第6話 鎌倉別⑥
大化の改新の後、東海道が制定され官道が整備されると、官道沿いには朝廷からの伝令が使う馬を確保するための庁舎、
武蔵国が東海道に移管されるまで、古代東海道の道は三浦半島から房総半島を海路で結んでいたことは前に述べた。今小路西遺跡と呼ばれる鎌倉郡の郡衙跡は、現在のJR鎌倉駅近くに見つかっており、これは海上を渡る古代東海道の沿道にあたる。
さらに地質学的な調査から、7~8世紀の相模湾の海岸線は現在に比べて大きく内陸に入り込んでいたことが指摘されている。その頃のJR鎌倉駅は海中の浅瀬にあって、鎌倉郡衙は海に面した津(湊)を有する港湾都市だったのである。
正倉院に保管されていた「天平七年(735年)相模国封戸租交易帳」には、当時の鎌倉郡に高田王という王族の封戸が三十戸あったことが記録されている。土地の豪族を出自とする郡司の支配とは別に、王族が直轄支配する土地という見方をするならば、かつての屯倉が鎌倉郡に継続して設置されたと考えることもできるだろう。
鎌倉郡衙があったと思われる今小路西遺跡では、奈良時代を経て平安時代に至るまで複数の人々が居住していた跡が見つかっている。このことは、東海道の官道が鎌倉から離れても鎌倉郡衙が公的機関としての機能を維持していた可能性を示唆する。
後に源頼朝がこの地に幕府を開いたのは、古代から要所であり続けた鎌倉の地の利を利用しようと考えたためではないだろうか。
その頼朝が石清水八幡宮から八幡神を勧請して建立した鶴岡八幡宮の場所には、鎌足を祀る稲荷神社があったという(「鎌倉別①」https://kakuyomu.jp/works/16818792438076286373/episodes/822139837810187212)。藤原氏の祖であり王権の守護者である鎌足を祀ったのは、鎌倉幕府が開かれるまで鎌倉郡の王族直轄地を管理していた藤原氏ゆかりの人物だったのではないだろうか。
鎌倉幕府将軍家は、三代目の源実朝が暗殺されると源氏の血筋が断絶した。鎌倉幕府を存続させるため、将軍家の跡継ぎとして藤原氏の九条家から養子が迎えられた。いわゆる摂家将軍である。
幕府を開いた源氏ではなく、藤原氏が鎌倉の地から東国を治める正統性を説くために、「鎌倉という土地の名は、かつて鎌足がこの地に鎌を埋めたからである」という話が流布されたのではないだろうか。
日本の歴史を注意深く俯瞰すると、中臣鎌足から始まる藤原氏は常に王権の絶対守護者として立ち働いている。誰か特定の天皇個人の味方ですらなく、王権というシステムの維持こそがこの一族の命題のようにも見えてくる。
東国の各地に残る中臣鎌足の伝説、並びに大友皇子と耳面刀自妃の伝説は、そのような古代藤原氏の活動の形跡であるように思う。
次回からは他の場所に視点を変え、古代東国の政治動向と中臣鎌足の伝説の接点を引き続き探求していく。
関東地方の大友皇子・耳面刀自妃の伝承 葛西 秋 @gonnozui0123
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