第15話 蘇我蝦夷と蘇我摩理勢

 蘇我馬子の死後、大臣の位とともに蘇我宗家を継いだのは馬子の子である蘇我蝦夷そがえみしだった。蝦夷の大臣としての最初の仕事は次の大王を決定するという極めて重いものだった。


――新たな大王は田村皇子か、それとも山背大兄王やましろのおおえのおうか。


 蝦夷は独断で決めることを避け、群臣豪族の意見を聞いて各々の意向を集約することに尽力した。ただし田村皇子を推すという自分の考えは公にしていた。


 山背大兄王は、厩戸王と蘇我馬子の娘(すなわち蝦夷の姉)である河上娘との間に生まれている。蘇我の血を引く王族だが、この時代、大王となるには両親が大王かそれに近い王族である必要があった。王族でない母から生まれた子は、王位継承の順位が低かったのである。


 一方、田村皇子は、敏達天皇の皇子彦人大兄皇子とその異母妹である糠手姫皇女の近親婚によって生まれている。王族の血筋としては極めて純粋であり、かつ田村皇子は蝦夷の妹を妃にし、男子(のちの古人大兄王ふるひとおおえのおう)をもうけていた。


 二人の王位継承者を比べてみるならば、田村皇子の方が蘇我氏だけでなく多くの豪族に容認されやすい条件を揃えている。有力な臣や豪族は揃って田村皇子を推し、蘇我蝦夷の選択に同調した。

 田村皇子を推す臣の中には、のちに孝徳天皇の下で大化の改新に関わる阿倍麻呂あべまろや、中臣鎌足の父である中臣御食子なかとみみけこがいた。


 田村皇子に傾きかけた王位だが、決定の前に山背大兄王がそれに異を唱えた。山背大兄王を推したのは蘇我馬子の弟で、蝦夷にとっては叔父にあたる蘇我境部摩理勢そがさかいべのまりせである。山背大兄王は強く自らの王位継承の正当性を訴えた。


 そもそも王位継承の問題の根本に、蘇我宗家の継承の捻じれがあったことも検証すべき点である。


 この時代、王族を含めた各氏族の宗家は長男が当主となり、次に弟に継承された。兄弟が複数いる場合は次々に下の弟に継承され、同世代の男子がいなくなると、かつての当主だった長男の息子に継承されるのが通例だったようだ。

 だが蘇我馬子は弟の摩理勢ではなく、息子の蝦夷に宗家を継がせていた。それは、これまでの慣例を改めて新たな王権の制度を作ろうとしていた馬子の現実的な判断だったのだろう。けれど摩理勢にとっては承服できない決定だった。

 

 蘇我摩理勢は、山背大兄王を推すことで本来ならば自分が継承するはずだった蘇我宗家の当主の座と大臣の位を取り戻そうとしたのではないだろうか。


 王位を巡る争いは蘇我宗家内部の争いの様相を強め、蝦夷と摩理勢が互に軍を動かすまでになったが、山背大兄王は王権内の内乱が大きくなることを危ぶみ王位継承を諦めた。諦めきれない摩理勢は山背大兄王の弟である泊瀬王を頼ったが、泊瀬王はつせのおおきみは俄かに病死する。

 後ろ盾を失い孤立した摩理勢は家族ともども蝦夷によって攻め滅ぼされた。


 田村皇子は蘇我蝦夷とその他の群臣・豪族の信任を得て即位した。これが天智天皇と天武天皇の父だった舒明天皇じょめいてんのうである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る