第7話 伊奈瀬針羅の隠し事

 洗面所に用意されていた神坂の服の上には神坂からの置き手紙があった。用が済んだら自分の部屋に来いとのことで、律儀に自宅の内部構造を示した手書きの地図が添えてある。大まかにリビング、ダイニング、風呂場とトイレ以外によく似た構造の部屋が二つあり、その片方が神坂の部屋、もう片方が神坂の母親の寝室のようだった。間違えて入るようなことがあったらその瞬間にお前の人権はなくなると思えと本当に書いてあった。


 伊奈瀬が置き手紙を頼りに神坂の部屋であるはずのドアをノックすると、ちゃんと神坂の声が聞こえてきて一息つく。神坂の母親の、あの雰囲気こそおっとりしているものの、なんとなく隙を感じさせないすらりと伸びた立ち姿などが親子そっくりで、何か武術をやっていてもおかしくはないと思っていたのだ。伊奈瀬の人権の消失が神坂の洗練された暴力に紐付いているならば、不注意ごときで遭遇するわけにはいかなかった。


「おかえり。入っていいぞ」

 の言葉に従って部屋に入ると、神坂は勉強机とセットになったキャスター付きの椅子を後ろ向きに回転させ、伊奈瀬のほうを見た。左手に皿を、右手にフォークを持っていた。皿の上にあるのは、伊奈瀬が持っている知識を総動員するに、チーズケーキだった。


「……ごめん、何の冗談?」

「郷に入っては郷に従えよ伊奈瀬。お前のぶんもある」


 フォークの柄で部屋の中央に設置されたローテーブルを指し示される。ご丁寧に紅茶の入ったティーカップもあり、まだほかほかと湯気を立てていた。


「母親曰くカフェイン入ってないやつだから。心配するな」

「……なあ、今おまえ『郷に入っては郷に従え』って言ったよな。自分の郷の常識が他の郷で通用しないことわかって言ってんだよな」

「お前も甘いもの好きって言ったろ?」

「そりゃまあ言ったけど……」


 それは神坂の好きなものだから自分も好きになれそうだ、という感情も込みで言ったことだとは流石に白状できない。


「オレはおまえほど燃費がバカじゃねぇんだって。摂取しただけ動いてるのかもしれないけど」

「これは内緒の話なんだが、」


 神坂が伊奈瀬の主張を無視して何か語り出す。


「うちの母親は結婚して子供産むまで仕事一筋だったんだが、夫が単身赴任中で子育てとなると仕事を辞めざるを得ない。母親は一生懸命努力して積み上げてきたキャリアを放棄して子育てに勤しんだ。しかし子供が自我を持ってある程度自立しだすと今まで忙しかったのが嘘のように暇になった」

「仕事に戻ればいいんじゃないの?」


 これはほとんど思考放棄で言った。真面目に悩んだ挙句に全部神坂の作り話だったりしたら目も当てられないからだ。


「母親の仕事は少し特殊で、一度その業務に携わると簡単には辞められない。俺の母親は業界でも優れた業績を残した有名人だったから、それまでの職場への貢献度と、後進を活躍させる機会を作るという名目でどうにか抜けるのを許された。暇になったから辞めるのをやめるというのは虫がよすぎる」

「……それで?」


 深く追及するのはやめておいた。作り話として聞くことにした。


「それで母親は、仕事の代わりに新しく趣味を見つけることにした。せっかく始めるのだから可愛い一人息子が喜ぶものがいい。母親は少し考えて息子がよく甘いものを好んで食べていることを思い出した」

「いい話じゃん」

「ところで、母親の前職はかなり体力を使う仕事だった。外で何時間も張り込んだり、かと思えば張り込みで凍えた身体をいきなりフル稼働させて大立ち回りすることもある」

「刑事さんとかだったのかな〜?」

「お菓子作りというのは多くの場合、普通の料理以上に手間と労力がかかる。それは母親の持て余した体力と非常に相性が良かった。母親は徐々に凝ったお菓子を作るようになり、やがてそれでも満足しなくなって毎日のように甘いものを生産した。息子は甘いものが恐ろしく好きな人間だったので奇跡的に飽きられることはなかったが、それを褒める語彙は枯れた。息子はやがて出されたものに『美味い』と言うだけの機械と化した」

「頑張れよ息子。言葉使うのも得意だろ」

「いくら得意でも限界がある」


 神坂は遠くを見かけた瞳を覆い隠すように瞼を閉じた。珍しいこともあったものだ。


「さて、最終章だ。ある日、息子が珍しく同じ学校に通っている友達らしき人物を連れてきた。母親はここぞとばかりに今日の昼間作って冷やしておいたチーズケーキをその友達に食べてもらおうと思った。もう『美味い』だけの感想とはおさらばだ。母親は息子の部屋に人数分のティーセットを置いてこう言った。『伊奈瀬君の口にも合えばいいんだけど』」


 神坂はようやく口を閉じた。用意してきたみたいに澱みない演説だった。よく舌の回る。


「話は終わったかよ、足りない語彙の普通科超人」

「ご静聴どうも。期待してるぞ進学科の模試一位」

「っ、……」


 伊奈瀬は思わず息を呑んだ。所在なく腕を組む。


「……そういうとこまで筒抜けなわけかよ。もしかして、占い師じゃなくてサイコメトラーだったり?」

「残念ながら、俺が個人的に調べただけだ。別に俺以外には筒抜けじゃないから安心していい」


 何が個人的に調べた「だけ」だ、と内心で悪態をつきつつも、既に腹落ちしている自分がいる。


 伊奈瀬をこの家に拾う前、神坂は伊奈瀬のことを「頭のいい真っ当な人間」と評し、違法薬物の売人を前に「一時の感情で脳を腐らせるところは見たくない」と言った。伊奈瀬の模試の結果を何らかの手段で閲覧したなら納得の言動だ。ならばあるいは──伊奈瀬に浪人中の兄がいることも、伊奈瀬の口から聞かされる前に知っていたのかもしれない。あの占い師顔負けの人格当ても、家族構成や家庭の状況などの情報が揃っていれば、あの場で伊奈瀬の深夜徘徊の背景をロジックで組み立て言い当てることは不可能ではない。


「言っとくけど全国じゃないから。校内順位」

「謙遜するなよ。都道府県内も全国も似たような数字だっただろう。いずれにせよ、俺の人生じゃお目にかかれない偏差値だ。定期テストでも実力を出せばいいのに」


 神坂が微笑んだ口許にケーキの欠片を運んだ。様になりすぎていて嫌になる。


「定期テストだと最高得点とかそれ取った人の名前とかうっかりバラしちゃう教師がたまにいるだろ。返却の時に誰に見られるかわかったもんじゃないし。やり過ぎると成績上位者として晒し上げられる」

「鋭い爪をそんなに見られたくないか?」

「おまえにだけは言われたくねーわ」


 そう吐き捨てて、伊奈瀬はケーキの用意されたローテーブルの前にどかりと座った。胸の前で軽く手を合わせ、フォークを手に取る。


「……てかさ、オレとおまえが会ったのって偶然だよな?」


 さっきの神坂の言い分からして、彼は学年の全員、学校の全員の情報をここまで仔細に把握しているわけではないのだろう。伊奈瀬の存在が気になったから、伊奈瀬のことだけをわざわざ調べたのだ。……でも、なぜ? 伊奈瀬が売人とやり取りしているのを見かけてから調べた、なんてのは流石に無理筋だ。もっと前から調べていなければ時系列的に成立しない。


「偶然だよ」


 神坂の言葉は本当か嘘かわからない。もしも母親から不味いケーキを出されても、彼は同じように「美味い」と言うのだろうか。


 とはいえ、皿の上のケーキには美しく焼き目が入っていた。上に粉砂糖まで振りかけられていて、かなり本格的に見える。


「さっき公園でも言っただろ。俺の顔には特徴がないんだ。影も薄いしな。だから普通、俺は誰にも『見られない』。だがお前は俺を『見た』。……だいたい、教室の前で立ち止まるほどの熱視線向けられて、相手がどんな奴か気にならない男子なんていると思うか?」


 自分が質問するよりも先に、冗談でコーティングされた回答を差し出され、伊奈瀬は同じように笑うしかなかった。本当に、嫌味なほどに気が回る男だ。


「『男子』なんてかわいいモンじゃないでしょ、おまえは。調査範囲が深すぎるとこ含めて」


 そう返しつつ、伊奈瀬はケーキを切って口に運んだ。目敏く見つけた神坂が、すぐに感想を聞いてくる。


「美味いか? ケーキ」

「美味いよ。すごく」


 久しぶりに味を感じた。それだけで伊奈瀬にとっては極上の味だった。


「人の手作りが普通どんなもんなのかは、オレにはよくわかんないけど」

「バレンタインでチョコとかよく貰うだろ? お前みたいなクラスの明るい中心人物は」


 神坂が冗談めかして言った。


「うちの学校、どんなおめでたいイベントでも菓子類の持ち込み禁止じゃん」

「もうお前学級委員長とかやれよ。生徒会でも充分やっていける」


 神坂は呆れた様子で笑い、椅子から立ち上がった。そもそも風呂の交代を告げに、伊奈瀬はこの部屋までやって来たのだ。長い立ち話だった。


「──なあ、なんでここまでよくしてくれんの」


 着替えを持って部屋を出て行こうとした神坂の背中に、早口で言葉をぶつけた。神坂は扉の前で足を止めた。振り返らなかった。


「兄貴思いの優しい人間になら、少しぐらい優しくしたって罰は当たらないだろ」


 目などどうにも合わせようがないのに、伊奈瀬は神坂から目を逸らした。


 模試の順位までくまなく目を通すほどなのだから、もっと目につきやすい志望校の判定などは、興味がなくても視界に入るのだろうと思う。


 願書を出すつもりもない、兄と同じ第一志望校の名前も、医学部の三文字も。そこについた堂々たるAの判定も。


 クソほど真面目な自分にほとほと呆れ返る。バカになりたい。何も考えなくても生きていける、思考停止のバカに。誰に迷惑をかけても痛まない無痛症の心が欲しい。


 でも、この頭はどうやったって考え続けてしまうのだ。


「色々あって疲れただろ。俺のことは待たずに寝てていい。そこのベッド、遠慮せず使え」


 俺は立ったままでも睡眠取れるしな、と軽い調子で言い残して、神坂は部屋を去った。

 一人残された伊奈瀬は静かに深く息を吐いて、テーブルの上の食事たちをぼんやりと眺めた。


 もう遠慮するつもりはなかった。

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