第17話 皇極天皇の即位

 舒明天皇の死後に即位した宝皇女たからのおうじょは、皇極こうぎょく天皇と呼ばれるようになる。


 皇極天皇と舒明天皇は叔父と姪の関係にあたる。

 皇極天皇にとって舒明天皇は二人目の夫だった。最初に婚姻関係にあった用明天皇の孫の高向王たかむくおうとの間には漢皇子あやのみこという男子が一人いた。舒明天皇との間には二人の皇子(中大兄皇子なかのおおえのおうじ大海人皇子おおあまのみこ)と一人の皇女(のちに孝徳天皇皇后となる間人皇女はしひとのおうじょ)が産まれている。


 王位継承権のある王族の数が次第に先細りする流れにあって、皇極天皇は二人の王族の夫との間に合わせて三人の男子と一人の女子を生んだことになり、この時代の王族の女性としては多産だったと云えるだろう。


 舒明天皇のあと、本来なら皇太子である中大兄皇子が即位するところだが、中大兄皇子はまだ成人していなかった。中継ぎのための王位継承だったと解釈されることもあるが、皇極天皇は積極的に政治に関わっていたことが日本書紀の記述から読み取ることができる。


 まず皇極天皇は舒明天皇の遺志である百済大寺くだらおおでらという寺院を造らせた。この時、近江と越の国から人夫を徴集している。また、新たな王宮である飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやの造営にあたっては、東国の遠江とおとうみと西国の安芸あきから人夫を徴集し、材木は全国から集めている。


 当時の倭王権の権力が確実に及ぶ範囲に、皇極天皇が自ら命じているところが注目すべき点である。

 従来の氏姓制度により職能を以て倭王権に仕えていた豪族に寺院や宮の造営を任せるのではなく、全国各地から人夫を徴集して造成にあたらせるのは律令制の課役、雑徭を思わせる。


 皇極天皇の執政は、それまでの倭国の大王とは一線を画すものだったと云えるだろう。


 百済大寺の建立と飛鳥板蓋宮の造営という律令国家体制への前触れとも云うべき二つの事業が遂行される間、皇極天皇と蘇我蝦夷との対立は解消されることなく、隠微に深まっていた。

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