時の流れに身をまかせ
義父母が帰ると、はるかは疲れて眠ってしまった。
作業の続きに戻るか日記を読むかと考えた末、健一は、一人で日記を読むことにした。
日記の中には、健一の知らない歩美が息づいていた。それほど筆まめでもなかった歩美らしく、1か月も日付が飛んでいることもあったが、書き記された内容の一つ一つは、確かに重大な事件だった。
己亥 8月15日 土
昨日の夜、健一さんが、車にはねられた佐藤さんを
助けたらしい。
助かった佐藤さんは、とても瀕死の怪我を負ったようには
見えなかった。
健一さん、そんなこともできるんだ。
佐藤さんは、体を壊して研修医をやめたところだと言っていた。
傍目にはもったいないと思ってしまうけど、そういうことも
あるんだなぁ。
何気なく買った宝くじが当たったその日に事故にあったから、
きっと一生分の運を使い切ったんだと言って笑っていた。
事故にたまたま居合わせた水原さんにも拾ってもらって、
これで運は打ち止めだって。
宝くじのお金は人生の再出発に使えってことだろうって。
そのお金と水原さんのご両親の縁で、商店街のお店を
買い取れるかもしれない、と言ってくれた。
これはお礼だから気にするな、とも言ってくれた。
本当にありがたい。
人生が急に走り出したのを感じる。まさに亥年だ。
それにしても、水原さん、右手が動かないのに看護師さんを
していたなんて、本当かな?
寿退社だなんて言っているけど、本当は、右手と引き換えに
佐藤さんを助けたんじゃ……。
たまたま居合わせただけにしても、そこまでしてあげられる
ものなのかな⁇
それに、健一さんでも、何でも自由にできちゃうわけじゃ
ないんだなぁ。
佐藤とは凌のことで、水原さんとは優子のことだ。隣同士に住むようになってからしばらくの間、歩美はこの呼び方をしていた。
それはともかくとして。
「歩美、気づいていたのか」
歩美に優子の右手のことを話したことはないし、訊かれたこともない。なのに、事故翌日に顔を合わせた短い時間で見抜いたのだ。
「かなわないはずだ」
健一は苦笑した。なにしろ、はるかが産まれる前に、はるかの教育方針について、あれこれ言っていたのだ。その一つが、はるかに能力があった場合の育て方について。
「健一のように、世の中から煙たがられることのないように、大人になるまでは封印しよう。でも、全く使わせないのではなくて、少しずつ慣れさせよう」と……。
はるかの封印の印が、右目の泣きぼくろだ。
後になって思えば、自分の死をも、歩美は想定していたのかもしれない。
優子も優子で、看護師を辞めたかったからちょうどいいと言って、右手を差し出した。何度も念押ししたにもかかわらず、決意が揺らぐことはなかった。
凌に一目惚れでもしたのかと思ったが、そうではなかったそうだ。だが、「これも何かの縁だ」と考えて、交際を決めたらしい。
健一も、世を捨てて生きていた期間が長かったとは言え、こんなめぐり合わせが到底あり得ないことはわかっていた。だから健一自身も、時の流れに身をまかせたのだ。
それでも、健一は一つだけ後悔していた。優子の右手のことだ。何とか治せないものか、いくら考えても、有効そうな解決策が見つからないのだ。
その準備をこの1年ほど続けているのだが、期待値は五分にも満たない。
「一度、試してみるか……?」
少しでも効果が出たら、研究の方向性に自信が持てる。
「今のうちに、仕上げておくか」
健一は日記を閉じると、鍵をかけて本棚にしまった。続いて机の引き出しを開けると、鍵をしまい、代わりに小さな水晶玉を取り出した。
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