第2話

 しあわせな、夢を見ていた。そんな気がした。

 秋のやさしい光が部屋を包んでいる、日曜日。部活も定休日で、家にいてもやることはない。少し前だったら頻繁に外に出ていたけれど、もうその機会もない。

 昨日の夜、厳密には今日、日付が変わったあたり。私の誕生日。

 私は、一人になった。

 簡単にまとめると、それだけ。もしかしたら悪い夢だったんじゃないかとも思うけれど、やり取りを見る限り現実らしい。

 恋人と別れた、私は一人になった、空しくなって、つめたくなった。並べれば並べるほど一人でいることに耐えられなくなる単語が私を責めてくる。どうしようもなかった。ぜんぶ、どうしようもないじゃんか。

 ベッドの上で天井を見つめながら考える。どうしようもないことを考える。

 ああ、おわっちゃったな。

 私のことが好きかどうかわからなくなったんだったら、もうどうしようもない。引き留めることもできないし、いつもみたいにあっけにとられて、はいおしまい。ラブコメみたいな感動シーンじゃない。映画のラストシーンのように、二人ファミレスで泣きながら会話したわけでもない。別れることを躊躇したようなシーンもなかった。ただ、淡々と文章の上で相手が固めた決意を私に告げてきた。

 本当はわかっていた。別れるんだろうなーって、知っていた。けれど、なんだかやっぱり、目の前に来ると、どうしても動けなくなった。わからなくなった。

「さむ」

 今日は冷え込むらしいと朝のニュースで言っていた。秋というよりもう冬に近いのだろう。去年買った春秋用のコートはもうお役御免だ。

 意味なくスマホに手を伸ばす。黒い画面にへんな顔の私が映りこむ。ひどい顔をしていた。目つきが悪いし、なにより気の抜けた表情をしている。魂が抜かれたといっても過言じゃない。ぶさいく。

 表示されたロック画面はいつかだったか、デートで食べたフルーツのたっぷり乗った宝石タルトだ。二つ分のそのタルトは今でも当時の瑞々しさを保っている。

 自然と思い起こされる出来事に蓋をするようにロックを解除する。抜けた先には昨日のやり取り。やり取りが終わったら、何もかも面倒になってそのまま寝たんだった。

 けいちゃん、しあわせにできなくてごめんね、いままでありがとう。あと、誕生日おめでとう。

 最後に送られてきた文言。なんだそれって笑いたくなる言葉。なんだよ、それ。

 なんだよ。

 付き合うって残酷だ。その先には別れるか、結婚するか。そのどちらかしかない。名前が付くものしかない。ずっと一緒にいるとか、そんな名前のない何かが用意されていない。それ以外にはなれない。それって、あまりに、ひどい。

 また面倒になって、スマホを放り投げる。なにもしていないのに疲れた。なにもしていないからこそ疲れたのかもしれない。

 ぐっとお腹に力を入れて、起き上がる。スマホなんか置いて、どこか行こう。考える時間を作らなかったらいいんだ。

 もう出番がなくなる春秋物のコートを羽織って、あまり使っていない音楽プレーヤーをポケットに突っ込み、運動靴で外に出る。玄関を開けた瞬間、風が頬を撫でてきた。

 どこへ行こう。なにも考えたくないな。

 とりあえず、体を動かしたかった。

 運動靴だけれど、スキニーパンツだから走るわけにもいかない。なんだか動きにくいし。ただ、無心で歩き続ける。

 昔から散歩はよくする方だった。なにも考えなくていいから、好きだった。

 たしか、あの人もそうだった。デートといいつつ、二人で歩くだけ歩いたり、へんなことをした。

 金木犀の花の下をくぐる。懐かしい香りがする。やさしい香り。

 一瞬立ち止まって、振り返る。金木犀の花は私の頭よりすこし高い位置にあって、背伸びしたら届きそうだ。

 無意識のうちに写真を撮ろうとして、スマホを置いてきたことに気がついた。撮ったところで、もう誰かに送ることもないだろう。共有する相手もいない。他愛ないことで笑ってくれる相手はもういないし、わざわざ写真なんて撮らなくてもいい。

 自分を納得させるために言葉を並べる。けれどその言葉は、どうしても自分を傷つける。知らないうちに、私は私をもっと嫌いになりそうだ。せっかく、好きになれてきたところだったのに。

 ぐるりと体を回してまた歩く。どこまで行こう。どこでもいいや。もうどうでもいいや。

 分かれ道に差し掛かる。右に行けば通学路と同じだ。左は住宅街。適当に歩き出した道は左側。付き合っていたときにはあまり通らなかった道。なんとなく通学路を歩くと、いろいろ思い出す気がしてやめた。ただでさえ考え事を増やしたくないのに、自分を痛めつけたくはない。

 自分の誕生日に自分を痛めつける。そんな変人はいないだろう。

 朝から一人散歩している変人がいるんだから、もしかしたらいるのかもしれないけど。

 自然とため息が漏れる。

 好き、だったんだろうか。

 好き、だったんだろうな。

 泣けてないけど、たぶん。後悔とかいくらでも思いつくけど。心の働きがうまくいっていないだけなんだろうな。痺れたまま、鼓動だけ刻んでいる。

 好きかどうかなんてもう、答え合わせはできない。だってもう過去に戻れないし、考えたところで意味もないんだろうと思う。いいか、もう。わからないままで。わからないんだし。口から出た瞬間、言葉は形を変えてしまうんだ。好きも大好きも愛してるも、結局、ほんとうはなんだったのか。

 住宅街を歩いていると、対面から子供とその母親が手をつなぎながら歩いてきていた。すれちがいざまに挨拶をして、大通りに出る。右は学校方面、左はショッピングモールとかカラオケとか、娯楽にあふれている。

「あれ、けいじゃん」

 大通りに出て、体を左に向けた瞬間見慣れた顔があった。

「なんだ、まゆか」

「なんだってなんだよ」

 同じクラスのまゆは制服姿ではなく、私服だった。散歩でもしていたのだろう。

「まゆ、今から暇?」

 私はとりあえず聞いた。一人で体を動かすにはあまりにもさみしかった。紛れるものも紛れない。まだ、道連れできるなら道連れしたい。

「暇だけど……」

 幸い、まゆは動きやすそうな服をしている。うん、よかった。

「んじゃ、旅は道連れってことで」

「え、ちょ、どういうこと?」

「なんか、体動かしたい気分なのよ。付き合って」

 私の言葉にまゆは小さく「ええ……」と声を漏らした。しかしすぐに「まあ、付き合うよ」と諦めたように呟いた。

「そんで、なにやるの?」

 まゆがぐっと伸びをしてこちらを見つめる。

 たしかになにをやろう。一人だったら好きなだけ歩くけれど、さすがにそんなことをまゆにさせるわけにいかない。理由も話さずにただ歩かせるだなんて、そんなことさせられないし、できない。

「そうだね、なんも決めてない」

「んじゃ、歩きながら考えますか」

 そう言ってもらえるだけ助かる。特に理由を聞くわけでもなく、ぼんやりついてきてくれる。彼女のいいところ。

「まゆはなんで歩いてたの?」

 無言になるのが怖くて口を動かす。無言が苦になるわけじゃないけど、どこか気まずい。無言はいつも嫌な話が始まる予兆。そんな気がしている。

「朝の日課、かな。強いて言うなら」

「日課」

「そ。中学の時は運動部だったから」

 それは知らなかった。帰宅部だから運動しているイメージがないせいで、まゆがどんなスポーツをしていたのかとかまったく思いつかない。走っている姿もテニスラケットを持っている姿もサッカーボールを追いかけている姿もどれも似合わないように感じる。どちらかといえば、ちょこんと座っている美術部員のほうがしっくりくる。

「え、違和感」

「前まで頑張ってバレーしてましたよ。これでも」

 まゆがからりと笑みをこぼす。

「バレーなんだ」

「バレーなのよ」

 ふふ、とどちらかともなく笑いはじめた。静かに心が凪いでいく感覚が気持ちよかった。

「このさき、少し行くとボーリングできるけど、やる?」

「やる」

 考えずに答えた。そんな感覚が久しぶりだった。

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