第2話 もう二度と
「お前、ついに人を殺したらしいじゃないか」
田町と昼食を共にした日の翌日、制服姿で自宅のドアを開けると、聞き慣れた忌々しい声が伊奈瀬の耳に飛び込んできた。貧相な体格と陰気な性格にはどう頑張っても似合わない堂々とした仁王立ちで、兄が玄関マットの上にいた。深夜のこの時間までずっと、弟の帰宅を待ち侘びて同じ姿勢でいたのだろうか。いつもならドアの開け閉めの音がうるさいだの勉強に集中させろだの喚きながら自分の部屋から出てくるのに、その大事なお勉強とやらは放り出していいのかと疑問に思う。
「こんな時間まで帰り待っててくれるとか、マジでオレのこと大好きじゃん。新婚かよ」
伊奈瀬は嫌悪のあまり強張ったため息と一緒に声を出した。そして、にぱっと人好きのするいつもの笑みを浮かべ、段差の上の兄を見上げる。
「飯は外で済ませてきたから答えはお風呂な。……あ、もしかして新妻じゃなくて忠犬のつもりだった? 悪い悪い。長い間凍えさせてごめんね〜。……忠誠ついでにそのまま死んでくんね?」
直後、手を添えていなかった家のドアが背後で音を立てて閉まった。ドアの音云々で文句を言われる気配はない。
兄はそれきり口を開こうともせず、分厚い眼鏡の奥から弟を睨み続けるばかりだった。道を空けるそぶりも見せないので、伊奈瀬はその場で靴を脱ぎ捨て、強引に前に進み出る。
呼吸のために息を吸った瞬間、喉の奥が震えた。恐れではない。憎悪だ。突き詰めればそれは過剰な心理的ストレスから来る筋肉の緊張なのだろうが、この兄の前でひとたびそれを見せてしまえば、その反応は一瞬で不安や強がりといった弱い人間の感情へと変換されてしまう。相手の誤った解釈一つで劣勢に立たされる事実が、むしろ伊奈瀬には恐ろしい。
だから伊奈瀬は、生理的嫌悪とその表出を止めるのではなく、上塗りして誤魔化した。震える喉で大きく息を吸い直し、は、と呼気を歪ませる。
「……あのさ、人に濡れ衣着せんの、マジでやめてくんない? どうせニュースとかで知ったんだろ、うちの学校で死人出たって。報道ちゃんと見なかった? 自殺って言ってんだろ、ジ・サ・ツ。その程度の読み取り能力で医学部目指そうとか、マジで洒落になんねぇんだけど」
「確かに状況から自殺とみられるとは言ってたよ。でもなあ、自殺だからって加害者がいないとは限らないだろ。……俺の言ってる意味、聡明なお前ならわかるはずだよな」
「……なに? オレがいじめてたって言いたいわけ? あんたの願望だろ、全部。人の学校生活なんも知らないくせに、自分の心証だけで犯人扱いすんなよ。普通に名誉毀損だからな」
「普段の行いを顧みてみたらどうなんだ?」
……頭にきた。感情をコントロールするハンドルが見つからないまま、今の伊奈瀬が必要としていない無数の理屈が、血液と一緒に同じところをぐるぐると廻っている。──何が目的でこんな夜遅くまで家を空けてやってると思ってんだ。お前がいつもいつも突っかかってくるからだろ。お前が医者目指したいって言ったんだろ。だからこっちは「目障りな弟」の存在を視界から排除してやってんだ。何が普段の行いだ。お前が医者やりたいなんて言い出さなきゃおれが継いでやって終わりだったのに。低能のくせに欲なんか出すんじゃねぇよ。
クソが。
「第一、接点なんかねーんだよ、その死んだ奴とは。ただ学校と学年が一緒だったってだけ。クラスが違うんだから話す機会なんかなくて当然だろ。学科だって違う」
「でも、被害者が亡くなった日、お前は被害者と一緒に昼食を摂った」
伊奈瀬は自分の首が変な角度に捻じ曲がっているような感覚を覚えた。錆びついたロボットのように、骨の継ぎ目がギシギシと鳴っている。
「は? なんで知ってんの? キモ。もしかして盗聴器とか仕掛けてる?」
「予備校にも人間関係ぐらいあるんだよ。お前と同じ学校に通ってる現役生だって山ほどいる。その中の知り合いから今日訊かれたんだ、弟は大丈夫なのかってな。何の心配かはわかるだろ、逮捕される心配だよ。伊奈瀬針羅は一年のくせによく目立つ──普段の行いが悪いから、被害者と一緒にいたところも大勢の人に見られることになるんだ。もう少しお前が慎ましく暮らしてさえいれば──」
「うるせぇなあ兄貴はマジでさあ……!」
頭を掻きむしりたくなる。どうして自分はこんなところに生まれてきたんだろう。なんで自分はこんな風に生まれてきてしまった? 長男がいるならこれ以上増やす必要なんかなかったじゃないか。後から生まれてきた奴のほうが優秀なんてのはよくある話だ。継がせるのが前提なら兄ひとりを大事にしてやればいい。なんでうちの親はそれができない? 優秀な次男が生まれてしまったら、長男が家族の中でどんな存在にまで落ちぶれてしまうか彼らは考えなかったのだろうか? ……医者のくせに。命を、人を守る存在のくせに。
「…………つーかさ、その呼び方やめろよ。被害者って」
じゃあおれが自分で死を選んだら兄貴はおれを被害者って呼んでくれんのか? 伊奈瀬は血を分けた兄に問い質したくて仕方がない。自分や親が加害者だったって認めてくれんのかよ──
「頼むからオレのことなんかほっといてくれよ。教えてくれたら兄貴の気に障んないように振る舞うからさ。まずどうすればいい? 髪黒に戻して? 目立つって評判の顔に傷でもつけてこようか? ……ああ、違うよな、兄貴はオレの優秀なところが一番気に喰わないんだもんな。今からなんか悪いクスリでも買ってこようか。こんな時間だし、適当に人いないとこ歩いてれば怪しい奴なんかいくらでも声かけてくるだろ。……オレが中毒者にでもなりゃ満足だろ? 頭は使い物になんなくなるし、人としての尊厳だって手放せるかもしれないし──」
「そうやって被害者ぶるのも上手いよな、生まれながらの強者ってやつは」
「………………は?」
疲弊しきった声がどこからか聞こえた。自分の声だった。
伊奈瀬針羅という人間は、どうやら落ちぶれることすら許されていないらしい。上にいるのもダメ、下に行くのもダメ、現在地だってもちろんダメ。安息は一体どこにある?
「……は、そう」
失意の只中にいながらもなぜか口角が上がっている今の顔も、暗闇に俯いている様子も、なんなら失望とも憤怒ともつかない激情に震えているこの声も、兄が精一杯取り繕ったそれより画になるのだろうなと伊奈瀬は思った。神坂優人ほどではないにしろ、伊奈瀬針羅は見栄えがいい。自分の見せ方も声の出し方も、その主義主張を形成する語彙だって──伊奈瀬は人生の中で自然に学んだのだ。生活の中の学習のみで自分だけのオートクチュールを作り上げる才能が、伊奈瀬にはあった。伊奈瀬針羅は、実兄が嫌う通りに聡明だ。それは事実で、伊奈瀬の意思では完全に手放すことのできない社会適性だ。
だからせめて、伊奈瀬はその体よく整った顔を上げないまま言った。
「じゃあこれだけ言ってくんない? 『死んでくれ』って」
「聞くわけないだろ、お前の言うことなんか」
兄はすげなかった。
「お前の考えなんかお見通しなんだよ。どうせ録音でもしてるんだよな? それを上手く編集して、俺を加害者に仕立て上げるつもりなんだよな? さも俺がお前に一方的な攻撃を加えたように見せかけて、俺を殺人者にして社会的に終わらせようとしてる。お前みたいな表面ばかりの人間が考えそうなことだよ」
すげない兄の最後の一撃は、確かに兄が普段使っているものよりもずっと穏和な口調で構成されていた。どこを切り取っても自殺の引き金とは断言できないような。
「…………あ、ほんと? バレちゃったね」
伊奈瀬は制服のポケットから携帯を取り出して、入れてもいない動画の録画ボタンを再度押すような動きをした。兄が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「お前と心中なんか死んでも御免だ」
痛覚が焼き切れたらしく、もう何も感じなかった。思考に澱みはないのに頭が重く、自分が踵を返して家のドアを押し開けていることに、三秒ほど経ってから気づく。
「お前に求めることは一つだけだよ、針羅」
伊奈瀬の背中に兄が言う。
「もう二度と生まれてくるな」
伊奈瀬は一度だけ振り返って、言った。
「オレも今のあんたと同じ気持ちだよ、
ドアが閉まって、暗闇に一人放り出される。
背後で鍵のかかる音がする。
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