第8話 馬鹿げた信頼、刺し違え
神坂は当たり前のように足音を殺して戻ってきた。部屋の電気を点けっぱなしにしていても、布団を頭から被って視界を閉ざした伊奈瀬にとっては、神坂の存在を捕捉すること自体が至難だった。神坂の部屋のベッドは新品のにおいがした。
ドアの音……というよりも、開閉の風圧を感じた。凝り固まった室内の空気がかき混ぜられる気配を感じ取って、伊奈瀬は自然な呼吸をいっそう意識する。
部屋に入った神坂は開けた時と同じように音を立てずにドアを閉め、ローテーブルの前で足を止めた。制服の時よりも柔らかい、衣擦れの音がする。腰を少し曲げてティーカップの中を覗いているのだろうとは想像できた。ケーキの皿は空だ。カップの中身も同様に、一滴も残していない。
口もちゃんとつけた。
「──睡眠薬入れただろ、おまえ」
神坂は安堵の息を吐く途中だった。今にも解けて力なく垂れ下がってしまいそうな、緊張の糸の結び目が見えた。だから声を出した。
これ以上聞いていたら伊奈瀬の真面目すぎる良心が伊奈瀬自身の口を鈍らせると思った。そう直感してしまうまでに、神坂の息はやわらかかった。
人殺しのする息とは思えない。
だから、その豹変ぶりが凄まじかった。ようやく垣間見ることのできた神坂の人間らしい素顔が一瞬のうちに霧消して、全くの無になった。
神坂は動揺を見せなかった。少なくとも気配では。布団を被って視界を遮ってしまったことを伊奈瀬はこの時少しばかり後悔したが、一方で、こんなにも分厚くてふかふかの羽毛が自分と神坂との間を隔てていることに救われもした。
間違いなく殺気だった。あまりにも自然な感情の切り替わりで、それが反射的に自分に向けられた敵意だということにすら一呼吸遅れて気づいた。思考より先に身体が反応したらしく、布団の内側を掴む手が汗ばんで小刻みに震えている。
だが、伊奈瀬は止まらなかった。止まるわけにはいかなかった。布団を押し退け、勢いよく上半身を起こす。いつでも動けるように、マットレスの上に片足を立てた。
「これでも医者家系なんでね。上流階級舐めないでもらえる? 茶葉とは違う苦味がした、薬の苦味だ」
「……睡眠薬ね。随分大袈裟なことを言うんだな。高校生が高校生に薬を盛るって?」
ローテーブルの前に立っていた神坂は、ゆっくりと身体をこちらに向けて言った。口の端に浮かんだ微笑は少しも固くない。だが、伊奈瀬を視界から外そうともしない。瞳孔がわずかに開いているように見えるのは、伊奈瀬の心の持ちようの問題か。
「毒物よりはよっぽど現実的だと、オレは思うけど?」
「あれはただの軽口だ。実際に盛っていたら今頃お前はこの世にいない」
「でも、田町を殺したのは本当だ」
神坂は返事をしなかった。……反論をしなかった。自然な微笑をそのままに、伊奈瀬を見る目を緩慢に細める。鋭く、ではなく、まるで慈しむかのように。
出来のいい仔犬の頭を撫でる飼い主のように、そこには無類の信頼がある。
「それはまあ、俺が自分からお前に明かしたことだしな。言い逃れをしようとは思わないが──つまりお前はこう言いたいわけか? お前が薬で眠っている間に、俺がお前を殺すんじゃないか、もっと言えば田町と同じように俺がお前を溺死させ、自殺として処理させようとしているんじゃないか、と」
「いいや、それはない。むしろおまえはオレを『助けたかった』。死なせたくなかった──そうじゃない? そしておまえはおまえの理想とする結末を現実にするために──本当にただそれだけのことのために、今夜ずっと行動してきた。その最後の仕上げが、オレに睡眠薬を飲ませることだった」
「……ほう?」
伊奈瀬に向ける神坂の微笑が、挑戦的な色に変わった。それは社交の性能を完全に切り捨てた警戒の色だった。相手の力量を推し量る、値踏みの眼差し。
それを目の当たりにした瞬間、伊奈瀬の全身の細胞が、目覚めた。
まるで雷に撃たれたように。迸る電流に無理やり叩き起こされたかのように、一斉に瞼が開く。
「これ」だ。自分は「これ」を求めていた。
本気で殺しにかかっても殺されない人間。自分が無邪気にその才覚を振るっても、何の問題もなく受け止めてくれる人間。じゃれて噛み付いただけで逃げず怯えず、むしろ同じだけの強さとテンション感で遊びに付き合ってくれる人。
本気の勝負が成立するということ。
その予感を前に、伊奈瀬は今、暢気に、手放しに、喜びを噛み締めている。
極度の緊張状態に身を置きながら。この先に何が待っているかを理解していながら。
それでも。
「──おまえの行動は、おまえの言葉を信じれば信じるほど一貫して不可解だ」
自分で自分の言葉を精査するようにじっくりと声を出して、伊奈瀬は今夜の出来事を思い返す。
田町翔太の死を理由に、伊奈瀬は家を追い出された。……冷静になって考えれば、自分が出ていく必要などどこにもなかった。伊奈瀬も伊奈瀬なりに動揺していた。田町の死の原因が自分にないと理解していても──死のことばかり考えている自分に接触したことで、田町の中の何かを変えてしまったのではないか、その狂った歯車のせいで田町は自殺してしまったのではないかと、ない因縁を幻視した。そして──田町の後だからこそ自分も死ねると錯覚した。
だが、田町は自殺などしていなかった。他殺なのだと神坂が言った。
そして、それからなのだ。あれだけ暗に伊奈瀬を自分から遠ざけようとしていた神坂が、自分から伊奈瀬との関わりを継続しようとしたのは。わざわざ家に招き入れ、凍え死にそうだった命を掬い上げた。
「おまえは田町を殺したことをあっさりオレに打ち明けた。オレに教えなくてもいい情報をわざわざ提供して、オレに田町殺しの『犯人』を特定させた。そしておまえは今も田町殺しを否定しないし、『言い逃れをしようとは思わない』とまで言い切った。……おかしいよな? 言わなきゃ誰もが自殺だと思っただろうに、おまえは自分の罪をオレの目の前で公開して、あまつさえ自分でその罪を『確定』させる言動をとった。でも、そのおかげでオレは今、『田町翔太は神坂優人に殺された』という情報を事実として扱うことができる。……おまえは本当に面倒見がいいよ。いっそ不憫なぐらいにね」
伊奈瀬は苦々しく笑って、再び息を吸った。
「オレが思うに、これの動機は『責任』だ。田町を殺したのは自分なのに、田町をいじめの末に自殺に追い込んだんじゃないかなんて因縁をつけられて、この寒空の下、家を追い出された同じ学校の生徒がいることをおまえは知ってしまった──いや、知っただけならまだ他人事にできたかもな。でもおまえはその生徒に──オレに会ってしまった。偶然にも。気まぐれで暴漢から助けた同じ学校の生徒が自殺を考えていて? 話を聞いてみたら帰る家を追い出されたと言う──その原因が田町の『自殺』。……とんだ偶然、いや本当に、最悪の偶然だよな、おまえからしたら。でもそれだけじゃ終わらない。心優しいかわいそうなおまえは田町を『殺害』した犯人としていたたまれなくなりさえしたね。だからオレを──田町殺しの濡れ衣を被った同じ学校の生徒を一晩泊めることにした。そいつを冬の寒さから守り、自殺を防ぐために。そしてその理由を、おまえは正直に話した──田町は自殺ではなく、自分が殺したのだと。オレに自分から理解させる形でね。オレが見かけによらず頭がいいことも、おまえは事前に知っていた。だからこれはちょっとしたサービスだったんじゃない? 田町の死が自殺ではなく殺人で、その犯人が誰なのかということも、きっと暗黙の了解で口外しないと踏んでの暴露だった──もちろん、『口外したらどうなるか』ってのを想像させるためのケアもちゃんとした上で、だけど」
「どうなるんだ? お前が俺の殺人を口外すると」
「今さら何をおっしゃいますやら。──殺すでしょ。おまえはオレを躊躇なく殺すよ」
伊奈瀬は低く、そして力強く言い切った。流石に喉が少し震えた。
「殺す、ね。簡単に言ってくれる」
そんな伊奈瀬とは裏腹に、神坂は同じ単語を軽々と吐き出し、肩をすくめた。まるで冗談でも言うような仕草で。
「だが伊奈瀬、お前の理屈だと、俺はお前を意地でも死なせないために、これだけのリスクを取って尽くしてやってることになる。その労力を無に帰すことを、俺が好んでやると思うか?」
「好むと好まざるとに関わらず、その必要があれば──おまえはやるよ。必ずやる。だっておまえは、そういう『システム』だから。──違うかな。神坂」
そう言って、伊奈瀬はベッドの上から神坂の目をまっすぐに見上げた。同じ瞬間から、同じ速度で伊奈瀬のことを見下ろそうとしていた神坂の視線と、正面から交わる。
そして、なかったことになる。伊奈瀬が無意識に瞬きをしたその一瞬のうちに、神坂の視線は全く別の方向に向けられていた。
そして神坂は無言のまま、その場で小さく息をついた。白旗としての、というよりは、落胆──いや失望に近いだろうか。それは伊奈瀬の指摘が的外れだったから?
否。
そんなこと、伊奈瀬だってわかって言っている。
推理「ごっこ」で済ませられる一線を、自分は今の一言で確実に超えた。
「──眠くないか?」
ややあって、神坂が言った。机の上の時計を見ていた。
伊奈瀬はなぜか、その羽毛のように柔らかい声音に泣きそうになった。
歯を食いしばる。
首を振る。
「……いいや? 悪いけど、おまえと話してるほうがずっと楽しそうだから。今日はもうオールでいいかなって気分」
「そうか」
そう言ったきり、神坂はもう口を開く気配を見せなかった。テーブルの前から後退し、部屋の壁に背中を預ける。
「──おまえは同じクラスの田町翔太を殺した。それは今や確定した事実だ。でも、まだ明確になってないことがあるよな」
伊奈瀬は空気の味を確かめるように深く息を吸い、沈黙を壊した。その感触は、他者の命を手ずから損なうことに、きっと似ている。
「『なぜ?』──どうしておまえは田町を殺した? それだけがどうにも不明瞭だ。まあでも、オレはおまえとも田町ともクラスが違うから、オレがおまえと田町の関係性を正確に推測することは、たぶんできない。おまえは田町と大して親しくなかったと言ってたし、田町もおまえのことをあんまり記憶してそうになかったけど、オレにはそれが事実かどうかを確かめる術がない。だからこう考えることにした。『高校生が高校生を殺す理由は何か?』──例えば『いじめがエスカレートした結果』。『何か弱みを握られていてそれを隠したかった』──色々考えつくけどさ、いずれにせよ人を殺した人の心理状態っていうのは極限なんだよ。行くところまで行った人間が最後の最後に辿り着くのが、殺人なわけ。それが他人に追い詰められた弱い側の極限であっても、止める人がいなくて立ち止まって考える隙もなくなって、一線を超えるまで加害し続けた強い側の極限であっても。……で、そういう人ってもう、理性なんかまともに働いてないわけ。普通。罪を隠そうとするので精一杯。他人を思いやる心の隙間なんか、あるわけがないんだよ」
伊奈瀬は己の胸に手を当てた。
「オレがおまえの罪を知り、生きて、おまえの家にいる。それが一番の異常なんだ。自分の犯した殺人を部外者に話すってことは、本来は口封じして殺さなきゃいけない人間がもう一人増えるってことだ。それは田町を殺したっていう事実もそうなら、『田町を殺さなきゃならなくなった理由』そのものについてもそう。いじめの末に殺したなら『神坂優人は命を奪うほど苛烈ないじめを田町翔太に行っていた』っていう弱みを、何か弱みを握られていたなら『神坂優人は殺人を犯してまで口封じしなければならないほどの弱みを田町翔太に握られていた』っていう弱みを、部外者に──つまりオレに──自ら話したことになる。それも動機は『責任感』から。おまえは田町を殺した犯人としての責任を感じてオレを保護した──随分余裕があるね? だったら状況はこう捉えられる。『神坂優人は伊奈瀬針羅がそれを口外しない限り、自分の犯罪が露見しないという強い確信を持っている』。さらに、『神坂優人は殺人を犯した後も他人を構える心の余裕が持てるほど、殺人に慣れている』。つまり、『伊奈瀬針羅が神坂優人の殺人を口外しようとした場合、迅速にそれを阻止する心づもりと自信がある』。……ここから先はもっと推論だし極論かもしれないけど、おまえには田町を殺す動機なんか何一つなかったんじゃないかな。オレが口外しない限り罪が露見しない確信があるってことは、部外者から見ておまえと田町の間には『クラスメイトであること』以上の関係も接点もない可能性が高い。おまえには田町を殺す『目的』がないんだ。あるとしたらそれは『田町翔太を殺すこと』それ自体。田町翔太の死という結果を得るためだけに、おまえは田町を殺した。そこには怨嗟も焦燥も激情もない。誰かを自ら手にかけることに対する快楽すらも。あくまでも機械的に、おまえは田町翔太にピンポイントで『死を与えた』」
「俺と田町にクラスメイト以上の関係がない、その上で『機械的に』田町を殺した──つまり俺は誰かと交換殺人の約束でもしていたというわけか?」
「その可能性もないわけじゃない。でも、交換殺人にしたって初めて人を殺すんだったらまともな精神状態でいられるはずはない。おまえが『殺人に慣れている』という前提は変わらない──だったら、交換殺人であるにしても、『人を殺すこと』を機械的に請け負うという意味で、オレはおまえを表すのに適切な言葉を一つだけ知ってるよ。……言ってみてもいいかな」
「あまりおすすめはしないな」
「『殺し屋』だよ」
神坂の苦笑に被せて、伊奈瀬は力強く言い切った。最後の一線をとうに踏み越えた手前、今さら迷いはない。だが、理屈を上回る死への恐れが、伊奈瀬にその口調を強要した。
「田町を殺すことは、おまえにとってきっと義務だ──仕事だ。でもオレのことは違うね? そこが、死んだ田町と生きてるオレとの最大にして唯一の違いだ。おまえは何らかの理由で請け負った義務として田町を殺した後、田町の死によって新たに失われようとしている命──自殺しようとしている伊奈瀬針羅という歪みを正すために、今夜の同伴を自分に課した。即興で。自分の罪を自ら明かしてその正当性を表明しつつ、オレのことを適度に脅して黙らせながらそれでもオレを自宅というプライベートスペースに連れ込んだ。そして、死を扱うプロとして、本当の死を軽々とオレにちらつかせた。タオルで首が吊れるとかさ。……全部、全部オレに死ぬ覚悟が本当はないってわからせるための捨て身の演出だ。……いや、捨て身って表現は少し違うかな。何しろ、いざって時はオレのことを殺せばいいとおまえは思っていたはずなんだから。そこも、オレと田町の明確な差だよな。田町が『公』ならオレは『私』ってわけ。仕事としての殺しは絶対だけど、プライベートのことは自由だ。殺すも殺さないも個人の裁量。だからおまえはオレの『賢明さ』に賭けた。只者じゃないと思われようが殺人者と悟られようが、オレが黙ってさえいればおまえはオレを生かすことができる。見込み違いなら殺せばいい──そう思って、おまえは今日、オレを助けたね。神坂。……でも不安だった。おまえはオレがこのことを口に出すんじゃないかと内心気が気じゃなくて、部屋で二人きりのこの時間をスキップしようと考えた。それで、睡眠薬だ。おまえが風呂に入ってる間にオレが睡眠薬を摂取しさえすれば、おまえは朝までオレと会話しなくて済む。オレは生きるしおまえは殺し屋だとバレずに全てを終えられる。……そう、それを口にさえしなければ、気づいてないのと同じなんだ。おまえの理屈では。……すごい話だよ。馬鹿げた信頼だ。こんなに信頼されたこと、十六年生きてきて一回もない。たぶんこれから先も一生訪れない、こんな瞬間は」
嬉しい。これだけ長々と喋ってきて、伊奈瀬が言いたいことはただ一言、それだけだった。
思考することで嫌われてきた。出る杭はたとえ周囲の理解を置き去りにするほどの変人でなくとも簡単に打たれることを知り、思考しない人間の振る舞いを学習して今まで生きてきた。
ずっと、バカになりたかった。バカの仮面を被りながら、バカに憧れて生きてきた。
でも、伊奈瀬の本当の望みは、実はそうではなかったのだ。
生まれ持った才を思いのままに発揮できること。それを穿たず見てくれる人がいるということ。能力を、人格を、信じて任せてくれること。
自分を自分でいさせてくれる人がいるということ。
「神坂、おまえだってきっとそうだろ? 殺しには慣れていても殺し屋であることを──殺人者であることを明かしたことはまずなかったはずだ。だから睡眠薬を仕込んだ。……オレはおまえの『恐れ』を見たよ。初めて人間らしいところを──おまえが心の底から安堵してる吐息を聞いた。おまえは本当に、……本当に優しくていいやつだよ。いっそ理解が及ばないぐらいにさ。見ず知らずと言っていいオレみたいな人間にここまでしてくれたんだから、本当に感謝してる。気にかけてくれて嬉しかった。ありがとう」
「──伊奈瀬、お前の主張はわかった。だが俺からも一つ訊きたい」
神坂が静かに部屋の壁から背中を離し、再びローテーブルの前に寄った。
「一つと言わず、満足するまでいくらでも」
「お前は俺が食事に睡眠薬を盛ったと思っているな。だが、現にここにある皿もカップも空だ。なのにお前は眠っていない。様子を見る限り気合いで眠気に耐えているわけでもなさそうだ。それが何よりの証拠じゃないか?」
神坂はテーブルの上を指さして言った。
「俺はお前に睡眠薬を盛ったとは、まだ一言も肯定していないんだがな」
「えぇ、嘘。そこまで粘っちゃうんだ?」
伊奈瀬は思わず、仰け反って感嘆の息を吐いた。……そこまでしてくれるの? おれなんかのために。
「俺の気が済むまで議論に付き合ってくれるんだろう? それとも答えられないか?」
「まさか。ちょっと感動しちゃっただけ。約束はちゃんと守るよ」
伊奈瀬は頷いて、ベッドの脇に置いてあるスクールバッグを手で示した。
「オレのカバンの中。自由に漁ってくれていいよ」
何かを警戒したのか、神坂はわずかに目を
「……なるほどな。随分とまた用意がいい」
ややあって神坂が伊奈瀬のスクールバッグから取り出したのは、一本のペットボトルだった。五百ミリリットルの丸型の容器には、「天然水」と印刷されたラベルが上部に貼ってある。だが、中に入っている液体は赤みがかった茶色をしていた。液体の量は少なく、ラベルよりもずっと下で、水面が波打っている。
「最初に水を飲んだ。そして空になったペットボトルに紅茶を注いだ」
「正解」
伊奈瀬のように学校に行ってから深夜まで家に帰らない者にとって、ペットボトル飲料は普通の学生以上に重要だ。ほぼ一日持ち歩いているから中身もそう多くは残っていないし、飲み干すのも苦ではない。
「正確には水を飲みながらケーキを美味しく頂いた。そして最後、残った紅茶を、飲み干した空のペットボトルに移し替えた」
「……現物がこうして残っている以上、流石に言い逃れは厳しいか。今この場で飲んでみろとでも言われたら、死にはしないとはいえ気は進まない。俺もお前みたいな切れ者を前に、意識を朦朧とさせたくないしな」
神坂が息をついて立ち上がった。紅茶の入ったペットボトルを、ローテーブルの上に置く。
「光栄なこと言ってくれるね、本当に」
心から、そう思った。光栄だ。一瞬息が詰まって何も言えなくなるぐらいには、その一言、その評価だけで充分、胸がいっぱいになった。
「今後は医者家系にも上流階級にもよくよく気をつけることにするよ。飲み慣れた紅茶に睡眠薬を入れたら一口でバレるってな」
「ああ、それならただのブラフだから気にしなくていいよ。実際は一回も口つけてない。プロ御用達の睡眠薬なんてどれだけ強くて速効性かわかったモンじゃないし、紅茶なんてここ何年も飲んでない。眠剤に至っては味も知らないね」
伊奈瀬を見下ろす神坂の目が、わずかに見開かれた。
「ならお前、この状況でよくケーキなんか食べられたな。何か細工されてるとは考えなかったか?」
「まあ確かに粉砂糖は怪しいと言えば怪しかったけど──あれに細工はまずないね。大丈夫だっていう確信はちゃんと持ってた」
伊奈瀬がそこで言葉を切ると、神坂が無言で続きを促した。伊奈瀬は頷き、神坂を見上げる。
「母親が自分のために丹精込めて作ったもんを、人を陥れるダシには使わない。おまえは」
それからしばらく続いた沈黙は、永遠のように長く、心地がよかった。これが一生続けばいいと本気で思い、伊奈瀬はそれを切実に願った。この安息で一生が満たされるなら、自分は死後に地獄の炎で焼かれ続けたって構わない。だから、この時間が本物の永遠であればいい。
「──結構だ。伊奈瀬」
ややあって、神坂が言った。吐息とともに吐き出されたその声は、まるで一冊の本を片手で閉じるようだった。流麗だけれど乱雑で、一見知的なようでその実全くそうでない。中途半端なまま一方的に与えられる断絶。二度と同じ頁は開かれない。
そうして、地獄がはじまる。
最初に訪れたのは強い衝撃だった。伊奈瀬の視界が白く明滅し、平衡感覚が消える。
「がっ……⁉︎」
伊奈瀬の意識から遠く離れたところで、伊奈瀬自身の声が聞こえた。空気の塊が口から強く押し出され、楽器と同じような要領で音が出ていた。
気づくと呼吸ができなかった。息ができない、という事実を伊奈瀬の脳が知覚した途端、身体が酸素を強く求める。明滅する視界が危機を察して赤く染まる。
「──理解できないな。お前は俺を恐れていた。俺の正体を暴くことで自分の身に死が降りかかることをよく理解していた。にも関わらず、お前はそれを『口にした』」
チカチカと光り、それでも不明瞭に霞む視界の向こうから、神坂の声が聞こえてくる。すぐ近く。すぐ目の前。そのはずなのに、彼の顔だけがはっきりと見えない。……脳が揺れている。頭を打った。背中に硬い壁の感触。それだけが明確だ。
「自分に死ぬ覚悟が足りていないことは自覚していたな。俺に自分を始末させるようけしかけたわけではない。……それどころか、お前は俺の行動に感謝までしたよな。俺にそれを伝えるまで死ねないとさえ思っていたか? 俺がこうして襲いかかってくることを警戒して、いつでも動ける体勢を取っていた。誰に教えられたわけでもないだろうに、立派なことだよ。まあ無駄な努力なんだけどな。お前みたいな素人の工夫なんて」
……本物だ。伊奈瀬は思った。伊奈瀬の視界から逃れられないほどの小さな部屋。にも関わらず、伊奈瀬は自分に接近する神坂の姿を、まともに認識していない。伊奈瀬が危険を察知するよりずっと速く、神坂は伊奈瀬の首を掴んで後ろの壁に押し付けた。その衝撃で、自分は頭をやられたのだ。だが、それは神坂の意図した攻撃ですらない。
気道が、強く圧迫されている。
自分は今、神坂に首を絞め上げられているのだ。それも片手で。
ようやくその結論に至り、伊奈瀬は自分の首を絞める神坂の腕を掴んだ。
「……質問にはいくつでも答えてくれるんだったよな、伊奈瀬」
びくともしない。当たり前だ。伊奈瀬が玄関でこの体温から逃れようとした時ですら、伊奈瀬は神坂のことを一ミリたりとも動かすことができなかったのだから。
「なんで俺を暴いた」
もう少しだ。少し……あと一手。
暴くことは決して伊奈瀬の主題じゃない。伊奈瀬だって、今まで散々空気を読んで生きてきた。知らないほうが幸せに生きられる事実があることを、言いさえしなければ全てが丸く収まる言葉があることを、こんなにも知っている。
痛みを以て知っている。
──そんなおれが、こんなにも敬愛して慕っているおまえのことを、むやみやたらに傷つけるわけがないじゃないか。
答えさせてくれよ、頼むから。
まだ何も、何一つ、伝え切ってなんかいないんだから。
「お前が俺の本性を暴かずにいてくれたら、俺はただの脅しの上手い人殺しでいられたのにな。俺の善意にあれだけ感謝していたお前が、まさか俺に恩を仇で返すなんて。……いや違うか。お前はお前なりに恩を返そうとしたんだ。その結果がこれだ。……人の善意を無下にしてまで感謝を示さないと気が済まなかったんだろ? お育ちのいいお坊ちゃん」
「…………っ、」
何がお坊ちゃんだ。ふざけやがって。
全部違う。何もかも違う。
おまえはおれを清く見積もりすぎなんだよ。
……そう言い返したいのに、声が出ない。今となってはもう口すらもまともに動かない。
意識が遠くなってくる。
「……案外、俺なんかに関わらなかったほうが、お前は長生きできたのかもしれないな」
かわいそうに。
そう言葉を紡ぐ口許が、自嘲気味に笑った。
気がした。
「ごめんな」
おそらく落ちる寸前だった。それがわかっていたから、神坂も本音を零したのだと思う。
でも、それなら少し早かった。伊奈瀬が今いちばん惹かれている人間のその声で──己の間違いを嘆くその声で、伊奈瀬の意識は覚醒してしまった。
曲げた肘で、伊奈瀬は背後の壁を真横に蹴った。上半身から思い切りベッドに倒れ込む。どうせ下はふかふかの綿だから、頭は守らなくていい。当然のように神坂の手は離れない。
だが、弾みを完全に殺しきることはできない。伊奈瀬の動きに対応した神坂の手は指先こそ伊奈瀬の首を捉えていたが、伊奈瀬の喉と神坂の手のひらとの間には、伊奈瀬の身体がバウンドした拍子に一瞬だけ隙間が空いた。伊奈瀬はそのタイミングを見逃さず、そこに自分の手を差し入れた。途端に空気が大量に流れ込み、伊奈瀬は大きく咳き込む。
「違う!」
続けざまに出そうだった咳をこらえて、伊奈瀬は叫んだ。仰向けに倒れた伊奈瀬の上に馬乗りになった神坂の手が、表情が、わずかに止まる。
「『オレはおまえを知っている』! それをおまえにわからせないと、おまえはオレの前から消えるだろ!」
視界の端に映る自分の胸が、冗談みたいに大きく上下していた。……吸っている。吐いている。息をしている。生きている!
なのに、なのにまだ足りない。
生き続けるには、まだ。
「休学、退学、転校──なんだっていい、おまえは……おまえは、今夜だけを恐れてた。学校はまだ続くのに……オレとの接点はまだ生きるはずなのに……なのにおまえはこの夜だけを……!」
伊奈瀬は両手を拳にしてベッドに投げ出した。力なんてろくに入っていない。だが確実に、伊奈瀬は憤っていた。怒りだけが、今、死にかけの伊奈瀬の肉体を動かし、意識を繋ぎ止めている。
「それってもうそういうことだろ。おまえはオレと赤の他人になるつもりだったんだ。クラスが違ったって、会って喋る機会は作ろうと思えば作れる。おまえはそれを徹底的に避けるつもりで……でも完璧に避けることはできないとわかって、『学校』っていう接点まるごとなくそうとしてやがった。だから暴いた!」
……酸欠だ。頭が痛い。耳鳴りがひどい。動悸がうるさい気持ち悪い。
「許せねぇだろ、普通さあ……! 人が死ぬの勝手に止めておいて、それでいいことした気になって、勝手に関係断ち切って終わりにして! 残されたオレの気持ち考えたことあんのかよ、なあ」
目の前が滲んで相手の顔なんか全く見えない。
「おまえだけなんだよ、おまえだけだったんだ、おまえが裏で何してようが表でどんな顔して生きてようが、オレを見つけて手ぇ差し伸べてくれたのはおまえだけ! それにどれだけオレが救われたかも知らねぇくせに全部間違いみたいな
絶叫と同時に肺の空気を全て出し切り、伊奈瀬は荒い呼吸と一緒に喘いだ。……全身が怠い。もう黙ってても自分はそのうち死ぬんじゃないだろうか。なんでヒトの呼吸器官はこうも上半身ばかりに依存しているんだろう。普通に足とかからも吸えよ。
「──辞世の句はそれでいいか?」
無感情な神坂の声が降った。伊奈瀬の首にかけた手の力が、徐々に強まる。
伊奈瀬は一瞬だけ目を見開き、やがて苦笑した。
「……えぇ? マジ? 全然心に響いてないじゃん」
「いちいち相手の最期の言葉に心打たれてたら、仕事にならないだろう」
「プライベートのくせに」
「俺だって無駄な殺生は好きじゃない。……人助けの趣味ももうやめる」
「相手が悪かっただけだって。無理してやめなくても大丈夫だよ」
「嫌味な奴だな。誰のせいだと思ってるんだ」
伊奈瀬はそこで何かを答えてやりたかったが、掠れた呻き声しか漏れなかった。笑う。
「……嫌味なお前に免じて、お前のことは一息で終わらせてやるよ」
そう言って、神坂は首を絞めているのとは反対の手を振りかぶった。どこに隠し持っていたのか、そこには銀色に光るナイフが握られている。折り畳み式のようだが、自分の身体に突き立てられると思うと、あまりにも長い刃渡りのように感じられた。
恐ろしい。だが、伊奈瀬は目を閉じないし逸らさない。
最期の景色は悪くない。どころか、上々だ。
自分の首に体重をかける神坂の手を、伊奈瀬はしっかりと両手で掴む。離れないように。
逃がさないように、自分の傍へと引き寄せる。
「友達ぐらいにはなれたかな、おれたち」
空気の通らない喉を、伊奈瀬は最後にめいっぱい震わせた。
切っ先が眼前に閃く。
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