雨降りジョニー

lager

第1話

 思えばこの町に来るときは、いつも雨が降っていた。


 ガキの頃、父親が恩着せがましい顔でパンダを見せてやる、などというものだから、頭がクラクラするような満員電車にも我慢してついていってみれば、駅を降りた頃には土砂降りの大雨で、家族全員不機嫌顔でさして興味もない美術館を見て回ったことがあった。


 人のごった返す商店街の奥の奥で、黒人だかアジア人だか分からない筋骨隆々の男に捕まってクソださいTシャツを無理やり買わされた時は、靴底まで滲みる生暖かい雨が俺の足取りをいっそう重くしてくれたし、初めて入ったバイトの給料を何に使うかと悩む俺を見た先輩に連れていかれた居酒屋で悪酔いし、路上でゲロ吐き散らかした時も、ざあざあと降る雨が俺の晩飯と胃液を洗い流していた。


 別に、特別雨が多い地域というわけではない。むしろ統計だけみれば晴れの日の方が圧倒的に多い。だが、というべきか、つまり、というべきか、そんな統計を真面目に調べてしまう程度には、俺にとってこの町は、濡れそぼったアスファルトと水煙が共にあった。

 逆に、俺がいわゆる雨男だとかいうこともない。少なくとも、旅行に行くだとか、大事な用事の日にいつも雨にあたるような覚えもなかった。

 ただ、俺がこの町に来るときだけ、雨が降る。

 本当に、全くの、ただの偶然――。


「そりゃあ、オミチ。お前、呪われてんだよ」


 しとしとと、雨が降っている。

 風はほとんどなく、水音だけが古ぼけたコルトの窓ガラスをか細く叩き、視界を飴細工のように歪ませている。

 エンジンはかかっていない。梅雨入り前の今時分、晴れれば蒸し暑いがこの天気ならクーラーも必要ない。

 大通りから一本入った、人通りもない路地裏だった。空と、ビルと、アスファルトと、コルト、全てが灰色に濡れていた。俺の頭の中まで、その灰色が染みていくようだった。


「ハヤセさん、そういうの、信じてるんですか」

「俺は信じちゃいないが、信じてる奴らはいるだろ。じゃあ、あるんじゃねえのか」

「信じてるじゃないですか」

「俺は信じてねえって」


 ああ、そうだ。

 この人とこんなよく分からない問答を交わしたのも、最初はこんな雨の日だった。

 場所はやはり、この町だ。


 夜――。


『お前よ、オミチ。花札やったことあるか』

『はい?』


 あの時は何に乗っていたんだったか。とにかくガワだけはピカピカにしていたコンパクトカーで駅周辺をだらだらと流しながら、初めての仕事に緊張する俺に、ハヤセと呼ばれる男は、聞き取りづらい粘着質な声で話しかけてきた。


『だから、花札だよ、花札』

『いえ、全く』

『なんでだよ、クソが』


 クソってことねえだろ、とは思ったが、その時の俺は、隣に座るこの男のことを何一つ知ってはいなかった。口答えなどしていい相手なのかどうか、その風体からは知る由もなかった。

 擦り切れた黒のジャンパーと、寝巻きのようなスウェット。細いくせに毛深い腕。曲がった唇。ぎょろりとした目。

 歳上なのは間違いない。だが、では何歳かと聞かれるとどうにも判じにくい。


『まあ、いいや。カス札っつうんがあるんだよ、カス札』

『将棋の歩みたいなもんすか』

『歩はちゃんと仕事するだろうが。違えよ。カス札っつうのはマジでなんの役にも立たねえカスなんだよ。だが、カスでも十枚集まりゃ一つの役になるんだな、これが』

『ええっと……』

『だがよ、けっきょく普通の札で役を組まれちゃ負けちまうわけだ』


 いや、わかんねえよ。

 役に立つって慣用句と役になるって用語をごっちゃにするな。っていうか、花札知らないって言ったんだから諦めろよ。


『つまりな、世の中、カスでも集まりゃ何かしらのことはできる。けど、どうしたって普通の連中には勝てねえっつうことなんだわな』

『まあ、そうなんでしょうね』

『お、釣れたぞ』

『え――』


 急ブレーキ。

 耳障りな高音。

 一瞬、体にシートベルトが食い込み、直後に背中への重い衝撃。

 束の間消え失せていた雨音が、耳に戻ってくる。

 バックミラーを見れば、呆気に取られた男の顔が、暗闇に濡れそぼる二枚のガラス越しに歪んで見えた。

 ワイパーが、虚しく動いていた。


『おう、てめえ降りろや!』


 まあ、要は『そういう』仕事だった。


 俺は先程までとは別人のように低くドスを効かせて脅しをかけるハヤセの斜め後ろで、彼より頭一つ高い図体を活かして睨みを利かせているだけでよかった。セリフ回しを覚えようかとも思ったが、正直ハヤセが何を言っているのかよく聞き取れなかったので、後で別の人に聞こうと思った。


 警察など呼ばれてはまずい。なにせこの車は改造されてブレーキランプが点かなくなっている。だが、相手だって人を呼ばれて自分がゲイ風俗に行っていたことなどバラされたくないだろう。見たところ、普通の社会人のように見えた。


 なるほど、普通の人が仲間を作れば、カスがよってたかったところで勝てはしない。そういう法律ルールだ。

 だけど、相手が一人なら、カスが徒党を組めば食い物にできる。そういう仕組みルールなのだ。


『馬鹿。そういう話じゃねえよ。十人がかりでかかってきたカス共をヒーローがたった二人で蹴散らすのがカッコいいっつうことだろうが』

『絶対そんなこと言ってねえだろ』

『ああ?』


 その後も、何度かハヤセと仕事を共にした。

『あのオッサンと仕事してるとよ、イライラすんだよな』とは、他の同僚の言。

 まあ、気持ちは分かるが、我慢できないほどでもない。その同僚がヘマして姿を消したり、上役の一人がパクられたり、新人の世話を焼いてやったりしているうちに、俺はもうこの世界に首までどっぷり浸かっていた。なんとか現場仕事から上がれた後は、ハヤセと会うこともなかった。

 それなのに――。


「なにやってんですか、ハヤセさん」


 今、俺は運転席に座るハヤセのこめかみに、拳銃を突きつけていた。

 アガリを盗んだのだという。

 上前はねた、くらいのものなら、精々若い連中に袋にされるくらいで済んだろうに、任されていた仕事のアガリを、丸々持って逃げたそうだ。

 蛇みたいな目をした上役からそれを聞かされたときは、何かの冗談かと思った。ハヤセが一体何年この仕事を続けているのか知らないが、不真面目ではあっても不義理を働いたところは見たことがない。そうでなければ、何年続けているのか分からないほどこの仕事を続けられるはずもない。


「オミチよう。お前は光札なんだよ」

「はい?」


 ハヤセがあまりにも自然体に会話をしようとするものだから、俺は一瞬、手の中の拳銃を玩具と取り違えていたのかと思い、不安に駆られた。

 

「お前、前にも言ってたろ、この町にくるといっつも雨が降るって。花札にはな、柳に小野道風って札があんだよ」

「なんの話だよ」

「うけるだろ。他は松に鶴、とか梅に鶯、とかなのによ、一枚だけ小野道風、って。とにかくまあ、その男が傘差してるもんだから、雨札なんて名前もついてんだわな」


 偶然にも、俺が先ほど思い出していた、初めて一緒に仕事をしたときの会話が連想され、狼狽した。

 夜に降る雨。一人の不幸なゲイの人生を狂わせた――。


「ほら、な」

「いや、分かんねえよ。なんだよ」

「馬鹿。名前だよ、オミチ。小野道風とオミチ。似てるだろうが」

「こじつけが過ぎるだろ」


 やはりこの人の言っていることは、よく分からない。今の状況を理解していないのか?

 それとも、なにかの時間稼ぎだろうか。


「なあ、ハヤセさん。頼むよ。金の場所教えてくれるだけでいいんだ。どの道あんた、もう助からない。楽させてくれよ」


 俺の頭の中で、いったいどんな尋問ならこの人は音を上げるだろうかと、あれこれ想像が膨らむ。それらどのパターンでも、一瞬であらいざらい白状する情けないジジイの姿が思い浮かび、俺はさらに暗い気持ちになった。


「S建設の裏口座だよ」

「はあ?」


 早い。想像したよりも更に早くハヤセは白状した。

 S建設といえば、俺たちのグループが資金洗浄するときに使うペーパーカンパニーの一つだ。だが、そんな場所に隠してどうなる? ある程度の権限のある奴ならすぐに引き出せちまう。


「お前なら引き出せるだろ、オミチ」

「……」


 そうだ。俺なら引き出せる。

 この人はいったいなにがしたいんだ?


「オミチ。いいか、明日には金の在りかは全員に知れ渡る。経理の奴らがブチ切れられるだろうがな。だから、その前にお前が金を抜くんだ」

「なに言ってんだよ、ハヤセさん」

「だからよ、お前は光札なんだよ。なあ、お前と初めて仕事した夜によ、獲物にした男がいたろう」

「おい。分かるように話せよ。さっぱり話が見えねえ」


 いつしかハヤセの口調が逸っていた。

 話せば話すほど聞き取りづらくなる粘着質な喋り方で、熱に浮かされたようにハヤセは続けた。


「いいから聞けよ。あの男にはなあ、カミさんと生まれたばっかのガキがいたんだよ。だが、あの夜の一件で借金こさえて、ガキごとカミさんに逃げられちまった」

「何年前の話してんだよ」

「それが今年、そのガキがなんとかいう目の病気で入院しちまった。よく分かんねえが難しい病気で、手術すんのにアホみてえな金がかかるらしい。男は男で、借金返すのが精一杯で首も回らねえ」

「なんだそりゃ。おい、あんたまさか――」

「助けろよ、オミチ」

 

 俺は天を仰いだ。仰いだところで古ぼけたコルトの灰色の天井が見えるだけだった。拳銃の口がぶれ、慌てて握り直す。

 冗談じゃない。一体なんの映画に影響受けたんだ、この人は。


「なあ、世の中カスばっかりだ。いてもいなくても何の役にも立ちゃしねえ。それどころか人に不幸振りまいて金儲けて、それが立派な仕事だと思ってやあがる。なあ、オミチ。俺たちはカスの中のカスだ。けどよ、お前は光札なんだよ。見ろ、俺みてえな人間が大金抱えて手術代出しましょうか、なんて言ったところで誰も信用しねえ。だから、お前がやるんだよ、オミチ。俺と二人で役を組むんだ。カスが何人束になろうが、俺とお前なら蹴散らせるんだぜ」

「なあ、ハヤセさん」

「おう」

「光札とカス一枚で組める役なんてねえだろ」

「お――」

「ホラ吹きも大概にしとけよ。あんときの男なら借金返し終わって七丁目のゲイバーで内勤やってるっての」

「お前、花札知らねえって言ってたじゃねえか……」


 覚えたんだよ、あの後で。ていうか、そのホラと花札関係ねえだろ。

 大体、そんな安っぽい人情話で揺れる心がまだあったらこんなトコまで上り詰めちゃいないっての。


「分かった、しょうがねえな。ホントのことを言う。実はな――」


 そこから先はもう右から左だった。

 聞き取りづらい喋り方でもっともらしいストーリーを語って聞かせるハヤセの声が灰色に染まり、俺の耳を通り抜けていった。

 そうだった。この人はこういう人だった。

 意味深な台詞を思いつくのは得意なのに、なにも中身が伴わない。真剣賭け将棋でボロ負けて俺に泣きついてきたときも、随分お涙頂戴な話を聞かされたものだった。


 ああ、そうだ。

 あの時も――。

 

『オミチ、てめえ勝てるなら勝てるって言えよ。こっちはてめえを囮にして逃げるつもりだったっつうのによ』


 雨が降っている。


 気に入らない上役の洗口液にションベン入れたのがばれてハヤセと二人で必死こいて逃げ回った日も。

 馴染みのソープ嬢が引退するんだとか言って飲んだくれたハヤセに付き合って安酒をかっくらった夜も。

 仕事と仕事の合間の時間を潰すのに、なにをトチ狂ったか男二人動物園のベンチで駄弁っていた春も。


 この町に来ると、いつも雨が降っていた。


「わかった。わかったよ、ちくしょう。おうオミチ。俺と賭けをしやがれ。いいか、このクソ雨男。俺がこれからてるてる坊主を作る。そんでこの雨が止んだら俺を見逃せ。な。いいだろ。おい」


 いいわけねえだろ。

 なんで俺があんたを見逃す選択肢があるんだよ。俺の立場も考えろっての。大体、結局あんたなんで金盗んだりなんかしたんだよ。ほらできたぞ、じゃねえよ、なんだその気色悪いゴミ。洟かんだティッシュ使うんじゃねえよ。そんなんで雨なんかやむわけねえだろ。俺が何遍この町で雨に降られてきたと思ってるんだよ。


 しとしとと、雨が降っている。

 アスファルトを打ち、ビルの肌を伝い、くたびれた雑草を洗い、マンホールへと流れていく。

 コルトの中に閉じこもった俺の背広も、俄かに焦りを見せたハヤセの顔も、掌の拳銃も、全てを灰色に染める雨。

 粘着質なハヤセの声を聞き流しながら、俺は歪んだ窓ガラスの向こうに、雲の切れ間を探していた。

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