第13話 第4節 エルフと浮遊感

 ほとんど永遠に近い時間を過ごした後、サイルが部屋から出てきた。わたしよりも数段素早く、お母さんが走り寄っていく。


「あの、セレンはなんと?」


 サイルは後ろ手で扉を閉めながら、首を振った。


「すみません。彼と、誰にも話さないと約束したので……ですが、本人としては学校を卒業したいという意思はあるようです」

「つまり、学校には行きたいということですか? じゃあ、なんで不登校なんかに──」

「ごめんなさい。言えません」

「どうして……私たち、家族なのに」


 サイルの台詞に、お母さんはショックを受けてしまったようだった。

 重い空気をかきわけるようにして、わたしたちはバトラーさん宅を出る。


「それで……セレンくんはなんて?」


 道を歩きながら、わたしは訊ねた。サイルは周りを見回してから、控えめな声音で答える。


「理由として一番大きいのは、学校で勉強することがなくなったからだって」

「……まさか、独学で全部勉強し終えちゃったの?」

「爆発してる本棚、見たでしょ。学校に行くより、外国の本を取り寄せて読んでいる方がいいって。彼、外国で本格的な研究に携わるのが夢みたいだから」

「け、研究?」


 サイルが「彼」と言った時、大きな波が来たみたいになにも考えられなくなって、問い返してしまう。


「うん。海の研究。彼が最初の入学式で話してた、まさか忘れたの?」

「わ、忘れてない……」


 ただ、どうしてか、あなたが喋る度にそれどころじゃないだけで。

 サイルはセレンくんの気持ちを代弁するような、どこか熱のこもったような口調で言う。


「学校に行っても、話せるような友達はひとりもいない。授業も知ってることばかりで、半日ただぼおっとしてるしかない。そのうち、行く意味を感じなくなった」

「そ、そうだったんだ……」

「母親も先生も友達も、自分の心配じゃなくて『学校に行かないこと』ばかり言ってくる。それもなんだか虚しくなる。することがない学校に行くだけで、みんなが一喜一憂する、その意味がわからなくなって、ますます行けなくなった。あと、前に……ううん、これは違った」


 サイルは勢いでなにかを言いかけて、慌てたように引っ込めた。


「え、なに?」

「なんでもない。個人的な話だから」


 個人的な話! セレンくんとの!

 ううう、なにそれ、気になる……気になりすぎて、苦しかった。


「リア」


 出どころのわからない感情に振り回されるわたしに、サイルは差し迫った声で言う。


「きっと、他の学校に来られてない子たちも、同じような境遇なんだと思う。今の学校は、優秀な子ほど卒業できない仕組みになってしまってるの……きっとこのままじゃ、学校制度が立ち行かなくなる」


 学校が立ち行かない。


 わたしは足元ががらがらと崩れていくような浮遊感を覚えた。

 その不意打ちの台詞は、いろいろなことがあって、ぐちゃぐちゃになっていたわたしの心に深く刺さって、猛烈な不安を掻き立てた。


 ここまで順調に作ってきた学校が回らなくなるなんて。


 そんなの認めたら──わたしは……ダメになってしまいそうな気がした。


「そ、そんな、言うほどかな」

「え?」


 わたしの言葉にサイルは呆然とする。


「だって、不登校の子は全体の五パーセントくらいでしょ? ほかに優秀で、ちゃんと学校来てる子もいるんだよ。っていうかそもそもさ、いろんな子がいるわけだし、優秀かどうかだけで語るのっておかしいと思うんだけど」

「リア、私の言ったこと、聞いてた……?」


 サイルの顔色が曇っていく。わかる。聞いてたよ。わたしの言葉も言い訳じみている。


 でも、この不安を見ないでいるために、止められなかった。


「それにさ、アレヴァン先生も言ってたでしょ。無理に登校させることはないって。セレンくんのお母さんも今は少し動揺してるだけで、そのうち落ち着いて親子で話ができるようになるかも知れないでしょ。その時が来て向き合えるようになったら、ゆっくり登校すればいい。焦ってやったって、不信感が増すだけだよ」

「……リアは本当にそう思ってるの?」


 サイルの目が悲しそうに歪む。


 違う。


 わたしが見たいのは、そんな瞳じゃないのに。


「じゃあ、なにか良い案があるの?」


 わたしは自分の声にトゲがつくのを抑えられない。


「それを考えようよって言ってるの」


 応えるサイルの声もチクチクした。


「ほら、サイルだって思いつかないんでしょ」

「思いつかないからって諦めるなんて間違ってる」

「諦めてない! ただ、わたしたちができることの限界があるってだけで──」

「どうして……どうしてそんなこと言うの!」


 わたしはきゅっと息が止まった。

 サイルが声を荒げるなんて、初めてだった。


「リア、なんだかおかしいよ! いつも子どもたちのこと考えてきたでしょ! だから今日だって、忙しい合間縫ってわざわざセレンくんに会って、どうしたら解決できるか考えようとしてたのに、そんな気弱なこと言うなんてどうしちゃったの!」


 痛い。痛いよ。

 サイルの言葉が全部、痛くて痛くて、血が出そうだった。

 わたしはもう限界だった。


「わ、わかんない。だって、わかんないんだもん。なんにも、わかんない!」


 彼女のもとから走って逃げ出してしまった。


 最低、最低、最低だ……。


 エルフの里を飛び出して何年も経ったのに、わたしがまだ、こんなに幼稚で自分勝手で、責任感の欠片もないやつだなんて思わなかった。


 サイルの真っ直ぐな気持ちを傷つけてしまうやつだなんて思わなかった。


 どうして、どうして、わたしはこんなに、心を乱されているんだろう──このわからなさが、一番怖くて、憎かった。

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