小さな世界2 亥年の魔法
すずきりょう
母の日記帳
最近のはるかの週末の趣味は、言葉を選ばずに言えば「遺品あさり」だ。隣家には1歳下の幼なじみがいるが、休日は親と一緒にいたいのか、あまりはるかの元へは行かない。平日に毎日一緒に登園して帰宅しているから、わざわざ遊ぼう、ともならないのかもしれない。
さて、その遺品とは、もちろん歩美―母の遺品である。
母は、はるかに命を継承するかのように、出産直後に亡くなった。はるかに母の記憶は存在しないが、家の押入れには、母の遺品がしまってあるのだ。
健一―はるかの父はと言えば、久しぶりにいいアイディアが浮かんだとかで、朝食を済ませてからずっと、隣の座敷で製作に打ち込んでいる。健一の能力ならば、すぐに思い通りの商品が作れそうなものだが、健一に言わせれば「それが素人考え」だそうだ。
倉庫というものは、何度あさっても新たな発見がある。4歳の幼児にとっては、目に留まるものすべてが新鮮なのに、すべてが自分とは無関係ではないのだから、何を見つけても心は踊る。
はるかは、ついさっき、天井までの高さがある棚の最上段から、意味ありげな鍵を見つけていた。真ん中に穴の空いた円形の柄に、棒状の支柱と短い突起のついた、きわめて単純な作りの鍵だ。
放置された鍵は、たいてい、何に使われていたのかすぐにはわからない。合う錠が見つかることもあれば、見つからないことも多い。
「鍵、鍵、鍵……」
ぶつぶつ言いながら、はるかは鍵の合う錠を探して、棚や箱を引っかき回した。
不思議な絵柄の扇子、キーホルダー、ケースに一つ入ったピアス……。
しばしの格闘の末、はるかは、ブリキの缶の中から錠のついた本を見つけ出した。茶色い革張りの本で、開く方に真鍮製の錠がついている。
はるかの胸は踊った。
「これだ!」
倉庫の前の床に本を置くと、さっそく、鍵を鍵穴に差し入れ、回した―。
パチン!と音を立てて錠が外れた。本を閉じている革帯を几帳面に外して、はるかはページを開いた。
ところが。
「読めない……」
はるかはがっかりした。数字ならいくらか読めるが、文字まで読みこなすことはできない。
「お父さーん!」
はるかは本を閉じ、しかと本を抱えて、父のもとへ走った。
父は、座敷にあぐらをかいて座り、壁際の机で帳面になにかを書き連ねていたが、はるかの呼ぶ声に振り向いた。
「ん? どうした?」
「これ!」
父の横に走り込んだはるかは、勢いよく両膝をつき、本を床に置いた。そして、表紙を開いた。
「読んで!」
「んん? これは……お母さんの日記だな」
父はほんの少しの間だけ眺めて、はるかに言った。
「よし! じゃあ……そうだな、手をこうしてごらん」
父はペンを机に置いて、親指と人差し指で輪を作った。そして片目をつむり、開いている方の目に輪をくっつけた。
はるかもまねて、指で輪を作り、片目を閉じ、開けている方の目に輪をくっつけて、父を見た。印象的な泣きぼくろが、手で覆われ見えなくなった。
「こう?」
父はうなずいた。
「そうだ。そうしたら、そのまま日記を見てごらん。指を離すんじゃないぞ」
はるかは、父の指示に従って、片目で日記を見た。
「見たか?」
「見たよ」
「読めるか?」
父から問われたはるかは、輪を顔にくっつけたまま「うーん」とうなった。
「読めないか? ……そうだな。じゃあ、読みたい読みたいって、思ってごらん」
はるかは、素直に指示に従った。
「読みたい、読みたい、読みたいな……」
呪文のように唱えながらジッと文字を見つめると、なんと、文字が読めるではないか!
「……あっ! あっ!」
はるかは、感動のあまりに言葉を失い、パッと顔を上げて父の顔をポカンとした顔で見た。
「あっはっは! 読めたみたいだな。意味まではわからないかもしれんが、音はわかるだろう」
父は目を細めて、言った。
「それは、父さんも読んだことがないんだ。丁寧に扱ってくれよ」
はるかは一拍おいて、「うん」とこたえた。そして、母の形見に再度目をやると、読めないことに気がついて、慌てて、指の輪でのぞき直した。
そこには、父と出会った日のことが書かれていた。
今日から、大きな事件があったらここに書くことにする。
今日(書いているのは翌日)の午後7時35分ごろ
(電車が駅に着くのが午後7時半だから、降りてから約5分後)
駅の裏通りで、空中からなにかを取りだして食べている人を
見かけた。
はじめは頭のおかしな人だと思ったけど、それにしては
目がしっかりしてたから、たぶんそうじゃない。
たぶん仙人。
Tシャツ、ジーンズ、スニーカー。
こんな機会は二度とないと思って話しかけてみたら
「食べるものが買えなくて、仕方なく食べてます」と
言われたから、アメをあげた。喜んでもらえたみたい、
名前は相澤健一。
連絡先をきいたら「念じてくれ」だって。
普通ならお断りの文句だけど、この人は本物だ。
もっと仲良くなりたい。仲良くなれそうな気がする。
1ページ目を読み終えると、はるかは父に尋ねた。
「霞って何?」
父は手を作業の手を止めて、言った。
「霞か。霞はな、こう、空中にあってな」
父がそう言って、虚空で何かをたぐり寄せるように手を動かし、ふわりと握った。そして手を開くと、半透明の煙でできた塊が現れた。
父の手の中の煙の玉を見て、はるかは目を輝かせた。
「食べてみるか?」
父に尋ねられたはるかは、霞を凝視したまま首をコクリコクリと縦に振った。
すると、父は、はるかに煙の玉を手渡した。父の手の中では小さく見えるが、はるかの手ではやっとつかめるほどの大きさだ。なのに、重さは何も感じられない。まるで、空気をつかんでいるかのようだ。
まじまじと霞を眺めるはるかを見て、父は「ふふっ」と笑った。
「軽いだろう。父さんは昔よく食べてたんだ。そうだ、母さんに初めて話しかけられたのは、霞を食ってた時だった」
父はそう言って、霞を吸い込む仕草をした。
(吸うんだ……)とはるかは思ったが、父の話しの途中なので、黙っていた。
「母さんたらな、いきなり『仙人様ですか? それ、霞ですよね?』って言ったんだよ。父さんだって、父さん以外に霞を食ってる人なんか見たことないのに、よくわかったなって、びっくりしたよ」
「お父さん、仙人なの? 仙人ってなに?」
はるかは訊いた。と、その瞬間、手の中の玉の感触が消え、玉がなくなっていることに気がついた。
「あっ! なくなっちゃった!」
「はははははは!」
はるかの悲しそうな顔を見て、父は大きな口を開けて、笑った。
「すぐに食べないと消えちゃうんだよ! そら、もう一個やろう」
そう言って、父はもう一つ、霞を作って、渡してくれた。
受け取ったはるかは、今度はすぐに、恐る恐る口元に近づけて、尖らせた唇ですうっと吸い込んだ。
「……?」
「味、するか?」
困惑に満ちたはるかの顔を見て、父は訊いた。
はるかは首を横に振った。
「しない……」
父はまた「ははは」と笑った。
「そうか、しないか。……そうだな、今度、お腹がすいている時に食べさせてやろう。お腹がすいている時に食べると、甘かったり、塩辛かったりするぞ」
「本当?」
「ああ、たぶんな」
「たぶん?」
はるかは、その答えが気に入らず、重ねて問うた。
父は、少し考えて、それから言った。
「普通の子は、霞は食べられないんだ。でも、はるかは父さんの子だから、食べられるはずだ」
「みのりは食べられないの?」
はるかは、平日に毎日会う、隣家の幼なじみの名を挙げた。
「そうだな。食べられないだろうな」
「そうなんだ……」
はるかが悲しそうに言うのを見て、父は言った。
「霞なんか食べなくたっていい。みのりはちゃんとご飯を食べてるだろう? ご飯を食べられる子は、霞を食べなくてもいい」
「そっか」
はるかは納得した。そして、日記のページをめくり、指の輪で覗いた。
己亥 8月3日 土
仙人の相澤さんは、念じたら、本当に来てくれた。
(遅くなったら困るから、朝起きてすぐに時間と場所を
念じておいた)
相澤さんは、仙人には仙人の悩みがあるみたい。
人生をどう生きたらいいものかわからないと言って、
だらだらとすごしているらしい。
バカみたい‼︎
特別な力があるかもしれないけど、そんなこととは
関係なく普通に生きたらいい。
力を怖がるような人のことなんかほっといたらいい。
せっかく霞を食べて生きられるんだから、せめて無為に
過ごすのはやめて、人間として生きよう。
私も一緒に生きたい。一緒に生きよう。
……勢いで言ってしまったけど、後悔はしてない。
私だって、幸せになるって決めたんだし、仙人と仲良く
なれるなんてチャンスはこれを逃したら二度とめぐり
会えない。
人間的にもとてもいい人。
また、会いたいな。
己亥 8月4日 日
毎日書くつもりはなかったのに、今日も書いている。
昨日の日記に会いたいと書いたせいで、念になって
届いてしまったらしい。
めちゃくちゃ恥ずかしかった。
でも、いいんだ。
ありがとう、健一さん。
はるかは、パッと父の横顔を見上げた。
読んではいけないものを読んでいるのではないか、と、後ろめたくなったのだ。
はるかは急いで日記を閉じ、日記を片腕に抱えて、高く急な階段を1段1段慎重に上った。
和室に着くと、ちゃぶ台の上に日記を置いて、同じ文章を指眼鏡でたどった。父もまだ読んだことのない、母の遺した想いを、はるかも感じ取りたかった。
母の姿を追い求めるように、はるかは読み進めた。
己亥 8月9日 金
今日は一緒にご飯を食べた。
健一さんはお店を知らないし、お金もないから、
普通の居酒屋にした。
(同級生に見つからないように、帰る途中の平方駅のお店にした)
今度はオシャレなお店に行きたいな。
健一さんは、私が適当に頼んだものを、どれも
おいしそうに食べてくれた。
健一さんはあいかわらず住むところがないみたい。
早くいい物件をみつけたいけど、いきなり一緒に住む
のはやっぱり心配だなぁ。
私の稼ぎじゃ広い家には住めないし。どうしよう。
(一緒に住む……?)
一緒に住むということは、家族になったということなのだろうか。大人は、家族じゃなくても、一緒に住むんだろうか。
はるかには、よくわからなかった。
はるかは、少し読み疲れていたが、なおもページを繰った。
そのページの日付は、前のページと同じ日付だった。
己亥 8月9日 金 深夜
健一さんから連絡があった。
(いきなり頭の中に声がきこえてきたから頭が
おかしくなったかと思った!)
住む場所が見つかりそうだから、
とにかく明日会いたいということだった。
説明がよくわからなかったが、友達?が
住む場所を提供してくれるらしい。
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