神坂優人の隠しごと
蓼川藍
神坂優人の隠しごと
第1話 あいつ誰?
「
四時間目の授業が終わり、昼休みに入った直後のことだった。教科書も筆記用具も片付けず隅に寄せただけで机に突っ伏していた伊奈瀬
「だれ〜?」
スマホに届いたメッセージに既読をつけるような感覚で返事をすると、クラスメイトは「えーっと……」と言葉を濁した。いつも伊奈瀬とつるんでいる他クラスの連中だったら、即座に人目も憚らぬデカい声で自己主張を始めるところだから、そういった種類の客でないことは振り向くまでもなくわかる。と同時に、このクラスメイトがすぐに名前を出せないから学校の有名人タイプでもないのだろう。そこまで予想をつけたところで、伊奈瀬は後方を振り向いた。
「ああ、
伊奈瀬が呟くように正解を出すと、廊下から顔を覗かせた田町がほっとしたように表情を緩めた。
「約束、守りに来たんだ」
伊奈瀬が席を立って廊下に出てくると、田町はゆったりとした口調で言った。
「この前のお礼。昼食、奢るよ」
つい昨日の話だ。いつも通り、業間休み終了ギリギリまで廊下で他クラスの知り合いと駄弁っていると、伊奈瀬の教室に入りたそうにしている一人の男子生徒を見つけた。柔道部員のように体格がよく、実際伊奈瀬は柔道部員かと思ったのだが、教室の扉のすぐ近くに座っている柔道部所属の生徒に声をかけるでもなく、ただひたすらにおろおろしていた。ただでさえ時間の少ない業間休みに他クラスに足を運ぶ用事なんて忘れた教科書や何らかの道具の貸し借りぐらいしかないだろうと踏み、だったら誰か知り合いに頼んで借りるだろうと興味の範疇からも視界からも外してしばらく喋っていた。しかし、時計の長針が文字盤の数字にかかる角度になってもまだ、その生徒はそこにいた。だから見かねて声をかけた。
「うちのクラスの誰かに用? いるなら呼ぶけど」
その一度の声かけで、相手は二度狼狽えた。一度は伊奈瀬の姿を見た瞬間。おおかた自分が長めの髪を茶色く染めた、明らかな不良生徒だからだろう。よくあることだ。二度目は返事を返す瞬間、その長い逡巡の間だ。
「あ……ええっと、次のうちのクラスの授業、生物なんだけど、実は資料集……忘れてきちゃって」
「資料集?」
なんて忘れてきたところで滅多に使わないし、使うとなったら隣の席の誰かに見せてもらえばいい。それを一度持参しなかった程度では、大幅な減点対象にもならないだろう。
「てか、それ置き勉してんじゃね?」
伊奈瀬の学校では、基本置き勉は厳禁だ。だが、使用頻度が少なく、
「うん……なんだけど、ちょっと勉強のために持って帰っちゃって」
「へえ……」
真面目なことだ。進学科に所属している伊奈瀬でさえほとんど持ち帰らないのに、ろくに面識もないからこの生徒は普通科かスポーツ科のどちらかだろう。殊勝な心がけの連続に、伊奈瀬は既に辟易しつつあった。
「で、誰から借りんの?」
伊奈瀬は教室の中を見渡しながら言った。
いくら待っても返事がなかった。目を離した隙に逃げたのかと思った。
伊奈瀬が振り向くと、相手は気まずそうに視線を泳がせながら沈黙していた。
「その……実は、知り合いが全然いなくて、」
「は?」うちのクラスに? と訊きかけ、それでここに来るわけがないので直前で質問を変えた。「どこのクラスにも?」
「どこのクラスにも……」
伊奈瀬は呆気に取られ、そして納得もした。普通、忘れた教材を借りるだけなら科を跨がなくていい。同じ科の、別のクラスに頼めばいいのだ。この学校は科によって教室の数が違うが、最低でも二クラスはある。だが自分の教室の外に知り合いがほとんどいないのであれば、「ほぼ初対面でも持ち物を貸してくれる可能性の高いクラス」に流れるしかない。となれば、勤勉な生徒が集まる進学科が真っ先に候補として挙がるのは必然だ。
伊奈瀬は大きくため息をつき、教室に入った。「あっ」と呼び止めようとする男子生徒を無視して自分のロッカーから資料集を取り出し、相手に突き出した。
「謝礼は菓子パン一個でいいよ。そんじゃ」
「あ……」
ありがとう、の言葉を聞く前に伊奈瀬は踵を返して教室に戻った。そいつは次の授業が終わった直後にしっかり教材を返しに来て、その際に所属と名前を知った。名前は田町
「伊奈瀬くんみたいな友達がたくさんいる人気者と一緒に歩けるなんて、逆に悪いぐらいだよ」
社交辞令の礼を言って廊下を歩き出した伊奈瀬に追随して、田町はそんなことを言った。伊奈瀬は内心で苦笑する。
田町は、言葉を選ばず言ってしまえば愚鈍なのだと思う。教材を借りる友達のあてもなしに隣のクラスを訪ねるのもそうだし、資料集が手元にないぐらいで簡単に焦ってしまうのもそうだ。その場でちょっと謝って隣に見せてもらえば済むことを、必要以上に大ごとだと考える。社交辞令とも気づかずに伊奈瀬の感謝を本気の感謝だと誤解する上、「謝礼は菓子パン一個でいい」という全くその気のない冗談を信じて本当に奢りに来てしまうのだから目も当てられない。あんなのは「金取んのかよ!」というツッコミを引き出すための前振りで、コミュニケーションを円滑にするためだけの中身のない言葉だ。それを本気にされると、うざい。
かといって、別に普段つるんでいる他クラスの不良連中が特別面白いわけでもない。口を開けば他人を落とすか自分を上げるかの実質一種類の話題だし、よくよく聞けば会話はキャッチボールになっていない。自分の言いたいことをひたすら高速で言い合っているだけだから、相槌を打つのも段々面倒になってくる。そのくせ雑な相槌には目敏いから気が抜けず、休み時間が終わればどっと疲れと虚無感が押し寄せてくることも多々ある。
つまんねぇな、とふと感じ入るように思った。そして他人を批評するだけしておいて「つまんねぇな」という感想しか抱けない自分の傲慢さにもうんざりする。
楽しいことが欲しい。自分の想像を軽く超え、無心で追いかけさせてくれる何か。幼い頃の純粋な自分を取り戻させ、それに触れている間だけでもいいから現実を忘れさせてくれるような何か。
「それにしても、伊奈瀬くんがこんなにいい人だったなんて知らなかったよ。こんな風にお近づきになれることなんか一生ないと思ってたし、忘れ物にも感謝しなくちゃ」
隣の田町はまだ何か話している。伊奈瀬はそれにほぼ無意識で何かしらの返答を返していた。
そんな時だった。
間違い探しの最後の一個を、ふいに見つけた。そんな呆気なく実感の湧かない衝撃が、伊奈瀬の視線をスローモーションで絡め取った。
「──なあ、あいつ誰」
伊奈瀬は足を止めて田町に訊いた。教室の名前を示すプレートには「1−E」と書かれていた。
伊奈瀬が教室の扉に嵌められた小窓越しに指さしたのは、一人の男子生徒だった。
最初はやたら流麗な箸使いに視線が行った。目立つような外見ではなく、決して華やかな雰囲気を纏っているわけでもない。だが、直感的に美しいと感じ、興味を引かれた。
何が、と問われても明言するのは難しい。どこか翳を感じさせる隙のない目元だろうか。すっと背筋が伸びているのに四角四面な優等生のチープさは感じない、自然で無駄のない佇まいだろうか。イケメン、美男、いずれの表現も確かに当てはまるが、それらのレッテルを貼ったところで、彼の表面にその糊は合わずにすぐ剥がれ落ちてしまうだろうと何となく思った。──空気。そう、空気に近い。誰のことも頼らず、しかし誰のことも拒絶しない。あるものをただ粛々と受け止め、何にも左右されず、ただ彼は彼としてそこにある。そういう感じ。
果たして、E組にあんな奴がいただろうか。他学科だから言い当てる自信は百パーセントではないが、伊奈瀬は人の顔と名前をすぐに覚えるほうだ。交友関係が他学科にまで及んでいるゆえゴシップと関連づけて人を記憶することも多く、学年全体の顔か名前のどちらかは把握しているつもりだ。よほど影が薄くない限り、全く知らないなんてことにはならない。まして、あの非の打ち所がない顔立ちだ。廊下ですれ違っただけでも強烈な印象を刻まれて然るべきだろう。
「転校生とか?」
そうでなければおかしい、と思いながら続けた。だが、田町は首を横に振った。
「転校生なんて、高校にもなってそうそう来ないよ」
「なら、名前は?」
伊奈瀬は苛立ちを押し殺しながら訊いた。田町は「えぇーっと」と困ったように唸った。は? と思った。
他学科の自分ならまだしも同じクラスのお前が?
それに、どんなに人を覚えるのが苦手だったとしてもあの生徒は異質すぎる。真っ先に目に入っていて当然だし、女子が目をつけないわけがない。自己主張の光こそないが、磨けば光るの域はとうに超えたレベルの容貌だ。
途端に寒気がした。幽霊でも見た気分だった。
「──ああ、そうそう。
思い出したように田町が言った。丁寧に漢字まで説明してくれるから、本当に知り合ったばかりでも田町が人の名前を覚えるのが極端に苦手なわけでもないのだろうと思った。
「神坂……」
似合うような気もしたし、「イケメン」のレッテルと同じですぐに剥がれ落ちてしまいそうにも感じた。かと言って、じゃあどんな名前が似合うのかと考えても、何もしっくり来るものはない。返答に悩んだ末、「意外と普通の名前だ」と答えた。まるで的外れだと自分でも思った。光り輝くオンリーワンの名前だからスターダムが約束されるわけではないし、平凡な名前を持った成功者だって山ほどいる。
「そりゃあ、普通の人だから」
けれど田町は、伊奈瀬の思考ではなくうわべの返事に頷いた。一緒にされたようで嫌だった。
「そんなことより、早く行こうよ。選べるもの少なくなっちゃうし」
田町に促され、伊奈瀬は扉の前をゆっくりと離れる。神坂優人はこちらの視線になど全く気づいていない様子で、一人で弁当を食べていた。
「……なあ、『そんなこと』だと思う?」
E組の教室を離れて食堂へ続く階段を降りている途中、伊奈瀬は言った。それだけでは伝わらなかった様子で田町が首をかしげるので、「神坂君のこと」と付け足す。
「えぇ、だって……ねえ。伊奈瀬くんみたいなトップの人とは、何もかもが違うでしょ? 伊奈瀬くんは華やかだし、コミュ力高くて友達も多いし、頭も良くて進学科にいるし……」
「でもその進学科の中じゃ、オレはかなり底辺よ?」
伊奈瀬は皮肉げに笑みを浮かべた。
「いやいや、そんな。僕たち普通科の人からしたら、進学科の人なんてみんな天才みたいなものだから。全然違うよ。それに伊奈瀬くんは、まだ勉強に本腰入れてるような感じじゃないんでしょ? まだ一年生だし。そういう人に限って、受験期になったら急に伸び出したりするんだから」
本気か安請け合いかは知らないが、田町は言った。それからこう続ける。
「でも、伊奈瀬くんってやっぱり優しいよね。普通科の地味な下々の人のことも、そうやって気にかけてあげるんだもん。尊敬しちゃうなあ」
それで伊奈瀬は、自分の中の紐のようなものがぷっつりと途切れるのを感じた。別にキレて殴りかかるわけじゃない。ただ静かに、見限るのだ。人のことを見限る。それは伊奈瀬にとっては割と日常茶飯事で、そういった相手に対して伊奈瀬が取る態度のほうが、よっぽど今の伊奈瀬の「顔」なのだった。
「……まあね? オレってカーストのトップ自覚してるからさ〜、できるだけいろんな人のこと知っておきたいんだよね〜。だから知らない人見かけて、ついね」
オレもまだまだ勉強不足だったわ、と戯けた台詞を吐く伊奈瀬の横で、田町はやはり嬉しそうな顔で追従の言葉を紡ぎ続けた。そんな田町に教材を貸した昨日の自分を、伊奈瀬は過去に遡ってでも嬲り殺しにしてやりたくなった。
田町を見限ってからの昼食は、当然のように不味かった。親しい人、特別な人と食べる普通の食事が最高の食卓たり得るなら、どんなに高級な食材を口にしていようと、伊奈瀬が咀嚼しているそれは常にドブ川の味がする。伊奈瀬は久しく、無味より美味な食事を摂っていない。
吐くほど不味い昼食の時間を強要されて、伊奈瀬は縋るように神坂優人のことを考えた。
あいつだったらおれのことを正当に見下してくれるかもしれない──そんな、ありもしない妄想で味と時間を補う。そして、伊奈瀬自身が田町のように、手も届かないはずの他人に理想のラベルをベタベタと貼り付けていることに気がついて、もう死んだほうがマシだなと思った。
その日の夜に死んだのは、伊奈瀬ではなく田町のほうだった。
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