「ほんと、手のかかる姫様だな」

 店を出て人気の少ない夜道を歩きながら、背負ってくれている黒瀬が小さくため息をついた。私はまともに歩くことができず、結局またおぶられることになった。

「も~歩けるってば~」

 私の足は力なくぷらんぷらんと揺れているだけなのに、黒瀬はそれを背中で感じているのだろう、口元でフッと笑う声が聞こえた。

「はいはい、説得力ゼロな」

「むぅ…」

 頬を膨らませてみるけど、黒瀬は歩調を緩めることもなく淡々と進む。

 ふと、ぼんやりとした視界の中、見慣れない景色に気づいて首を傾げる。

「あれ?黒瀬、私の家こっちじゃないよ?」

 背中を支える黒瀬の体が、一瞬だけぴくりと強張った気がした。

「…わかってる。今日は俺んとこ連れてく。お前もう歩けねぇだろ」

「あっそうだ!黒瀬のうちで飲み直すのよね!お酒ある?ねーねー黒瀬お酒~」

 興奮して足をパタパタさせると、黒瀬は苦笑いしながら私を支え直した。

「あーはいはい酒な。でもまずは水飲ませてやる」

「はーい水割り一丁~!」

 調子に乗って手を上げた瞬間、バランスが崩れる。ガクンと体が揺れて、思わず悲鳴を上げそうになったが、咄嗟に黒瀬がぎゅっと力を入れて私を支え直してくれた。

「ばかっ…!暴れんな、落っことすぞ」

「えっへへ~、黒瀬力持ち~」

 他人事のようににへらと笑う私に、黒瀬はまたため息混じりに笑った。その声は呆れているけれど、どこか優しい。

「調子乗んなよ、俺じゃなきゃこんな酔っぱらい抱えて歩かねぇからな」

 彼の背中に伝わる温もりと、規則的な足音。"俺じゃなきゃ"という言葉に少しだけ違和感を覚える。そうだ、さっき高橋さんも送っていくと言っていた気がする。

「そういえばさっき、高橋さんと何か話してた?」

 ふと疑問に思ってに問いかけると、黒瀬は一瞬だけ目を細めた。彼の後頭部しか見えない私には、その表情までは読み取れない。

「…ああ、ちょっとな。でもお前は気にしなくていい。全部俺が片付けたから」

 低い声で、まるで言い聞かせるように言う。片付けた?何を?疑問に思ったけれど、酔った頭ではそれ以上考えるのが億劫だった。

「ふーん?あっ黒瀬!コンビニ寄っていこうよ、おつまみ買わなきゃ!」

 視線の先にコンビニの明るい光を見つけ、私ははしゃぎだした。コンビニの前で黒瀬は足を止めた。背負われたままの私を見上げて、苦笑しているのがわかる。

「おいおい、この状態でコンビニ入る気かよ。ったく…しょうがねぇなあ」

 呆れたような声に、私はへへ、と笑った。彼の背中に揺られながら、夜風が心地よかった。


- - -


 黒瀬のマンションのエントランスを抜け、エレベーターを上がっていく。鍵を開ける音がして、扉が開いた。

「おお…これが黒瀬んち…」

 玄関でおぶられたまま、私はキョロキョロと周りを見回した。薄暗い中でも、広々とした空間と洗練された内装がわかる。静かに目を輝かせているのが、自分でもわかった。いいなぁ、こういう部屋。

 黒瀬が私を背負ったまま器用に靴を脱がせながら、低く笑う声が聞こえる。

「なんだよその反応。俺の部屋入るの初めてで緊張してんのか?」

 リビングに通されると、私は興奮を抑えきれずに叫んだ。

「めっちゃひろーい!おしゃれー!あっ!おっきいソファある!」

 緊張どころか、はしゃぎまくりだ。黒瀬はそんな私に呆れたように笑った。

「はいはい元気だな…酔っぱらいはとりあえず大人しく座っとけ」

 そう言って、黒瀬は私を大きなソファにそっと降ろしてくれた。体がふかふかに沈み込む。

「あぁ~~~……極楽……」

 思わずクッションを抱きしめて埋もれた。ご機嫌でソファに座っていると、黒瀬が冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。グラスに水を注ぐ彼の姿をしばらく見つめていたけれど、次第に不満げな気持ちが募ってくる。

「………お酒はー?」

 すると黒瀬がニヤリと笑った。

「まずはこれが一杯目な。お利口に飲んだら酒出してやる」

「はーい」

「…お前酔ってるとほんと素直な」

 黒瀬が呆れたようにそう呟くのを他所に、私はにへらっと笑いながら、差し出された水を飲み始めた。冷たい水が喉を通ると、少しだけ頭がすっきりする気がした。黒瀬は私の様子をじっと見ながら、小さく笑っている。

「はい!飲んだわよ!」

 あっという間に空になったグラスを、私はぐいっと黒瀬に差し出した。

「えらいえらい。しゃあねぇな、ちょっと待ってろ」

 グラスを受け取った黒瀬はキッチンに向かう。カウンターで氷を入れる音がカランカランと響いた。その音の合間に、黒瀬が小さく呟いたのが聞こえる。

「……ほんと、無防備すぎだろ」

 その声は、私に向けられているようでもあり、独り言のようでもあった。何を言っているのかはよくわからなかったけれど、どこか優しい響きに、私はソファでクッションを抱きしめながらゆらゆらと揺れた。

「黒瀬ー?まだー?」

 私の呼びかけに、黒瀬がカウンター越しに「はいはい」と返す声が聞こえた。すると、すぐにグラスを手に戻ってきた。

「どーぞ。強いやつだからゆっくり飲めよ?」

 そう言いながら差し出してくれたグラスを嬉しそうに受け取った。


- - -


「黒瀬〜もう一杯!」

 ソファでふにゃっと笑いながら、空になったグラスを突き出す塩見。その姿を見て、俺は無意識に深く息を吐いた。

「…ダメだ。これ以上飲んだら、マジで潰れるぞ」

 強い酒だと言いながら、実際に彼女に渡していたものは、さっきからほとんど水同然だ。アルコールの強さを誤魔化すためにリキュールをうんと薄めていたことなんて、塩見は気づきもしない。なのにこのテンション。さすがにもう限界だろう。差し出されたグラスに蓋をするようにそっと手を置いて制する。

「つぶれない〜〜!!」

 頬をふくらませて抗議する塩見。その顔がまた子どもみたいで、ふっと笑いそうになったが、次の瞬間、空気が少し変わる。

「なんか、暑い…」

 そう言ったかと思うと、塩見がジャケットに手をかけ、脱ぎ始めた。

「………脱ぐな、バカ」

 低く釘を刺すように言ったが、本人に危機感はゼロだ。

「だって暑いんだもん。シャツ着てるし別にいいでしょ」

 ムッとした顔で俺を見上げ、俺の制止も意に介さず、ジャケットを滑らせるように脱ぐ。中に着ている白いカットソーの胸元が、うっすら汗で張り付いているのが目に入った。思わず視線がそこに落ちる。

「……いいわけあるか。お前、俺の理性試してんのか?」

 その言葉に、塩見は「なにが…?」と首を傾げる。とろんとした瞳で見上げられると、腹の奥に火が灯るような感覚が走った。

「……わかんねぇならいい。でももう、俺に触られても文句言うなよ」

 声が思ったより低く出て、自分でも少し驚く。だが塩見は、まるでその意味がわかっていないかのように、無邪気に笑った。

「黒瀬はおもしろいな〜」

 笑うな。そんな顔するな。胸の奥で何かが軋む。

「……おもしろいか。じゃあもっと“おもしろい”ことしてやろうか」

 唇が勝手に動く。もう止められない。

「えっなになに?なにしてくれんの?」

 期待に満ちた顔。無防備。危険すぎる。ゆっくりと顔を近づけ、その耳元に唇を寄せた。

「教えてやるよ」

「んっ…」

 耳にかかった息に、塩見はくすぐったそうに首をすくめる。その仕草さえ、俺を煽る。

「…可愛い声出すなよ。ますます止まれなくなるだろ」

「な、なに…」

 さらに耳元で低く囁くと、頭が回っていないなりに、少しだけ焦った様子で俺を押し返そうとしてくる塩見。しかし、その手にはほとんど力が入っていなかった。俺はそんな塩見の手をそっと掴んで動きを止めた。

「なにって、お前が可愛すぎて、もう我慢の限界ってだけだよ」

 頬にそっと指先を這わせる。熱い。俺の指も、塩見の肌も。

「……少しだけ、いいか?」

「んん…?」

 とろんとした目で見上げてくる塩見。ああ、もう限界だ。このまま押し倒してしまいそうなほど、気持ちが揺れる。

「その顔…俺以外に絶対見せんなよ」

 言い終えると同時に、テーブルに置いてあった塩見のスマホが震え、着信を知らせる音が鳴り響く。そちらをチラッと見ると、画面には『高橋さん』の名前。

「……出るな」

「え、でも…」

 スマホに手を伸ばす塩見。その手を掴み、視線を合わせる。

「でもじゃない。今は、俺の番だろ」

 彼女は目を丸くしたまま、動きを止めた。俺の言葉が届いたのか、届かなかったのか。そのタイミングを計ったかのように、電話が鳴り止んだ。少ししてからメッセージアプリの通知音がする。スマホの方を一瞬見て、俺は目を細めた。

「ほら、向こうも諦めた。もう気にすんな」

「うん…」

 塩見は素直に頷くと、俺の肩に顔を預けてきた。その瞬間、肩に重みが増す。眠気が勝ったらしい。

「…マジかよ」

 拍子抜けと安堵が入り混じった声が漏れる。

「…そのまま寝てろ」

「まだ……のむ……」

「もう十分飲んだだろ」

 髪をそっと撫でると、微かに甘い匂いがする。俺の肩から、小さく規則正しい寝息が聞こえた。

「どこまで…俺の気持ち試すんだよ」

 俺はそっと塩見をソファに寝かせ、毛布を引き寄せ彼女の肩までかける。頬に落ちる一房の髪を指で整えながら、ため息と一緒に小さく囁いた。

「…おやすみ、由佳」


- - -


「ん、ん〜〜〜……」

 体がソファに深く沈み込むような感覚に、もぞもぞと身じろぎをする。全身が鉛のように重く、特に頭の奥がズキズキと痛んだ。

「……………ん?」

 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。視界はまだぼやけていて、見慣れない天井のラインが波打つように歪んで見えた。どこからか、カチャ…と食器が当たるような小さな音が聞こえる。

「あてて……あー…頭いたい…」

 片手で脈打つこめかみを抑えながら、ゆるゆると上半身を起こす。背中を預けていたのは、うちのソファよりもずっと柔らかくて、ふかふかとした座り心地だった。視線をゆっくりと周りに巡らせる。そこにあるのは、見慣れない間取り、見慣れない家具、見慣れない景色……。

「………んんん?」

 未だ完全に覚醒しない頭で、キョロキョロと周囲を見回していると、キッチンの方から低めの声が届いた。

「やっと起きたか。ほら、水用意しといたから飲め」

 聞き慣れたその声に、心臓がビクリと跳ねた。ゆっくり視線を向けると、そこにはマグカップを片手に、ゆったりと歩いてくる黒瀬の姿があった。

 何がどうなっているのか、頭が追いつかない。なんで黒瀬が…?いや、それより…なんで私、ここにいるの?

 黒瀬は混乱しきっている私の様子を見て、ニヤリと口元を歪めた。

「安心しろ、ここは俺んちだ」

「おれ、んち…おれんち……」

 うわ言のように黒瀬の言葉を復唱する。フリーズしていた頭も、その衝撃的な一言で、まるで氷が溶けていくかのように徐々に目を覚まし始めた。いや、むしろ、覚めないでいてくれた方がよかったかもしれない。

「俺んち!?!?!?!?」

 私は反射的に叫んだ。

「そう、俺んち」

 黒瀬は私の動揺など露ほども気にしない様子でしれっと答えると、淹れたてのコーヒーをテーブルに置いて、ゆっくりと腰を下ろした。

「なんだよその顔、まさか“何かあったんじゃ”とか思ってんのか?」

「もうすでに“何か”あってんの!!なんで黒瀬のうちに居るの!?昨日はみんなで飲み会してて、それで……」

 話しているうちに、昨夜の記憶に再び靄がかかり始める。まさか…私、また…。そんな私の思考を見透かしたように、黒瀬は肩をすくめて余裕の笑みを浮かべた。

「みんなで飲んでて、潰れて、俺が迎えに行った。高橋さんが送ろうとしてたけど、お前が"くろせ~"って呼ぶから俺が連れてきた。安心しろ、何もしてねぇよ」

「はぁ!?」

 黒瀬は一気に説明したけれど、私の頭は何一つ理解できなかった。え、飲んでて潰れて……え?高橋さん?黒瀬?なんて言った?情報は多すぎるのに、肝心なところが抜け落ちている。

 余計に困惑する私を、黒瀬は肘をついて眺めながら、ニヤリと笑った。

「俺が我慢強い男でよかったなぁ、塩見?」

「ばっ、ばか!しれっと家連れ込んどいてよく言うわよ…!」

 私は思わず、掛けてあった毛布をぐいっと引き上げて体を隠そうとしてしまった。ちゃんと服を着ているのに、なぜか無性に恥ずかしかった。

 黒瀬はコーヒーを一口飲みながら、喉の奥でククッと笑った。その低い笑い声が妙に耳に残って、余計に心臓が騒ぐ。

「しれっとじゃねぇよ。ちゃんと“俺んとこ連れてく”って言ったし、お前も“おさけ〜”ってノリノリだっただろ?」

 黒瀬の言葉が、私の脳内でゆっくりと反芻される。口を開けたまま数秒間、固まってしまった。彼の言葉を一つずつ噛み砕いていく内に、頭の先から血の気が引いていくのがわかった。

「お、覚えてないからって適当言わないでよ…!」

 必死に否定の言葉を絞り出す。頼むから、せめてこの言葉だけは冗談であってほしい。

「適当じゃねぇよ。あー、動画撮っておけばよかったか?」

「やめてよ!事実になるのが怖い!」

 思わず悲鳴のような声が出る。黒瀬の言葉がもし本当なら、私はいったいどんな醜態を晒したというのだろう。考えるだけで背筋に冷たいものが走った。

「事実だっつの」

 黒瀬は呆れたように、それでもどこか楽しそうに笑った。その顔は、まるで私の混乱を面白がっているかのようだ。

 意味がわからない。本当に意味がわからない。そもそも、昨日の飲み会に黒瀬は来ていなかったはずだ。それなのに私は今、彼の部屋にいる。どうして?私の頭は混乱の極みだった。あれ、ちょっと待って?

「………え?黒瀬が迎えに来たって言った…?」

 ぽつりと呟いた言葉が、私の中で点と点を繋ぎかける。けれど、その線はあまりにも唐突すぎて、まだはっきりとは形にならない。ただ、目の前の黒瀬を見つめることしかできなかった。

「ああ、言った」

 黒瀬は視線を逸らさずに、私の目を真っ直ぐ捉えて答えた。その瞳には一切のごまかしがなく、それがかえって私の心をざわつかせた。

「お前が高橋さんに送られそうになってたからな。…悪いけど止めさせてもらった」

「高橋さん…?そうだっけ…」

 必死に昨夜の記憶を呼び起こそうとするが、飲み会の後半になるにつれてあやふやになっていく。高橋さんが心配そうな顔で私を見ていたような……いや、そんな場面、あったようななかったような……。記憶の断片が、まるで掴めない水のように指の間からこぼれ落ちていく。顎に手を添えて、うーんと唸っていると、黒瀬が低い声でそれを制止した。

「思い出さなくていい」

 なんで思い出さなくていいの?何か都合の悪いことでもあったのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる。

「え…というか私、ほんとに黒瀬に連絡したってこと…?」

 確かに、飲み会に行く前に「帰りは連絡しろ」と黒瀬に言われたことは覚えている。けれど、まさか本当に私が黒瀬を呼んだのか…?そんなこと、酔っていたとしても…いや、酔っていたからこそ、ありえたのだろうか…?

 テーブルに置きっぱなしだった自分のスマホを恐る恐る確認してみる。指先が震えるのを自覚しながら、メッセージアプリを開いた。きっと、そこに昨日送ったであろう黒瀬へのメッセージが残っているに違いない。けれど、画面に表示されたのは、何も送られていないトーク履歴だった。

「あれ、連絡してなくない…?というか、高橋さんから連絡きてる」

 安堵と、新たな困惑が入り混じった声が漏れた。代わりに目に入ったのは、高橋さんからのメッセージだった。

「連絡はお前じゃなくて、向こうから俺に来たんだよ。『塩見が酔ってて危なそうだ』って。…だから俺が迎えに行った、そんだけ」

 黒瀬は淡々とそう言い放ち、言葉の最後でふいっと視線を外した。私をからかうような笑みはそこにはなく、どこか気まずそうにも見えた。その言葉に、点と点が繋がり始めた。高橋さんが黒瀬に連絡したから、私は今、ここにいるんだ……。

「ふーん…?だから高橋さんから『無事に帰れた?』って連絡きてるのか…」

 スマホ画面をぼんやりと見つめる。高橋さん、律儀だなぁ。でも…よりによって黒瀬に連絡しなくてもいいのに…なんて思ったら失礼かな。そんなことをぼんやり考えていた時だった。画面に表示された"帰れた?"の文字だけが、やけにハッキリと目に飛び込んできた瞬間、私はハッとした。

「てかそうだよ、うち帰らなきゃ」

 そうだ、私は絶賛、自分の家には帰れていない。途端に焦りがこみ上げてきて、私は慌てて立ち上がった。

「待て」

 黒瀬は私の手首を軽く掴んだ。その指先から伝わる彼の体温に、思わず心臓が跳ねる。

「帰すのはいいけど、朝飯くらい食ってけよ。二日酔いで倒れられても困るし」

 普段の彼からは想像できないほど落ち着いた、しかし有無を言わせぬ声色だ。急に掴まれた手首と、彼の真面目な顔に、私の頭はさらに混乱する。昨夜の記憶が曖昧なだけに、この状況でこれ以上彼と二人きりでいるのは、どうにも落ち着かない。

「いっ、いい!あんまりお腹空いてないし!」

 そう言って、私は黒瀬の手を振り払った。わずかにムッとした様子の黒瀬に、さすがにちょっと気が引ける。

「あ、じゃあこれだけもらう!」

 テーブルに置かれていたお冷のグラスを手に取り、喉の奥がヒリヒリするほどの勢いで一気に飲み干した。冷たい水が喉を通り過ぎる感覚だけが、妙に鮮明だった。

「ごちそうさま!ありがとう!じゃあ私帰るから!お邪魔しました!」

 早口でまくし立てながら、ソファに置いてあった鞄や、床に落ちていたジャケットを急いで拾い集める。私はほとんど転がるようにして黒瀬の部屋を飛び出した。




 バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった後、黒瀬はしばらくその場に無言で立ち尽くしていた。部屋に響くのは、彼の静かな呼吸音だけ。やがて、彼の口元にフッと小さく笑みが浮かび、微かな声が漏れた。

「ま、今日は逃してやるか」

 それは、誰に聞かせるわけでもない、彼の独り言だった。その瞳は、閉じたドアの向こうを射抜くように鋭く、どこか満足げで、同時に次なる一手を目論むような笑みが浮かんでいた。


- - -


 月曜日の朝。

 いつも通り会社のデスクでパソコンを立ち上げ、メールチェックの準備をしていると、不意に背後から聞き慣れた声がした。

「お、おはよう塩見」

「あ、高橋さんおはようございます!」

 反射的に振り返ると、高橋さんがいつもの爽やかな笑顔で立っていた。けれど、その表情にはどこか探るような色が混じっているのが見て取れる。

「あ、あのさ…朝から変なこと聞いて悪いんだけど…」

「はい?」

 高橋さんは少し言い淀んでから、まるで意を決したかのように問いかけてきた。

「その…塩見って、黒瀬と付き合ってるの…?」

「はあ!?」

 瞬間、全身が熱に包まれる感覚。顔どころか耳の先まで真っ赤になったのが自分でもわかる。付き合ってる?誰が?黒瀬と私が?

「あ、やっぱり」

 高橋さんは、私のわかりやすすぎる反応を見て、何かを確信したように小さく呟いた。その言葉が、羞恥と焦燥をさらに煽る。

「ちちちち違います違います!!全然そういうんじゃないんです!!」

 慌てて両手をブンブン振りながら否定する。ありえない。この誤解は今すぐにでも全力で訂正しなければ。

「え…でも、金曜日黒瀬がわざわざ迎えに来てたし」

「あ、あれは高橋さんが連絡してくれたんじゃ」

 高橋さんが黒瀬に連絡したから、迎えに来てくれたんだ。そう、土曜日の朝、黒瀬が言っていたはず。必死に記憶を手繰り寄せる。

「え?俺が黒瀬に?連絡なんてしてないけど」

「…………え?あれ?」

 私の頭は完全にフリーズした。土曜日の朝、黒瀬の家で彼が言った言葉と、今目の前にいる高橋さんの言葉が、真っ向から食い違う。どういうこと?あの時の黒瀬の言葉は…?

「……よくわかんないけど、付き合ってないの?」

 高橋さんの困惑した声が聞こえる。考える間もなく、私は必死に、そして力強く否定した。

「はい!!!それだけはマジで断言できます!!!」

「あはは、断言するんだ」

 高橋さんはちょっと苦笑いを浮かべた後、すぐに表情を引き締めて少し真剣な顔になった。

「そっか……じゃあさ、今度また飲み行こうよ」

「いいですよ!誰誘います?」

 反射的に答えると、高橋さんは一瞬だけ意外そうな顔をした。

「あ、いや…できれば今度は、二人で」

「え?」

 予想外の言葉に、思わず声が上ずる。

「嫌かな?もちろん奢るけど」

「い、嫌じゃないです!いいんですか…?」

 尊敬する先輩だし、いつも親切にしてくれる。だから嫌ではない。ただ、少し驚いただけ。

「じゃあ決まり!さっそくだけど、今週の金曜とかどう?お店は俺が探しとく」

「わかりました!ありがとうございます」

「じゃ、そゆことで」

 高橋さんは満足そうに頷き、爽やかな笑顔を浮かべて自分のデスクに戻っていった。私はその背中を見送りながら、まだ熱の引かない顔で、自分のデスクに座り込んだ。黒瀬の言葉の真偽、そして高橋さんからの思わぬ誘い。月曜の朝から、私の頭は早くもキャパオーバー寸前だった。


- - -


「あ~~うま~~」

 金曜日のお昼。社食で今日の定食、鯖の味噌煮を頬張りながら、私は一人上機嫌に呟いた。すると、カチャリとトレイを置く音がして、向かいの席に誰かが座った。顔を上げると、そこにいたのは黒瀬だった。彼は私の味噌煮をちらりと見て、微かに口角を上げる。

「ご機嫌じゃん。今夜のデートがそんなに楽しみか?」

「ぶっ…!!!」

 突然の言葉に、口に入れた味噌煮を危うく噴き出しそうになった。慌てて手で口元を覆い、激しくむせる。

「え!?なんであんたが知ってんの!?」

 焦りで顔が一気に熱くなる。私はこの話を誰にもしていないはずだ。そんな私を見て、黒瀬はお冷のグラスをこちらへ差し出しながら、悪戯っぽく笑った。

「高橋さんから、塩見と飲むからお前も来る?って言われたからな」

 差し出されたお冷をおずおずと飲みながら、頭の中で高橋さんの言葉と黒瀬の言葉がごちゃ混ぜになる。

「高橋さんそんなこと言ったのか……あれ、でも私には二人で行こうって言ってきたけど…?」

「…そりゃお前にだけ二人って言ったんだろ」

 黒瀬は肘をつき、私の反応を楽しんでいるかのようにニヤリと口元に薄い笑みを浮かべる。その表情は、どこか見透かしているような意地の悪さを感じる。

「残念だったな塩見、今夜は二人っきりにならねぇよ」

「別に特別二人がよかったわけじゃないわよ!……というか、今回は黒瀬も来るの?」

 黒瀬の言葉に、ムッとして反論する。別に二人きりがよかったわけじゃない。ただ黒瀬も来ることに驚きを隠せないのだ。

「ああ、心配だから俺も行くって言っといた。お前、また潰れて俺に回収される未来しか見えねぇし」

 また「潰れる」だなんて。カチンとくるが、それよりも先に、先週の金曜のことが頭をよぎった。

「あ、そういえばそれ!先週の金曜日黒瀬が迎えに来たの、高橋さん連絡なんてしてないって言ってたわよ?」

 鋭く問い詰めると、黒瀬は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに諦めたように肩をすくめた。

「バレたか。お前が心配で俺が勝手にやっただけだ」

「はあ?なに意味わかんない嘘ついてんのよ……てかなに?ずっと店の前で待ってたわけ?」

 呆れ混じりに尋ねる私に、黒瀬は目を伏せてぼそりと答えた。

「待ってたっていうか……」

 黒瀬はそう呟くと、ふいっと視線を外した。ほんのわずかに口元が歪む。それは、拗ねた子どものようでいて、どこか危うさを孕んだ表情だった。

「だって誰かに持ってかれるの、ムカつくだろ」

 その言葉は小さいけれど、耳に真っ直ぐ届く。心臓が一瞬跳ねた。だけど、私は慌てて笑ってみせる。

「ないない、そんなやついないから!あんた心配しすぎ」

 呆れ顔でそう言うと、黒瀬は不満そうに眉をひそめる。

「……ほんと、鈍感すぎて腹立ってくる」

「え?」

 不意に低く落とされたその声に、私は思わず聞き返す。黒瀬の瞳が、射抜くように私を捉えていた。

「お前、無防備すぎるんだよ」

「そ、そんなことないから!」

 私は慌てて否定するが、黒瀬はフッと鼻で笑った。その薄い笑みに、どこか挑発めいた色が見える。

「じゃあ証明してみろよ。今夜俺が隣にいても平気な顔していられるか?」

 低く響いたその声に、無意識に背筋がゾクリとした。けれど、私はすぐにムッと眉を寄せて言い返す。

「べ、別に平気よ!潰れたりしないし!」

 反論する私を、黒瀬はニヤリと見下ろす。その目は、私の決意なんて最初から見透かしているようだった。

「へぇ〜楽しみだな。俺の隣でどこまで平気なフリできるか見せてもらおうか」

「なによそれ…」

 黒瀬の言葉の真意が掴めず、私はお冷を一口飲んで視線を逸らした。悔しい。会話の主導権は、いつだってこの男の手の中だ。

 その時、ポケットに入れていたスマホが小さく震え、通知音が鳴った。画面を見ると、『高橋さん』の名前が表示されている。

「あ、高橋さんからだ」

「もうデートのリマインドか?」

「飲みに行くだけだからデートじゃないし!」

 黒瀬の揶揄するような声に、私は即座に反応した。

 スマホの画面をタップしてメッセージを確認する。高橋さんからのメッセージには、今日の居酒屋の地図アプリのリンクが添付されていた。

「えーっと、今日のお店の位置情報だね。あんたには連絡きてないの?」

「きてない」

 黒瀬の短い返事。私は「ふーん…?」と首を傾げる。二人とも誘われているはずなのに、私にだけ位置情報が送られてきたのはなぜだろう。一瞬だけそんな疑問がよぎったが、すぐに消える。送られてきたお店の写真や口コミに、意識は奪われていた。

「わぁ、すっごいお洒落な居酒屋、個室だって」

 画面をスクロールしながら、思わず声を弾ませる。雰囲気の良さそうな店で、しかも個室だなんて、期待が高まる。

「……個室ねえ」

 黒瀬の声が、妙に低い。

「六時半からだって。仕事終わったら一緒に行く?」

 何気なく尋ねると、黒瀬は私の顔をじっと見つめた。その目には、いつものからかいの色はなく、何か強い決意のようなものが滲んでいるように見えた。

「……ああ」

 短く返すその声に、不思議と胸の奥が少しだけざわついた。私は「じゃあ」と小さく頷き、お冷を飲み干した。

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