仕事終わり。デスク周りをささっと片付けながら、私はずっと背後の気配が気になっていた。視線を感じて振り返ると、案の定黒瀬がこちらをじっと見ている。ポケットに手を突っ込んだまま、いつもの飄々とした顔で。それでも、どこか「待ってました」と言いたげな雰囲気が漂っている。


 私たちは連れ立って今夜の居酒屋へと向かった。駅前の通りを抜け、指定された店の前に着くと、すでに高橋さんの姿があった。

「高橋さん、お疲れ様です!お待たせしました!」

 私が少し息を弾ませながら声をかけると、高橋さんはこちらを振り返り、いつもの爽やかな笑顔で手を上げた──が、その笑みが途中で固まる。

「…え、黒瀬…?」

 彼の目が私の隣に立つ黒瀬に向けられた瞬間、空気が一瞬で変わった。まるでそこにいるはずのないものを見たかのように、驚きと戸惑いが混じった表情。

 黒瀬はそんな高橋さんの視線を涼しい顔で受け止め、ポケットから片手を出して軽く上げた。口元には挑発めいた笑みさえ浮かんでいる。

「邪魔するわ、高橋さん。…塩見を一人で来させるわけにはいかなくてな」

 低い声が店先に落ちる。思わず私は「え…」と呟いて、高橋さんと黒瀬の顔を交互に見た。

 二人の間に張り詰めるような気配が生まれている。なに、この空気。

「え、えっと…?高橋さん、黒瀬も誘ったんじゃ…?」

 慌てて話を和らげようとした私の声に、高橋さんは視線を逸らさないまま、どこか苦々しい表情で答えた。

「…誘ってないよ。俺、二人で行こうって言ったよね?」

「え!?」

 目を見開いた私の視線が、無意識に黒瀬へと向かう。けれど、黒瀬もまた視線を逸らさず、高橋さんの目を真っ直ぐに射抜いていた。

「…悪いな。こいつは二人で飲むには危なっかしすぎてさ」

 さらりと告げるその言葉は穏やかでいて、底に何か鋭いものを含んでいる。

 え…どういうこと…?

 その意味を測りかねて、私は胸の奥が妙にざわつくのを感じながら、オロオロと二人の間で視線を彷徨わせるしかなかった。

「黒瀬こそ悪いな。今日塩見は俺と先約があるんだ。……帰ってもらえるか」

 高橋さんが低く、しかしはっきりとした口調で言い放つ。彼の穏やかな笑顔はもうそこになく、代わりに険しい表情が浮かんでいる。二人の間に漂う空気が一気に張り詰めた。

 黒瀬はその言葉を受けても微笑を崩さない。けれど、視線の奥に潜む光が鋭くなるのがわかった。ゆっくりと、だが明確な意思を持って高橋さんに一歩近づく。

「悪いけど帰らねぇよ。こいつは俺が迎えに行かなきゃならないぐらい酔っぱらうやつなんでな」

 低く落ち着いた声が夜風に乗って響く。そして黒瀬は視線を私に向けた。その目は先ほどまでの挑発的な色を少しだけ和らげ、優しさを含んだ光を帯びていた。

「なぁ塩見?俺がいないと不安だろ?」

「えっ!?」

 突然の問いかけに、私は心臓が飛び跳ねるのを感じる。高橋さんと黒瀬の視線が同時にこちらへ向けられ、私は完全に固まった。

「お前ら、付き合ってないんだろ?」

 高橋さんの低い声が響く。その声には、苛立ちと、どこか焦りのような色が混じっていた。黒瀬は一瞬だけ目を細め、その鋭い視線で高橋さんを射抜く。

「今はな。でも──」

 黒瀬は一拍置き、低く、決然とした声で続けた。

「こいつは俺が落とすって決めてる。だから、邪魔しないでもらえるか」

「く、黒瀬っ…!」

 思わず声が出る。私は慌てて止めようとするが、黒瀬はそのまま言葉を続ける気配だった。高橋さんの眉がわずかにひそめられ、次の瞬間、彼もまた負けじと声を上げる。

「はぁ…?なんだよそれ。俺だって塩見のこと──」

 高橋さんの言葉の続きを聞く前に、黒瀬が私の腕を掴んだ。その手は強すぎず、けれど確実に私を引き寄せ、気づけば私は黒瀬の背後に庇われる形になっていた。彼の背中越しに見える高橋さんの顔が、一瞬悔しそうに歪む。

「悪いけど高橋さん、俺はもう誰にも渡す気ねぇんだよ」

 黒瀬の声は静かで、しかし決定的だった。その言葉に私の頭は真っ白になる。

 え…なに、この状況…?

 私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 しばらくの間、黒瀬と高橋さんの視線がぶつかり合い、その場の空気が張り詰めた糸のようにピンと張る。息を飲む音すら響きそうな沈黙。

「くっ……」

 やがて高橋さんは苦々しい表情で、ふいと視線を逸らした。その顔には、押し殺した怒りと、滲む悔しさ、そして諦めが入り混じっている。

 黒瀬はそんな高橋さんを見据えたまま、僅かに目を細め、低く息を吐いた。

「え、えっ…?」

 私はただ視線を彷徨わせるばかりだった。目の前で何が起きているのか、頭が全く追いつかない。心臓の鼓動が早鐘のように鳴り、喉がひどく渇く。

「なんなんだよ…」

 低く絞り出すような声が夜風に溶けていく。高橋さんは最後にもう一度、黒瀬に鋭い視線を投げる。けれど、その眼差しも虚しく、彼は踵を返した。

「……くそっ…帰るわ」

 吐き捨てるような声とともに、高橋さんは足早に夜の街へと消えていった。


 黒瀬は彼の背中が完全に視界から消えるまで、その場に立ち尽くしていた。

 そしてようやく、張り詰めていた肩の力を抜くように大きく息を吐き、ゆっくりと私に視線を向ける。

 険しかったその表情は嘘のように緩み、いつもの余裕を纏った笑みに変わっていた。

「今日は俺と二人きりになっちまったな」

「え?え?…どういうこと?」

 私の頭は未だに状況を理解できず、ただただ混乱するばかりだった。目の前で繰り広げられた一連の出来事が、まるで遠い夢の中の出来事のように感じられた。

「どういうって…お前が鈍いから、もう俺が全部ハッキリさせただけだ」

 黒瀬の声は低く、どこか決意を帯びていた。

「な、なんで…?黒瀬も誘われたんじゃなかったの…?」

 声が震える。私の問いに黒瀬は一瞬だけ目を細め、ほんの僅かに苦笑めいたものを浮かべた。けれど、その瞳の奥には諦めのような、覚悟のような色が混じっていた。

「…誘われてねぇよ。最初から、お前を一人で高橋さんに渡す気なんてなかっただけだ」

「嘘ついたってこと…?」

 自分でも驚くほどかすれた声が出る。黒瀬は視線を逸らさず真っ直ぐに答えた。

「ああ、嘘ついた。…でも、それくらいしなきゃお前、俺のこと見てくれねぇだろ」

 その一言で、胸がぎゅっと締め付けられる。息をするのも忘れ、視界がぐらりと揺れた気がした。私は無意識に顔を俯かせた。彼の真剣な視線から逃げるように。

「だからって…こんなこと…」

 絞り出すように呟いた私の声に、黒瀬は何も言わずにそっと手を伸ばす。顎に触れた指先は、驚くほど優しい温度を持っていて、私の顔をそっと持ち上げた。

「…ごめんな、もう限界だった。お前が誰かに取られるの、耐えられなかったんだよ」

 その瞳が覗き込んだ瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。彼の瞳は真っ直ぐで、熱を帯びていて、その奥に隠しきれない不安と切なさが滲んでいる。

「黒瀬……」

 名前を呼ぶ声は、震えていた。逃げたいのに、逃げられない。息が詰まるほど近い距離で、彼が私を見つめている。

「そんな顔すんな。嫌ならちゃんと拒めよ」

 黒瀬の口元が僅かに歪む。それは余裕の笑みではなく、どこか傷ついたような、諦めに近い色を含んでいた。

「黒瀬こそ…なんでそんな顔するのよ…」

 思わず言葉がこぼれる。その問いに黒瀬は一瞬だけ目を伏せ、次の瞬間には再び私を射抜くように強い視線を向けた。

「お前のこと、本気で好きだからだよ。そろそろ、わからねぇか?」

 その言葉に私は何も言えなくなった。思考は停止し、鼓動だけがやけに大きく耳の奥で鳴り響いていた。


 その時だった。ぽつり、と頬に冷たい雫が落ちる。思わず見上げた空は、いつの間にか重たい色をしていて、二つ、三つと雨粒がアスファルトを叩く音が広がり始めていた。

 気づけば、黒瀬が私の肩にそっとジャケットをかけていた。彼の体温が残るそれが、微かに湿った空気の中でやけに温かい。

「…行くぞ」

 低く落とされた声に、私はびくりと肩を震わせた。

「いっ、いいよ!今日はもう…帰る…」

 震える声で言いかける私の腕を、黒瀬がそっと掴んだ。

「帰すかよ」

 真剣な瞳が私の視界を塞ぐ。先ほどまでの激情とは違う。そこには、ただただ離したくないという切実な思いだけが宿っていた。

「このまま一人で帰したら、俺、また後悔するから」

「え……?」

 絞り出すようなその声が、ひどく苦しそうで、胸がぎゅっと締め付けられる。

「お前が誰かに取られるかもしれないって考えるの、もうたくさんなんだよ」

 その言葉が心臓に突き刺さり、ズキリと痛む。頭の中で何かがぐらりと揺れて、冷静でいられなくなる。なのに、彼の掴んだ腕を振りほどくことができない。指先が、声が、私の全身を縛りつけているみたいだった。

 黒瀬は激しく揺れる私の瞳をじっと見つめていた。やがてその手の力を少しだけ緩め、まるで私を傷つけないように、そっと語りかける。

「…怖いなら無理にとは言わねぇ。でも、一つだけ覚えとけ」

 彼の声は雨音に溶けそうなくらい低く、けれどしっかりと届く。

「俺が欲しいのは、お前だけだ」

 その言葉に、私は目を見開いた。黒瀬は本気なんだ。嫌でもわかってしまった。いや、本当は、もうとっくにわかっていた。高橋さんと睨み合っていた時の、息を呑むほど真剣な横顔。私を見つめて切なそうに歪める顔。それら全部が、私の中に焼き付いている。気づかないふりをしてきたのは、私のほうだ。

 黒瀬の私の腕を掴む手は、もうほとんど力が入っていなかった。今なら簡単に振りほどけるはずなのに、私の腕は動かない。視線も上げられない。

 私の沈黙に気づいたのか、黒瀬が少しだけ声を落とす。雨音がぽつぽつとリズムを刻む中で。

「…黙ったままだと、期待しちまうぞ」

 その言葉が、私を縛っていた最後の細い糸をぷつりと切った。もう、これ以上は無理だ。気持ちに蓋をしていられない。

「……どうせ、逃がす気なんかないんでしょ」

 ようやく絞り出した声は、情けないくらい小さく、皮肉めいていた。

「……ああ、正解」

 黒瀬の声もまた、雨音にかき消されそうなほど小さい。けれど、その響きだけがやけに真っ直ぐで、胸の奥を強く叩いた。


- - -


 雨の雫が髪の先からぽたぽたと落ちる音だけが、静かなエントランスに響く。

 黒瀬のマンションの玄関の前で、私はただ黙って立ち尽くしていた。視界に映るドアの塗装が、夜の灯りを受けてほのかに光っている。

 記憶が曖昧な状態でここに運ばれたことはあった。でも、今は違う。意識がはっきりしている。足元からじわじわと緊張が這い上がり、胸の奥を掴まれているような感覚に襲われていた。

 その時、後ろから肩にそっと置かれた黒瀬の手。大きな掌が、まるで「怖がるな」とでも言うように、優しく体温を伝えてくる。

「そんな警戒すんなって」

 彼の声は低く穏やかで、どこか苦笑を含んでいるようだった。

「何もしねぇよ」

 その一言に胸が少しだけ波打つ。それでも心はまだ落ち着かず、震えそうになる声で言葉を返す。

「……記憶がある状態でここに来るのは、初めてだもん…」

 自分でも気づかぬうちに、指先が微かに震えていた。その手を黒瀬がそっと包み込む。彼の指が絡んだ瞬間、じんわりと伝わる温もりが、冷えていた手をゆっくりと溶かしていく。

「悪い…」

 少し低く落とされた声。

「でも安心しろ、無理やり何かするつもりはねぇから」

 真っ直ぐに私を見つめる瞳には、からかいも余裕もなく、ただ真剣さだけがあった。その視線が私の胸の奥で何かを強く揺らす。

「お前が俺を選ぶまで、ちゃんと待つ」

 そう告げた黒瀬の声はひどく静かで、それでいてとても力強かった。涙が出そうになるのを必死で堪える。

「………ここにきて優しくするの、ずるい」

 思わず漏れた声は小さくて情けなかった。黒瀬は少し切なそうに笑い、私の頬にそっと手を添えた。その指先が触れたところから熱が伝わっていく。

「ずるくて悪い。けど俺、お前にだけは本気なんだ。だから、嫌ならここで俺を突き放せ」

 目の奥がじわりと熱を帯びる。

 突き放す?できるなら、とっくにしている。あの雨の中、もう気づいてしまったじゃない。私が気づかないふりをしていただけで、もうずっと前から彼の真っ直ぐな気持ちは届いていたことに。

「…できないって、わかってるくせに」

 言葉は消え入りそうなほど小さかった。でも黒瀬ははっきりと聞き取ったのだろう。驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。その笑顔には、安堵と、私への深い想いが滲んでいた。


 黒瀬がそっと玄関のドアを開ける。

 その先に広がる空間は、私にとってまだ“未知の領域”だった。見えない“一線”が、床のタイルの上に引かれている気がして足がすくむ。

 でも、もう逃げない。この一線を、自分の意思で超えようとしている私がいる。

 黒瀬の温かい手が私の手をそっと引いた。その感触を頼りに、私はゆっくりと、でも確かな一歩を踏み出した。


- - -


 ソファのクッションがやけに柔らかく感じる。私は背筋を伸ばしたまま、両手を膝の上でぎゅっと重ねていた。全身が硬直して、呼吸すら浅くなっているのがわかる。

 キッチンから黒瀬が静かに歩み寄ってきた。手には冷たい水が入ったグラス。私の前にそれをそっと置くと、彼は私の隣に腰を下ろした。ほんのわずかソファが沈み込む。その小さな揺れにすら心臓が跳ねた。

「飲め、落ち着け」

 声はいつもの軽さなどなくて、ひどく穏やかだった。その優しさが逆に緊張を増幅させる。私はおずおずとグラスを手に取り、水を一口含む。冷たい水が喉を通るたび、熱く火照った顔が少しだけ冷えるような気がした。

 黒瀬はそんな私をじっと見つめていた。視線が刺さる。ふっと、小さく笑う気配がする。

 ふいに黒瀬の肘が私の腕に軽く触れた。ほんの一瞬のことだったのに、私はビクリと肩を震わせてしまう。自分でも呆れるくらい、過敏すぎる反応。

「……悪い、脅かすつもりはなかった」

 黒瀬はすぐに少し体を離し、申し訳なさそうに眉を下げた。

「いや、私のほうこそ、ごめん…なんか、変な感じで…」

 俯いてグラスを両手で抱えたまま呟く。熱が頬に広がりすぎて、顔を上げる勇気が出ない。

「変な感じにさせたの、俺だよな。ごめんな、無理させて」

 黒瀬はソファに深く座り直し、吐息のように柔らかい声で言った。その声が妙に胸に残って余計に鼓動が速くなる。

「でもさ」

 ふと、低く響いた声。彼はゆっくりと私の横顔を覗き込むようにして柔らかく笑った。

「そう思うってことは…少しは俺のこと、男として見てるってことだろ?」

 その一言に体温が一気に上がる。顔どころか首筋まで熱い。言葉を出そうとしても声にならない。

「そ、それは…っ」

 小さく震える声で絞り出した私を見て、黒瀬は口角を上げた。その笑みは、満足げで、でもどこか切なさも含んでいるように見えた。

「……赤くなるの、反則だろ。俺に気持ちが傾いてるなら、もう無理に隠さなくていい」

 静かに、けれど確かに届く声。その優しさに触れた途端、胸の奥で何かがカタンと音を立てて崩れた。

 彼の言葉に、私は口を開いたり閉じたりするだけだった。いつもなら勢いよく否定できるはずなのに、今日はそれができない。この感情をもう隠し通すことはできないと、自分自身が一番よくわかっていた。

 黒瀬はその様子をじっと見つめ、少し真剣な顔になった。

「…何も言わなくていい。その顔見たら、十分伝わってくる」

 そう言って黒瀬はゆっくりと手を伸ばし、私の指先にそっと触れた。指先同士がかすかに触れ合っただけで、心臓がバクンと跳ねる。私の手は反射的に強張り、微かに震えた。

「い、意識してるのは、認める……けど…まだわかんないし…」

 か細い声で、やっとそれだけ絞り出す。自分の感情がこんなにも揺れていることを言葉にするのは、ひどく怖かった。悔しさが混じって、喉の奥が苦しい。

「…そっか。じゃあわかるまで待つ」

 黒瀬は少しだけ切なげに笑い、触れていた手をそっと離した。なぜか、離れていくその手を寂しいと思ってしまう自分がいた。思わず下唇をぎゅっと噛む。

「…急に優しくしないでよ…今まで全然優しくなかったくせに」

「悪かったな。本当はずっと優しくしたかったけど、それじゃお前に届かねぇ気がしてさ」

 黒瀬は少し寂しそうに笑った。

 私の胸の奥で、何かが小さく揺れた。ずっとぶつかるようにしてきた彼の態度は、不器用な優しさだったのかもしれない。

「でももう遠回りしねぇ。これからはちゃんと伝えるから」

 低く静かな声が、まっすぐに私の心に落ちてくる。困った顔でチラリと黒瀬を見ると、その視線に気づいた彼が柔らかく微笑んだ。いつものからかい混じりの笑顔じゃない、少し照れたような、温かい笑みだった。

「そんな顔すんな。俺のこと、ゆっくり考えてくれていい」

 優しすぎるその声に、また視線を逸らす。彼の手はもう触れていないのに、指先がまだじんわりと熱い。胸の奥が、どうしようもなく、甘く、苦しい。

「……黒瀬はさ、私の部屋に送った時も、最初にここに来た時も、本当に何もしなかったの…?」

 ぽつりと、まるで独り言のように尋ねた。喉の奥がカラカラに渇いている。

 黒瀬はわずかに目を開き、すぐにふっと微笑んだ。その笑みには、強がりとも優しさともつかない色が滲んでいる。

「何もしなかった。…したかったけどな。でもお前がシラフじゃない時にそんなことしたら、本気で嫌われそうだろ」

 したかったけど、したくなかった。矛盾した彼の気持ちは、どちらも紛れもない本音なのだろう。私なんかのために、どれだけ自分を律してきたんだろう。考えた途端、胸の奥がじんわりと痛んだ。

「……変なとこ真面目だね」

「それ褒めてんのか?」

 私の言葉に黒瀬は苦笑した。

「変なとこじゃねぇ。俺にとってお前は、それくらい大事なんだよ。だから、焦らなくていい」

 焦らなくていい。黒瀬の言葉が頭の中で反復する。もう彼は散々待ったはずだ。私が彼の気持ちに気づかない間も、高橋さんの邪魔が入っても、ずっと。それなのに、まだそんな言葉を私にくれるのだ。

「黒瀬…あのね」

 深く息を吸い、ゆっくり吐く。震える指でグラスをテーブルに置き、決意を固めるように前を見据えた。その変化に気づいたのか、黒瀬は黙って真剣な目で私を見つめていた。その視線が、私の背中を押す。

「…玄関に入る時、なんか“一線”がある気がしたの」

「一線?」

「うん。正直、気持ち全部決まったとは言えない。でも…踏み越えてみたくなった。だから、今ここにいるの」

 言い終わると同時に、頬が熱くなるのを感じる。勇気を振り絞って見た黒瀬の瞳は、わずかに揺れていた。それから彼はゆっくりと息を吐き、小さく笑った。

「…それで十分だ」

「え…?」

「一線越えるのに、全部決まってる必要なんかねぇよ」

 黒瀬はそう言いながら、そっと私の手に触れた。彼の大きな掌が私の小さな手を優しく包む。その温もりがじんわりと広がった。

「今、俺の隣にいる。それだけで、十分だ」

 不意に目頭が熱くなる。頬に伝う涙を感じる前に、私は自分の問いをぶつけていた。

「黒瀬…私のこと、好き…?」

 自惚れた問いだとわかっている。それでも、この部屋で、このタイミングで、彼の声で聞きたかった。

 黒瀬は私の手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと頷いた。

「好きだ。どうしようもないくらい、お前だけが」

 こらえきれず、涙がひと粒、ぽろりと落ちた。

「バカ、泣くな」

 黒瀬は困ったように微笑み、私の頬にそっと手を添えて親指で涙を拭う。

「泣かせるために好きになったんじゃねぇんだから」

「泣いてないわよ…!」

 情けない反論とともに、次の涙が頬を伝う。一度出てしまった涙は止まらず、意思とは裏腹にどんどん溢れてくる。

「ああ、泣いてない泣いてない」

 黒瀬は苦笑いしながら私の頭をそっと抱き寄せ、優しく髪を撫でた。それでも泣きやまない私の背中に手を回し、静かに抱きしめてくれた。躊躇いがちに彼のシャツの胸元を掴むと、その手に自分の手を重ね、背中をさすってくれた。彼の温もりと優しさに包まれ、私はそのまま、声を押し殺してひとしきり泣いた。

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