誓いの明日
壁のアナログ時計を見ると、午後0を過ぎようとしていた。
「おっ、昼だ」
健一は作業の手を止めて、娘と昼食を摂るために2階へ上がった。
すると、はるかは、日記の前でちゃぶ台にもたれかかって、眠っていた。眠りながらも右手が輪を作っているのを、健一は見逃さなかった。
「寝ちゃったのか」
起こそうと近づいた健一だったが、日記の日付が目に留まった。
己亥8月15日。
「結婚記念日じゃないか。結婚は退屈だったか?」
健一は懐かしさにかられ、娘の隣で日記を読み始めた。
己亥 8月17日 土
今日婚姻届を市役所に出してきた。善は急げ、だ。
お母さんもお父さんもいちおうわかってはくれたし、
引越しの業者も手配した。
忙しくなるなぁ。
それにしても結婚なんかするなんて自分でも信じられない。
子供なんかいらないから結婚だってしなくていいって
ずっと思ってたのに。
人生ってわからない。
せっかくだから、健一さんの両親にも会ってみたかったな。
捨て子だったなんて。人間ってひどい。
子供ができたら、うんと愛してあげよう!
健一さんも!
健一さんはお父さんになれるのかな?
あ、私もか!
それにしても、佐藤さんには感謝しても、しきれない。
佐藤さんにも、うんとお返ししよう‼︎
健一にとって、それはなぜか、とても遠く、自分とは何の関係のない文章に感じられた。
4年の月日がそうさせたのか。
「あ……お父さん」
父の気配を察してか、はるかが目を覚ました。寝ぼけ
「駄目!」
はるかの真剣な表情を見た瞬間、健一の中で何かがようやくつながった。
はるかと自分。
はるかと母親。
そして、自分と歩美。
共に暮らし始めて、ようやくできた子供を、歩美は抱くことができなかった。
自分が愛しているように、歩美も愛してやりたかったろうに。
「お父さん、なんで―」
はるかが言い終える前に、健一は片膝をつき、娘を抱きしめた。
優しく、そして、けして顔を見られないように。
「お父さん、泣かなくてもいいよ。読んでもいいよ」
健一は、歩美が死んだ後、泣いた記憶がない。悲しく残念ではあったが、現実を受け容れるのが精一杯だったし、歩美の死を悲しむ両親の手前、感情を表に出すことも憚られたからだ。
これが、健一が歩美のために流す、初めての涙だった。
「お、お父さん、泣かないで、泣か、ないで……う、うわああん!」
はるかまでが泣き始めたことに気がついて、健一は我に返った。
「ああ! ご……すまん、はるか」
慌ててはるかを抱き上げ、ゆっくり、優しく背中を叩きながら、言った。
「おまえは何も悪くない。何も」
健一は、噛んで含めるように言った。
「父さんはな、母さんに会わせてやりたかったんだよ、こんなに大きくなって、毎日保育園に通って、日記も読んで……」
健一は、こみ上げるものをぐっとこらえながら、続けた。
「産まれてきてくれて、ありがとうな」
健一はそう言って、ちり紙を手に取り、顔を拭った。そして、泣きやみ始めたはるかの顔も拭った。
「あーあ、かわいい顔が台無しだ。悪かったな」
丁寧に顔をふいていると、はるかが言った。
「お父さん」
「なんだ?」
「日記、読んでね」
父が母の日記を読むことにどんな意味があるかなど
なんとなく
「はるかは、また日記を読むのか?」
すると、はるかは首を横に振った。
「ううん。次はお父さんの番」
「ええっ? 俺か……」
健一は気が進まなかった。いつまた感情が刺激されるか、わかったものではないからだ。さっきのように、娘に気を遣わせては、歩美に会わせる顔がない。
と、その時、階下から呼ぶ声が聴こえた。
「健一君、いるかい?」
「おじいちゃん!」
はるかの反応は速かった。すぐさま階段へと走り、降りて行く。
健一は、その後ろに従った。つい「何か用かな?」と思ってしまった自分を、自ら叱る。以前「今日は何かありましたか?」などと口走った時、義母に「何もなかったら来てはいけないの?」とからかい半分でたしなめられてしまったことがあるからだ。
1階の座敷に降りると、祖父母―歩美の両親―は座敷際の土間に立ち、駆け寄る孫を迎えていた。
「おばあちゃんもいた!」
「ははは! 元気だった?」
「うん!」
久しぶりの祖父母の来訪に大興奮のはるかの後ろで、健一は頭をかきながら「ど、どうも、ご無沙汰しています」と言った。
はるかが産まれたての頃はよく来てもらっていたが、保育園に通わせるようになってから、来訪は年に数回に減っていた。保育園に通わせることにした時、「行かせた方がいい」と賛同してくれてはいたが、内心では「会いに来づらくなる」と思っていたかもしれない。
(それに、いくら孫がいるとは言っても、俺と子供を作らなければ、歩美は今も生きていた。俺と会えば、結婚させたことを後悔するんじゃないのか)
こういう気持ちは、相手と頻繁に会っている時ほど、あまり考えないものだ。あまり会わなくなると、かえってあれこれと気になってしまう。
ましてや健一は、歩美の日記をたった1ページと言えど読んだところなのだ。「両親が読んでいないものを自分が先に読んだ」と思うと、どうも後ろめたい。
「どうしたんだ? 元気がなさそうじゃないか」
「あ、いえ、大丈夫です! 元気です」
慌てて答えたが、義父は半信半疑のようだ。
「本当かい? 何かあったんじゃないのかい?」
「いえ、そんなことは」
健一が焦って否定するのを見かねてか、義母が紙袋を出して、言った。
「お父さん、それは後にして。健一さん、先にこれ、どうぞ。ストレートのぶどうジュースが安く買えたから、おすそ分け」
「あ、ありがとうございます。あ、どうぞ上がってください」
うやうやしく紙袋を受け取ると、健一は、義父母に座敷に上がるよう勧めた。続いて、二階へ招き入れ、座布団を出した。
「食器、片づけますね! 座って、少し待っていてください」
健一はそう言うと、昼食の食器を片づけ始めた。
すると、義父がやってきた。
「手伝おうか」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、僕が洗うので、拭いていっていただけますか?」
「わかった。ふきんはこれだな」
2人で洗い物を始めると、背後で義母と子の会話が始まった。
「はるか、保育園は楽しい?」
祖母が訊くと、はるかは元気よく「うん!」と答えた。
「いつも一人で行ってるのね?」
「ううん、みのりと一緒~」
「あら、そうなのね。みのりちゃんを連れて行ってあげているのね。えらいねぇ」
「えへへ~」
義父母と隣の凌と優子には、面識がある。歩美の葬式以来、義父母は、まるで親戚のように接してくれている。
「優子さんと凌さんにも会ってきたけど、元気そうだねえ」
義母は、健一に話しかけた。
「会ってこられたんですね。ええ、変わりはなさそうです」
皿を洗っていて振り返れない健一は、首だけを横に向けて、言った。
洗った皿を義父に手渡すと、義父は申し訳なさそうに言った。
「健一君、さっきはすまなかったね、しつこく訊いてしまって」
「いえ、そんな……」
「何もないならいいんだが。水臭いことは無しにしてくれよ。せっかくこうして家族になったんだから」
「え、ええ……」
なかなか緊張のほぐれない健一を見て、義父は続けた。
「なんだ、まだ気にしているのか? ……無理もないか。私が君の立場なら、きっとそうなる。だがな……」
そう言うと、義父は皿とふきんを置き、健一の背後に回り込んで両肩をもんだ。
「私たちからすれば、君は、孫をちゃんと育ててくれている。それで十分なんだよ」
もんでいた肩を軽く叩いて、義父は皿を手に取り、棚に戻した。
「……ありがとうございます」
「礼を言いたいのはこっちの方だ。ありがとう」
「なあに? えらく仲がいいじゃない」
聴いていた祖母が茶々を入れた。
「そりゃあそうさ。健一君はかけがえのない家族だからな」
義父も軽口で応じると、祖母は笑った。
「あはは! そうね」
「ありがとうございます」
健一は、何か言わなくてはと思い、かろうじてお礼を言った。
洗い物を終えた健一がコップを持って戻ると、はるかが突然「あっ!」と言い、立ち上がった。
そして、机の上に置いてあった歩美の日記を手に取って、祖母に手渡した。
「お母さんの日記! 朝見つけたの」
「あら!」
義父も、目を丸くした。
「そんなものがあったのか」
鍵が外されたままの日記を手に取り、義母は1ページ目を開いた。
しばし文章を目で追うと、祖母は吹き出した。
「仙人って! 懐かしい。言ってた言ってた」
それを聞いた義父は、「仙人?」と言って祖母の手元をのぞき込み、目を細めた。
「懐かしいな。私はかあさんから聞いただけだが、仙人に会ったとえらい興奮していたそうだな」
「前にも言ったけれど、私はてっきり白髭のおじいさんかと思ってしまってね。結婚するって言われた時は『大変なことになった』と思ったけれど、本当は『仙人みたいな神通力を持った男の子』だったのね」
「ああ」
そう言うと、義父は、
「君は、もう読んだのか?」
正座した健一が答える。
「いえ、なにぶん、さっきはるかが見つけたところなので、まだ1ページ読んだだけです」
「なんだ、まだなのか。私はてっきり、これを読んで感傷にでもひたっていたのかと……」
「お父さん!」
からかおうとした義父を、義母がたしなめた。
健一は言った。
「実は、そうなんです。結婚した日の日記を読んだら、歩美がどれほど子供ができるのを楽しみにしていたかがわかって。はるかに、会わせてやりたかったと……」
そこまで言ったところで、健一は、胸が詰まってしまった。
「それが、残念で……」
「あ、ああ、そうだな」
言葉を通じて、健一の感情は義父母にも伝染したようだった。
困ってしまったのは、はるかだ。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、どうしたの? 大丈夫だよ、大丈夫だよ」
そう言って、はるかは、3人の頭をなでて回った。
そのけなげな様子がおかしくて、健一は笑った。義父母も泣き笑いだ。
「あはは、はるか、ありがとう。もう大丈夫だ」
「健一さん」
閉じた日記を差し出して、義母が言った。
「これ、きっと読んでね。私たちは歩美から聞いていたことがあるけれど、健一さんは違うでしょうから」
「ああ、そうだな。先に読んでくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
義父母の気遣いに、健一はまた、胸を詰まらせてしまった。
娘を亡くしたのだから、義父母もつらかったはずだ。歩美には妹がいるが、だから悲しみが少ない、ということはない。それなのに、こうして顔を見に来てくれて、励ましてくれる。
健一は「親孝行をしよう」と、今にして決心した。捨てられた健一には両親がおらず、不思議な能力のせいで行く先々で気味悪がられた。長い放浪の末に歩美に出会い、亡くなるまでの約2年の間に、人として生きてゆく術を徹底的に叩きこまれた。
そんな人の親を、どうして他人と思えよう。
歩美からは、「普通の生き方を身に着けるため」という理由で、緊急時の人助け以外で能力を使うことは、ほとんど禁止されていた。旅行を例に挙げれば、健一がいれば車や電車、飛行機さえも不要なのだ。海外でも、パスポートがなくともごまかせてしまう。
(親孝行のためなら、能力を使ってもいいか? 歩美)
歩美なら許してくれるという確信があるが、「手順を踏め」と言われることも、想像できた。いきなり人外の力で旅行するのは、普通の人には、かえってあまり快適ではないのだ。
(まずは、こちらからも会いに行こう)
普通に生きる―歩美の課した宿題は、新たな段階を迎えようとしていた。
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