第16話 第一次遣唐使の派遣
629年、
唐の第二代皇帝である
唐は、隋が失敗した朝鮮半島攻略から手を引くことはしなかった。
唐は直接国境を接する高句麗との戦争の準備を着々と進めた。新羅は、いち早く唐に朝貢することで半島内での自国の立場を有利にしようと画策した。
唐と新羅に対抗するために、高句麗と百済は倭国との協調関係の強化に動いたが、一方で新羅も倭国に使者を派遣して外交関係を維持していた。
舒明天皇は、即位してすぐに遣唐使を派遣した。この時の遣唐使は
高表仁は太宗の意向を舒明天皇に伝える使者だったのだが、日本書紀にはその記述がない。
唐側の記録である旧唐書倭国伝には、高表仁が舒明天皇の了承を得ることができなかった、とある。倭国と唐の初めての外交は、両者の意見が合わずに終わったようだ。
唐が倭国に求めたのは、唐の皇帝を君主とする
最初の遣唐使の失敗を受け、舒明天皇は厩戸王の死後に滞っていた律令体制への改革を再び動かし始めた。だが、蘇我蝦夷がこれに反抗した。
蘇我氏は百済との関係が強く、舒明天皇のその時代には百済王族とも交流があったと思われる。百済にとって唐は脅威である。その唐との関係構築を、百済との従来の関係よりも重視し始めた舒明天皇への反感もあっただろう。
舒明天皇は、やがて皇后を伴って頻繁に有馬温泉や伊予の道後温泉といった西国の温泉地に出かけるようになった。ある年は王族の重要な祭祀である
天皇と皇后が揃って温泉旅行に行っていたのは、対立する蘇我蝦夷を避けるためと解釈されることもある。だが、同時期に舒明天皇が命じていた東国の蝦夷討伐とともに見れば、他に目的があったのではないだろうか。加えて後の天智天皇の述懐によれば、舒明天皇と宝皇后は近江にも出向いている。そこに著名な温泉地はない。
舒明天皇の温泉行幸には、単なる行楽以上の政治的な意味を見出す方が自然だろう。すなわち、地方支配から国造制を廃し、律令制による天皇の直接統治に切り換えることを各地に知らしめるため、皇后とともに精力的に各地に赴いていたのではないだろうか。
蘇我蝦夷と対立したまま律令制への改革を進めていた舒明天皇だが、この対立は政治の中央となっていた王宮の焼失という結果をもたらした。日本書紀には出火の原因は書かれていない。
2024年、焼失した岡本宮と思われる遺構が明日香村で発掘された。建物の周囲に張り巡らされていた45m以上の巨大な塀の跡からは、赤く変色した土や炭化した木材が見つかった。これらの痕跡は、この場所で激しい火災があったことを示している。
舒明天皇は、新たな王宮を蘇我氏の権力拠点から遠ざけた場所に造り、遷った翌年に亡くなった。舒明天皇の跡を継いで大王となったのは皇后である宝皇女だった。
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