第9話 賭けの報酬

 目が開いた。


 冥界は真っ暗で何も見えない。自分の肺が動いている。息を吸う……吐く。


 身を起こす。

 ベッドの軋む音がする。


「…………神坂……?」

「いるよ」


 聞き覚えのある声が狭く反響した。神坂の部屋のようだ。


「どうやらお前の勝ちらしいな」


 そんな神坂の声とともに、暗闇に四角い平面の光が一瞬だけ浮かび上がり、消えた。おそらくはスマホの明かりだ。それが生じたのは神坂の机があったはずの場所で、そのわずかな時間だけ、椅子に座った神坂の輪郭が光に照らされて視認できた。時刻を確認するようなそぶりだったが、部屋の照明のスイッチを探して辺りを見回そうとした伊奈瀬の動きを、暗に牽制しているようにも感じた。


「……勝ちって、何の」

「ちょっとした賭けだ。意識を失ったお前が朝まで起きなければ俺の勝ち、予定通りにお前の前から姿を消す。夜が明ける前にお前が目覚めたらお前の勝ち、俺は場所を変えずに今まで通り、才明での学校生活を送ることにする。……結果はご覧の通りだ」


 ご覧も何も、何一つ見えない。つまりそれが答えなのだろう。日の光がカーテンを透かさない。夜はまだ続いている。


「お前も妙に間がいいよな。あんな風に死にかけたら一晩は眠って起きない、普通」


 神坂が笑いながら言う。何かが吹っ切れたような清々しさが、やわらかい口調の中に溶けていた。


「意識も何も……オレっておまえに刺されたはずじゃ……?」


 言いながら、伊奈瀬は自分の顔や胸のあたりに怖々触れる。神坂が振りかぶったナイフは、確かに自分に振り下ろされたはずだ。伊奈瀬は自分が殺される瞬間を、しっかりこの目に焼き付けている。


 だが、伊奈瀬の記憶に反して、それらしい痛みも傷も見当たらなかった。手当てされたような形跡も、触った限り感じられない。


 そして、自分が今いるこの場所が、伊奈瀬にとって都合よく構築された、死後の世界の幻でないことも既に理解しつつある。出す先から声が掠れ、喉に違和感を感じる。神坂に首を絞められた時と全く同じ肉体を、今の伊奈瀬は操っているのだ。


「峰打ちみたいなものだ。ドラマなんかじゃ刀の背の部分を相手の首に叩きつけて意識を奪っているように見えるが、あれは本来、斬りつける寸前に刀を裏に返して斬ることを避けるハッタリの技だ。それでも相手は失神する。斬られたと思って勝手に意識を失うんだ」

「……つまり、オレもそのハッタリで死んだと思い込まされたってわけ」

「お前の場合はまあ、首を絞められて落ちるのとどっちが早いかってところだったけどな。俺としては、お前には長く眠っていてもらったほうが都合がよかった。首絞めに手加減はできても刃物じゃなかなかそうはいかないからな、死の印象も強いし、刃物を持ち出されたショックで朝まで起きずにいてくれると思ったんだが」

「……なら、あの時のおまえはオレを殺す気じゃなかった?」


 はっきり言って、とてもそうは思えない。今までの脅しとはわけが違ったし、今にして思えば、あの時の神坂は怒っていた。怒りから殺意を抱いたというよりは、殺意を明確に持ちさ出さなくてはならない状況を作り出した伊奈瀬の行動に、彼は怒っていた。逆に言えば、神坂が怒りを露わにするぐらい、伊奈瀬は彼を本気にさせたのだ。「殺しのプロ」という禁忌の側面を無理やり彼から引きずり出した。その代償は、命であって然るべきだ。


「なんだ、やっぱり俺に殺してほしかったのか?」


 神坂は笑いながら言った。伊奈瀬は弾かれたように首を振った。


「まさか! 違う。違うけど……」


 殺してほしくて暴露したわけではないとははっきり言える。だが、あの時の自分には殺される覚悟が確かにあった。神坂の正体も人格も、何もかもを本人の前で暴き出し、そうした理由を告白してなお神坂を引き止めることができなかったなら、それはもう本当の手詰まりだ。持てる全てを出し切ってその結果なら、伊奈瀬にも悔いはない。

 けれど、こうして伊奈瀬は生きている。それが伊奈瀬には不思議でならなかった。


 相手は本気だった。伊奈瀬も本気だった。己の全てを懸けて伊奈瀬は知性で相手を刺し、言葉で組み伏せることで神坂を自分の生活圏から逃がさないよう追い縋った。だが、伊奈瀬の剣は届かなかった。相手の心の奥まで刺すことができなかったからフィジカルで反撃され、伊奈瀬は順当に命を落とした。


 はずだったのだ、本当は。


 伊奈瀬がこうして生きていることは、つまり伊奈瀬の決死の刃が相手に届いたことを意味する。それが伊奈瀬には上手く飲み込めない。

 そんなのはほとんど奇跡に等しい。賭けに勝った実感がない。何か重大な見落としや相手の思惑があるのではと勘繰ってしまう。


「俺には師が二人いるんだ。仕事のことを教えてくれる師匠だ」


 神坂が唐突に言った。


「その二人はお互いのいないところで、俺に何度も同じことを言う。曰く、『これだと思う人を一人でもいいから見つけろ。そして自分の全てを明かせ。その相手になら裏切られても構わない』──何が裏切られても構わないだ。俺はずっとそう思ってきた。あんたらは構わないかもしれないが、裏切られて困るのは他でもない俺自身だ。こんな仕事をしていることを明かすのは最大のリスクを自ら背負いに行くのと同じで、それがいわゆる『大事な人』ってやつならそれと同時に、自分の力では隠しようのない弱点を作ることになる。そんな馬鹿な話はない。俺はあの二人の教えは割と忠実に守ってきたつもりだが、それにだけは同意できなかった。……ただお前に全部暴かれた時に、少しそのことを思い出した」


「オレにだったら裏切られてもいいっての?」


 そんなわけがない。そんなのは伊奈瀬の知っている、伊奈瀬が敬意を抱き近くにいたいと感じる神坂優人ではないとすら思う。神坂のことは確かにお人好しだと思うが、隙を見せるようなことは今までなかった。あったとしたらそれは伊奈瀬を生かすために意図的に作られた隙で、言わば抜け道だ。見ないフリをしているに過ぎず、見ていないわけではない。そしてひとたび看過できない状況になれば、彼は迅速に、徹底的にそれを自分から切り離す。伊奈瀬一人のために今の学校を去ろうとし、神坂の全てを言い当てた伊奈瀬を殺そうとしたのがその証拠だ。


「裏切られてもいいとは思わない。……思えない。それに、俺はお前のことを師の言う『これだと思う人』と直感したわけでもない。ただ、状況としては似ていると思った」

「……オレが神坂の全てを暴いた。その結果、神坂がオレに自発的に『全て明かした』かのような状況が出来上がった──ってことか」

「そういうことだ。流石は進学科の模試一位」


 神坂は冗談めかして言った。


「だから、お前を生かしたことに深い意味はない。お前は俺に恩を感じなくていいし、俺もお前のことを必ず守るわけじゃない。それに、何がなんでもその師匠の言いつけを守らなきゃいけないわけでもないしな。所詮は自己流の集まりだ。必要だと思うことは取り入れるし、そうじゃないと思うことは身につけまではするが、普段の行動にまでは反映させない。二人もそれで納得してる」

「いい関係だな。神坂と、その二人の師匠って人たちは」


 心の声がそのまま零れ落ちるように、自然と口から言葉が出た。神坂がそれをどう受け取るかはわからない。それが予想できるほど、伊奈瀬は神坂から延びて繋がる人間関係を知らない。


 ただ、少なくとも訂正することはないだろうと思った。それは伊奈瀬の主観でしかないけれど、伊奈瀬の主観だからこそ、とても良好で貴重なもののように思えた。


 神坂がかすかに笑った。穏やかに。


「そうか?」

「うん。……正直羨ましいわ。交ぜてほしいぐらい」

「あまりおすすめはしないけどな」


 遠くの星を眺めるような声で言い、やがて神坂は、静かな口調でこう切り出した。


「──田町がなんで部活に入っていなかったか、知っているか」


「え……」


 あまりに唐突な話題転換だった。だが、場にそぐわない不必要な転換だとは感じなかった。神坂優人は合理を好む。……それにしては、自ら負債を背負いに行きすぎる節はあるかもしれないが。


「知らない……けど」

「聞く気はあるか? ……一応、お前は俺との賭けに勝った。俺が勝手に設定しただけの賭けではあるが。その報酬はあってもいいと思っている。……いや、違うな。結局のところ、俺がお前にこの話を聞かせておきたいだけなのかもしれない。そこにしか、お前を生かそうとし続けた俺の事情は隠れていないから。無論、お前さえよければ、だけどな。他言無用、一度聞いてしまえば元には戻れない。不審な動きをすれば俺はお前を当然消すし、この話を聞けば、お前が生涯抱えなきゃならない秘密の重さも増すことになる。だからこれは義務じゃない。俺の話を聞く権利を、お前にやる」


 伊奈瀬は暗闇の中で目を見開いた。神坂が初めて、伊奈瀬に何かを委ねた瞬間だった。


「もちろん、聞く。その権利、今すぐ使わせてほしい」


 伊奈瀬が即答すると、神坂の戸惑ったような、呆れたような吐息が闇に溶けた。


「自分で提案しておいて何だが、もう少しちゃんと考えてくれ。お前の今後を左右する話だ。今の二択に比べたら、進路選択なんかまだまだ簡単にやり直しがきくレベルだよ。もっとずっとシビアな話だ、これは」

「いいや。おまえこそもっと自分の直感に自信を持つべきだね。おまえだって、オレが多少は信用に足るって認めたからこんな話持ち出したんだろ? なら信じろよ、おまえが認めたオレの判断を」

「……お前、本当に嫌な奴だな」


 今度こそ、神坂が呆れのため息をついた。その表情は、おそらく苦いが笑っている。


「知らなかった?」

「いや、知ってたよ。だから俺もここまで素を出せるんだろうな」


 神坂が呟き、居住まいを正した。一瞬の衣擦れが聞こえ、部屋の空気がしんと静まる。


「それなら話そう。俺の事情と田町の死の全貌を。夜はまだ明けていないのだから」

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