第4話 人生が変わる夜

 田町翔太は川で入水した。

 家で眠ることすら許されなくなった伊奈瀬が最初に考えたのは、田町の死に方についてだった。それから、川に入るのはさぞや寒かっただろうな、という想像。


 田町は昨日──伊奈瀬に菓子パンを奢った日、ちゃんと学校に来ていた。当然だ。学校に来なければ、田町は伊奈瀬に昼食を奢れない。だから彼が自殺を図ったのは、早くても下校後だ。夕方でも川原付近の人通りは皆無ではないだろうし、釣り人にもまあまあ人気の川のようだったから、学校を出たその足で自殺、という線は薄いだろう。加えて、靴や生徒手帳を置いて川に入ったとなると、ただ単に川に身を投げるよりも、目的を達成するための難易度は上がるかもしれない。川原に放置した落とし物が誰かに見つかって周囲を確認されれば、もしかしたら迅速に救助されてしまうかもしれないのだ。そう考えると、人通りが少なく見通しも悪くなった日没以降がベストだ。だから田町は一度家に帰り、夜も更けたタイミングで再び外に出て、川に入った──それなら、田町が靴を脱ぎ、生徒手帳を置いた場所が自宅近くだったことにも説明がつく。


 だが、もう十一月だ。深夜の水に全身を浸すには寒すぎる。


 仮に田町がその寒さに耐えて入水自殺を成功させたのだとしても、自死に踏ん切りがつかない伊奈瀬にはハードルが高い。自分は一体どうやって死ねばいいのだろうか。


「死」という概念については毎日のように考えてきた。だが、いざ実際に死のうという段になって、伊奈瀬は自死の方法を固めていなかったことに気づく。

 電車に撥ねられるには遅すぎる。終電はもう過ぎた。首を吊るには道具がない。場所もない。コンビニで刃物を買うにも用途を訊かれそうだし、不審に思われて通報されても困る。タクシーを拾って「どこか近くの自殺スポットまで」などと告げるのはこれ以上ない愚策だろう。


 そうなると、やはり高所からの飛び降りか。


 そう思い至って、伊奈瀬はビルの多い街中を目指した。都会に近づくにつれ風が強く吹きすさび、伊奈瀬の身体の痛覚をジクジクと刺激した。身を震わせ、「さみ」と独りごちる。


 そんなに薄着してたら風邪ひくよ、という母親の幻聴が、ふと脳裏をよぎった。随分と昔の記憶だ。両親は幼い頃の伊奈瀬を深く愛してくれていた。学校に通うようになってからも、テストでいい点を取るたび、運動会で一位を取るたび、芸術で賞状をもらうたび──我が子が初めて掴み取った栄光であるかのように喜んでくれた。


 だが、航太郎が伊奈瀬に向ける視線に、不満と嫉妬の炎が見え隠れするようになったのも、その頃からだった。


 航太郎が父親の病院を継ぎたいと初めて口にしたのは、航太郎が中学に入学して割とすぐのことだった。伊奈瀬は航太郎の宣言を聞いて、「自分の役目は医者じゃない」と理解した。だがその頃には、兄が自分よりも能力に恵まれなかった人間であることにも気づいていた。

 だから、兄が地元で最も有名な進学校とされていた公立高校への入学が決まったあたりで、伊奈瀬は不良の道を選んだのだ。勉強よりも遊びに飛びつき、中学に上がると、部活があったわけでもないのに夜遅くに帰宅した。授業もたまに無断で抜け出した。


 そうして伊奈瀬は、愛されなくなった。深夜に母親が泣いているところを見た。もうあいつのことは諦めろ、自分たちには航太郎がいるのだから気にすることはないと母を慰めている父親の声が聞こえた。家族というものはこうも簡単に騙せるのかと、伊奈瀬は廊下の隅で失笑した。


「──よぉ兄ちゃん。こんな時間に一人でどうしたの。……ってあれ、それ才明さいめいの制服じゃん。ダメだよ〜? いいとこのお坊ちゃんが深夜徘徊とか。親御さん泣いちゃうでしょ」


 昔のことを考えていたら、不意に声をかけられた。そこで初めて、伊奈瀬は今まで自分が俯きながら歩いていたことに気がついた。飛び降りるのにちょうどいい高層の建物を探していたのに、これではいつまで経っても自殺場所など見つかるはずがない。とんだお笑い種だ。


 だが、一方で純粋に驚いている自分もいた。本当にその手の売人はいるのだ。家庭や学校生活に問題を抱えたティーンエイジャーを上手く取り込み、養分にしようとする半グレの典型。フィクションですら数えるほどしか見たことのない存在がいきなり目の前に現れて一瞬たじろぐが、今の自分にとっては好都合だと思い直す。


「もうとっくに泣いてますよ。泣いてるからこんな時間に出てきてんでしょうが」


 身の置き所がないんですよ、と伊奈瀬はうそぶく。相手の目的は、悩みを抱えて居場所をなくした若者から金を搾り取ることだ。だったら、例のものを出し渋るはずがない。

 伊奈瀬には自分で死を選ぶ勇気がなかった。田町のことを心のどこかで羨んでいるのも、飛び降りる場所を探していたはずがいつの間にか目的を忘れて散歩しただけになっていたのも、その証拠に違いない。伊奈瀬はこの期に及んでなお理性の奴隷だ。理性がいつでも伊奈瀬を外側から監視しているから、いざという時に踏ん切りがつかない。今の自分は正常じゃない、後になって後悔するぞと、必要のない警鐘を鳴らしてくる。


 だったら、理性を先に殺せばいい。伊奈瀬はお得意の理性でそう結論づけた。この売人が取り扱う商品を使って、躁になる。そうすれば、持って生まれたこの忌々しい才能も、自分もろとも手放せる。


 ハッピーエンドだ。気分が妙に乗ってくる。


「あー、親ね。わかるわかる。親ってのはなんでああも俺たちのことわかってくれないんだろうねぇ。勝手に期待したかと思えば勝手に失望しちゃったりして。兄ちゃんトコもそうなんでしょ? 辛いよねぇ家庭環境。……どう? 俺でよかったら相談乗るけど」

「ああ、そういう御託はいいんで、くれるものだけくれます? 金なら出すんで」


 伊奈瀬は相手の男が言い終わらないうちから、手のひらを差し出してクイクイと指先を曲げてみせる。多少の営業トークなら無知を装ってしばらく聞いてやってもいいかと思っていたが、自分の身の上話をだらだらと提供してやるつもりはない。ただでさえ精神が摩耗しているのだ、人と話す気力も余裕もまともに残っているわけがない。


 相手は軽薄な笑みをわずかに歪めた。殴られるかなと一瞬だけ覚悟する。馬鹿は話が長いくせに手が出るのだけは早い。だが、相手が伊奈瀬に期待しているのは伊奈瀬の身の上話でも、伊奈瀬がこの男のサンドバッグになることでもなく、金だ。それも今伊奈瀬が持っている財布の中身だけでなく、長期的に見た伊奈瀬の持ち金全て──親の金を含めた伊奈瀬家の財産全てだ。それを相手が得るためには、まず目の前の伊奈瀬を商品にハマらせる必要がある。渡すものを渡さないことには始まらないし、何より伊奈瀬自身がそれを求めて手を差し出しているのだ。相手からすれば、こんなに都合のいいカモはいない。多少小生意気な態度を取られたとて、商売人としては目を瞑る以外の選択肢はないはずだった。

 だが、男は伊奈瀬を殴るでも売り物を手渡すでもなく、こんなことを口にした。


 それも、警戒を強めた低い声音で。


「……テメェ、最近同業者狩って回ってるっつー自警団か?」

「は?」


 自警団? 違法薬物の密売人相手に一般市民が徒党を組んで立ち向かっているとでも言うのか。彼らと紐づいているのがどういう存在かわからないわけではないだろうに。


 だが、疑問を心の中で醸成させていられるほど、伊奈瀬に猶予は与えられていない。


 伊奈瀬は売人の言う「自警団」とやらではないし、そのような団体の存在すら知らない。しかし、相手は既に伊奈瀬のことをカモとしてではなく、敵と見なしていた。売っているものを渡してもらえるかどうか以前に、身の安全が危ぶまれている。


 ざり、と靴底が地面の細かな砂礫を擦った。無意識のうちに後ずさっていた。

 男が同じ距離だけ伊奈瀬に詰め寄る。


「どうりで。有名私立のお坊ちゃんが家の悩みだなんだって、おかしいと思ったんだよ。金持ち貴族で育ったボンボンに悩みなんかねぇに決まってんだろ。その制服、どこで手に入れた? 随分手の込んだ素人じゃねーの。クッソうぜぇ」


 男が拳を握って腕を引いた。だが、伊奈瀬は覚悟でもって歯を喰いしばらないし、目を瞑らない。むしろ、その瞳孔は獰猛に開かれていた。生物としての本能が防衛に走るよりも先に、瞬発的な怒りが伊奈瀬の血液を煮立たせていた。


『金持ち貴族で育ったボンボンに悩みなんかねぇに決まってんだろ』?


 ふざけんじゃねぇ。


 否定されてたまるかと思った。どいつもこいつも理解を置き去りにしやがって。少しは頭で考えろよ、人間の本性を。人の四方八方を取り囲んで人生を捻じ曲げる内情ってやつを。


 外側だけ見て知った気になりやがって。


 歪みのない人格も人生も存在しない。天国に生きている人間はいない。

 踏みつけるためだけに他人を見上げるな。自分を慰めるためだけに他人をぬるま湯に浸すな。


 今。ここが。全員の地獄なんだよ。



「──あのう、すみません。少し道を教えていただきたいんですけれど」


 その時、遠慮がちな声が夜の闇に溶け出した。それと同時に、男の拳が空中で止まる。

 だが、それは唐突に生じた声に気を取られたせいではない。


 男の拳は、物理的に止まっていた。──止められていた。よく見ると、男の振り上げた拳──その手首を覆う黒いダウンジャケットの袖口に、人の指が絡みついている。


 男の背後に、誰かいる。


「ああ? なんだてめ、」


 売人の男は一瞬だけ虚を衝かれたような表情を浮かべたものの、次の瞬間には勢いをつけて振り返っていた。掴まれた手を振りほどくというよりも、振り返った時の遠心力で思いきり相手を殴り飛ばしてやろうという意思がみなぎっていた。少なくとも、道を教えてやろうという善意の気概ではない。相手の顔も見ぬまま、男は背後に立った人間に暴力を振るおうとしていた。


 だが、男の背後の人影は、それを防ごうとすることも、逃げるそぶりだって見せぬまま、ずっとその場に佇んでいた。まさかこの売人の、今にも破裂せんばかりの苛立ちに気がついていないのか? 今腕を掴んでいる男に見せようというのか、スマホの画面と思しき四角く切り取られた青白い光が、両者の間にぽつんと浮かんでいる。


 殴られる──伊奈瀬は我が事のようにそう思う。だが、目を瞑れなかった。身体は思うように動かず、止めにも入れない。時間だけがコマ送りで進む。


 最初に呻き声が聞こえた。男の放った拳が空を切った次の瞬間、衣服越しの鈍い打撃音とともに売人の男が腹を抱え、くの字に身体を折る。すかさず放たれた回し蹴りが前屈みになった男の顔面を捉え、身体を真横に吹き飛ばした。伊奈瀬の視界から男の姿が消え、一拍遅れて暴力の風圧が鼻先を掠める。


 青白い光が用済みとばかりに無言で消え、ポケットに仕舞われた。


「…………なんで、」


 伊奈瀬の心からの困惑が、言葉を失った口からかろうじて零れ出た。瞠目した目が、釘付けになって動かない。


 目の前の遮蔽物が消えて露わになった闖入者の全貌は、伊奈瀬とよく似た姿をしていた。同じような背丈、体格。同じ年齢、同じ学校。……それを証明するのは、伊奈瀬が着ているものと同じ、才明学園の制服。


 ……いや、よく似たなんて形容は、あるいは許されないのかもしれない。何しろ彼は本来、美しいのだ。容姿端麗と持て囃され、周囲に人が集まっている状態でなければ不自然なほどに。


 気怠げで翳を感じさせるが隙のない目元、凛と伸びた背筋と品のある立ち姿──一度気づけば烙印を押されたように記憶に残り続けるのに、なぜか誰の目にも留まらない。凡人の──いや、同じ人間の枠に押し込めることすら憚られるこの男。


 ──神坂優人。


「なんでって、人を殴ろうとしている人間を蹴り倒すことに理由が必要か?」


 神坂はしれっとそう言い放った。殴るのに使った拳をさするのと同じような手軽さで、ローファーのつま先をトントンと軽く地面に叩きつける。その一連の仕草と言葉遣いがあまりにも淡白で──暴力を行使した直後の人間が取れる平静さのラインを軽く凌駕しているような気がして、伊奈瀬の思考は一瞬だけ無に染まる。さっき道を訊いた時のおずおずとした声色と、彼のやったことや今の態度が上手く噛み合わない。


「理由……は必要ないかもしれないけど、オレを助ける義理だっておまえにはないだろ」

「まあ、確かに俺たち初対面だけど、制服が同じだし」


 やっとのことで言葉を捻り出した伊奈瀬に、神坂はのんびりとした態度で返した。目を細めて口角を上げ、首を傾げつつ自分の胸を指さす。その指先には才明学園の校章が刺繍されている。裏も表もなさそうなその神坂の態度に、伊奈瀬はいつの間にか呆れていた。


 神坂のようないかにも特別で頭の切れそうな人間は、もっと確固たる判断基準を持ち、他人にそれを理路整然と説明してみせるのだろうという根拠のない期待があった。そんなもんやりとした理由で人を助けてもいいのだ。


 なんとなく──本当になんとなく、伊奈瀬は田町のことを思い出した。たった一時間教材を貸してやっただけで、律儀にも伊奈瀬にパンを奢った田町翔太。こういうのは本来、ものの貸し借りのみで相殺していい関係だ。この前貸してもらったから今回は僕が伊奈瀬くんに教科書貸すよ──そういうやり取りが将来的に自分の身に起こることを想定して、その時が来るまで黙って待っていればそれでよかったのだ。なのに田町は、伊奈瀬が何の気なしに口にした冗談を真に受けて、金を払ってまでその貸し借りに均衡をもたらした。一円の価値もない気まぐれの伊奈瀬の善行に、田町は百五十円払ってパンを返す。


 なんでみんなそんなにバカなんだろうと伊奈瀬は思う。あの時の伊奈瀬には教科書を貸すという行為に対して一銭でも得をしようという思惑などなかったし、今の伊奈瀬がこの場で殴られたところで誰も悲しまなかった。むしろ伊奈瀬のそれなりに整った顔が赤く腫れたり痣ができたりすることで口を歪めて喜ぶ兄がいて、殴られようが殴られまいが、伊奈瀬は死ぬのだ。明日以降の学校に、絶対、伊奈瀬針羅は登校しない。

 今おまえが助けた人間は、日が昇る頃には物言わぬ死体になっているぞと教えてやりたい。そうしたら、目の前のぼんやりとした麗人はどういう顔をして伊奈瀬に何を言うだろう。


 少しだけ想像をして、すぐにやめた。いくら暴漢から助けて多少の縁ができたとはいえ、所詮はほとんど接点のない学友だ。伊奈瀬が死んだところで、翌日の神坂が何かしらの喪失感や無力感に苛まれることはないだろう。むしろ、その反応は今は亡き田町のような人間の担う役目だったし、ここ数時間の伊奈瀬の心境そっくりだった。田町翔太という人間にこれといった思い入れなど一つもないのに、伊奈瀬は今、なぜか無性に虚しかった。自分の心の有り様を、自分を窮地から救った人間にそっくりそのまま移植させようとしている自分自身が、一番醜悪だ。


「まあ何でもいいけど、懲りたんなら帰れよ、伊奈瀬」


 唐突に名前を呼ばれて、伊奈瀬ははっと顔を上げた。どうして名前を知っているのだ、と口に出しかけるが、よくよく考えれば自分は学校の中では有名な部類の人間なのだった。伊奈瀬針羅はよく目立つ。よく目立つからいつの間にか赤の他人に捕捉されているし、自分の行動が口伝えに兄の元まで届いている。慎ましく静かに生活しろと言われる。だが、目立たずにどうしようもない不良を演じきる方法を、伊奈瀬は知らない。


「お前、本当は夜に順応できる人間じゃないだろ」


 そう口にした神坂の立ち居振る舞いはこの上なく洗練されているのに、なぜか夜の寂れた街の空気がよく似合った。先ほどの暢気な様子とは打って変わって、再び声色が低く淡白に戻っている。コロコロと印象が変わる彼の様子は、まるで多重人格のそれだ。だが、不思議と危うさはない。地に足が着いている。


「髪染めてるのも伸ばしてるのも確かに似合ってはいるが、お前のそれはファッションってよりかは意図的にこしらえた迷彩だろう。外見をそれっぽく整えて同じような人間とつるんでこそいるが、お前は実際のところ、その中の誰にも心を開いていない。どころか見下してる。まあ不良連中を内心で見下す賢い連中もうちの学校には掃いて捨てるほどいるからな、別に珍しいことじゃないが、その輪の中に自分から入ってまでって奴は稀だよな。取り入って利用しようとしているのかと思えばそうじゃないし、お前は結局のところクソ真面目なんだよ。頭が良くて繊細。こうと決めた自分の役割に殉じようっていう気概があるし、それを実現させるだけの能力がある。……利口なのはどの世界でも重宝するが、倫理のネジが飛んでいないまともな賢明さだけじゃ、この時間に息はできない。お前は少し優しすぎる」


 要するに何が言いたいかっていうと、明日に備えて早く寝ておけってことだ──そんな風に続ける神坂の言葉を、伊奈瀬はもうまともに聞いていない。


 ぜんぶがぜんぶ見透かされていた。そのことが伊奈瀬にとっては衝撃だった。──嬉しかった。絶望的なまでに。いっそ膝を折ってしまいたいほどに。血を分けた家族にさえ欠片ほどの疑問も持たれない伊奈瀬の完璧な装甲を、暮らす教室も違うこの同い年の高校生は、軽く伊奈瀬に触れただけでいとも簡単に剥がしてしまう。


 それだけじゃない。あまつさえ神坂は、伊奈瀬のそれを優しさだと言った。今の伊奈瀬には、それが一番心に効いた。一人ぼっちで死にかけの心には麻薬すぎた。


 初めて理解された。そう思った。あまりに現金で都合がよすぎるけれど、自分という難解なパズルを解いてくれるのはこいつだけだと本気で思った。


「…………何、おまえって占い師かなんかなの」


 それでも、素直になることだけが伊奈瀬にはできなかった。解かれたパズルに価値はない。解かれる前の難易度がどれだけ高かろうと、ひとたび解かれてしまえば☆1も☆5もおんなじだ。ここでわかりやすく喜んだら、底が知れる。伊奈瀬針羅という人間の価値が確定し、味のなくなったガム同然になってしまう。


「俺か? 俺はただの塾帰りの高校生だけど」


 神坂はつらっと嘘を言った。その言葉に明らかに不自然な点があると気づけるだけの知識が伊奈瀬になかったら、相手が嘘をついているとは到底、想像もしなかっただろう。「嘘だ」という結論に辿り着くための全ての思考のルートをそっと手で塞ぐような、あまりにも自然な態度だった。


 伊奈瀬はこの日初めて、自分の兄がその手の教育施設に通っていたことに感謝した。仮に自習室に居残っていたとしても、学生は遅くとも夜の十時には締め出される。伊奈瀬自身が塾にも予備校にも通っていないことを把握した上で神坂が嘘をついていたなら、相当に陰湿だ。高校生が夜遅くに制服で出歩いている理由として、塾というのはおそらく最も適切な回答だ。……今が終電も過ぎているほどのド深夜でなければ、の話だが。


「へぇ、そう。随分時間潰してんね」


 これは明らかな皮肉だったが、神坂はこれといった反応を示さなかった。こいつたぶん塾行ったことねぇな、と伊奈瀬は思った。


「まあ、占い師ではないにしても、観察の賜物って意味ではそう遠くないかもしれないけどな。……さ、もう消えろよ。俺はお前みたいな頭のいい真っ当な人間が、一時の感情で脳を腐らせるところは見たくないんだ」


 神坂は会話の切れ目でここぞとばかりに伊奈瀬から視線を外し、野良猫でも追い払うように手を振った。神坂の投げた視線の先には、路上に転がった売人の肢体があった。呻きもしなければ、ぴくりとも動かない。流石に死んでいるとまでは思わないが、あの一蹴りでこうも的確に人を失神させられるものなのか、伊奈瀬には判然としない。倫理のネジが飛んでいる、の正体を、伊奈瀬は言葉を交わさずしてなんとなく理解する。

 そして失神している大の大人を見下ろして、伊奈瀬はしばし逡巡した。


 思いがけず明日のことを考えた。このまま自分が神坂の言う通りに大人しく去ったとして、そして明日学校に行って神坂に声をかけたとして──神坂は伊奈瀬のことを旧知のように迎え入れてくれるだろうかと。


 そんな想像を巡らせている自分を俯瞰して、伊奈瀬は初めて自分の感情の一端を理解した。自分はこの場を去るのが惜しいのだ。伊奈瀬を正しく、誤謬ごびゅうなく一人の人間として見てくれる唯一の存在が神坂優人で、でも神坂は、どういうわけか恐ろしく目立たない。目立つに足る容貌を持ちながら、周囲の人間にそれを一切悟らせないのだ。それを神坂自身が意識的に、あるいは望んでやっていることだというのは、これまでの彼の態度からも察しがつく。異様に嘘が上手いのも、たぶんその延長線上にある能力なのだろう。神坂優人という人間のことは、たぶん何か霊的な存在として見たほうがいい。伊奈瀬みたいな繊細な一般人には精神衛生的に荷が重い何かだ。殴られそうになっている人間を助ける基準は同じ制服を着ているかどうかで、その「同じ制服を着ている」生徒を助けるためならば、相手の意識を確実に仕留める蹴りを喰らわせてもいい──そういう、倫理観が人間と少しズレた神様的な何か。


 そう考えると、仮に自分が明日学校に来て、E組の教室へ赴き神坂に声をかけたとしても、それは迷惑以外の何物でもないのだと思う。何しろ、伊奈瀬針羅はよく目立つ。目立つ人間と一緒に行動している人間も、目立つ。自殺する前の田町のように、それは目撃証言にまで昇華しかねない。神坂優人は目立つことを望まない。


 神坂とはもうこれっきりなのだと考えると、足が動かなかった。今夜の出来事はほとんど夢に等しい。どんなに日常と地続きになった理想的な体験をしても、この場を去れば二度と同じ状況には至れない。伊奈瀬は、この夢から醒めたくない。


「……神坂、オレ、客じゃない」


 散々頭を悩ませた挙句に出た言葉は、藁よりも頼りなかった。田町やほかの知り合いたちを内心でバカだと嘲る資格はない。これまでの自分からは考えられないほど、頭が働いていなかった。あれだけ浮かべ慣れた笑みが引きつっている。

 こちらを向いた神坂の顔からは、何も読み取れない。ただ無感情に、言葉の続きを待っている。そんな気配だけが漂っていた。


「……あのさ、別にオレ、酒とかタバコの延長でクスリに手ぇ出そうとかそういうつもりじゃなくて、その、だから、」


 冬の外気で凍りついた頭を、喋りながら懸命に回転させる。


 初手で嘘をついたのはどう考えても悪手だった。金も払っていないし接触したのも初めてだから薬物に手を出してこそいないが、客だ。客のつもりでこの売人との会話に応じたし、会話に付き合うことすら面倒になってモノだけ渡せと挑発した。それで結果、殴られそうになったのだ。神坂みたいに自分のことを正当に評価してくれる人間などいると思っていなかったから、そんな無謀ができた。逆に言えば、神坂みたいに自分のことをプラスの感情を持ちながら買ってくれる人は絶滅危惧種並みに稀有で、だからこそ、神坂にだけは失望されたくなかった。要するに、見栄を張ったのだ。自分は潔白な人間なのだと。……あまりにもバカだ。バカすぎる。


 一体自分はどうしてしまったのだろう? 半ば泣きたい気持ちになりながら、それでも伊奈瀬は思考を止めない。少しでも長く、こいつを自分の近くに引き止めていたい。


「──自警団」


 記憶の断片がそのまま口から零れるように出てきて、伊奈瀬自身がハッとした。


 自警団。それは伊奈瀬が売人の男に殴られそうになった原因であり、濡れ衣だ。違法薬物を近辺で売り捌く人間に対抗して一般人が作り上げたという、無力としか思えない組織の存在。

 だが、どんなに無力だろうと相手側に認識されていることは紛れもない事実だ。だからこそ、金持ち私立と名高い才明学園の制服を着ている伊奈瀬が間違われたのだ。自警団が用意した囮なのではないかと。……そして、さっきの神坂の言動からもわかる通り、神坂もまた、今は地面に這いつくばっているこの男が違法薬物を取り扱っていることを知っている。


「……オレは自警団の一員なんだよ、客じゃなくて。知らない? 自警団。最近この辺にいけないもの売って治安悪化させてるやからが増えてきたっていうんでさ、住民が力合わせてどうにか平和な町を取り戻そうとしてんの。で、オレは金持ち学校って言われてる現役の才明生だろ? カモにしやすそうな外見も服装も整ってるからさ、力貸してやってるってわけ。オレも家帰ったところで家族に邪魔者扱いされるしさ〜、ちょうどいいと思っちゃったんだよな、時間潰すのに」


 今度は自分でも焦るぐらいに澱みなく言葉が出てきて、一度呼吸を止めた。これから話をどう展開するべきかを考えると同時に、どうだ、と相手の反応を窺う。


 伊奈瀬は嘘が得意だ。いや、つき慣れている、と言ったほうがいいだろうか。家でも学校でも、決して本心を語らない。本当の姿を見せたりしない。それはまさしく神坂が言った通りの「自分の役割に殉ずる気概」というやつで、伊奈瀬はいつでもクソ真面目に自分を偽っている。

 だから、嘘に本音を混ぜ込むことも当然のように怠らなかった。純度百パーセントの嘘はバレるバレないに関わらず、総じてチープだ。そのことを知っているから、伊奈瀬はいつも嘘の主張に本音を混ぜる。気づいてほしい相手にこそ、気合いの入った嘘をつく。言葉の裏を読んでくれと主張してつく伊奈瀬の嘘は、半分以上が悲鳴と祈りでできている。


 そういうわけで、伊奈瀬は息を潜めて待った。今回のはかなり出来がいい。整合性は十二分に取れていると思う。そういう完成度の意味でも急拵えにしてはかなり力作だったし、神坂がどの部分に食いつくのかは伊奈瀬にも想像ができなくて、反応が楽しみだった。先生からの評価を待つ教え子の気分だ。


 神坂ともっと話していたいと、純粋に思う。自分が喋ったぶんだけ伊奈瀬はここから足を遠ざけなくて済むし、そのために頭を絞ってつく嘘にはこの上なくスリルがある。相手は伊奈瀬の全てを見破るだけの眼を持っていて、伊奈瀬も舌を巻くほどに不自然なく嘘をつく強敵だ。


 過ぎてゆく瞬間瞬間が、痺れるほどの緊張感で満ちている。だが、数秒先の未来に思いを馳せる一瞬一瞬が、甘い幸福の前借りでもあった。絶対に手放したくなくて、伊奈瀬はこの「今」を無限に引き延ばしたがっている。


「──知らなかったな」


 伊奈瀬が待ち望んだ神坂の第一声は、そんなものだった。倒れている売人の傍らにしゃがみ込んだ彼は、売人のジャケットの内側や尻ポケットを漁っていた。取り出した二つ折りの財布を何の躊躇もなく開くその手には、高校のブレザーにも犯罪行為にもよく似合う革製の手袋が、いつの間にか嵌められている。


「知らなかった?」

「ああ、知らなかった」


 神坂がゆっくりとこちらを振り向く。淡い月の光に照らし出された肌は傷ひとつない陶器そのもので、瞳はまるで深い樹液の海だった。呑み込んだ羽虫を数千年にわたって閉じ込め、殺してなお逃がさない。


「まさか、構成員が俺一人しかいないうちの団に、幻の二人目が入っていたとは」


 彼の口許だけが不敵に笑い、伊奈瀬は両手を頭の高さまで挙げた。

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