第5話 あいつは他殺だからな
野晒しにされたプラスチックの座面は冬の寒さを凝縮していた。伊奈瀬は人気のない公園のベンチに座って、同じ校章を胸に掲げた学友の帰りを待っている。
「はぁ……」
一人になって、思わずため息が洩れた。吐き出した空気が白く凍る。まだ自分の中心に体温が残っているのだと思うと、途端に現実味が失せた。口を覆うように被せた両手が微かに震えている。
よく考えれば……いや、少し頭を使えばわかることだった。塾にも通っていない、才明の制服を着た高校生が、日付と日付の間みたいな時間に外をうろついている理由。その男子生徒は、先に違法薬物の売人と接触していた伊奈瀬から話を聞く前から、それが違法薬物の売人だということを把握していた。ついでに言うとそいつは目をみはるほど暴力に明るい。
伊奈瀬が必死に頭を悩ませて整合性の糸を繋げた空言は、そっくりそのまま神坂優人の真実だったというわけだ。いかにも金持ちそうな学校の制服を着、夜に一人で出歩き、十代の若者の孤独や心の渇きにつけ入ろうとした悪人を返り討ちにする。……確かにあの売人が言っていた通りだ。まさか団員が神坂一人の超少数精鋭部隊だとは想像もしなかったが。「団」という名称に完全にミスリードさせられた。
『お前、もしかしてバイトか? 俺が蹴るべき標的は一人じゃなくて俺以外の全員だったってわけか?』
降参の姿勢を取った伊奈瀬の肩に手を置いた神坂は、伊奈瀬の耳に顔を近づけてゆっくりと囁いた。途端に怖気が全身を走り抜けたのを、伊奈瀬は一人になった今でも鮮明に思い出すことができる。
溶けた鉄を鋳型に流し込むように、垂直に伊奈瀬の体内へ落ちていったその声こそが、何かいけない薬のようだった。己の優位を確信した余裕とわずかの興奮が入り混じった低い声が、脳の芯まで響いて揺らす。かといって聴覚から視覚へと意識を移せば、すぐそばにあるのは同じく得意気に笑みを浮かべ、嬲るのを楽しむように目を細めた美しい男の姿だ。伊奈瀬の返答次第では暴力の未来へ切り替わりかねないのもいけなかった。スパイス程度の血の臭いが、彼の言動を甘ったるい魅了の範疇に収めない。幻覚じみた底知れぬ未知の脅威を前に、伊奈瀬の本能はものの数秒で膝を折った。
最初の伊奈瀬の返答は「違う」の一言で、そう叫んだ次の瞬間には神坂は、伊奈瀬との距離を適切に保って聞く姿勢を示していた。そうして伊奈瀬は思いつく限りの事情を説明した。自分は死のうとしていたのだと。一方で捨て鉢にはなれても命を投げ出す覚悟だけが決まらず、ちょうどよく売人に声をかけられたために高揚感の力でも借りてみようかと立ち止まってしまったのだと。殴られそうになった過程について説明したのかはいまいち記憶に残っていないが、とにかく神坂は伊奈瀬を解放した。神坂は「俺はこれからやることがあるから」と足元の売人を指さし、伊奈瀬に近くの公園で待っているよう指示したのだ。だから伊奈瀬は、忠犬よろしく寒空の下で飼い主の帰りを待っていた。
待っていた……のだが、気持ちが落ち着いてくるにつれ、いいようにしてやられたのではないかという疑念が胸に湧き上がってきた。
第一に、神坂は伊奈瀬のことを何一つ脅していないのだ。逃げたら殴るであるとか、約束を守らなかったらどうなるかわかっているんだろうな、といった定番の台詞を、神坂は一切口にしていない。仮にそういった脅しを使わないのだとしても、伊奈瀬の身柄を本当に押さえておきたいのなら、一度売人から離れてでも公園までは同行するべきだ。伊奈瀬と神坂はほぼ初対面だから、もちろんお互いの連絡先すら知らない。いくら学校で一緒になるからといっても、伊奈瀬が逃げたらそれで終わりなのだ。神坂が伊奈瀬を「どうにか」する前に、伊奈瀬が然るべき施設に駆け込んだり知人に神坂の所業を口外したりすれば、動画などの証拠はないにしても、目立ちたくない神坂にとっては面倒なことになる可能性が高い。
なら、神坂は伊奈瀬のことを信じている? まさか。
むしろ神坂は、伊奈瀬に逃げてほしくてわざと伊奈瀬を野放しにしたのだ。
神坂は売人を蹴り飛ばした直後から、やたらと伊奈瀬を現場から遠ざけたがっていた。だが伊奈瀬は反対に、神坂から離れたくなかった。だから嘘をついてまであの膠着した時間を引き延ばそうと抵抗していたのだ。……それに神坂が痺れを切らしたのだとしたら?
行くべき結論に行き着いて、伊奈瀬は思わず立ち上がった。
体よく撒かれた──そう思い、来た道を振り返ろうとした、その時だった。
首筋に熱を帯びた金属が触れた。喉の意図しない場所から掠れた悲鳴が洩れ、咄嗟にベンチの肘掛けに手を突いて身を捻った。背後に神坂がいた。
「よう。流石に逃げてるかと思ったが」
神坂は伊奈瀬が身を捩った時と変わらぬ姿勢で、形のいい微笑を浮かべながら言った。伸ばした腕のリーチをさらに延長するように、自販機で買ったのであろう飲料の缶が横向きで差し出されている。
伊奈瀬はベンチに座り直しつつ、言葉になっていない返事でそれを受け取った。体温よりも高い温度のスチール缶。伊奈瀬の首に触れたのはこれだ。缶の熱が、かじかんだ指先の細胞の間を乱雑に分け入ってくる。
「……逃げてると思ってた割に、二本ある」
伊奈瀬は差し出されていないほうの神坂の手元に視線を遣って、呟く。
「しかも同じやつ」
「目ざといな。まあ、いなかったら二本とも飲めばいい」
気楽に笑って伊奈瀬の隣に腰を下ろす神坂は、まるで友達のようだった。プルタブを引き、伊奈瀬よりも先に口をつける。未だ実在を疑っていた男の口許から、白い吐息が洩れた。
「こんな夜中に、ホットココアを二本?」
女子だったらまず間違いなく躊躇する行動だと思うも、口にまでは出さなかった。肌荒れとか体重の増減とか、果てには加齢までもが彼とは無縁なような気がした。
「なんだよ、好きなんだから別にいいだろ?」
じゃれ合うような口調で言われ、伊奈瀬は理由もなくたじろいだ。……本当に、自分はどうしてしまったのだろう。他人の言葉や態度にいちいち心を揺さぶられていたら、身がもたない。特に神坂みたいな人間の言葉の真偽を見極め続けるなど、伊奈瀬みたいな常人には荷が重すぎる。何なら、神坂優人に好物など本当はないかもしれないじゃないか。特定の何かに愛着を抱くような心──人間味とでも言うべき凡庸を、彼は持ち合わせていないかもしれない。そう見えるように自分を演出しているだけで。
「……なんだ、もしかして甘いもの苦手か? アレルギーとか」
どんな表情をしていたのか知らないが、神坂が怪訝そうに首を傾げながら手を伸ばしてきた。まさか本当に、宣言通りに二本とも飲むつもりなのかと軽く面喰らう。驚いた勢いで「そういうんじゃねぇから」と手を払った。動いたついでにプルタブを引く。
「思いのほかに思い切りがいいな」
口内に流し込んだなめらかな液体を飲み込む直前、神坂が言った。
「お前を消すために飲み口に毒でも仕込んでいるかもしれないのに」
衝撃のあまり口の中の空気ごと飲み込み、むせた。視界の端で神坂がのんびりと、伊奈瀬のことを観察している。
「……おまえさ、」大きく息を吸って、身体が酸素を受け付けることを確かめた。「サイアクだわ」
神坂は喉の奥でくつくつと笑った。背もたれに身を預け、長い脚を悠然と組む。
「冗談だ。まさか本当に俺を待っているとは思わなかったから、少し驚いたんだよ。俺みたいな得体の知れない乱暴な人間、いくら同い年とはいえ普通は近づきたくないだろう。薬物の売人を一人でぶちのめして、持っている薬を根こそぎ抜き取るような奴にはな。少なくともそういう印象を持たれてもおかしくない側面を、俺はお前に見せてきたつもりだったんだが」
「……」
要は避けられていたということだ。伊奈瀬の思った通り。
「にしても毒は言いすぎだって」
「その『言いすぎ』に、お前はまんまと引っかかったわけだけどな。俺の虚言で窒息しかけた」
「うるさ〜」
冗談っぽく悪態をついてみるが、実際、神坂の指摘は図星だった。毒物なんてそう簡単には手に入らないと思いがちだが、毒草の代表格であるトリカブトは日本のそこら中に自生しているし、ニラとよく似ているために間違ってスイセンの葉を食し、救急搬送されたというニュースは定期的に流れてくる。となれば毒なんてものは極論、「盛る」と「盛らない」の間にある一線を踏み越えるか否かの倫理観というか、社会規範をいかに重要視して遵守するかの問題でしかない。言ってみれば刃物と同じだ。大半の人間は社会から弾かれることのリスクを重く見て一線を越えないが、じゃあ神坂はどうなのか、という話だ。
大して関わりのない人間のトラブルに平気で首を突っ込み、喧嘩慣れしているであろうごろつきの攻撃を軽く躱して一撃の回し蹴りで相手の意識を刈り取り、そして平然としている。そこには恐れもなければ高揚も興奮もない。違法薬物の売人と敵対する「自警団」であることを善と見ればどうか知らないが、それだって犯罪と隣り合った営みには変わりないだろう。神坂優人という人間を前にその「一線」が機能するかは、正直怪しいところだと伊奈瀬は思う。
要するに、神坂には説得力があるのだ。「毒を仕込んだ」と口にすることの説得力が。
「……毒だなんだ言われる前からずっと怖ぇっての」
「でもお前は俺から逃げないし、与えられたものも口にする」
「それは……まあ」
続く言葉を必死で考えた。何が一番自然に受け取られるのかを。
神坂との関係は、極力持続させたい。関係と呼べるようなものが築けているのかすら定かではないが、例えば次に顔を合わせた時に、今日のこの時間がなかったことになっていたとしたら、何か堪え難いものを感じるだろうとは思う。
だが、伊奈瀬が神坂に対して抱くこの感情は、自分の家庭が尋常ではない歪みを持っているからこそ生じているものなのだろうということも、同時に理解している。理解者がなく、今に至っては身を寄せる場所もないから神坂に依存するのだ。もしも伊奈瀬の家が多少なりとも円満な家庭だったなら、こんな何を考えているかもわからない、暴力に手慣れた人間に近づこうとは思わないだろう。神坂自身が指摘した通りだ。
「俺に殺してほしかったか? 自分で命を投げ出さなくても死ねるからな」
唐突に神坂の口から飛び出した言葉に、伊奈瀬は絶句した。まじまじと相手の顔を見る。
神坂にしては投げやりな口調だった──神坂だからこそ、その態度は異様だった。
彼の嘘がまともに見破れない自分でもわかる。今のそれは、本音だ。本音を混ぜた鎌かけで、遠回しな嫌がらせで、純粋な悲鳴だ。
「いや、それは違うだろ」瞠目したままに、気づけば伊奈瀬は声を発していた。「だってオレは、おまえに会ったから明日のことで悩んでる」
こちらを見ていた神坂がわずかに顎を引いた。こいつ驚いてんのか、と少し意外に思い、それから数拍の間を置いて、ようやく自分の言った言葉の意味が頭の中で精査され始めた。……まるで希望みたいじゃないか。死にたい奴の生きる希望。
「あ、いや違……なんつーの、だから、」
今のなしで、という意味を込めて首を何度も横に振った。温かいものを飲んだせいか、身体が内側からぽかぽかしてくる。熱源の多くは未だ容器の中になみなみと入っている。
「だから……あれだよ、…………オレも、好きだから。甘いものとか」
まるきりの嘘だ。伊奈瀬に食の好みは何一つない。苦手なものも特になければ好きなものもないという一番つまらない食へのスタンスを携えて、伊奈瀬はいつも放課後に知り合いと食事に出かけている。女子に付き合わされた一皿の量があまりにも多いパンケーキも、大人数で囲むカラオケのパーティーメニューも、腹には溜まるが美味と感じた記憶はなかった。甘いものへの愛着なんて持ちようがない。
なのに今の伊奈瀬は、相手の好みにまんまと合わせて「甘いものが好きだ」と主張している。まるでそう口にすることで少しでも甘いものが好きな自分が出現すると信じているかのような所業だ。
「だからおまえを疑うより先に嬉しくなっちゃったんだよ。悪いか」
最終的に、ぼそぼそと小さな声で捲し立てた。それが自然で正しい理由づけなのかは知らない。口を閉じた途端に夜の静けさが気にかかり、あ〜と意味もなく唸りたい衝動に駆られたが、それはあまりにも直情的な誤魔化しだと伊奈瀬にもわかっていたので、飲み込む。代わりに手探りで言葉を探した。
「……つーかオレ、今帰るとこないから。だからおまえといると……気が紛れる。そんだけ。単純に、逃げ場がない」
へへ、ともはは、ともつかない薄い笑い声を発したのち、伊奈瀬は重いため息を吐き出した。人肌まで冷めてきた缶を両手で包み込み、前屈をするように上体を前に押し出す。自分の影が落ちた暗い地面に、視界がぐっと近づいた。
結局全部打ち明けることになりそうだ。見栄も何もあったものではない。でも仕方ないのだ。伊奈瀬が神坂に対して切れる身銭はそれしかない。神坂優人という人間の時間を使わせるだけの対価になり得るものを、伊奈瀬はもはや自分の身の上話しか持ち合わせていないのだ。しかも、それだって神坂にとって価値があるとは到底思えないわけで、行き着くところはただの情報の押し売り、時間稼ぎでしかないのかもしれない。
「帰るところがないって、家でも燃えたか?」
「はは。そうだったらまだマシだったかもしんない」
自分の家があかあかと燃える様を、伊奈瀬は頭の中に思い描いてみる。自分の苗字を掲げた病院の建物が炎と煙に塗れ、玄関から飛び出した家族たちが思い思いの方向へと逃げ去っていく。
そうだったらどれだけいいだろうと伊奈瀬は思う。自分の居場所だけがなくなるのではなく、家族全員の居場所が一斉になくなってくれれば。そうだったなら、伊奈瀬はここまで惨めではなかっただろう。居場所そのものが消え去ってくれれば、「災難だった」の一言で済むだろう。
だが、この地平に伊奈瀬の家はまだあって、その扉を開ける鍵を、伊奈瀬は未だに持っている。
それから伊奈瀬はぽつぽつと、思いついたことを思いついたまま口にした。生家が開業医であること、自分の意思で医者を志した兄がいること。その兄が浪人して医学部を目指している最中であること。……そして、おそらく伊奈瀬自身が同じ医学部を受ければ、一発で合格するであろうこと。ずっと黙って伊奈瀬の話を聞いていた神坂は、この時だけ「正直だな」と口を挟んだ。「正直すぎて嫌な奴」──神坂は笑っていた。
身の上話はまだ続いた。兄も伊奈瀬の能力の高さを随分と前から認識していて、兄からの当たりが強いこと。そんな兄に道を譲るため、優秀な自分は浮ついた言動を心がけるようになったこと。それから、父親に失望され母親には泣かれることが日常になったこと。そして今夜、家に帰ってきて最初に、兄から田町の自殺の話を持ち出されて、自殺の引き金はお前なのだとあらぬ暴論を押しつけられたこと。放っておいてくれと懇願したら被害者ぶるのも上手いと返されたこと、お望み通り死んでやるから最後に「死んでくれ」と言ってくれと頼んで、断られたこと。あまりにも信頼に欠けるその理由。
改めて言葉にしてみて、しょうもないなと思う。他人ありきの自分であることを鏡越しに見せつけられた気分だった。本当に死ぬ気があるなら黙って死んでも不自然ではないだろうに、わざわざ兄に噛み付いて「死んでくれ」のトリガーを引き出そうとしたのだ、自分は。結局のところ伊奈瀬のそれは半分以上がパフォーマンス、悪趣味極まる当てつけだ。頼まれてもいないのに勝手に兄のためだと落伍者の道を歩み、自分の気遣いに気づいてくれなかったからと失望する。自分はどうしようもなくしょうもなくて、めんどくさい人間だ。
でも、伊奈瀬のような面倒な人間の心にこそ、神坂優人の所作は沁みた。「ただ黙ってそこにいる」という受容を、無言というコミュニケーションを、思えば伊奈瀬は知らなかった。そういう他者に出会ったのは初めてだったような気がした。
「──なあ、伊奈瀬」
「うん」
話聞いてくれてありがと、それじゃ、と言って今すぐにここを去りたい。お前が悪いわけじゃないとか大丈夫かとか、神坂がそういう無粋な言葉をかける人間でないことは知っている。それでも逃げたい。他人に説明するために言語化して初めてわかった、自分は相当参っている。
吐き出した息が妙に熱っぽくて困る。立ち去りたくても視界がぼやけていて困る。これ以上自己嫌悪に陥ったら本格的に後戻りできないところまで感情が決壊しそうで、慌てて心を殺した。きっと今までだってそうしてきたのだ。なんだか知らないけれど伊奈瀬の心は息を吹き返してしまった。全部そのせいだ。あの兄に泣かされるよりも、そっちのほうがずっといい。だからこれは、神坂のせいだ。
「お前に帰る家がなくなった原因はお前とお前の兄との会話にあって、その会話が発生したのは、田町翔太の死があってこそなんだよな」
「……ん?」
想定の外から飛んできた質問に顔を上げると、神坂はやけに神妙な面持ちで正面を見つめていた。肘掛けについた頬杖の上で何かを考えるように首を傾けた彼は、反対側の手で伊奈瀬にポケットティッシュを差し出していた。透明なビニールに包まれたそれは明らかに安物で、受け取って裏を返すとパチンコ屋の広告紙が入っていた。庶民的でなんというか、神坂も生活をする人間なのだと妙な感慨を覚えた。人前で涙を見せるなんて明らかに損だが、何か替えのきかない得をしたような。
それにしても、なぜここで田町の名前が出てくるのか、伊奈瀬にはいまいち理解できない。
確かに田町が死んでいなければ、伊奈瀬が兄から殺人者呼ばわりされることはなかった。田町翔太の訃報によって、航太郎は実弟を非難し追い詰める口実を見つけたのだ。それがどんなに物的証拠のない無理筋であっても、聞く耳さえ持たなければ相手に強い不快感を与えることはできる。それに、普段浮ついていて、友達が多く、常に集団で行動しているクラスカースト上位の人間──伊奈瀬自身がどういう心境でその立ち位置に収まっていようとも、伊奈瀬の学校生活を人伝てにしか知らず、伊奈瀬に対して憎悪の感情を抱いている航太郎からすれば、今の伊奈瀬の状況は「いじめ加害者」に近い何かに見えるのかもしれない。
「……まあ、そう言えなくもないかもしれないけど、オレの宿なし状態の責任を田町に求めるわけにはいかないだろ。田町はもう死んでるんだから」
もう死んでる──当たり前のように口から出てきた言葉にも、今ばかりは伊奈瀬も少なからぬ質量を感じずにはいられない。田町翔太は自殺したのだ、入水して。
どんな気分だったのだろう。川のほとりに立った瞬間、水の中に全身を浸した瞬間、空気の代わりに水が肺に注がれていく只中、絶命するその直前──伊奈瀬が及ぼうとしても及べなかったその一大決心の成果と心情を、伊奈瀬は改めて瞼の裏に思い描いてみる。
「田町にお前がこうなった責任を追及するつもりはない。あいつの親も含めてな。ただ、お前の兄貴にお前がこうなった不当性を突きつけることはできる。あいつは他殺だからな」
「は──?」
瞼の裏の妄想が、パチンと音を立てて弾けた。
田町の死が自殺ではなく殺人……? だったら、伊奈瀬が田町に抱いていた嫉妬も羨望も、全ては自分が一方的に田町に投影していた幻だったということか。
「……それ……いじめを苦にして、って意味じゃ……ない、よな」
「当然。俺のクラスに弱いものいじめをするような下衆はいないよ。わかるだろ?」
神坂は捨てられた小動物の頭でも撫でるような声音で疑問符を押しつける。随分と冷淡な信頼があったものだ。
「……暴力? それとも謀略?」
「嫌だな。うちのクラスはみんないい奴に決まってるだろ」
餌も与えず首輪もつけずに立ち去っていく。梯子を外された気分になって、伊奈瀬は閉口した。
ともかくとして、田町の所属していたE組には陰湿ないじめなど存在しなかった。それは事実と見ていい。教室の暴君をいとも容易く圧殺できる透明な支配者が、田町のクラスにはいる。
「……でも、じゃあ教室以外のどこかで、ってことは? 例えば部活とか、家とか」
「あいつは部活に入っていない。委員会は健康診断の季節以外ほとんど暇で、熱意がなくても問題なくやっていける保健委員会だし、そうそう問題は起きないだろうな」
「じゃあ、家──」
そう口にする瞬間の自分の心臓が、ほんのわずかにだが高鳴っているのを伊奈瀬は自覚していた。自分はきっと、仲間が欲しいのだ。家庭の問題で自死を選ぶまでに追い詰められている同志が。自殺という選択肢を半ば手放してしまった今でさえも。
「うちの学校には夏の間に水泳の授業があるよな。田町は見学せずに毎回授業に出ていたし、暴力を伴う虐待っていう意味では、田町の体格を考えても少し説得力に欠けるような気がする。少なくとも才明に進学できる程度の財力はあるわけだし、稼ぎがなくて家庭が目も当てられないほど荒んでいるということもなさそうだ。じゃあ反対に、将来のために勉強を過剰に強いている教育熱心な家庭なのか? だったら少なくとも、お前と同じ進学科に入っていなければ少し不自然なように思うけどな。学力ピンキリの高校の普通科に、教育熱心な親が私立の高い金を払ってまで行かせる理由は俺にも考えつかない」
「……てかさ、神坂ってなんで普通科いんの? 絶対
学力ピンキリの学校の普通科に、こんな探偵みたいな思考能力を持った人間が埋もれているほうが、伊奈瀬にはずっと不自然に思える。
「何言ってるんだ、どこからどう見ても俺は平々凡々の普通人間だろ」
普通ならざる美貌を悠然と歪めて、超人が何か言っている。おまけに身の潔白を訴えるかのように両腕を広げてみせているが、平々凡々な人間のするジェスチャーではなかった。伊奈瀬はもういいよとばかりに相手に手の甲を向けて払った。
「いっぺん鏡見て出直してこい」
「お前こそ、一度俺の顔を絵に描いてみろよ。中学の頃の美術の時間なんて、それは酷かった。二人一組になってお互いの顔を描く授業があったんだが、俺とペアになった女子が『顔に特徴がなさすぎてどうやっても似ない』って陰で愚痴ったりしてな、一時期居心地が悪かったもんだ。そいつは美術部員でコンクールも何回か獲ってた実力者だったはずなんだけどな。残念な限りだよ」
神坂の悪口を言うなんて、その女子は怖いもの知らずもいいところだと顔をしかめかけるが、そもそも神坂がこれほどいい性格をしていることを、大半の人間は知らないのだ。それもこれも神坂が「普通」を心がけて影を薄めて生活している証拠で、改めて見ると、これほど眉目秀麗にも関わらず人目を引かない神坂の顔は、確かに個性に欠ける。言うなれば減点ゼロの百点満点みたいなもので、整いすぎているがゆえに、神坂の顔は万人の美的感覚を刺激しないのだ。有名俳優が普通に街を歩いていても声をかけられない、みたいな話だろうか。
「そ。……で、話戻すけど」
「逸らしたのもお前だけどな」
「うるせーなあおまえはオレの兄貴かっての」
「はいはい。それで?」
それで? の、その小首を傾げるようなやわらかい微笑が、ほんの一瞬、昔の兄と重なった。明らかに性格が悪くて上から目線を隠しきれていないのに、少し困ったように眉根を寄せるその笑い方。人の面倒を自分が見てやっているのだという傲慢さの透けた態度にこちらは腹を立てるのだけど、それは延々と続く憎しみのような怒りではなかった。いつか見返してやるのだと子供らしい対抗心を燃やしていた。
嫌いではなかったのだな、と今さらながらに思う。兄は不憫なほど真面目で、それでいて不器用だった。伊奈瀬と違って正義感の強い人で、例えばボールの使用が禁止されている公園でボール遊びをしている同じ学校の児童を見かけたら、親切心で注意をして学校の担任にまで知らせるような人だった。どこの公園でもボール遊びが禁止されていることを知らないで子供たちのひそかな楽しみをぶち壊し、ただでさえ仕事の多い教員に余計な仕事をふっかけるような善意の人間。伊奈瀬のような人間にはおおよそ最悪だった。最悪だけど、少し羨ましかった。言いたいことを周りの空気を窺わずに言える。だが、不器用すぎて痛ましい。だからこそ自分がそれとなくフォローしてやらねばと思ったのだ。自分は航太郎と違って器用で、兄のことを慕ってもいたから。
その真面目さが嫉妬に歪み、純粋な憎悪に変わってしまうまでは。
先刻兄と交わした会話を芋づる式に思い出して、伊奈瀬は首を振った。昔のことを思い出したって、もうその頃には戻れない。人は変わるし、命だって消える。
「……それで、さっきから疑問だったんだけど、なんでおまえそんなに田町のこと詳しいわけ? 部活はまだしも委員会とか、近い間柄でもない限り覚えてるようなことじゃないだろ。派手な仕事内容でもないんだし。田町と仲良かったの?」
「いや、別に親しくはなかった。一緒の班になったことなら一度ぐらいあったかもしれないが。……俺が特定の誰かと仲良くしている姿が、お前に想像できるか?」
考えるまでもないことだったのに、言葉につられてつい想像してしまった。じゃあおれと話してる今のこの状況は何なんだ、と思う。
「だったらなんで、田町が自殺じゃないって……」
「俺は田町が自殺じゃないことを知っているんじゃない。田町が他殺だということを知っているんだ」
伊奈瀬はしばらく黙った。嫌味も皮肉も、軽口だって発さずに。
神坂の纏う空気が、その瞬間だけ変わったからだ。神坂はこの一言を言うためだけに自分と会話していたのだと、肌で理解した。
あるいは、追い詰められた伊奈瀬の心を軽くし、わずかに腹を立たせたことすらも、彼なりのお膳立てだったのではとさえ思う。伊奈瀬の頭脳を正常に働かせ、然るべき結論に辿り着かせるためのケア。居住まいを正し、いつになく低い、誠実さの表れみたいな声でそれを口にした神坂優人。
あれ? と思う。神坂はここに来るのにどうして遅れた?
彼は「用がある」と言って伊奈瀬をこの公園に先に向かわせたのだ。道路に横たわる、違法薬物の売人を指さして。伊奈瀬のことを先に行かせたのはおそらく、「その後にやったこと」を伊奈瀬に見せたくなかったから。神坂は前々から伊奈瀬をあの場所から遠ざけようとしていた。
神坂は見せたくなかった。……具体的には何を? 警察に身柄を引き渡していたにしては早い到着だった。そもそも高校生が制服で出歩く時間ではないのだ。待っているのがどんなにしょうもない説教だったとしても、神坂のような「普通」を日課にしている人間が取る行動とは思えない。
いや、というか。
神坂って普通じゃないだろ──伊奈瀬は口を覆うように手をやり、思考に没頭する。普通じゃないから彼は普通を心がけているのだ。伊奈瀬の知っている神坂は暴力に精通していて、息をするように嘘をつき、犯罪者と対等どころかそれを上回る力量で制圧してみせ、何の目的か「自警団」と名のつく一人きりの組織を運営していて──
「…………あれ……?」
思わず声が出た。粗いやすりをかけたように掠れた声だった。
どうして神坂は自分にここまで情報を開示したのだ? どうして田町の話を──
田町の死が自殺であってほしいと内心で願っていた人間に対して、執拗とも思えるまでにその可能性を潰してみせたのは? そもそも、どうして神坂は自分なんかを相手にしている? 伊奈瀬が特別だったから? まさか。神坂は恋愛ゲームのキャラクターとはわけが違う。自分が接するメリットのない人間──自分の時間を使ってやる価値があると思えない凡庸な人間に、興味本位で入れ込む都合のいい人間ではないはずだ。神坂は伊奈瀬を特別に思わない。
──いや、違う。事実として、神坂は伊奈瀬を構っている。何らかの理由で。……じゃあ、もしも神坂にとって、伊奈瀬が本当に「特別」だったとしたら? 好奇心を刺激するからとか主観的な理由ではなく、もっと筋の通った正当な理由があるとしたら。
伊奈瀬が帰る場所をなくした原因は伊奈瀬とその兄・航太郎との会話にあり、その会話が発生した根本的な原因は、田町の死にある──神坂は伊奈瀬の話を聞いて、そんな要約をした。やけに神妙な顔をして。……まるで当事者のような顔をして。
……責任を、感じていたのか? 伊奈瀬が帰る場所を失ったことに。すなわち、「田町が死んだこと」そのものに?
神坂は田町が死んだことに責任を感じている──責任を感じ得る立場にある。つまり、事件の当事者。だから、神坂は田町の死の真相を知っている?
……なんで神坂は「田町が他殺だということを知っている」のか──田町が誰かに殺されるところを見たから? 違う。否だ。伊奈瀬は迷いなく首を振る。神坂は、田町が「死ぬところを見た」。何者かによって殺されるところを、ではない。だって、神坂は強いのだ。仮に田町が何者かの手によって意図的に窒息させられようとしていたなら、神坂ほどの実力があれば助けることができたはずではないか。神坂は田町を助けられなかったことに責任を感じているのではない。そもそも、助けられなかったことを悔いているなら、最初から正直に言えばいい話だ。伊奈瀬自身に考えさせ、気づかせるように仕組む理由がない。
なら、田町を殺したのは誰なのか。どういう状況でなら、神坂は田町が「死ぬところ」を見ることができるのか。
気づくと視界が歪んでいた。耳鳴りがキンキンとうるさい。座っているにも関わらず、自分の身体が地面と垂直でないような気がする。
「神坂……」
あの売人って、今生きてんの?──何気ない感じで訊ければよかった。行き着く場所へ行き着いて疑問のスタート地点に戻ってきた伊奈瀬は、これ以上まともな声を出せる気がしなかった。
何もかもが輪郭のはっきりしないように感じる視界の中で、伊奈瀬の視線だけが一直線に、ある場所へと吸い込まれていく。
神坂の、手元。公園に来る前までは黒い革手袋をつけていた。
その指先が、血に
「──伊奈瀬。お前今日うち泊まれ」
傍らの神坂が立ち上がって言った。え? と洩らした伊奈瀬の返事は笑っている。膝が笑うのと全く同じ仕組みで、笑っている。笑う以外に方法がない。処理しきれない現実を前にしてなお正気でいるには。
これほどまでに最悪なタイミングというものを、伊奈瀬は知らない。ほんのちょっと前ならば、願ってもない最高の申し出だった。まだ神坂と他人にならずに済むと、遠慮を装いながらも二つ返事同然に頷いていたに違いない。
だが、今となっては。
殺すつもりなのでは、と率直に思う。神坂優人の「普通ならざる」真実の一面に辿り着いた人間を、それを頑なに隠してきたであろう神坂が邪魔に思わない理由がない。
それはそれで悪くはない結末だと思っている節も、確かにある。
だが、思考に反して身体も心もまるでついていかなかった。人生に絶望して熊の寝床に飛び込む人間がどこにいる? 結局のところ、どんなに自棄になろうとも、人間は恐怖の感情を呼び起こすほどの脅威には身を晒せないのだ。最期の瞬間に見る景色が凶暴な化け物であってはならない。だから人々は人工物に身を預け、物言わぬ自然に囲まれた場所を選ぶのだ。
「……なんだお前、怖いのか?」
振り返った神坂が、伊奈瀬の座っている側の肘掛けに手を置いた。自然と身を屈める姿勢になった神坂の顔が、近い。心臓が早鐘を打つ原因になっている感情が何なのかわからない。
「心配するなよ」
肘掛けから手を離した神坂は、伊奈瀬の傍らにあったスチール缶を流れるような動作で取り上げた。中身が少しだけ残っていることを下方を揺らして確かめ、伊奈瀬の目の前で同じ飲み口に口をつける。背を反らせて缶を逆さまにする。
「ほら、これで死ぬ時は一緒だ」
伊奈瀬のココアを飲み干し、神坂は言った。その特段優しくもなければ甘くもない表情と声色の真偽を、今の伊奈瀬は正常に見分けることができない。
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