月曜日の朝。

 私は少し緊張しながら出社した。高橋さんにきちんと話そうと思っていたからだ。強張る手でオフィスのドアを開ける。

「おはようございまーす…」

「おう、塩見、おはよ」

「た、高橋さ、」

 さっそく高橋さんとエンカウントしてしまい、覚悟していたはずなのに動揺してしまう。そんな私を見て、高橋さんは「ははっ」と笑った。

「そんな緊張すんなって。金曜は、悪かったな」

「い、いえ!そんなこと…」

 先に謝られてしまい、さらにしどろもどろになる。でも、ちゃんと伝えねば。

「高橋さん、あの…実はあの後、黒瀬と付き合うことになりまして…」

「うん、知ってる」

「そう、ですよね……え?」

 今、なんて…?知ってる?

 あまりに自然な返しに、頭が一瞬止まった。あの日、黒瀬の様子が普通ではなかったことは察するにしても、なんで付き合ったことまで知ってるんだ…?

「さっき、黒瀬が来たんだ」

「へ!?」

 高橋さんの言葉に、私は目を丸くした。

「金曜日は申し訳なかったと謝られたよ。それから、塩見と付き合うことになったってことも」

「そ、そうだったんですか…」

「正々堂々じゃないやり方をしたけど、どうしても譲れなかったと言っていたよ」

 高橋さんに真剣な眼差しでそう言った黒瀬が目に浮かぶ。黒瀬が言ってた“ケジメ”って、こういうことだったんだ。

「もう気づいてると思うけど、俺は、塩見のこといいなって思ってた。けど…あの時の黒瀬の迫力には、正直負けたよ」

 高橋さんは肩をすくめながらそう言った。

「悔しかったけど、黒瀬に負けるなら納得できる。ぶっちゃけた話、あいつが塩見のこと口説き落とそうとしてるの、知ってたしな」

「え!?そうなんですか!?」

「うん、まあ、そりゃあ、ね」

 高橋さんは明後日の方向を見ながら言葉を濁した。…そんなに分かりやすかったのかな。

「あの…高橋さん。このことは高橋さん以外には、まだ会社では言うつもりなくて…」

「ああ、それも聞いたよ」

 そう、それは土曜日に黒瀬と話し合ったことだった。会社で私達の関係を公にするか否か。黒瀬は公にしたそうだったし、その気持ちは嬉しかった。だけど、悔しいかな黒瀬はそれはもうおモテになるのだ。会社のあちこちに黒瀬ファンがいることは私でも知っている。女子のやっかみほど面倒くさいものはない。私はメンタルはそんなに弱い方ではないと思っているけど、やっぱり少し気が重かった。そんな私の気持ちを察してくれたのか、黒瀬は「無理に言う必要はねぇよ」と承諾してくれた。「ただし、二人きりの時は覚悟しとけよ?」としっかり釘も刺されたけれど。

「まあ、あいつモテるもんなー。塩見、これから苦労しそうだな」

「で、ですかね…」

 はははっと笑う高橋さんに、ははは…と引き攣った笑顔の私。

 しばらく笑った後、高橋さんは真面目な顔をした。

「俺はもう踏ん切りついたよ。だから、塩見ももう気にしないで。気まずいまま仕事するのはごめんだからな」

 高橋さんはニカッと笑って私の肩をぽんっと叩いた。

 本当にいい人だな。私が思うなんておこがましいかもしれないけれど、高橋さんには幸せになってほしい。心からそう思った。


 - - -


 金曜日。いよいよ今日だ。

 一応は仕事に集中しているつもりでも、ふとした拍子に気が逸れる。頭のどこかで献立のシミュレーションを繰り返し、帰ったらまず何を仕込むか、何分で仕上げられるか…そんなことばかり考えてしまう。

 “料理ができる女”だと妙に思われたいわけじゃない。ただ、黒瀬の顔に「うまい」って笑みが浮かんだら、きっと今日の私はそれだけで報われる。

 黒瀬は一度家に帰って着替えを取ってから来ることになっている。私も買い物して帰らなきゃ。なんかそわそわするな。私はスマホのメモ帳に書いた買い物リストをもう一度見直した。お酒も…ちょっとだけ買おうかな。

 黒瀬から『七時くらいに行く』とメッセージが届いた。『了解』と返信し、私は会社からスーパーに向かった。




「よし、こんなもんかな」

 出来たてのだし巻き卵を見て、一人にんまりする。我ながらいい焼き加減だと思う。

 黒瀬からのリクエストの煮物は、もちろん我が家伝統の味の筑前煮。それから、鶏の唐揚げとだし巻き卵。汁物はなめこと豆腐の味噌汁にして、サラダは大根を主役にさっぱりした和風に。筑前煮の優しい味に合うように。

 筑前煮は昨日の夜じっくり時間をかけて煮込んだ。味が染みてるといいなと思いながら、そっと蓋を開けて香りを確認する。唐揚げは揚げたてを食べてほしいから、黒瀬が到着してから揚げる予定だ。

「やばい…今更緊張してきた」

 お皿を出しながら、自分の手が強張っていることに気づく。

 喜んでくれるかな…おいしいって言ってくれるかな…ああやばい自信なくなってきたかも…。

 そんなことをぐるぐる考えていた時、インターホンが鳴った。時計を見ると、約束の七時五分前だった。

「は、はーい!」

 慌てて玄関へ向かう。鍵を開けようと手を伸ばして、一瞬固まる。この先に黒瀬がいる。会社でも散々顔を合わせているのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。でもこのまま待たせちゃ悪いし、もう覚悟を決めるしかない。

 私は意を決して玄関を開けた。

「い、いらっしゃい!お疲れ!」

「よ、お邪魔する」

 緊張で言葉の順番が逆転した。

 ドアを開けた先に居たのは、カジュアルだけどどこか品のある装いの黒瀬。やばい…こんな黒瀬見たことない…。思わず下唇をキュッと噛んでしまう。

「これ、手土産」

 頭の中でプチパニックを起こしていると、黒瀬から紙袋を差し出され、少し現実に戻った。和紙のような手触りの袋に、控えめなロゴ。たぶん和菓子だ。

「あ、ありがとう!気遣わなくてよかったのに」

 受け取りながら、食後にお茶でも飲みながら食べようかな、でもお酒にも合いそう、なんて考える。

「靴、脱いでいい?」

「えっ」

 黒瀬の言葉に顔を上げると、彼がまだ玄関に入っていないことに気づいた。

「もっ、もちろん!ど、どうぞ!」

 慌てて黒瀬が入れるようにスペースを開けて、おろしたてのスリッパを用意する。

「…ありがと」

 腰を屈めて靴を脱ぎ始めた黒瀬はちらりとこちらに視線を送った。それだけで心臓はバカみたいに騒ぎ始める。

 スリッパに足を通した黒瀬は、ふと動きを止めた。

「いい匂いだな」

 小さく呟かれた言葉に緊張が走る。私は何も言えずに、ただキッチンのある方に視線を向けるだけだった。

「手、洗っていいか?」

「あっうん、洗面所こっち!」

 洗面所の場所を指差す自分の指が少し震えているのに気づいて慌てて背中に隠した。バレてないといいな。いやバレてるかもしれないけど、見逃してくれるといい。

「ごめん、まだ全部できてないの。すぐ作るから、手洗ったらリビングのソファでくつろいでて!」

 いつもよりちょっと早口になってしまう。自分の部屋だというのに、“黒瀬が居る”という事実だけで知らない場所に居るみたいだ。

 私は黒瀬が洗面台で手を洗い出したのを確認してから、最後の仕上げをするために足早にキッチンへ向かった。


 - - -


 会社から帰宅すると、まずスーツを脱ぎ、ゆっくりとシャワーを浴びた。鏡越しに自分を見つめ、ゆっくりと息を吐き出す。この日を心待ちにしていた反面、緊張している。由佳の部屋に入るのは実際初めてではないが、あの時は潰れた彼女を運んで、寝かせて、それで終わり。今日は違う。“ちゃんと”彼女の空間に俺が入るんだ。

 シャワーから出た俺は、クローゼットから白いシャツを取り出す。上には薄手のグレーのカーディガンを羽織った。カジュアルだけど、少しだけよそ行き。彼女の部屋にお邪魔するのだから、少しは気を遣いたい。

 彼女がスーパーで食材を選んでいる姿を想像する。きっと献立を頭の中で反芻しながら、眉間に少しだけシワを寄せているだろう。そういう真剣な顔すら可愛くて仕方ない。

 彼女の部屋に着く頃には、柔らかい表情で迎えられることを祈りながら、俺は玄関に置いてある革靴に足を通した。


 約束の五分前、彼女の部屋の前に着いた。インターホンを押した直後、胸の奥がドクンと鳴った。会社でもあれだけ顔を合わせてるのに、仕事終わりにプライベートで会うってだけで、どうしてこんなに心臓が暴れるんだろうな。

 俺が来るってわかってるはずなのに、慌てた声で返事しそうだな。

 そんな想像が浮かんで、思わず口元が緩む。お前の緊張は俺にも伝染してんだよ、なんて、言えたら少しは楽になりそうなのに。

 左手には小さな紙袋。仕事帰りに買った和菓子が入っている。煮物のリクエストを通した手前、手ぶらじゃ格好つかないと思って。

「は、はーい!」

 ──予想通りの慌てた声が、扉の向こうから聞こえてきた。

「……ふ」

 頬が緩む。鍵を外すカチャカチャという音すら、今の俺には妙に愛おしい。

 この扉が開いたら、今夜はお前の世界に俺が入る。待ち遠しいような、少し怖いような、けど、確実に嬉しい。

 “ただいま”って言ったら、引くかな。

 心の中でそんなことを考えていると、カチャリとドアノブが回る音がした。

「い、いらっしゃい!お疲れ!」

「よ、お邪魔する」

 ドアが開いた瞬間、思わず言葉が漏れた。

 目の前にいるのは見慣れたはずの由佳。でも、仕事帰りのスーツ姿でもなければ、飲み会のふわっとした空気でもない。自宅というプライベートな空間にいる“由佳”。

 長い髪が少し緩く結ばれている。淡い水色の薄手のニットとエプロン姿。……やばい。心臓が本格的に騒ぎ出した。

「悪い、ちょっと早かったか」

「ううん、大丈夫!」

 無意識に声を落とす。軽く笑って取り繕いながらも、視線はどうしてもエプロンに行ってしまう。お前、料理する時もこんな可愛いのかよ…。

「これ、手土産」

 慌てて視線を逸らし、和菓子の紙袋を差し出す。

「あ、ありがとう!気遣わなくてよかったのに」

 由佳が袋を受け取る時、その指先が少しだけ俺の手を掠った。この距離感、思ってた以上に破壊力がある。

 玄関に立つ俺は、まだ一歩も由佳の部屋に足を踏み入れてない。けど、“もうすぐこの人の生活の中に入る”という実感がじわじわ押し寄せてくる。

「靴、脱いでいい?」

 当たり前のことなのに、つい確認してしまう。普段の俺ならこんなこと聞かないのに。

「もっ、もちろん!」

 慌てたように由佳は後ろに下がり、俺が入れるようにスペースを作ってくれた。バレないように深呼吸をして、一歩踏み出す。靴を脱ぐために腰を屈めながら、スリッパを用意する彼女をちらりと見る。

 なんだよ、その挙動不審なくらいの慌てぶり。普段会社で「黒瀬ほんっとにムカつく」とか平気で言うくせに。

 ──可愛い。

 喉の奥で小さく息を飲み込む。どうにも口角が上がってしまう。「緊張してる?」と茶化したい気持ちもあるが、今言えばたぶん本当にパニックになりそうなのでやめた。

 スリッパに足を通しながら、玄関に漂う出汁の匂いに気づく。なんだ、この安心する匂いは。

「いい匂いだな」

 思わず漏れた言葉。俺は顔色ひとつ変えずに言ったつもりだったが、鼓動はバカみたいに早い。由佳の視線が一瞬、リビングの先へ向かう。ああ、こいつ…一生懸命作ったんだ。

 洗面所を借りて手を洗った後、リビングに向かう。ソファに腰掛けながら、まだほんのり濡れている指先を見つめる。

 緊張、してる。あいつ。

 バレないように頑張ってるけど、動きが普段よりずっと早いし、声が少し上擦ってた。その理由が全部自分にあるってのが、なんとも言えない気持ちにさせる。

 視線をリビングに巡らせる。小物はシンプルなのに、どこか柔らかい雰囲気がある。ソファの上にはクッションが二つ並んでいて、片方は少しだけ形が崩れてる。ああ、きっと由佳がよく座る場所なんだろう。視界に入る家具や小物に、いちいち“この人の生活”を感じて、背中が少しそわそわする。

「…ほんとに、ここに居るんだな、俺」

 無意識に漏れた声。なんだか実感がじわじわ湧いてきて、腹の奥がふわっと温かくなる。でも同時に、彼女が台所でバタバタしてる音が聞こえる度、胸がぎゅっとなる。

 緊張、解いてやりたい。

 でも下手な言葉で邪魔するのも違う気がした。そう思いながら、テーブルの上のランチョンマットに視線を落とす。ここに彼女の料理が並ぶ。そう考えただけで、さっきまでの空腹なんて忘れて胸が高鳴った。


 - - -


 キッチンに戻った私は、とりあえず深く息を吸った。

 落ち着け…落ち着け…私が緊張してたら黒瀬だってくつろげないだろ…。

 そう言い聞かせながら、ゆっくりと吐いた息で気持ちを整える。

 よし、最後の仕上げだ。鶏の唐揚げ。母直伝の揚げ方。

 まずは油をゆっくり熱する。目標は170℃。まずは低温でじっくり揚げて中まで火を通し、一度数分休ませてから、再度高温で一気に二度揚げするのが塩見家のやり方だ。

 油を温めている間、下味をつけておいた鶏肉に衣をまとわせていく。衣は片栗粉のみ。ちょっと竜田揚げ風なのも我が家の唐揚げだ。

 油の温度を確認して、一つ目をそっと落とす。しょわっ、といういい音と共に、醤油や生姜、にんにくのいい香りが立ってきた。


「…よし、出来た」

 油鍋から最後の唐揚げをバットに移し入れる。こんがりとしたその色に少し安心する。

 …うん、大丈夫、きっとおいしいはず。

 半分祈りにも似た気持ちになった。でも緊張してばかりもいられない。せっかくの揚げたてが冷めてしまう。

 お茶碗にご飯、大皿に大根サラダと一緒に唐揚げを盛って、それから小鉢には筑前煮。もう一枚のお皿にはだし巻き卵と、余った大根をすって作った大根おろしを添える。最後にお椀にギリギリまで温めておいたお味噌汁をよそう。全てお盆にまとめて、リビングへと向かう。その前にもう一度深呼吸した。ゆっくり吸って、静かに吐いて。大丈夫、大丈夫…。

「お、お待たせっ」

 ソファに座る黒瀬を見た瞬間、せっかく深呼吸したにも関わらず心臓は早鐘を打ち始めた。

 私の言葉に顔を上げた黒瀬と目が合う。なぜか空気がふわっと変わる。でも不思議と居心地は悪くない。むしろ、少し温かい。

 私はソファテーブルに先に敷いておいたランチョンマットの上に料理を並べ始めた。ご飯は左側、汁物は右側…と頭の中で確認しながら置いていく。

「すごいな、これ…」

 全て並べ終わった時、テーブルの上の光景を目を細めて眺めながら黒瀬がぽつりと呟いた。その言い方があまりに真っ直ぐで、思わず口角が緩んでしまう。

 正直、普段私一人の時はここまで献立に凝ったりしない。でも、今日は特別なのだ。これくらい頑張ったってバチは当たらないだろう。

 私は黒瀬の向かいに正座した。膝が少し落ち着かない。

「ど…どうぞ!お口に合えばいいのですか!」

 謎に敬語になる。ああもう…緊張してるの丸分かりじゃん。

 黒瀬がちょっとだけ眉をひそめて、「お前の分は?」と言いたげな顔をした。

「さ、先に食べてみて…!じゃないと、なんか落ち着かなくて…」

 自分の手元を見ながらそう言うと、黒瀬は一瞬だけ微笑んだ。

「…じゃあ、遠慮なく」

 黒瀬は静かに手を合わせた。指の先まできちんと揃った、真面目な「いただきます」だった。

 箸を持った黒瀬が一番最初に何を選ぶのかドキドキしながら見ていると、まさかの筑前煮だった。そりゃそうか、黒瀬からのリクエストだし…でもリクエストだからこそ一番緊張するものなんだけど!心の中では一人で大慌てしていたけど、今更引っ込めるなんてできない。

 黒瀬が筑前煮をひと口、口に運んだ。私はというと、もう心臓が忙しすぎて大変だった。せめて表情だけでも読み取りたいけど、今直視したら私が死ぬ。

 ほんの数秒のはずなのに、すごく長く感じられたその時間の後、黒瀬の手がぴたりと止まった。

「うまい」

 視線は筑前煮に落ちたまま、ぽつりと言葉が落ちた。端的だけど、その言葉には温かい色が乗っていた。

「ほっ、ほんと…?」

 思わず顔が緩むのを隠せなかった。黒瀬はゆっくり視線を私に合わせ、ふっと笑った。

「うん。マジでうまい」

 足先からそわそわそわっと柔らかな電流が流れたみたいだった。安堵と、嬉しさと、なんとも言えない幸福感。

「俺のばあちゃんのよりうまいかも」

 もうひと口、口に運びながら黒瀬が呟いた。

「黒瀬、おばあちゃんっ子なんだもんね」

 やっぱり、あの黒瀬がおばあちゃんっ子なのって可愛いな、と思ってしまう。

「その筑前煮ね、私のおばあちゃんから代々受け継がれてる味なの」

「そうなのか」

 私も祖母や母の味に近づけているなら嬉しい。素直にそう思った。そして、そんな筑前煮を褒められると、私の家族まで褒められているみたいで温かい気持ちになった。さっきまでの緊張も少しずつ解れていくのがわかる。

「ありがと、ちょっと落ち着いた!自分の分も持ってくるね!」

 思わず声のトーンも軽くなる。さっきまで緊張でぎこちなかった足取りが、今は少しだけ跳ねていた。


 自分の分もお盆に乗せて、リビングに戻る。私の料理を食べている黒瀬が、なんだか優しい顔をしていた気がした。気のせいかな…自惚れすぎ…?そんなことを考えながら、私は再び向かいに腰を下ろした。

「よし、いただきます」

 いつもよりちょっと丁寧に手を合わせてから、私も箸を持った。

「…なんか、ほんとに家っぽいな」

「ふふ、そうだね。家なのに、“家っぽい”」

 黒瀬の言葉に思わず笑ってしまう。二人分の湯気が立ち上るテーブル。いつもの社食じゃありえない空気感。黒瀬の言いたいことはなんとなくわかった。だって私が感じてることと、きっと同じだと思うから。

 お味噌汁をすする。ふと気になって、ちらっと黒瀬の様子を窺う。筑前煮の感想はもらったけど、他のはどうだったっけ。お味噌汁、しょっぱくないかな。家庭によって味の濃さって違うし、急に不安になってきた。

「あの、黒瀬…大丈夫?」

 咄嗟に聞いてしまったが、色々端折りすぎた。案の定、黒瀬がきょとんとした顔で「なにが?」と首を傾げた。

「あっ、いや、その…お味噌汁とか、しょっぱくないかなって」

 慌てて付け足した自分の声が、ちょっと情けなくて笑ってしまった。

「お前、心配しすぎ」

 私の様子に、黒瀬は小さく笑った。でもその笑いはいつもの茶化すようなものではなく、柔らかく優しい。

「うまいよ、むしろちょうどいい」

「そ、そっか、よかった」

 その言葉にほっと胸を撫で下ろす。安心して、唐揚げをひと口。うん、揚げ加減も悪くない。外はザクッと、中はじゅわっと。自分で作ったくせに、ちょっと嬉しくなる。

 黒瀬も唐揚げを一つ箸で持ち上げると、軽く眺めてから口に運んだ。

「これ、衣なに使ってる?」

「片栗粉だけ。うちは小麦粉は混ぜないの」

「なるほどな、だからこのザクザク感か。しかもこれ二度揚げしてるだろ」

 こいつ、やっぱり料理できるんだな…。まるで全部隣で見ていたかのように分析されていく。

「丁寧に作られてる。ほんとにうまいよ、もうプロ級じゃね?」

「お、おおげさ…」

 顔が熱くなる。でも黒瀬の目が本気なのはわかる。からかってるのもあるけど、ちゃんと喜んでくれている。心のどこかで、また頑張ろうかな、なんて思っている自分がいた。


 黒瀬と家でゆっくり晩御飯を食べる。それだけの時間なのに、どうしてこんなに心地よくて、ちょっとだけ特別なんだろうと思った。

「食べ終わったら、黒瀬が持ってきてくれた和菓子食べよ。お茶がいい?お酒も合うかなって思ったんだけど」

「お前が飲むなら付き合うよ」

 黒瀬は穏やかな声でそう答えると、だし巻き卵に大根おろしを少し乗せた。醤油をほんのちょっと垂らして、口へ運ぶ。

「私は…ちょっと飲みたいかも」

 お酒が大好きなのもあるけど、未だに少しそわそわする気持ちを落ち着けたいというのが本音だ。黒瀬は「お前、酒ほんとに好きな」と笑った。…よし、たぶん本心はバレてない。

「いいよ、付き合う」

 黒瀬はだし巻き卵を食べ終えると、ゆったりと箸を置き、私に視線を向けてにやっと笑った。

「緊張してるのも、全部丸ごと…酒で流していい」

「っ!?」

 ああ、やっぱり黒瀬に隠し事なんてできないな、と心の中で白旗を上げた。

「ご、ごめん、ありがと…じゃあ、食べ終わったら私、先にお風呂入っちゃうね。黒瀬はもう入ってきたんでしょ?」

 照れながらそう答えると、黒瀬は少しだけ目を細めて頬杖をついた。

「ああ、入ってきた」

 そして緩く口角を上げる。

「緊張しなくていい。今日は俺、なにもしない」

 そう言いながらも、その瞳はどこか愉しそうで、どこか意地悪そうだった。これがまた厄介なのだ。けれど黒瀬はすぐに箸を持ち直して、柔らかく言い添えた。

「落ち着いて、お茶でも酒でも、ゆっくり飲もう」

 黒瀬が労ってくれてるのは伝わる。でも“今日はなにもしない”という言葉に、ちょうど一週間前のことが頭をよぎる。先週の金曜日の夜も、同じこと言ってた。でも最終的には……とまで思い出して、勝手に顔が赤くなる。何考えてるのか悟られたくなくて、せっせとご飯を食べた。

 その様子を見ていた黒瀬は小さく笑いを漏らした。

「そんな警戒すんなって」

「し、してないよ」

「顔赤いけど」

 わざと指摘するような声色ではない。だけどその低くてどこか甘い響きが、かえって心臓を忙しくさせた。

「…ま、正直言うと」

 黒瀬は残りのお味噌汁をゆっくり飲み干し、お椀を置いてから静かに息を吐いた。

「キスくらいはしたいって思ってる」

 その声はいつになく低く、正直な熱がこもっていた。私は小さく息を呑んだ。けれど、黒瀬はすぐに柔らかな笑みを浮かべて続けた。

「でも、今日はそれも我慢するって決めてる」

 私は無意識に目を見開いた。黒瀬はその反応にくすっと笑い、今度はテーブルに視線を落とした。

「…お前に安心してもらいたいからな」

「黒瀬…」

 また黒瀬が自分の中で何かと戦っている。そんな黒瀬を見ると、胸がきゅっと痛んだ。

「…黒瀬、お風呂から出てきたら、話があるの」

 箸をそっと置いて、静かに口にする。顔を上げた黒瀬の瞳が一瞬不安そうに揺れた気がした。

 違うよ、大丈夫、不安に思うようなことじゃないから。でもあえて口には出さなかった。

 最後に残ったお味噌汁を飲み干して、ごちそうさまでしたと手を合わせた。「皿洗いくらいやる」と黒瀬が引かなかったので、私は素直に任せて、お風呂に向かうことにした。


 - - -


 お風呂から出て、パジャマに着替えてスキンケアをして、髪を乾かす。そして洗面台の鏡に映る自分を見た。少し瞳が揺れている。でも、ちゃんと伝えたいって思った。目を閉じて、一つ深呼吸をする。そして脱衣所のドアを開いた。先週の金曜日、黒瀬の家でシャワーを借りた時は出るまでにものすごい時間がかかったけど、今日はあの時とは違う。

「お待たせ」

 リビングのソファに座る黒瀬に声をかけると、ハッとしたように顔を上げた。

「……お酒とお菓子、って感じでもないね」

 未だに少し不安げな黒瀬の顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。

「隣、いい?」

 そう聞くと、黒瀬の肩が一瞬ビクッとした気がした。すぐにいつもの調子で「いいに決まってるだろ」と小さく笑ったけど、その声にはわずかに滲む息の詰まり。

 黒瀬の隣に腰を下ろす。先週はお風呂上がりにソファに座るまでも時間かかったな、なんて思い出す。

「………」

 少しだけ、お互いに黙っていた。その沈黙をゆっくり破るように、私は口を開いた。

「…黒瀬、あのね」

「…ん」

 黒瀬の肩がわずかに揺れる。視線は前を向いたまま、でも呼吸が少し浅い。

「黒瀬はさ、私と二人っきりになると、自分の中で何かと戦ってるよね」

 私がそう言うと、黒瀬は黙ったままだったけれど、少し気まずそうにしていた。

「それが私を想ってのことなのは…わかってるよ」

 ソファの肘掛けに置かれた黒瀬の手がわずかに震えている。

「でもね、黒瀬…私、黒瀬が苦しそうなの、見たくないし、そういう思いを私がさせたくないの」

 そう言うと黒瀬は少し目を見開いて、ゆっくりとこちらを見た。

「…先週も言ったでしょ、“もう我慢しないで”って。あれ、あの場の雰囲気だけで言ったんじゃないから。私、黒瀬のこといっぱい待たせた。いっぱい不安にさせた。だけど黒瀬はいつも私のこと考えてくれてた。だから、今度は私が黒瀬のこといっぱい考えたい。黒瀬の思ってること、したいこと…我慢しないで教えてほしい」

 そこまで言い切ると、黒瀬の瞳は大きく揺れた。

「……お前、ずるいよ」

 黒瀬は掠れるような声でそう呟いた。そしてゆっくり目を伏せる。そのまつ毛が微かに震えている。

 長い沈黙の後、黒瀬は再びこちらを見つめた。唇を噛み、目の奥に強い光を宿して。

「どれだけ我慢しようと思っても、お前にそう言われると…止められる自信がない」

 微かに滲む弱さと、深く根を張った本音がそこにあった。

「うん、いいよ止めなくて」

 私は真っ直ぐに言った。心臓はドキドキしていたけれど、視線は逸らさなかった。

「キスしたいなら、していいんだよ。私もしたい。それに…」

 そこまで言って、やっぱり少しだけ目を逸らした。

「……それ以上だって、私、期待してなかったわけじゃない」

 顔に熱が集まってくるのがわかる。言った後で、思わず口元をぎゅっと引き結んだ。ああ、最後の最後で格好つかないな。

 黒瀬はその言葉を聞いた瞬間、何かの糸がぷつんと切れたように肩の力を抜いた。

「……期待、してたのか」

 低く息を吐いて苦笑いする。改めて言われると恥ずかしくて、私は視線を合わせられなかった。

 黒瀬がゆっくりと手を伸ばして、私の頬に触れた。指先が微かに震えているのは、緊張か、それとも抑えきれない衝動か。

「…お前に触れる度、全部壊しそうで怖かった。でも」

 私の顎を軽く掴んで、視線を絡めたまま顔を近づけてくる。その吐息が唇に触れる距離で、黒瀬は囁いた。

「期待してくれてたなら…応えてやるよ」

 そして、ほんの一瞬躊躇った後。唇がゆっくりと重なった。今までにないほど熱を帯びたキス。舌先が触れる度、頭の奥がじんと痺れる。触れ合うだけで、二人の心臓が忙しなく暴れているのが伝わってきた。黒瀬の指が、頬から耳元、首筋へと滑り落ちていく。

「…もっと、触れていい?」

 震える低音でそう聞かれ、私は息を呑んで小さく頷いた。

「…いいよ。黒瀬」

 言いながらそっと腕を伸ばして、黒瀬の首に手を回す。頭を抱きしめるようにして、彼の肩に額を預けた。伝わるぬくもりが、心まで溶かしていく。

 優しい黒瀬は好き。でも、抑えていた自分の欲望を露わにする黒瀬は、私をどうしようもなくさせた。

 黒瀬は一瞬喉を低く鳴らした後、ゆっくりと私の首筋に唇を落とした。その柔らかな感触に背中がぴくりと跳ねる。舌先が滑り、肌を吸われると、そこに熱が残っていく。

「……好きに、するからな」

 そう囁きながら、ソファに押し倒される。指先がゆっくりとパジャマのボタンにかかる。一つ、また一つと外される度、肌が空気に触れて、呼吸が浅くなる。

「由佳、好きだよ」

 喉の奥で低く唸りながら、再び唇を奪われた。先週のそれよりも深く、激しく──


 その夜、黒瀬は完全に理性の縁を踏み外した。

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