8
「……っは……っ」
荒い息がこぼれた。目を開けた瞬間、見慣れない天井がぼんやりと視界に映った。額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「由佳…」
寝起きの掠れた声で彼女の名前を呼ぶ。胸が締め付けられるような感覚が、まだ残っていた。
夢の中で、由佳が自分の前からいなくなってしまった。何度呼んでも振り返ってくれなくて、どれだけ手を伸ばしても届かなくて──その焦燥と絶望が、夢のくせにしつこくて、まだ現実のように俺の心を支配していた。
「……夢、か」
ふと視線を落とすと、胸元に小さなぬくもりがある。
彼女だ。由佳が、そこにいる。
静かに寝息を立てている彼女の髪を、俺は震える指でそっと撫でた。その瞬間、自分でも呆れるほど安堵で胸がいっぱいになる。情けないくらい泣きそうになる。無意識に彼女を強く抱きしめてしまった。
「……ん」
由佳が小さく身じろぎして、瞼をうっすらと開ける。眠たげな声で俺の名前を呼んだ。
「黒瀬…?」
「悪い、起こすつもりじゃなかった」
ぽつりと呟いて、彼女の肩に顔を埋めた。
夢の余韻がまだ濃くて、こうしているのが現実なのか、何度も確かめたくなる。腕の中の温かさだけが全てだった。
──今、ここにいる。
それを信じたくて、信じたくて、俺は彼女を離せなかった。
強くなったぬくもりで目を覚ました。次第に意識がはっきりしてきて、頬に当たる熱源の正体に気づく。
「なに、黒瀬。朝から抱きしめて…」
まだ少し眠たくて、声もぼんやりしていた。黒瀬は何も言わず、私の肩におでこを押し付けたままだった。
「…もしかして、また変なことしようとしてたんじゃないでしょうね?」
半分からかうように言ってみる。ちょっとだけ口を尖らせて。その瞬間、黒瀬はビクッと肩を揺らし、慌てたように顔を上げた。
「ち、違ぇって!絶対違う!」
寝起きの掠れた声に必死さが滲んでいる。なんだかおかしくなって、私は彼をじっと見つめた。
「ほんとに?」
「ほんとだって!」
「ふーん…?」
じっと問いかけるような目で見ると、黒瀬はバツが悪そうに視線を逸らした。
「…夢見が、悪くて…ちょっと不安になっただけだ…」
「夢?」
頷いた黒瀬は少し息を詰めたように目を伏せた。そしてぽつりと「ごめん、驚かせたな」と小さく謝った。普段の飄々とした黒瀬からは考えられないくらい、言葉の端々に本気の焦りと後悔が混ざっていて、私は思わず吹き出しそうになったが、まだ少しだけ怒ったふりを続けた。
「…まぁ、今回は許してあげる」
「ほんとに悪かったって」
「ふふ…わかってるよ」
ニヤリと笑って見せると、黒瀬はほっとしたように息を抜いた。そして私の髪に顔を埋める。その動きがちょっとくすぐったい。
「もう、夢なんて見て不安になっちゃって…可愛い」
「おい、それ言うな」
黒瀬は照れ隠しのようにもっと深く顔を埋めてきた。その姿がたまらなく愛おしかった。
「…でもさ」
私は黒瀬の胸に顔を預けたまま、少しだけ声を低くした。
「昨日のあれ…なんだったの?ほんと、壊れるかと思ったんだけど」
静かな問いかけに、黒瀬の体がぴくんと強張った。寝起きとは思えない速さで焦り始めるのがわかる。耳まで赤い。
「…そ、それは…」
珍しく歯切れが悪く、言い淀む黒瀬。
「もしかして、いつもああいうの我慢してたの?」
「………」
図星だったのか、黒瀬は何か言いかけては口を閉じた。目を逸らしながら何度か唇を動かす。
「…いや、違…いや、違くは……ないけど……」
「どっちなの」
「……ごめん」
目を細めてじっと射抜くように見つめると、黒瀬は観念したように頭を下げた。
「あの時は…もう、色々溢れて…止められなかった」
「私、何回イカされたか覚えてないんだけど」
「……俺も、何回したか覚えてねぇ」
「……」
「ごめん。ほんと、加減しなくて」
何を言っても言わなくても平謝りの黒瀬に、私は少し笑いながら小さくため息をついた。
「ほんとだよ。今度あんなのされたら、私干からびるから」
「わかった、わかった…絶対気をつける」
黒瀬は何度も頷き、私の手をぎゅっと握った。その手はまだ、少しだけ熱を帯びていた。
「…ふふ」
小さく笑って、私は黒瀬の手を握り返した。
「でも、嫌じゃなかったよ」
それはささやかな意地悪だった。黒瀬は耳の先まで真っ赤になって、慌てて枕に顔を埋めた。
「……お前、そういうのずるい」
「どっちが」
くすっと笑いながら黒瀬の背中をぽんぽんと優しく叩くと、突然鼻をすする音が聞こえた。思わず目を見開く。
「え…なんで泣いてるの」
驚いて顔を覗き込もうとすると、黒瀬は必死に笑顔を作ろうとしたが、上手くいかず唇が震えていた。
「だって俺…正直、嫌われる覚悟もしてた」
声が掠れ、最後の方はほとんど吐き出すようだった。
「なのに、お前…そんなふうに笑うから…」
こぼれた涙が頬を伝い、枕を濡らした。それでも黒瀬は私の手を離そうとせず、逆に強く握りしめた。
「黒瀬…バカだなぁ。泣くくらいなら、最初から覚悟なんてしなきゃいいのに」
少し呆れたように言いながら、黒瀬の頬に手を添えた。
「…怖かったんだ」
「私がいなくなる夢でも見たの?」
黒瀬は静かに頷いた。
「でも、私はここにいる。だからもう泣かないで」
頬に添えた手の親指でそっと涙を拭う。黒瀬はしばらく俯いたまま肩を震わせていたけど、私の胸に顔を埋め、「お前が優しすぎて苦しい」と絞り出すように呟いた。
黒瀬の頭を抱きかかえて撫でていると、ふと足元の違和感に気づいた。なんだか、やけに…冷たい。
「……ねぇ、なんか、冷たくない?」
私がそう呟くと、黒瀬は一瞬で固まった。
「……え」
恐る恐るかけていた布団をめくって下を覗く。そこで二人とも現実に引き戻された。シーツは、汗と愛液と潮と…昨夜の全てが混ざり合ってぐっしょり。冷たく湿った感触がじわじわと肌に広がっていく。
「これ…」
黒瀬を見上げると、彼は顔を覆い盛大にため息をついた。
「…俺のせいだな」
「う、うん…」
「ごめん…」
黒瀬の声は聞いたことないほどしおらしい。私はまた笑いがこみ上げてきて、ぷっと吹き出した。
「もう、朝からこの惨状って」
くすくす笑いながら言うと、黒瀬は真剣な顔で言った。
「クリーニング代、俺が出す」
「いやそこじゃないから!」
思わず枕を投げようと体を起こした瞬間──
「いっ…!?」
腰にズキンと鈍い痛みが走った。
「っ……はぁぁ……」
思わず顔をしかめて腰をさする。それを見た黒瀬は慌てて起き上がった。
「痛むのか」
「そりゃあ、あんな…もう…」
言いかけて、ぶわっと顔が熱くなる。視線を彷徨わせていると、黒瀬も察したのか、同じく顔を赤らめた。
「ごめん…ほんとごめん…」
もはや何度目かわからない謝罪。私はジト目で睨みながら呟いた。
「黒瀬の『ごめん』、今だけで3ダースくらい聞いた気がする」
「…すみませんでした……」
黒瀬は気まずそうに頭をかいた。
「昨日は…その…理性飛んでた…」
「…うん、飛んでたね」
「…ほんと、ごめん」
「次からはもうちょっと加減してよね」
黒瀬は少し眉を下げながら、そっと腰をさすってくれた。
「水飲むか?」
「あー、うん、欲しいかも。冷蔵庫にペットボトルのやつがあるから」
「わかった、すぐ持ってくる」
そう言い残すと、黒瀬はすたすたと部屋を出ていった。背中には「反省中」の文字が書いてあるような気がした。
「はぁ…」
ベッドの中で天井を見上げながら、ひとつ長い息を吐いた。昨日の黒瀬のあの鬼畜ぶりを思い出すと顔が熱くなるが、謝罪ラッシュにはもう笑うしかない。今日ばっかりは私の方が立場が上のようだ。
黒瀬のことだ。きっと今頃、冷蔵庫の前で“水と罪悪感”の両方を抱えて立ち尽くしてるだろう。そう考えると、なんだか肩の力が抜けた。いつもはあんなに余裕たっぷりで、私のことをからかってばかりいたのに。今朝は「ごめん」「ほんとごめん」って反省の語彙だけで会話してるような状態だ。正直、呆れる。でも、どこか可愛いと思ってしまう自分がいた。なんか、ずるいな。
「…ほんと、調子狂うなぁ」
そうひとりごちて、思い切って伸びをしてみる。が、すぐに「いったた…」と声が漏れた。腰が本気で抗議してくる。
- - -
少しして、黒瀬が水のボトルを持って戻ってきた。その顔は完全にしょんぼりした犬だった。大型犬だ。耳と尻尾があれば、絶対ぺたんと垂れてる。
「ほら水。…その、ほんとごめん」
差し出す声も申し訳なさでくぐもっている。いつもの黒瀬はどこへやら。
ちょっと意地悪したくなって、私はにやっと笑ってボトルを受け取った。
「黒瀬の“なにもしない”ってさ、信憑性ゼロだよね」
「……っ」
「むしろフラグよね。昨日も先週も、結局“なにか”してるし」
言いながら黒瀬を見ると、耳まで真っ赤になって口を開いたまま言葉が出てこない。金魚みたいに口をぱくぱくさせてる姿があまりに可愛くて吹き出してしまった。だって、昨日も先週も最終的にOKサインを出したのはこっちなのに。それなのに黒瀬はしゅんとしたままで、何も言い返してこない。
「ねぇ、“最終的にOKしたのはお前だろ”って言い返さないの?」
「……だとしても、さすがにやりすぎた」
真面目な顔で私の手からボトルを取ってキャップを開けてくれる。そして黙って私の口元へそっと差し出した。
「猛反省中?」
「……してる」
「ふふ、反省してる顔可愛い」
「可愛くねぇ」
ぼそっと言いながら、でも黒瀬はやっぱり目を合わせてくれなかった。視線を逸らしたまま、ゴクゴクと私に水を飲ませてくれる。可愛くないって言ってるわりに、やること全部可愛いんだけどな。
「なんか飼い主に怒られてる犬みたい」
「…俺が犬ね」
黒瀬はボトルのキャップを閉めながら、頬を軽く膨らませた。明らかに拗ねている。けど、その拗ねた顔すら犬みたいで笑ってしまった。
「完全に大型犬。しかも反省中の」
「じゃあお前が飼い主か」
「え、じゃあ次からしつけしなきゃ?」
「……はぁ、好きにしろ」
黒瀬は少し肩を落として私の髪を軽く撫でた。でも目元はどこか笑っていて、結局この人も満更でもないんだろうな、なんて思った。
「体だるいけど、とりあえずシーツ替えたいなぁ。ていうかこれ、マットレスもアウトかも。あとシャワーもしたいしなぁ」
シーツを指先でしゃりしゃり撫でながら呟くと、黒瀬はジト目で私を見下ろした。
「お前、自分の状態わかって言ってる?」
「いや、だってこのままじゃ…」
言いかけた私の言葉を遮るように黒瀬が淡々と告げる。
「大人しくしとけ。シーツもマットレスも俺がなんとかする。シャワーも俺が運んでやるから」
さらっと言うわりに行動は大胆だった。次の瞬間にはもう私は黒瀬の腕に抱きかかえられていた。いわゆるお姫様抱っこだ。まったくこの男は、こういう時だけやたら頼れるんだから。そう思いながら、私は大人しくリビングのソファへと連行された。
ソファでぼんやり座っていると、黒瀬が寝室から出てきた。気まずそうに、そしてどこか申し訳なさそうな顔をしている。
「シーツは…洗えばなんとかなると思う」
「うん」
「でも、マットレスは無理だ。…買い替えるしかない」
しばしの沈黙のあと、黒瀬は真顔で言った。
「弁償する」
「えっ、いいよ、そんなの」
私は慌てて手を振ったけど、黒瀬の表情はまったく揺るがない。
「それくらいさせろ。俺のせいなんだから」
強引だけど、変に律儀。彼のそういうところを、私はもう何度見たことだろう。
「……わかった。じゃあ、お願いしようかな」
観念してそう答えると、黒瀬は小さく息を吐いた。
「俺が原因なんだから当然だろ」
そう言いながらキッチンへ向かい、冷蔵庫から新しい水のボトルを取り出してくれる。どこか手慣れた動きで、でもやっぱりぎこちなさも残っていて。
なんというか…この人、ほんとにずるいな、と思う。やらかしたことはそれなりに大きいのに、誠実な態度を見せられると、怒るに怒れなくなってしまう。
「黒瀬ってさ」
私はボトルを受け取りながら、ぽつりと呟いた。
「強引なのに、優しすぎるんだよ」
黒瀬は一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。
「お前の前じゃ、そうなる」
その声が真っ直ぐすぎて、胸がきゅうっと鳴った。また不意打ちだ。ほんとに、こっちのペースを乱してくるのが得意な男だ。
- - -
とりあえず、黒瀬に介抱してもらいながらシャワーを浴びることになった。お互い体はべたべたで、気持ち悪さが勝っている。いや、恥ずかしさもあるけれど。マットレスはないと困るが、私は今日一日…いやもしかしたら数日はまともに動けないかもしれないため、あとで黒瀬が買いに行ってくれることになった。
「とりあえず、俺が全部やるから」
そう言って、タオルや着替えを用意してくれる。その動きがやけに丁寧で、やけに優しい。腰にそっと手を添えられて立ち上がる時、私はつい口にしてしまった。
「昨日の黒瀬、誰だったんだろ」
「…俺も聞きたい」
苦笑いを浮かべながらそう答える彼は、まるで別人だった。昨夜の猛獣みたいな黒瀬と、今ここにいる反省モード全開の黒瀬。どっちが本物なのか少しわからなくなる。
「今度こそ、ほんとになにもしないから」
と、わざわざ前置きしてくれるあたり、ちゃんと自覚はあるらしい。
私は笑って、「信じていいの?」と茶化しながら、ゆっくりとバスルームへ向かった。
「さすがに体痛めてるお前に無理させるほど……いや、もう十分無理させたけど」
自分で言って自分で気まずくなる黒瀬の横顔に、ぷっと吹き出してしまった。
「黒瀬、昨日のことだいぶ引きずってるでしょ」
「いや…そりゃ引きずるだろ。お前が歩くのもしんどそうなの見たら、俺がどんだけ鬼だったか思い知るし…」
声が妙に小さくて、目も合わせてこない。あれだけのことをやっておいて、今更反省してもしきれないって顔してるのが、ちょっとおかしい。
「ほんとだよ。私じゃなかったら今頃逃げられてるよ」
くすくす笑いながらそう言うと、黒瀬は一瞬ぎょっとして、すぐに真剣な顔になった。
「お前じゃなかったら、俺はあんなふうにならなかった」
それは唐突だけど、真っ直ぐな言葉だった。胸のあたりがきゅっと音を立てるように、少しだけ揺れた。
「はいはい、大型犬モード発動中ですね」
わざとらしく肩をすくめてからかうと、黒瀬は耳まで真っ赤にしながら「もう好きに言え」と小さな声で拗ねた。それが可愛くて、ついまた笑ってしまった。
「ゆっくりな、痛かったらすぐ言えよ」
黒瀬はいつもよりずっと静かで、私を抱きかかえる腕にも、慎重すぎるほどの気遣いがあるのが伝わってくる。
バスチェアにそっと座らされて、私はふっと息を吐いた。太ももに力が入らず、無意識に黒瀬の腕をぎゅっと掴んでいた。
「ほら、やっぱり無理させすぎた」
黒瀬はまるで自分を責めるように呟くと、膝をついて私と目線を合わせた。その顔はどこか寂しげで、昨日の獣じみた彼とは別人だった。
シャワーの音が静かに響く。黒瀬はお湯の温度を手で確かめてから、私の足先にそっと流してくれる。
「悪い…ちょっとだけ触るぞ」
黒瀬の声はお湯の音に少し搔き消されながらも、どこか震えていた。脚の間をそっと撫でる手はいやらしさの欠片もなく、ただ私を清めるような優しい動きだ。
「…ん、大丈夫」
短くそう返す。けれど、お湯が当たる度にぬるりとした感触が広がり、その感触に黒瀬も私も昨夜のことが一気にフラッシュバックし、少し緊張が走った。が、黒瀬は私よりも遥かに気まずそうだった。
「…マジで俺…最低だったよな」
俯きながらも、手は決して乱暴にならず、むしろ慎重すぎるほどだ。私が笑うと、黒瀬はさらに気まずそうに目を逸した。
「まあ…ちょっと戸惑ったのは事実かな。黒瀬があんなふうになるなんて」
「あんな俺、自分でも知らなかった」
真面目な顔をしながらもそう言った彼の瞳は、昨日とは違う、どこか怯えたような色があった。
「お前のこと、好きすぎるんだと思う。抑えきれなかった」
少し俯き加減に吐き出された言葉が、胸の奥に小さく刺さる。
昨日の彼は確かに暴走してた。でも今目の前にいるのは、あの黒瀬とは真逆に、私のことを思い詰めるほど真剣な黒瀬だった。
「昨日みたいなの、もう二度としない」
黒瀬はゆっくり私を抱きしめると、首筋におでこを押し付けた。その声はかすかに震えていた。
「ほんと?」
「ほんとだ。絶対止める」
黒瀬の腕の力が少しだけ強まる。まるで自分に言い聞かせているようなその声に、私は小さく笑った。
「そっか、信じるね。ん〜、でも…たまーになら、いいかも?」
黒瀬の頭を撫でながら言うと、黒瀬は明らかにビクッとして、顔を上げずに小さく「お前…悪魔かよ…」と呟いた。その反応が可愛すぎて、私はまたははっと笑ってしまう。笑い声に反応するように、黒瀬の肩が小さく震えていた。笑っているのか、それとも昨日を思い出して必死に何かを抑えているのか。どちらにしても、耳がほんのり赤くなっているのが、可愛くて仕方がなかった。
「たまーにって言っただけじゃん。毎回OKなんて言ってないでしょ?」
私が追討ちをかけると、黒瀬はゆっくり顔を上げて、少しだけ唇を尖らせた。
「そういうの、ほんと罪だから」
「なにが?」
「…わかってて言ってるだろ」
少し恥ずかしそうに視線を逸した黒瀬が余計に可愛い。
「ちゃんと拒めよ…俺が悪いけど、心配になるわ…」
言いながら、黒瀬は私のおでこに自分のおでこをそっと重ねた。腕の力は変わらずに、でもその抱きしめ方には、昨夜とはまるで違う、丁寧さと真剣さが込められていた。
「あんなふうになった俺を見て、怖くならなかったかって思うと…」
声が少しだけ掠れている。黒瀬の胸元から伝わる鼓動は、私のより早くて不安定だった。
「だから、無理な時はちゃんと止めてほしい。じゃないと俺…お前が苦しい思いするかもしれないのに止まれない」
そう言ってようやく私の目を見た黒瀬の瞳は、ひどく真面目で、どこか脆さを含んでいた。
「狂気じみてたよねぇ、怖いなんて思う暇もないくらいだった」
「…からかうなよ」
あえて明るい声でそう言ってみたが、黒瀬は小さく眉を寄せて、私の肩におでこをこすりつけるようにしながら低く呟いた。茶化しに対して笑ったりもせず、ただひどく不安そうな声。
「本当に…怖くなかったか…?」
ぎゅっと抱きしめる腕の力が強まる。心の奥底では、きっと私が“怖かった”と言うのを覚悟していたのだろう。けれどその言葉を聞きたくないのか、黒瀬はわずかに震える吐息を私の首元に落とした。私はなだめるように、黒瀬の背中をぽんぽんと叩いた。
「私が気絶しなかったらどうなってたんだろ?」
「……考えたくねぇ」
肩に額を押し付けたままの黒瀬が、低くかすれた声で吐き出した。ぞっとしたように背筋が小さく震える。
「気絶しなかったら…俺、たぶん本当に、お前を壊してた」
苦しそうに笑うその声には、自己嫌悪と恐怖が混ざっていた。そして次の瞬間、腕の力がまた少し強まった。
「ごめん、ほんとに」
背中をぽんぽん叩く度に、黒瀬の呼吸がわずかに乱れているのが伝わった。
「黒瀬のがよっぽど怖がりだね」
そう言って笑うと、黒瀬は再び顔を上げて視線を合わせてきた。
「……お前、なんにもわかってねぇ」
その瞳には少しの苛立ちが宿っていた。やばい、からかいすぎた…?そう思ったけど、抱きしめる腕が震えている。
「俺がお前のこと、どんだけ大切に思ってるか、全然わかってねぇ。だから…あんなことした自分が、自分でも怖いんだよ…」
不意に胸の奥が締め付けられるような感覚が走った。黒瀬は視線を逸らさず、まるで自分を罰するかのように絞り出す。
「お前が怖がる暇もないくらい、俺が、お前を壊しかけたんだぞ」
言葉の端々に滲む苛立ちは、私に向けられたものじゃない。彼自身に向けられた怒りだと、すぐにわかった。強く抱きしめる腕。震える声。昨日の彼がどれだけ激しくても、今日の彼は、それ以上に不器用で、優しすぎて、どうしようもなく人間だった。
「……黒瀬」
私はそっと手を伸ばし、黒瀬の頬に触れた。
「わかってるよ。私だって、黒瀬がどれだけ私を大事にしてくれてるか、ちゃんとわかってる」
黒瀬の瞳が、ほんの一瞬揺らいだ。
「そんな黒瀬だから、全部受け止められたし…黒瀬だから、私は怖くなかったの」
完全に言葉を失った黒瀬の喉が小さく鳴る。震える手が私の頬に重なり、そのままおでこを寄せてくる。
「そんなこと言うなよ、ますます離れられなくなるだろ」
「あら、離れるつもりあったの?」
私が茶化すと、黒瀬は一瞬気の抜けたように目を細めて、かすかに笑った。
「ないよ。毛頭ない」
私たちは静かに笑いながら、また少し強く抱き合った。
- - -
お風呂から出て、黒瀬に手伝ってもらいながら部屋着に着替えた。リビングまで連れて行ってもらい、ソファの前にちょこんと座る。ローテーブルに置いた卓上三面鏡を覗き込んで、スキンケアを始める。指先で頬を撫でながら、自分の顔をまじまじと見つめていると、ふとぽつりと独り言がもれた。
「……なんか、肌ツヤいい気がする」
別に誰に向けてでもなかった。ただの感想だった。でも、背後で水を飲んでいた黒瀬には、ばっちり聞こえてしまったようで。それを聞いた瞬間黒瀬は盛大にむせ込んだ。
「お、まえ…っ!ちょっとは危機感持てよ…!」
「え、な、なんで怒るのよ!?別に変な意味じゃなくて…!」
私は慌てて両手をブンブン振るけど、黒瀬は顔を真っ赤にしてタオルで口元を押さえていた。
「変な意味じゃなくて…?肌ツヤいいとか、今言うか普通…!」
「だって鏡見たらそう思っちゃったんだもん…!」
そう言い返したら、黒瀬はタオル越しに「……もう、バカ」とかすれた声で呟いた。その低い声に妙にドキッとしてしまう。
でもゆっくり後ろを振り返って見たら、黒瀬が耳まで真っ赤にして顔を逸していたから、思わず吹き出してしまった。
「ねぇ黒瀬、赤すぎない?」
「黙れ…」
軽く睨まれて、ますます笑いが込み上げてしまう。
「あーもう、いいから髪拭けって」
黒瀬は観念したようにこちらを見ると、無理矢理私の顔を鏡の方に向けさせ、タオルで私の髪をわしゃわしゃと拭き始めた。
「今日ばっかりは、全部お前のペースだな」
「そりゃそうでしょ。昨日あれだけされて、今私が勝てなかったら理不尽すぎるし」
冗談めかして笑うと、黒瀬は片方の口角を引き上げて苦笑いした。いつもならここで何か一言言われて巻き返されるのに。どうやら今は何も思い浮かばないらしい。
「…ほんと、今日のお前には勝てる気がしない」
そう言って黒瀬は私の髪を優しく撫でた。そこには、悔しさもわずかにあったけど、それ以上に安堵と愛おしさが滲んでいた。
黒瀬にドライヤーをしてもらって、黒瀬も持ってきていた着替えに着替えた。
黒瀬はレンジで温め直した昨日の唐揚げや筑前煮をテーブルに並べていた。
「残り物でごめんだけど…これならすぐ食べられるしね」
「十分だろ。つかこれ、昨日より味染みてないか?」
黒瀬は筑前煮を見て、ふっと笑った。私もつられて笑う。
「そりゃあ一晩置いたからね、煮物の本領発揮よ」
お茶と水を用意して、二人並んでテーブルに座る。黒瀬は箸を持つと私を横目で見て、小さく「いただきます」と呟いた。私もそれに倣って手を合わせてから唐揚げを一口。昨日よりなんだか味が優しい。いや、たぶん、黒瀬が隣にいるってだけで、色んなことがふんわりするのかもしれない。
「…なんか、こういうの、いいね」
「…ああ」
昨日の獣じみた夜が嘘みたいに、穏やかで柔らかい空気が流れていた。
それから、結局昨日は食べずじまいになってしまった黒瀬が持ってきてくれた和菓子も出してきて、食後の軽いデザートにした。黒瀬は和菓子の箱を開けると、少し照れくさそうに笑った。
「なんか、こうしてると、ちゃんと普通のカップルっぽいな」
「ふふ、昨日の私達、普通じゃなかったもんね」
そう言った瞬間、黒瀬が「ぐっ」と言いながらむせた。私はわざとらしく口元を隠して笑う。
「お前、絶対わざとだろ…」
「そんなことないよ〜?」
私は上機嫌でお茶を一口。ああ、昨日はお酒を飲むどころじゃなかったな。…まいっか。なんてぼんやり考えながら、優しい甘さの和菓子を口に運んだ。
黒瀬はさっきまで拗ねた顔をしていたと思ったら、急に黙り込んで腕を組んだ。真剣そのものの顔つきで、何かと格闘しているらしい。
「どうしたの?」
私が声をかけると、黒瀬はうんと考え込んだ後で、ぽつりと呟いた。
「意志が強くなる方法、ねぇかな」
「ぶっ…!」
普段頭の切れる黒瀬が大真面目にそんなことを呟くのがおかしすぎて、私は我慢できず声を上げて笑ってしまった。黒瀬は私の笑い声に頬を膨らませるような、でもどこか居心地悪そうな顔をした。
「な、なんだよ…笑うなよ。こっちは本気なんだって」
「ごめんごめん。でも、あの黒瀬が真面目にそんなこと言うなんて可愛くて」
「可愛いじゃねぇ…ほんと俺、お前の前だとダメなんだって」
必死に否定しながらも顔はうっすら赤くなっていて、それが余計に真実味を帯びていた。
「はいはい、でもそんな黒瀬も含めて好きだよ」
言った瞬間、黒瀬は目を丸くし、それから恥ずかしそうに目を逸した。
「……だからずるいって、そういうの」
その言葉にまた頬が緩む。お茶をまたひと口。カップの湯気の向こう、拗ね顔の黒瀬がやけに愛おしかった。
- - -
少し食休みした後、黒瀬はマットレスを買うために家具屋さんに出かけることになった。
玄関まで見送ろうと思ったけど、「あんまり動くな」とやんわり制されてしまった。
「ほんとにいいのに」
「それはこっちのセリフだ。これくらいしなきゃバチが当たる」
「ほんと変なとこ律儀だなー」
ふふっと笑うと、靴下を履き終えた黒瀬がちらりとこちらを見やった。
「お前に関わることだけは放っとけねぇだけ」
「…そっか。じゃあ、行ってらっしゃい」
「おう。何かあったらすぐ連絡しろよ」
そう言ってリビングのドアを開ける黒瀬。出かけるだけなのに、なんだか名残惜しい気持ちになるのはなぜだろう。
「気をつけてね」
「わかってる。ちゃんと待ってろ」
黒瀬は振り返りざまに優しく笑ってから、ドアの向こうに消えていった。玄関が閉まる音を聞いてから、私はそっとソファに寝転んでぼんやりと天井を見つめた。
ここから黒瀬が出て行って、またここへ帰ってくる。ただそれだけのことなのに、胸の奥がふわっと軽くなっていく。一緒にいることが日常になりつつある。だけどその“当たり前”がなんだかとても愛おしい。
「…なんか、家族みたいだな」
ぽつりとこぼれた独り言が、部屋の中でゆっくりと溶けていった。笑みが頬に残ったまま、まどろみの中に身を預ける。そのまま静かに、私は眠りに落ちた。
黒瀬はただの同期だと思ってた 髪川うなじ @unaji_k_1s
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