるような生半可な気持ちではない。


「伊奈瀬、お前──」


 神坂が虚を衝かれたような声を出した。もう何も言うな、と伊奈瀬は思う。


「泣いてるのか? なんでお前が」

「うるさいなあ夜目きかすなよ暗殺者ぁ」


 もう隠す必要がないからと伊奈瀬は目元を袖で拭った。借り物だと直後に気づいたが、不粋な指摘をした人間には相応の報いが必要に違いない。


「夜目というか──まあ暗視ゴーグルがなくてもわかるな。気配だけで充分」

「おまえが自分の気持ちに素直じゃないから、おまえのぶんまで引き受けてやってるんだろうが。自分より取り乱してる奴がいるとかえって冷静になれるって言うだろ。だからおまえは平気なんだ。感謝してくれたっていいぐらいの功績だろ」

「はは、確かにそうかもな。ありがとう」


 神坂の口調はいつにも増して丁寧で、その一言にはきっと、気持ちと同じだけの重さがあった。


「……それで、だ。だから今夜、才明の制服を着たお前を見つけた時に、俺は思ったんだ。お前のことは絶対に守らなきゃいけないと。もう同じ轍は踏まない。無関係な人間をこれ以上この件で不幸にしたくなかった。どのみちあの売人は始末をつけなきゃいけない相手だったしな。田町の両親が開拓した販売ルートは、全部潰す必要がある」

「ああ、それで……」


 田町の両親の件の後始末のために、神坂は事件後も夜の街を徘徊していたのだ。才明の制服を着て、自警団という名前まで騙って。素人相手に恐れをなして逃げる犯罪者は少ないだろう。むしろ、反抗的な力なき市民を潰してやろうと考える手合いのほうが多いはずだ。神坂は売人たちを効率よく自分のもとに集め、返り討ちにするために自警団を名乗っていた。


 そして、この出会いは確かに偶然だった。伊奈瀬は田町の事件をきっかけに家を追い出され、田町の両親と繋がりのあった売人に襲われかけた。


 そうして、神坂優人と出会った。


 神坂が頷いた。カーテン越しに空が白んでいくのがわかる。この夜が終わり、相手の輪郭が徐々に明瞭になっていく。


「なのに、お前は俺が黙っていても死のうとしていたものだから困った。それも発端となったのは『田町の自殺』で……そんな人間を、俺が捨て置けるわけがないんだよ。だから俺はお前を徹底的に生かそうとした。お前が命を落とそうとしていたから──俺の勝手で、ついこんなところまで連れてきてしまった」

「感謝してるよ」


 伊奈瀬は言った。言葉選びこそ遊んだけれど、そこにこもった気持ちの全てが嘘偽りない本心だった。


「もう、大丈夫だから。もう自分から捨てたりしない。やりたいことができたから」

「そうか」


 神坂は言葉少なに笑った。陽が昇る。薄闇が部屋の隅へと押しやられ、やがて見えなくなっていく。


「……一応訊くけど、悪いことじゃないよな?」

「ちがうよ」


 伊奈瀬は迷わなかった。こんなにも自然に、他者のことを心から思って微笑むことができたのは、初めてだったような気がした。


「なら、いいんだ」


 神坂がゆるく細めた目で笑い、軽く伸びをして椅子から立ち上がる。


「……さて、少し早いけど、朝の支度でも始めるか」

「おまえ結局一睡もしてなくない? 大丈夫?」

「俺は鍛えてるからいいんだよ」


 言いながら神坂は嘘の欠伸をひとつして、目の端を雑に拭った。

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