第6話 死の対岸

 気づいた時には玄関の内側にいた。自我を取り戻して数秒、伊奈瀬はぼんやりと「明るいな」と思う。人感センサーがついているらしい玄関自体はもちろん、そこから先へまっすぐに延びる廊下までもが、しっかりと奥まで見通せるのだ。今さら悲しむようなことでもないが、自分の家ではこうはいかない。兄が出迎える時でさえ、あの家はつめたくて暗い。


「ただいま」


 神坂がおよそ神坂らしくない独り言を言うので、伊奈瀬は面喰らった。隣にいる人間の機微に気づかないはずもないだろうに、特に反応を示すこともなく靴を脱ぎ始めるので、伊奈瀬も「お邪魔します」と口にしてそれに続く。


「あらあらあら、お帰りなさい」


 すると、廊下の奥から間延びした高い声が聞こえ、すらりとしたロングヘアの女性がこちらに駆け寄ってきた。白いスウェットの上に、夕飯時などとっくに過ぎているにも関わらずエプロンをかけたその女性は、「お帰りなさい」の後に何か、ここにはいない別の人間の名前を呼んだ。


「今は優人だよ、母さん」


 神坂がやけに慣れた柔らかい口調で言った。認知症の祖父母に向き合うような淡々とした返しだったが、相手は祖母ではなく母親だと言うし、年の離れた姉と言われても納得する若々しさだった。

 伊奈瀬は「母さん⁉︎」と叫びそうになるのをすんでのところで飲み込む。全ての人間に親がいるという当たり前のことでさえ、神坂を前にすると消し飛びそうになるのだ。現に、「今は」優人だという神坂の発言が巨大な小骨のように引っかかっている。こいつ、まさかとは思うが偽名で学校通ってないだろうな。


「それで、こっちがさっき話した、同じ学校の伊奈瀬針羅」

「あ、……どうも、伊奈瀬と申します。すみません、こんな夜遅くにお邪魔してしまい」


 混乱が収まらないうちに水を向けられ、半ば条件反射で頭を下げた。一時的に表情が見えなくなったのをいいことに「こいつおれのこと話してたか?」と神坂に対する疑念を膨らませるが、思い返せば道中で携帯を弄っていたような気もしなくはなかった。


「あらあらすごく礼儀正しい子じゃない。うちの息子をこれからもよろしくお願いします」


 神坂の母親がにこにことしながら頭を下げる。……よろしくされてしまった。自分が神坂によろしくしてやることなど一生ないだろうと思いつつも、ほどよく笑って誤魔化しておく。

 すると、強引に弾ませた伊奈瀬の声に被せるように、神坂が苦笑気味に言った。


「よろしくしてるのは俺のほうじゃないかと思うけど」


 そうやって何事か会話のキャッチボールを続けながら、神坂は上がりかまちを越えて廊下を進んでいく。伊奈瀬もそれに続こうとするが、足が上手く動かなかった。ローファーが足ごと鉛になったかのように重い。


 なんか、まともな家だよな、と思う。明らかにまともじゃない、おそらく人を──同級生を殺している高校生でさえ、家に帰ればこんなにもまともだ。全部が全部装いというわけではないことは、伊奈瀬にもわかる。完璧にまともな家庭を装うというのは、まず不可能な話だ。一般的な家庭でさえどう頑張ってもきずの一つや二つは生じて然るべきで、それを隠すだけで気力も体力も著しく消耗する。だから伊奈瀬の父親は何かにつけて遠方の学会に顔を出し、看護師をしている母親は伊奈瀬の家の看護師を辞めて多忙を極める大病院に移った。うちの家族は全員、一番近くにある現実から目を背けたいのだ。伊奈瀬を含めた一家全員が。


 こんなところにいて自分は果たして許されるのだろうか。それとも、許されないからこんなにもあたたかな安寧が目の前にあるのか? 眼前にある幸福な家庭の温度に油断して足を踏み入れたが最後、伊奈瀬は取って切り刻まれて最悪の死を迎えることになるのかもしれない。この家の表札に〈Wildcat House〉と書いているのを、自分はみすみす見逃しているのだ。


「──どうした? 伊奈瀬」


 廊下を少し行った先で、神坂が振り返っていた。もう「怖いのか?」とは訊かなかった。


「遠慮しないで入れよ。ずっと外にいて冷えただろ。風呂沸かしてあるから」

「え、あ、いや……」


 予想外……というか、すっかり思考の外に追い出されていた生活ルーティーンの一部に、伊奈瀬の脳は対応できない。もう自分はこの意識を保ったまま夜を越さないのだと思っていた。死ぬにしても、殺されるにしても。


「悪い、から。そこまでされるのは……」


 言ってしまってから、この家に泊まるのであれば風呂に入らないほうが悪だ、ということに気づく。伊奈瀬は「せめておまえが先に」と弱々しすぎて震える声で続けた。


「一刻も早く入れ。風邪引くぞ」


 べつにいいよ、と心に浮かべた言葉が投げやりに口から出ていた。出かけるまでもなく家が内科だ。何なら家のパソコンを弄って自分で処方箋を出したことさえある。今思うと手癖が悪いどころの話ではないし、バレないわけがない。それこそ熱に浮かされた頭でやった隙だらけの犯行だった。それでも特に叱られなかった。


「いいから早くしろ。お前もう既に熱あるんじゃないだろうな」


 いつの間にか来た道を引き返していた神坂が伊奈瀬の腕を引き、額に手を当てた。ふと肌に生じた他人の温度に、伊奈瀬の意識は急速に覚醒する。深い沼の底に沈んでいた心が鷲掴みに引きずり出され、澄んだ外気に晒されたかのようだった。突然のことに驚き、思わず身が竦む。身体を捩って逃れようとするが、伊奈瀬の腕を掴む神坂の手は離れない。


 優しくしないでくれ、と今度こそ心の中で叫んだ。さもないと自分の中の常識が書き換わってしまう。ここが基準になってしまったら本当にまずい。善悪の物差しからして狂いそうで余計にまずい。殺人者のくせに人の心に寄り添うなよ、マジで。


 だが、一番に伊奈瀬に現実を突きつけたのは、神坂の力の強さだった。そのモデルみたいな体型のどこにそんな腕力があるのかと疑問を覚えるほどに神坂の身体は一ミリも動かない。一度呼吸と体勢を整えて全身の力を込め直しても、まるで木の幹を相手にしているとしか思えず、腕を掴む指の一本だって解ける気配はなかった。


 皮肉なことに、それで少し落ち着いた。強大過ぎる力を前に、弱い生物は心を無にする以外の手段を持たないらしい。ゆっくりと──まるでこちらが攻撃しても相手が反撃してこないのを信頼の足がかりにするように、本当にゆっくりと、筋肉に込めていた力を抜いた。


「今のところ熱はなさそうだな」


 神坂が何食わぬ顔で伊奈瀬の額から手を離す。目の前で家捜しをしても決まった日常の台詞しか吐かない、RPGの村人を彷彿とさせた。それでも神坂は伊奈瀬の腕を掴んだままだった。


「ま、俺は寒いのにも慣れてるから心配するなよ。お前ガキの頃に一晩、業務用の冷凍倉庫に幽閉されたことないだろ」

「…………はっ?」


 伊奈瀬の脳裏に「虐待」の二文字が高速でよぎる。だが、目の前の人間からは、弱者の悲哀など微塵も感じられなかった。強がりの綻びも、自嘲の湿っぽさだって。


 冗談だ、とはついぞ言わずに、神坂は意地悪く微笑んでから伊奈瀬の腕を引いて歩き出した。いとも容易く靴が脱げる。だが、伊奈瀬はこの川の流れのような剛力に抗う術を知らない。


「ちょっ、待って、靴! 靴揃えてねぇから……!」

「お前ってつくづく育ちがいいよな、クソ真面目でさ」

 先行する神坂の後頭部だけが見える。

「親を大事にしろとまでは言わないが、そのうち感謝することになるかもしれないぞ」


 伊奈瀬は返答に困って呼吸だけしていた。あるべきものがあるべき形で、あるべき場所に収まったあの端整な顔の見えない神坂の声からは、何も表情が推測できない。悲壮感も虚空も見えないブラックボックスだった。


 そうやって、伊奈瀬は神坂家の洗面所に放り込まれた。玄関からそう遠くない場所にあった引戸の先に押し込まれる前に、伊奈瀬は今一度神坂の母親の顔を確かめたかったが、もう部屋の奥に引っ込んでしまったのか、後ろ姿すら見つけることは叶わなかった。


「服は俺のやつ適当に出しておくから、それ使え。靴もちゃんと揃えておいてやるよ」


 ドアが完全に閉まりきる間際、神坂は隙間から軽く手を振りながらそう言った。


「あと、タオルとかで首吊るなよ」


 音を殺してドアが閉まる。間を置かずに神坂の足音が遠ざかっていく。心配するならせめて少しぐらい耳澄ませよ、入れ知恵と大して変わんねぇだろと伊奈瀬は心の中で悪態をついた。それが伊奈瀬の死への期待ではなく生への信頼であることが透けて見えるから、余計にたまらなかった。誰の目も届かないのをいいことに、その場に力なくへたり込む。


 ──何なんだ、この家は。何者なんだ、あの男は。


 異常であることはまず間違いない。なのに、この家は、神坂の隣は、こんなにも息がしやすい。


 きっと、彼らの生活には当たり前のように人の死が組み込まれている。それは他人の死でもあるし、場合によっては自分の死でもある……のかもしれない。

 けれど、だからこそ、彼らには死から遠ざかる営みができるのだろう。そしてそれが日常だからこそ、昨日今日会ったばかりの人間を、どちら側にも連れて行くことができる。


 そして今、伊奈瀬は神坂の手によって、死の対岸に運ばれてしまった。自力で戻るのはもう難しいだろう。何しろ、その川の深さも水流の激しさも、一度渡ろうとしたがゆえに知ってしまっているのだ。一人で歩くには、三途の川は上級者向けすぎる。伊奈瀬にはそれをやり遂げる体力も体幹も、そして知識もない。もうなるようにしかならない。人生は思い通りに進まないし終わらない。


 伊奈瀬は俯いて深いため息を吐き出し、やがて立ち上がった。制服のネクタイを解き、シャツのボタンに手をかける。


 久しぶりに浸かった湯船はほどよく熱くて気持ちがよかった。紋切り型の心のほぐし方にうんざりしながら、伊奈瀬は少しだけ泣いた。

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