「……ん」

 カーテンの隙間から差し込む光が瞼を照らし、ゆっくりと目を開ける。見慣れないカーテン。いつもと違うベッドの肌触り。そして、背後から聞こえてくる穏やかで寝息。

 いつもなら、「ここどこ!?」と混乱していただろう。でも、今は違う。昨夜はお酒も飲んでいなかったし、頭もはっきりしている。記憶は一つも抜け落ちていない。すべて覚えてる。

 そうか、私、黒瀬と──

 背中に伝わるぬくもりがじんわりと優しくて、胸の奥がふわりと温かくなる。お腹のあたりには彼の腕がしっかりと回されていて、包まれるような安心感に思わず頬が緩んだ。

 ゆっくりと体をもぞもぞと動かして振り返ると、そこにはいつもの皮肉げな笑みも、飄々とした余裕もない、まるで少年のように無防備な黒瀬の寝顔があった。

「…寝顔、可愛いじゃん」

 思わず微笑んでしまう。こんな表情、誰にも見せてないんだろうな。いたずら心がくすぐられてそっと指先で頬をつついた、その時だった。

「誰が可愛いって?」

 ぱちりと、と黒瀬が目を開け、視線がぶつかる。

「く、黒瀬いつから起きて…!?」

 驚いて身を引こうとするけど、腰に回された腕がそれを逃がさない。黒瀬は私の身体をゆっくりと、でも確実に引き寄せた。

「お前の寝顔の方が、よっぽど可愛かったけどな」

 くすっと笑いながら鼻先が触れそうなほどの距離で囁いてくるその顔に、頬が一気に熱を持つ。

「おはよう、由佳」

「お、おはよ」

 精一杯の平静を装って答えると、黒瀬はどこか満足げに口元を緩めた。

「あー…この時間やばいな。離したくねぇ」

 そう言って額をコツンとくっつけてきて、子どもみたいに軽くぐりぐりと押し当ててくる。からかっているのかと思えば目尻が少し緩んでいて、そんな黒瀬の姿が愛しくて、胸の奥にじんわりと温かなものが広がっていく。

 しばらくそのままでいた後、黒瀬はゆっくりと上体を起こした。

「水、飲むか?」

「あ、うん…飲みたいかも」

 言われてみれば喉がカラカラだった。昨夜の熱がまだ身体の内側に残っている気がして、冷たい水が恋しくなる。

「わかった、待ってろ」

 そう言って立ち上がる前に、黒瀬はそっと私の髪をくしゃっと撫でた。昨夜の彼からは想像もできないほど、どこか柔らかくて、心の底から穏やかだった。

 寝室から出ていく後ろ姿を、私はぼんやりと眺めていた。

 あ、寝癖。

 逞しい背中と、広い肩。そして、ぴょんっと跳ねた一房の髪の毛が可愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。

 私もゆっくりとベッドから起き上がる。身につけた衣服は昨日の乱れたままではなく、あらかた直されていた。下着もシャツも、最低限のものがきちんと身につけられている。やっぱり、変なところで真面目なやつだ。

 そんなことを考えていると、グラスを持った黒瀬が戻ってきた。

「体、痛まないか?」

 ベッドに腰を下ろし、私にグラスを差し出す黒瀬。それを受け取りながら、私は「ちょっとだるいけど、大丈夫」と返事をした。

「黒瀬、昨日“今日はなにもしない”って言ってたのにね」

 水を飲みながら、わざとらしくおどけて言うと、黒瀬は少し目を細めた。

「ああ…言ったな。でも」

 だけどすぐにゆっくりと口角を上げて、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「あの時、“もう我慢しないで”って言ったのお前だろ?」

「う…」

 ぐうの音も出ない。それはそうだ。最終的にOKサインを出したのは、私の方だ。

「あの一言で、全部持ってかれた」

 私の反応を見て、黒瀬は小さく喉を鳴らして笑った。けど、ふっと優しい表情に戻った。

「…とはいえ、昨日は俺が悪い。ちゃんと反省してる。無理させたな」

 そう言って私の頭にぽんっと優しく手を置く。予想していたよりも素直な言葉に少し驚いてしまう。肩透かしというか、ちゃんとしてるというか…。

 ほんとに、こういうところが黒瀬だなって思った。

 そんな私の心境を見透かしたのか、黒瀬はふっと目を細めて笑い、頬に触れるだけのキスを落とした。その唇は柔らかく、温かかった。


 - - -


 その後、黒瀬はシャワーを浴びに行き、出てきた黒瀬と入れ違いで、私もシャワーを借りることにした。…結局、汗かいたし。

 お風呂場を出て、黒瀬が新たに用意してくれた部屋着に袖を通す。髪の毛を乾かそうと洗面台の鏡を見た時、ふと鏡の中の自分に違和感を覚えた。

「ん?」

 左の首筋に、うっすらと色がついているのが見えた。

「これ…見えそう」

 絶妙にシャツの襟から出そうな位置だ。どうしたものか。絆創膏で隠すのはいかにも“キスマーク隠してます”って感じだし。コンシーラー…?でも襟が擦れたらそれも意味なさそう。

 鏡とにらめっこしながら、うーんと唸っていると、「何してるんだ?」と不意に声をかけられた。

 ビクッとしてそちらを見ると、脱衣所のドアに黒瀬が立っていて、腕を組みながらこっちを面白そうに眺めていた。

「だから気配消すのやめてってば」

「今のは俺、ノックしたけど?」

 それは全然気づかなかった…。

 一部始終見ていたのであろう黒瀬は、私に近づいて首筋の痕をそっと指先で撫でた。

「嫌だったか?」

「……嫌では、ないけど」

 急に甘い声でそんなことを言われて、思わず視線を逸らしてしまう。そんな聞き方、ずるいと思う。

 黒瀬は私の返事に、あのくせのある笑い方で小さく笑った。

「…これくらいなら、月曜には薄くなってるだろ」

 そう言われた一言がふわりと胸に落ちて、そこから思考が静かに広がっていった。

 月曜日。会社。──高橋さんに会う日。

 昨日のことが、胸の奥でまだ柔らかく疼いている。それが後悔ではないと知っているのに、どうしてだろう。うっすらと胸が痛んだ。

 黙り込んだ私を見て、黒瀬がそっと肩に手を置いて目線を合わせてきた。静かに、でもはっきりと聞いてくる。

「……高橋さんか?」

 私は目を伏せたまま、小さく頷いた。

 高橋さんが、なぜあんなにも“二人で飲む”ことにこだわったのか。あの日の居酒屋が、どうしてわざわざ個室だったのか。「取られるのが嫌だった」と黒瀬が言っていたこと。何かを言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ高橋さんの顔。

 黒瀬に散々「鈍感」といじられた私でも、さすがに気づいてしまった、高橋さんの気持ち。

「…全然、気づかなかったな」

 ぽつりと、落ちるように言葉をこぼした。黒瀬は小さく息を吐いて、私の頭をくしゃっと撫でた。いつもの軽口を叩く時の手つきとは違っていた。

「…後悔してる?」

 ぽつんと落ちた問いかけが、胸の真ん中に波紋をつくる。

 私は高橋さんのことを、人としてはすごく好きだ。尊敬もしているし、優しい人だとも思う。でも、それだけだった。たとえあのまま二人で飲みに行って、高橋さんに想いを告げられたとしても、私はきっとその気持ちには応えられなかったと思う。

 私は静かに、でも迷いなく、首を横に振った。

「…そっか。でも、ずるいやり方したのは俺だからな、ケジメはちゃんとつけるよ」

「ケジメ?」

「お前はなんも心配すんな」

 黒瀬は、ふっと笑って、私の頭に置いた手でぽん、ぽん、と優しく二度叩いた。その仕草がなんだか安心させるようで、同時に少し切なくもあった。

 

 でも、ひとつだけ、どうしても引っかかることがあった。

 どうして黒瀬は、私が高橋さんと飲みに行く予定だったことを知っていたんだろう。私は特に誰かに話した覚えはないし、もちろん黒瀬にも言っていない。なのに、なぜ。

「ねぇ黒瀬…なんで昨日、高橋さんと飲みに行くこと知ってたの?」

 その問いに、黒瀬は一瞬だけ目を逸らした。“言うべきか”とほんの少し逡巡したかのように。そして次の瞬間、諦めたようにゆっくりと視線を私に戻した。

「…正直に言うと、ほんとに偶然だったんだ」

 ぽつりと始まった言葉に、私は自然と耳を傾けていた。

「高橋さんが、廊下で誰かに話してるのをたまたま聞いた。“気になってる人を飲みに誘った”って。その時、すぐにピンときた」

「え…?」

「お前のことだってすぐにわかった。高橋さんがお前のこと好きなのは知ってたからな」

 知らなかった。全然、そんな素振りすら気づかなかった。というか、私は全然気づかなかったのに、黒瀬は前から高橋さんの気持ちを知っていたのか。悔しいけれど、こればかりは「鈍感」と言われても頷くしかないのかもしれない。

「ほぼ確信してたけど、社食でお前に『デート楽しみか?』って聞いたのは、かま掛けだった」

「えっ、そうだったの?」

 黒瀬は呆れたように、でもちょっとだけ得意げに笑った。つまり、私は黒瀬の術中にまんまとハマったということだ。

「それであんな嘘を…?」

「…ああ、そゆこと」

 言葉を濁すようにして、黒瀬は少しだけバツが悪そうに視線を落とした。

「お前に嫌われる可能性があっても、ああするしかなかった。俺はもうお前を手放す気はなかったし。あの日を繰り返すなら、俺は何度でも同じことをするだろうよ」

 最後はもはや自嘲のようだった。黒瀬は視線を私に合わせると、少し照れたように目を細めた。

「…それでも、お前が今俺のそばにいる。それが信じられないくらい、嬉しいんだよ」

「黒瀬…」

 真っ直ぐな目。真っ直ぐな声。

 どうしてだろう。心の奥がじんわりと温かくなる。

 真っ直ぐなものは、時に痛いけれど、こんな風に優しくて、嬉しいものでもあるんだ。


 すると突然、黒瀬の人差し指が、つんっと私のおでこを小突いた。軽い力だったけれど、彼の表情はどこか拗ねたようで、でもほんの少しだけ甘えるような感じもあった。

「…でもお前、ニヤニヤしすぎだった」

「…私がニヤニヤしてたとしたら、それはお酒が飲めるからってだけだよ」

「……酒に嫉妬した俺どうすんだよ」

 私はおでこを押さえながら、わざとらしく笑って返した。

「ふふ…お酒はしょうがないよ、私の週末の恋人だし?」

 ちょっとだけ意地悪な言い方をしてみる。黒瀬は一瞬「は?」という顔をしたあと、すぐに目を細めて笑った。

「じゃあ俺は、“365日の本命”がいい」

 こいつはほんとに…たまにこっちが恥ずかしくなるくらいキザなことを言い出すから困る。

「週末だけの恋人なんかに負ける気しねぇよ。なんならもっと痕つけてやろうか?」

 黒瀬はわざとらしく私の首筋に指を添えた。しかも、痕がない右側。からかい半分、本気半分の声色。それは昨夜の荒々しい黒瀬を思い出させる響きだった。顔が一気に赤くなる。

 ダメだ。ずるい。この黒瀬には敵わない。

「…はぁ、私一生黒瀬にからかわれ続けるんだろうなぁ」

 ため息をひとつ。それは皮肉と、満更でもない気持ちが混ざっていた。

「…そうかもな」

 黒瀬は私の言葉に小さく笑い、今度は優しい声で囁いた。

「だけど、一生、お前だけだから」

 低く、甘く、それでいて妙に真剣な声。まるでプロポーズみたいなことを、そんなさりげなく言わないでほしい。

 最初に「一生」という言葉を使ったのは私だけど…それをあんな風に返されると、まるで負けたみたいな気分になる。熱がふわっと頬に広がって、思わず視線を逸らした。そんな私を見て、黒瀬は「ははっ」と笑った。

「照れてんのか?」

「うっさいばか」

「……可愛い」

 黒瀬の指がゆっくりと私の頬をなぞる。そのままそっと顎先を持ち上げられた。その視線は、まるで逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだ。

「く、黒瀬…」

 ゆっくりと顔が近づいてくる。昨日散々キスだってしたというのに、いざ唇が近づくと、なぜか心臓がばくばくして、後ずさりしてしまう。

 が、その時。

 

 ──ぐぅぅ〜〜……


「………」

「………」

 静かな部屋に、一際響いた間抜けな音。

 腹の虫は正直だ…。そういえば、昨日のお昼以降何も食べていない。

「え、えっと…」

 自分のお腹が鳴ったことに赤面する。黒瀬は耐えきれなかったのか、肩を震わせながらくすくすと笑っていた。

「お前、ほんと…タイミング完璧すぎ」

「ご、ごめん、つい…」

「腹の方が俺より優先か」

 わざと拗ねたように呟くが、その声はどこまでも楽しげで優しかった。

「いや、それを聞きに来たんだった。何食いたい?俺が作る」

「え、黒瀬が作ってくれるの?」

 その言葉に驚きながらも、思わず目を輝かせた。

 黒瀬が料理なんて意外…でもないかも。そういうところ、私より器用そうだもんな。

「黒瀬が作ってくれるならなんでもいい」

 素直な言葉がこぼれる。ちょっとワクワクしている自分をうまく隠せなかった。私は元々食べることが好きだけれど、誰かが作ってくれるごはんというのは、また格別だ。

 そんな私を見た黒瀬は、前髪をかき上げながら楽しそうに口元を緩めた。

「なんでも、ね。じゃあ遠慮なく俺の気分で作らせてもらうわ」

 そう言ってキッチンに向かうのかと思ったら、黒瀬は一度立ち止まり、洗面台の横の棚からドライヤーを取り出した。

「その前に。いい加減、髪乾かせ」

「あ…」

 すっかり忘れていた。タオルを巻いたままの髪に触れて、ちょっとだけ恥ずかしくなる。

 黒瀬は呆れたように、でもどこか楽しそうに笑って、ドライヤーのコードをコンセントに差し込んだ。そのまま私の後ろに回り、髪を乾かしてくれた。ぶおん、という音とともに、ぬるい風が後頭部を優しく包む。風と一緒に彼の指が髪の毛を梳くたびに、じんわりと心まで解されていくようだった。


 二人でリビングに移動すると、黒瀬に「座って待ってろ」とソファに座るよう促される。人様の台所にいきなり立ち入るのも悪いかなと思い、私はその言葉に甘えることにした。

 黒瀬は私がソファに座ってクッションを抱えたのを確認すると、満足そうに頷き、カウンターに置いてあったエプロンを身に着けキッチンに向かっていった。

「わ……」

 小さく声が漏れた。シャツの上からエプロンを結んでいるだけなのに、なんだかものすごく格好よく見える。

 というか──刺さる。

 なにこのエプロン姿…反則では?

 彼がキッチンに入っていく後ろ姿を、クッションをぎゅっと抱えたまま、ドキドキしながら見つめていた。こっちを振り返らなかったのは、本当に助かった。絶対今、変な顔してたと思うから。


 - - -


 キッチンから聞こえてくるのは、リズミカルな包丁の音、フライパンに何かが落ちるジュッという音、そして時折黒瀬の低く小さな鼻歌。そのうち、部屋にはいい匂いも漂ってくる。バターと醤油の香ばしさ、少し甘い匂いも混ざって、私の食欲は完全に刺激された。

「もう無理…またお腹鳴りそう」

 クッションに顔を押し付けていると、いつの間にかそこにいた黒瀬が少し笑いながら声をかけてきた。

「お前、なに可愛いことしてんだよ」

 手にしたトレイには、湯気の立つ料理と、二人分のスープが乗っている。

「はい、お待たせ」

 ソファテーブルに置かれたお皿には、照り焼きチキンの香ばしい艶と、彩りのいいサラダが並んでいる。スープはコンソメ仕立ての優しい香り。

「う、わぁ……」

 思わず感嘆の声が漏れる。朝からこんな…贅沢すぎる。

 ……ん?“朝から”?待て、今何時だ?そういえば、起きてから時計を確認していない。テレビ台の上の置き時計を見ると、もうすぐお昼の十二時になろうとしていた。

 なんだ、もうお昼じゃん。そりゃあお腹も減るよ。とひとりで妙に納得し、ははっと笑ってしまう。

「私達、随分寝てたんだね」

 黒瀬は私の言葉に一瞬、なんのことだ?って顔をしたけど、私が時計を指差すと、すぐに察してらしく少し肩をすくめて「そうだな」と笑った。

「食べよう。もうお腹ペコペコ。ほら黒瀬も座った座った」

 私が作ったわけじゃないのに、どこか得意げにソファの隣をぽんぽんと叩いた。その様子に黒瀬は少し呆れた顔をした。

「昨日と逆じゃねぇか」

 苦笑しながらも、黒瀬は私の隣に腰を下ろした。肩と肩がほんの少し、触れそうで触れない。

「ほら、冷める前に食え」

「いただきます!」

 黒瀬に横目で促され、私は手を合わせた。早速ひと口食べる。

「ん〜〜〜おいしい!」

 口の中にじゅわっと広がる甘辛いタレと、しっとり柔らかいお肉。空腹が後押ししていたのもあるけど、それ以上に、味そのものが私の好みにぴったりだった。

「黒瀬って料理上手なんだね〜。いい奥さんになれるよ!」

 なんて冗談を言いつつ、箸は止まらない。

「はあ〜おいしいご飯って幸せ〜」

 ひとりでほくほくしながら食べていると、ふと、黒瀬が横でこちらをじっと見ていることに気づいた。

「…どしたの?食べないの?」

 手で口元を隠してモグモグしながら聞くと、黒瀬は「…いや、ちょっと」と言葉を濁しながら、少し目を細めて静かに笑っていた。やっと自分の箸を動かし始めたけど、その視線は何度も私に戻ってきた。

「…お前が俺の飯食って、そんな幸せそうな顔してるの。なんか、ヤバいくらい好きだなって」

 さらっと言ったわりに、黒瀬の耳の先はほんのり赤くなっていた。

「う…わ、私そんながっついちゃってた…?」

 慌てて箸を置いた。食べてるところを見られていたのが地味に恥ずかしい…お腹が空いていたし、おいしいから、夢中で食べてしまっていた。思わず顔を逸らしてこめかみをかくと、黒瀬は静かに首を横に振った。

「いや…可愛すぎて見惚れてただけ」

 ふっと柔らかく笑った後、黒瀬は食事に向き直ってご飯をひと口食べた。

「…ほんと、一生隣で飯食わせたい」

 ぽつりと呟かれた言葉に、心臓がドッと跳ねる。さっきからさらっとプロポーズまがいなことを言われるのは、心臓に悪い。

「……顔赤い」

 私を横目でチラッと見た黒瀬が呟く。だけど、そう言う黒瀬の耳もさっきからほんのり赤い。

「…ほら、食え、冷める」

 黒瀬は視線を逸らしながら、箸を動かし始める。私も小さく頷き、箸を取り直す。そうだ、おいしいものは温かいうちにいただくのが礼儀だ。

 二人で箸を進めるたびに、その距離は不思議と近く感じる。食事をしながらの穏やかな時間が、まるでずっと前から一緒にいるような心地よさを生んでいた。

「……なぁ」

 ふと、黒瀬が小さく呟いた。

「こうやって並んで飯食うの、毎日でもいいな」

 一瞬、箸が止まる。横を見ると、黒瀬はお茶を飲みながら穏やかな顔をしていた。でもその目はどこか真剣で、冗談じゃないことが伝わってくる。

「…ふふ、『毎日私に味噌汁を作ってください』ってやつ?」

 軽く笑いながら言ったつもりだったけど、自分の口から出た言葉に私自身がぎょっとして固まってしまう。私までプロポーズまがいなこと言ってしまった。今のは確実にアウトだ。

 黒瀬は驚いたように目を見開いて、そしてゆっくり私を見た。

「…おい、それ、覚悟ある発言だよな?」

「え、え、えっと…」

 低くて甘い声。獲物を追い詰めるみたいな目をして、その視線には昨夜と同じ熱が宿っている。

「毎日味噌汁作ってほしいなら、毎日抱くけど?」

 わざと耳元に顔を近づけて囁き、口角を上げた。顔に一気に熱が集まるのがわかる。その様子を見た黒瀬は満足そうに喉の奥で笑った。

「く、黒瀬…」

「冗談。でも、半分は本気」

 そう言って何事もなかったかのように箸を持ち直す。その軽さが余計にずるい。

「俺が作るのもいいけど、お前の作った味噌汁が飲みたいところだな」

「わ、私ここまで料理上手じゃないし…」

 恥ずかしさから俯いてそう返すと、黒瀬はふっと笑った。その笑顔には少しだけ照れが滲んでいた。

 お互いにちょっとずつ赤くなりながら食べるご飯は、さっきまでと同じ味なのに、なぜか少し違って感じられた。

 なんだろう、この不思議な味。

 優しくて、ちょっとしょっぱくて、でも噛むたびにちゃんと嬉しい。

 そういう味が、たぶん、「一緒にいる」ってことなんだろうなと思った。

「でも、そうだね…お礼に今度は私が何か作るよ」

「え…」

 何気なくそう言ったつもりだったのに、黒瀬の箸が止まった。静かにじっと私の方を見る。そんなに驚くこと?と思いながら、「黒瀬、何が食べたい?」と笑って尋ねると、彼は少しだけ目を逸らした。だけどその口元はふわっと緩んでいて、どこか嬉しそうだった。

「…お前が作るもんなら、正直なんでもいい」

 淡々とした声。けれど、その瞳の奥にあるぽつんと浮かんだ期待みたいなものが見えて、私は少しだけ胸がくすぐったくなる。

「強いて言うなら、煮物」

「煮物かぁ」

 ふむ、と手で顎を支えながら考え込む。

 その様子を見た黒瀬が、冗談めかして言う。

「練習するなら付き合うぞ」

「えっ、や、やだよ!努力は隠れてするものなの!」

 私は慌てて言い返した。黒瀬と一緒にキッチンに立つのも楽しそうだけど、絶対黒瀬の方が手際がいいだろうし、なんとなく、今はまだ見られたくなかった。

 でも、煮物と聞いた瞬間、私は内心少しだけニヤリとしていた。なぜなら、私の唯一の得意料理が筑前煮だからだ。祖母の代から受け継がれている我が家の味。自炊する頻度は決して多いとは言えない私でも、筑前煮だけは定期的に作っていた。実家を思い出す安心する味でもあるが、あれはお酒のアテにも最高なのだ。そんなこと黒瀬は知らないだろうけど、筑前煮なら練習する必要はなさそうだ。

「あとは…うーん…付け合わせは何がいいかな」

 頭の中で献立を考え始める。黒瀬は私がひとりでぼそぼそ呟いているのを、頬杖をついてじっと見ていた。その目は完全に緩みきっている。

 そこでふと、実家で筑前煮の時によく出てきたメニューを思い出した。よし、これでいこう。

「うん、オッケー。楽しみにしてて。あ、でもあんまり期待しないでね?」

 一応予防線を張りつつ、私はひとりで考えてひとりで解決して、ひとりで張り切っていた。

 黒瀬はふっと吹き出すと、私の髪をくしゃっと撫でた。

「期待するなって方が無理だろ」

 なんだか嬉しそうな黒瀬に、私の胸はそわそわしてくる。

「何作る気なのか気になるけど…ま、当日まで何も聞かないでおいてやる」

「う、うん…まぁ…当日のお楽しみってことで…」

 そんな期待の眼差しを向けられるとなんだかいたたまれない。おずおずと視線を逸らし、スープに口を付けた。コンソメの甘さがじんわり口の中で広がる。そういえば、出された料理はどちらかと言うと洋食だけど、リクエストは煮物だった。

「黒瀬って和食が好きなの?」

「まぁ、そうかもしれねぇな」

 黒瀬は少し目を細めてから、また箸を動かし始めた。

「ガッツリした洋食も好きだけど、和食の方が落ち着く」

 ゆっくりとご飯を口に運ぶ。その仕草はどこか柔らかく、安心したようでもあった。

「たぶん、ばあちゃんっ子だったからだな。小さい頃から家で煮物とか味噌汁ばっか食ってた」

「へぇ…」

 私は目を丸くした後、思わずふふっと笑ってしまった。

「おばあちゃんっ子の黒瀬、ちょっと可愛い」

「…可愛いって言うな」

 黒瀬はちょっと拗ねたようにそっぽを向いた。でも彼の言葉から、彼の優しさや面倒見の良さ、そして意外と几帳面な一面がある理由がわかった気がした。

「作るの、いつがいいかな」

 残りのサラダを口に運びながら呟くと、黒瀬はチラッと私を見た後、スープを飲み干した。

「俺はいつでもいいよ。お前の都合に合わせる。…でもまぁ、できれば近いうちがいいな」

 低い声で付け加えられた一言には、少しだけ甘さを含んでいた。いくら筑前煮が得意料理とは言え、食べさせる相手が黒瀬だから緊張はする。でも時間を開ければそれだけハードルも上がる気がした私は、じゃあと提案する。

「来週の金曜日、仕事終わったら…うち来る?」

 ほんのりと頬に熱が集まるのを自覚しながらも、思い切って言ってみた。

「…わかった。じゃあ金曜の夜な」

 黒瀬はゆっくり頷くと、指先で私の頬を軽く突いた。

「顔、赤い」

「うるさい…」

 そのからかうような笑顔に熱がさらに広がっていく。もうわかっててやってるとしか思えない。

「…楽しみにしてる」

 そう言って私の頬にそっと手を添えた黒瀬の顔は、ひどく柔らかくて優しかった。心臓の音がやけに大きく感じて、私は慌てて顔をそらす。

 帰ったらまず掃除と片付けだ。冷蔵庫の中身も確認しなくちゃ。そんなことを頭の片隅で考えながら、私は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

「はい、お粗末様でした」

 そう答えた黒瀬の声は、どこか満ち足りていて、すごく温かかった。




「ごめん、任せちゃって」

 食器を片付けようと立ち上がった黒瀬に手伝うよと申し出ると、「いいから座ってろ」とあっさり断られてしまった。クッションをずいっと差し出され、有無を言わさず抱きかかえさせられる。私は観念して大人しくソファで待つことにした。

 キッチンの方からは、水道の流れる音や、食器がカチャカチャと鳴る音が聞こえてくる。その音は生活の音で、なんでもないようでいて、耳に心地よく染み込んでくる。

 一人で過ごす家も嫌いじゃない。好きなものを好きな時間に食べて、誰にも気を遣わずに眠れる気楽さは、それはそれで自由で快適だ。

 でも、こうやって誰かがすぐそばで動いている気配って、なんだか思っていた以上に落ち着く。

 クッションを抱えてソファにもたれ、目を閉じてみる。お腹は程よく満たされて、心も緩んでいた。窓から差し込む午後の光がカーテン越しにふわりと揺れて、温かさがじんわり肌を包む。

 キッチンの音が遠くなっていく。黒瀬の姿は見えないけれど、そこにいるって思うだけで、どうしてこんなに安心するんだろう。

 気づけば私は、ソファの上でそっと眠りに落ちていた。


 - - -


「ごめん、すっかりお世話になっちゃって」

 うっすら目を開けたとき、私は黒瀬の膝の上で眠っていた。どうやら彼も私を膝に乗せたままうとうとしていたらしく、二人して目を覚ましたのはすっかり夕方になってからだった。

 それからの時間は、特別なことは何もなくて。二人でテレビを見たり、淹れたてのコーヒーを少しずつ飲んだり。それだけなのに、なんだかほっとするような時間だった。

 夜になり、私は自分の家に帰ることにした。昨日着ていたスーツを着て、借りていたシャツとハーフパンツを丁寧に畳んで鞄に入れる。

「洗って返すね」

 玄関でそう言うと、黒瀬は「別にいいのに」と当たり前のように返してくる。でもその声には少しだけ、名残惜しさみたいなものが混ざっていた。

 昨日から今日まで、ずっと一緒にいたのに、どうしてだろう。玄関に立っているだけで、急にこの時間が終わってしまうのが寂しくなる。たぶん、私だけじゃない。黒瀬も同じ気持ちでいるのが、なんとなく伝わってきた。

「…来週まで長ぇな」

「会社では会うけどね」

「それはそれだろ」

 ふっと笑いながら、黒瀬は私の頬にそっと手を添えた。

「本当に、帰すのやめたくなる」

 その声は優しくて、でも本音が真っ直ぐすぎて、少しだけ胸がきゅっとなる。

 引き止めてほしい気持ちと、ちゃんと帰らなくちゃっていう気持ちが混ざって、うまく言葉にできないまま、私はその手に自分の手を重ねた。

「大丈夫よ黒瀬、私も同じ気持ちだから」

 そう言うと黒瀬は少しだけ目を見開いて、「参ったな…」と小さく笑った。

 どちらからともなく近づいて、そっとキスをした。

「…気をつけて帰れよ」

 玄関のドアの前で、黒瀬はそう言ってくれた。私は頷いて、「またね」と手を振る。

 数秒間、名残惜しそうに見つめ合って、それから私はドアを開けた。

 夜の空気が、少し冷たく感じた。

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