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あれから数日。
黒瀬の告白と、あの夜の介抱の真相は、私の頭の中でずっと渦を巻いていた。特に「シラフの時にちゃんと欲しがらせてからだろ」というあの言葉が、妙に頭から離れない。仕事中も、ふとした瞬間に思い出しては胸の奥がざわつく。
そんなとある金曜日の昼休み。社食の献立表の前で、私は今日のメニューに悩んでいた。
「今日のA定食、ハンバーグか〜」
小さく唸る。ハンバーグもいいけど、今の気分ではないような…。
「ハンバーグ一択だろ」
背後からいきなり聞こえた声に、私はわかりやすいくらい肩を跳ねさせた。
「うわっ!?び、びっくりした!!」
振り向けば、案の定黒瀬がいた。その顔は心底楽しそうで、肩を揺らして笑っている。
「お前ほんとに警戒心ねぇな。そんな無防備じゃまたおんぶされんぞ?」
「ばっ、ばか!あんまり大きい声で言わないでよ…!」
血の気が一気に顔に集まる。社食のざわめきが一瞬遠のいたように感じる。慌てて黒瀬の口を塞ごうと手を伸ばした。
「じゃあ耳元で言ってやろうか?」
ひらりと私の手をかわし、黒瀬はさらに顔を近づける。その声は、耳元にかかる息ごと甘くて、背中にぞくりと冷たいものが走った。
「ばっ、ばか近いって、」
思わず後退りしかけた、その時。
「いたいた!塩見!」
明るい声が社食の喧騒を割った。視線の先、黒瀬の背後から現れたのは、同じ部署の先輩、高橋さんだった。爽やかな笑顔と少し乱れた息。走ってきたのかもしれない。
「あっ、高橋さん、お疲れ様です」
私は一気に肩の力が抜けた。ホッとしたような、少しだけ残念なような、複雑な気持ちが胸をかすめる。黒瀬との気まずい距離から解放された安堵と、彼の甘い囁きが途切れたことへの、ほんのわずかな名残惜しさ。
「お疲れ様です」
黒瀬も軽く会釈をする。その横顔が、一瞬だけわずかに冷たく見えた。
「……人気者だな、塩見」
耳元で小声が響く。その声のトーンが妙に低い気がして、私はギョッとして黒瀬を睨みつけた。
「ちがうっての…!」
私も小声で反抗する。
「おう、お疲れ」
高橋さんは、こちらに笑顔を向けると一息ついた。
「どうかしました?」
「うちの部署で進めてたあの企画、正式に決まったんだ。それで、決起会と洒落込んで今晩行けるやつらで飲みに行くことになったんだが、塩見来られるか?」
「えっ!本当ですか!?」
私は目をキラキラさせた。企画が通った喜びと、飲み会の楽しみが一気に心を高揚させる。
「ぜひ!」
思わず声が弾んだ。その瞬間、視界の端で黒瀬がじっとこちらを見ているのがわかった。どこか無表情で、けれど微かに冷たい色を帯びた瞳だった。
「よ、よかったら黒瀬も来るか?」
高橋さんが、黒瀬にも声をかける。
「いえ、俺は部外者ですし、遠慮しときます」
黒瀬は、相変わらず落ち着いた声であっさりと断った。そのトーンは穏やかなのに、どこか感情が見えない。
「そうか。じゃあ塩見、六時にいつもの焼き鳥屋な」
「わかりました!」
高橋さんは爽やかに片手を挙げて去っていく。私はお酒が飲めるという事実に、一気にテンションが上がった。
「やった〜おっさけ〜♪」
「……お前、ほんと酒絡むとテンション変わるよな」
黒瀬の声がすぐ隣から落ちてくる。その響きには呆れが混じっているはずなのに、視線は妙に鋭いままだった。
「お前、俺との約束覚えてるよな?」
「え?なんか約束してたっけ?」
私がきょとんと聞き返すと、黒瀬の目がわずかに細められる。
「“次も俺と二人で飲む”って約束、忘れたとか言わねぇよな?」
ぐいっと顔を覗き込まれ、耳元に低い声が落ちる。その低音に、心臓がドクリと跳ねた。
「そ、それはなんか…言ってたのは覚えてるけど…別に今日とは言ってなくない!?」
慌てて後ずさると、黒瀬の唇が少し尖る。その表情は、不意打ちで胸をぎゅっと締め付ける。
「…言ってねぇけど」
拗ねたような、諦めたようなその声に、思わず視線をそらす。なにその顔。なんでそんな顔するのよ。
「と、とにかく!黒瀬との飲みは…また別の日!」
必死に言いながら、私は黒瀬の胸元を押し返す。それでも彼は微動だにせず、重たい視線だけが私を絡め取る。
「…ほんと、そうやって俺の優しさに甘えてんなよ。次は逃さねぇからな」
「い、意味わかんないから!もう知らない!」
どうにか彼の横をすり抜け、食券機へと駆け寄る。胸がドクドクと鳴り、気づけば無意識にA定食のボタンを押していた。
背後で黒瀬が小さく吹き出す。
「なんだよ、結局ハンバーグじゃん」
その声が届いたのは一瞬だけ。チラリと視線を向けると、彼はポケットに手を突っ込み、黙ったまま私の背中を見つめていた。笑顔は消え、真剣な瞳だけがそこにあった。私の胸が、理由もなくざわつく。その視線に気づかないふりをして、私は食券を握りしめた。
- - -
定時のチャイムが鳴り響いた。今日の仕事をきっちり片付けた私は、鼻歌交じりにデスク周りを片付ける。
「おっさけ〜おっさけ〜♪」
心がすでに夜の焼き鳥屋へ飛んでいる。そんな私の背後に、低い声が落ちた。
「俺抜きでもそんなに楽しみかよ」
「わぁ!?!?」
肩が跳ね上がる。振り返ると、黒瀬が腕を組んでドアのところに寄りかかっていた。いつの間にいたの?心臓がドクドクとうるさい。
「もう!急に背後に立つのやめてよ!」
「悪い悪い、つい」
ポケットに手を突っ込んだまま、黒瀬はゆっくりと近づいてくる。その歩幅が、私の鼓動に妙にシンクロしている気がした。
「お前さ、本当に俺を置いていくつもり?」
低い声。その瞳に一瞬だけ、射抜くような光が宿る。胸がぎゅっと締め付けられる。
「置いていくって…人聞き悪いな。黒瀬だって誘われたんだから来ればいいじゃん」
「どう考えてもあれは社交辞令だろ。それに、俺が行ったらお前だけ見てるのバレるけどいい?」
黒瀬はニヤリと笑ったが、私の顔は一気に青ざめる。彼がそんなことをすれば、間違いなく社内で噂の的になるだろう。
「いい!来なくていい!ばか!」
「はは、必死すぎ。そんな必死になるほど、俺のこと意識してんだな」
「違うから!もう!そろそろ行くからね!」
そう言いながら、バッグを肩にかけようとした瞬間、黒瀬の手が軽く私の頭に置かれる。見上げた先には、さっきまでの余裕の笑みではなく、真剣そのものの黒瀬の顔があった。
「帰りは連絡しろ」
「え…?」
「俺が迎えに行く」
「いや、なんで黒瀬が迎え…?」
動揺で声が上ずる。黒瀬は一瞬だけ目を細め、次の瞬間、またあの軽薄そうな笑顔を浮かべた。
「お前、どうせまた飲みすぎて潰れるだろ」
カチンとくる。確かに前回は潰れたけど、あの時は疲れていたし…そう、あれは不可抗力だ。
「べ、別に大丈夫だし!今日はちゃんと一人で帰れますー!」
「へぇ、証明できるか?」
黒瀬の指先が私の額を軽くつつく。その熱さが、妙にじわりと伝わる。
「してやるわよ!じゃあ、お疲れ様!」
私は慌てて彼の手を振り払い、横をすり抜けるようにして小走りでオフィスを後にした。
背中に感じる視線が、やけに重い。振り返らない私を見送りながら、黒瀬の瞳には鋭い光が宿っていた。
- - -
焼き鳥屋の提灯がぼんやりと小道を照らす。その暖かな光に包まれて、私は一歩一歩、足取り軽く店へ向かった。
暖簾をくぐると、炭の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。奥のテーブル席では、すでに高橋さんをはじめ数人の同僚がジョッキを手に盛り上がっていた。
「塩見!こっちこっち!」
高橋さんが笑顔で手を振る。その笑顔に、自然と私も頬が緩む。小走りで駆け寄り、その隣に腰を下ろした。
「すみません、遅くなりました!」
「いやいや、全然!仕事お疲れ!」
運ばれてきた生ビールが、目の前でキンと冷えた音を立てる。乾杯の声とともにジョッキ同士がぶつかり合い、軽やかな音が響く。
「企画、通過おめでとうございます!」
「おう!これもみんなのおかげだな!」
高橋さんの弾けるような笑顔に、私の胸の奥もじんわりと温かくなる。昼間、黒瀬にさんざんかき乱された気持ちが、まるで泡になって消えていくようだった。
「いや〜、しかし決まってよかった!これでまた一つ、実績ができたな!」
「はい!私もこの企画に携われて本当に良かったです!」
ビールを口に運びながら、高橋さんと今後の展開について熱く語り合う。気づけば、グラスが空になるペースがやけに早い。
黒瀬はあんなこと言ってたけど、私だって潰れずに飲めるんだから。脳裏にちらりと浮かんだ黒瀬の顔を、ビールで押し流す。今この時間は、黒瀬のことなんて忘れて楽しむんだ。
「塩見、相変わらずよく飲むなぁ」
高橋さんが感心したように笑う。その声に、少しだけ胸が誇らしくなる。
「そうなんですよ〜!私、結構強いって言われるんです!」
誰に?心の中で、もう一人の自分が呟く。
黒瀬に「弱い」と言われたことが、思った以上に引っかかっている。絶対、今日は潰れてやるものか。そんな意地が、グラスを持つ手に力を込めさせる。
「塩見、ペース速くない?ほら、お祝いだからって無理するなよ〜」
「大丈夫です!今日は絶好調ですから!」
高橋さんや同僚たちの冗談や笑い声が心地よい。普段は聞けないプライベートな話題に花が咲き、気づけば何杯目かのジョッキが空いていた。……大丈夫。全然、大丈夫だから。
楽しい時間は、まるで秒針が早回ししているかのように過ぎていった。気づけば飲み会が始まって2時間。目の前のテーブルには、空のジョッキや串の皿がいくつも並び、焼き鳥の香ばしい匂いがまだ漂っている。私の体は、ふわふわと宙に浮かんでいるような感覚だった。
「高橋さんよかったですね~!企画通って!」
「塩見、今日それ何回目だよ!」
「何回でも言いますよ~!」
笑いながら言ったけれど、自分の声が少し上ずっているのが分かる。視界が滲んで、高橋さんの顔が二重に揺れて見えた。
「ありがとな…」
高橋さんは笑顔を浮かべながらも、私をじっと見つめる。その視線が、いつもの先輩の穏やかさではなく、どこか鋭さを帯びている気がした。
「…塩見、だいぶ酔ってんな?」
「酔ってないですよ~!楽しいだけで~す!」
そう言って片手を上げ、無理に元気さをアピールするも、体はぐらりと揺れる。地面が波打っているみたいで、力が入らない。
「いや酔ってんじゃん」
高橋さんは乾いた笑いを漏らすと、少し真剣な顔に変わった。その瞳が、まるで私の弱さを見抜いたように光る。
「…塩見んち、ここからちょっと歩くんだよな?」
「そうですよ~!」
「……一人で帰れるか?」
不意に低くなった声に、胸がきゅっと縮む。優しさが滲むようでいて、どこか私を試すような響き。頭が回らない私は、その意味を考える余裕もなく、ヘラヘラと笑っていた。
「えへへ〜大丈夫れすよ?ほら、ちゃんと立てます、し」
椅子から立ち上がろうとした瞬間、脚に力が入らず、視界が大きく揺れる。
「あっぶね…!」
咄嗟に高橋さんが腕を伸ばし、私の体を支える。その腕に感じる男性特有の力強さに、少しだけ意識が戻った気がした。でも、脚はまだふらついていて、支えがなければ倒れそうだ。
「あれれ…?」
口から漏れる間の抜けた声。自分で自分が情けなくなる。また黒瀬に「弱い」ってバカにされるな。そんなことが脳裏をよぎるけれど、もう笑い飛ばす気力もない。
「……塩見、送っていくよ。俺、心配だしさ」
高橋さんの手に、ぐっと力がこもった。その言葉は優しいけれど、どこか決意めいた響きがあった。そして、その手の温もりが、不思議と逃れられない鎖のように感じられる。
その時だった。カラン、と乾いた音を立てて店の扉が開き、夜風が店内の熱気を一瞬でかき乱す。
スーツ姿のまま現れた男は、迷いのない足取りでこちらに向かってくる。黒瀬秀一郎。その瞳は、まるで最初から標的を定めていた狩人のように冷たく光っていた。
高橋さんが私の体を支えているのを見て、黒瀬の足取りがわずかに早まった。次の瞬間、何のためらいもなく、高橋さんの腕から私の体がすっと奪われる。その動きはあまりに自然で、まるで最初からそうするつもりだったかのように淀みがない。
「悪い高橋さん、こいつは俺が迎えに来るって約束してたんで」
「えっ、く、黒瀬!?」
驚きに目を見開く高橋さんをよそに、黒瀬は私にだけ優しく声をかける。
「ほら、立てるか塩見」
「くろ、せ…?」
ぼんやりとした視界の中で、黒瀬の顔がはっきりと見えた気がした。
「ああ、俺」
黒瀬は私にふっと笑いかけた後、ぐったりと重い私の体をしっかりと抱き寄せて支え直した。そして、もう一度高橋さんに目を向けて、軽く笑う。
「こいつ、こう見えて酔うと危なっかしいんで。すみません高橋さん、心配かけて」
その声は穏やかだが、そこに浮かぶのは、笑みでも感謝でもない。静かで、冷たい圧力。それは一言も発さずに「これ以上近づくな」と告げていた。
「ほら、行くぞ」
「え~まだ飲めるのに~」
「はいはい、もう十分だろ」
呆然と立ち尽くす高橋さんを尻目に、私はうわ言のように文句を言う。ほとんど体には力が入っていないくせに、口だけは達者だ。
「これ以上は俺のとこで飲ませてやるから我慢しろ」
その言葉に、私の目はカッと輝いた。
「えっ!ほんとっ!?飲も飲も~!」
すっかり上機嫌になり、黒瀬にもたれかかったまま、そのまま店を出ようとした時だった。
「く、黒瀬っ!その…塩見は、俺がっ」
高橋さんがまだ食い下がった。黒瀬は、ゆっくりと高橋さんの方へ振り返る。その顔から、先ほどまでの笑みは完全に消え失せていた。感情の読めない、静かで、しかし有無を言わせぬ強い眼差しが、高橋さんを一瞥する。
「悪いけど…こいつは俺のだ」
低く響くその声には、一切の迷いも躊躇もなかった。まるで、それが当然の事実であるかのように。
「………っ!」
黒瀬の、明確な敵意を含んだ眼差しに、さすがの高橋さんも怖気づいたように息を呑んだ。一歩、後ずさる。黒瀬は高橋さんが完全に沈黙したことを確認すると、満足げに口角を上げた。その顔には、先ほどとは違う、冷たい笑みが浮かんでいる。
「おっさけ~♪おっさけ~♪」
私といえば、二人の間に流れる緊迫した空気など知る由もなく、ふにゃふにゃと上機嫌で鼻歌を歌っていた。
「ほら塩見、騒がねぇで大人しく俺にしがみついてろ」
黒瀬はそう言って私の体をしっかりと支え直し、そのまま店を出た。私はされるがまま、黒瀬にもたれかかりながら、夜の街へと連れ出されていった。
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