第10話 子供
暑すぎる……。
6月の蒸し暑さに、渚は扇子片手に項垂れていた。リュックを背負った背中が暑い。
今日はシフト上では出勤日だったのだが、保育園に着くなり、シフトの書き間違いがあったことが分かり、急遽休みになってしまった。
「もっと早く気付いてよぉ……」
園を出て10分も歩けば、思わず文句が口をついて出た。
右手に持った、小さなトートバッグをちらりとみる。
そこには、朝からこしらえたお弁当と、麦茶の入った水筒が入っていた。
お弁当が腐っちゃう、と思い、どこか涼しい所はないかと探す。
駅前に近づくに連れ、選択肢が増えてきた。
普段来歌と行くような、お洒落なカフェをじっとりと見ながら渚が選んだのは、1番安くつきそうなファーストフードだった。
100円のドリンクを購入し、2階席に上がる。大きな窓から光が差す店内には、フライドポテトの香りが充満している。
クーラーが効いていて、すぐに汗がひく。
渚はドリンクを飲んだ瞬間に最っ高ー!と心の中で叫ぶ。
本当はお弁当を腐らせないためにも、家でゆっくりしたいわけだが、家に帰れば、休みでゴロゴロしてるであろう元婚約者の悟と、顔を合わせなければいけないので、できるだけ長く、外にいたかった。
今日は、同棲の最終日だ。
悟と別れることになった次の日に、渚は迷わず親に電話で報告をしていた。
母親は早く帰って来い、と言ってくれたし、あれはあるか?こっちで買っておこうか?帰ってきた日の晩御飯は何がいい?と、毎日連絡をしてくれた。
血の気の多い父親は、悟を殺しに来そうな勢いだった。
まだ「辛いことがあって別れた」としか言ってないのにこれなので、詳細を話せば、本当に殺りかねない。
次に住む所の心配は不要になったので、すぐに荷物をまとめた。荷物は自分の持ち物のみで、大きな家具などは、置いていくことにした。
あとは、今日の帰宅時間に合わせて頼んだ、宅急便業者に荷物をお願いして、悟に鍵を叩きつけて去るだけだ。
親と同時に来歌には「悟と別れました」とだけ連絡をしておいた。来歌からの返信には
「辛かったね、すぐ日にち決めて会おう!聞くよ!」
とあり、少し時間をあけて
「あとね、ぶっちゃけ、やばい人だったから、別れて正解だったと思う……あの人なんかあるたびに、元関東人を馬鹿にしてたじゃん?実は本当に無理だったんだよね」
と、書いてありら正直過ぎて笑ってしまった。
私はいつでも来歌に励まされるな、と渚は笑顔になる。
「もっと早く言ってよ」
と口に出すと、また1人で笑ってしまう。
別れて傷だらけになった日から、今日まで笑顔でいられたのは、周りの人のおかけだった。
恵まれているな、と渚は外の景色を見ながら考える。
すると、その景色の中、駅の屋根から数十羽の鳩が、一斉に飛び立って行くところが見えた。
それだけでは珍しくないが、そのうち二匹がこちらに向かってきており、しかも一匹は明らかに他の鳩より小さかった。
鳩の雛は、巣の中で親くらいの大きさになってから、出てくるんじゃなかったっけ、と渚は思った。
以前、来歌と万博公園で行なわれたフードフェスに行った際に、ご飯粒をつつく鳩の群れを見ながら、子供の鳩って見かけないよね、という話になり、2人で検索したのでなんとなく覚えていた豆知識だ。
まだ飛べるようになって間もないであろう小さな鳩は、こちらにかなり近づいてきた。
危ないんじゃないかと不安になる。隣の人から「うあっ」という小さな声が聞こえる。
しかし、窓にぶつかりそうになる寸前、後ろの鳩が前に躍り出て、子供の鳩を誘導し上方へ飛んで行った。
「良かった……」
思わず声にだしてしまう。
前にでたのはあの子の親なのだろうか。渚はそんな事を考えているうちに、何か胸の内側に嫌なものを感じてきた。
【勘】なるものをあまり信じて来なかった渚だがそわそわして堪らなくなった。
子供……子供達に何かあったのかもと就業先の保育園の子供達の顔が浮かんだ。
何も用事がないのに電話するわけにもいかず言い訳を考えてからかけてみる。
「あ、お疲れ様です、剣崎です。あの、シフトの件なんですが今日入らない分は、どこかで出勤になりますか?…………そうですか了解しました。あ、あめんぼ組の子達ってなにも問題ないですか?…………分かりました!良かったです!はい、お疲れさまでした!」
担当する組の子供達には特に問題はなく渚は、ほっとしたが嫌な感じは拭えなかった。
疲れてるのかも……帰ろうかな。
悟には会いたくなかったが、なぜか家に帰りたくなった。もし、家にあいつがいたら寝室に籠ろうかな、と考えながら、ドリンクをゴミ箱で分別し、店を後にした。
最寄り駅に着いたあと、渚は背中に汗をかいていた。頭の後ろから尾てい骨にかけて、うずうずするような冷たい感覚がどんどん増していたのだ。
早く帰らないといけない、その一心だった。暑くてだるいはずなのに、早歩きで家に向かう。
手に持った小さなトートバッグから、水筒を取り出し、グビグビ飲むとまた出発する。
水筒と一緒に入っているお弁当が、傷んでいるかどうかは気にならなくなった。
マンションに到着し、階段で二階に上がると、自宅である201号室の前で立ち止まった。
おもむろに表札に挟んだ 宇野悟・剣崎渚と書かれた紙を引き抜き、片手でぐちゃぐちゃに丸めるとらトートバッグに入れた。
自分でもなんでこのタイミングにしたのかは分からないが、一瞬でも目に入れたくない気分だった。
鍵をあけて中に入る。自宅なのに全く安心感のない帰宅であった。
渚が配送を手配した段ボールが、玄関に積まれている。
上手く靴が脱げずに足下を見ると、見慣れない女性物の靴があった。
「…………最悪」
【勘】が働いたのは、こういうことだったのかと、どっと力が抜けた。
こんな勘は全くいらないし、自分が仕事に行っている間に女を連れ込んでいるなんて、最後に知りたくなかった。
しかし、部屋からドタン!という大きな音がすると、頭のスイッチが切り替わったように、違う感情が話しかけてきた。
今日の渚の心は忙しい。
あんな奴はどうでもいい、という気持ちと同時に、まだ【私の家】でもあるところで何してるんだ、という気持ちがむくむくと沸いてきたのだ。
気づけば一歩一歩怒りを原動力に、リビングまで歩みを進めている。扉をあけてどうしようと言うのか。
【頭】の答えはこうだ。
「怒鳴りつけて、その場をめちゃくちゃにしてしまえ、私にはその権利がある」
「表札に私の名前があるのに、部屋に上がり込むような、常識のない女の襟首ぐらい掴んでやればいいんだ」
止める者も【心】もそこにはおらず、扉に手がかかる。
L字のノブを下ろしドアの内側に押し入る。
「悟!!!」
自分がスッとするような大声が出た。
しかし目の前の光景を見たとたん喉が閉まりすぐに絶句してしまった。
悟は何か口を動かしてこちらを見ている。
その下にいるのは明らかにルナリア人の女性だった。
ルナリア人が……手首を掴まれ、私の元婚約者が馬乗りに跨っている。
理解の追いつかない状況だ。鼓動が早くなる。
何故か女性は、ウノ語を話している。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
そう繰り返す彼女は、焦点があっていないような目で空を見上げ、3つの目から大粒の涙を零し続けていた。
潤んだピンクの瞳は、美しくさえあった。
女性じゃない……殆ど子供だと気づいた。
その時、その子は正気を取り戻したように瞬きすると、瞳と顔をゆっくりこちらに向けハァハァと胸で息をしだした。
そして自分の身体をようやく取り戻したかのように、声を絞りだした。
「……助けて……」
渚は走りだした。
覚えている限り、産まれてはじめて感情にのまれた。
悟が何か言っているが聞こえない。
手に持っていた、水筒が入った小さなトートバッグを何の躊躇もなく振り上げると、悟の側頭部に思い切り振り下ろした。
「クソ野郎おおぉぉぉっ!!!!!!」
叫ぶと同時に、今度は下からも大きく振り上げる。鈍い音がして顎下にヒットすると、水筒が飛び出し、空を舞った。
カァン!という音を立てて、床にぶつかり転がる。悟は床で、頭を抱えて呻いている。
渚は止まらない。
トートバッグを背中めがけて投げつけると、今度は素手でバチン!と頭を叩いた。
「子供にこんなことして!!!情けない!!!!!」
これは、元婚約者だった男性への叱責でもある。
何度も何度も殴りつけるうちに、渚は涙が止まらなくなった。
「こんな子供……に……!……酷い!!謝れ!謝れ!」
足で背中を踏みつけ、頭を無理やり押さつける。
悟は謝っているような、よく分からない呻き声をだした。
ハッと、横を見ると、ルナリア人の子供は手で口元を押さえ泣きつづけていた。涙でふやけた瞳と、ぐちゃぐちゃになった顔まわりの体毛を見ると、胸がぐっと痛んでまた涙がこみ上げてきた。
口に涙が入ってくる。
拳を握って、今度はその子供に向け、大声を出した。
「あ、、あ、あなたも怒りなざい!!」
こんな事が言いたかったのではないのに、そんな場合でないのに、口から出てしまった。
彼女は泣きながらも、ポカンとした様子だ。
スクールカウンセラーの資格を持つ渚は、勿論今、こんな事を言うべきではないと分かっていた。
「おこ……お怒っていいの!」
しゃくりあげながら続ける。
「い、嫌な事を、されたら……ひっ……心を傷つけ……られたら……怒っていいの!!」
鼻水も止まらない……彼女には、汚いウノ人の女が何か叫んでるように見えるのだろうか。
怖いよね……ごめんね……。
彼女は「出来ない」と言うように、首を左右に振った。
怒ることができないくらい、萎縮してしまったんだろうか、それほど怖かったたのだろうか……それとも、元々怒れない優しい子なのだろうか。
渚は彼女を助けようと近づく。ビクッと怖がるような反応を見せた。
自分が怖かったのかとおもったが、後ろからの異様な雰囲気を感じ、すぐさま振り向いた。
悟が顔をあげ、こちらを睨むように見ていた。額からは、血が滲んでいる。
もう手元に水筒が入った袋はない……。
渚は、ルナリア人の子供の腕を掴むと、引っ張って言った。
「逃げよう!!」
おぼつかない足で立ち上がる彼女を支え、玄関に向かう。足元にあった彼女の鞄は拾えたが、机の上のファイルや書類は難しそうだった。
「おい!!!」
後から、怒鳴りつける声が飛んできた。腕の中にある身体が強張る。
その反応は、渚の心を身体を振るい立たせるのに充分だった。
悟が次の言葉を話はじめる前に、振り返り大声で応戦する。
「少しでもこっちにきたら警察呼ぶから!!」
警察という言葉にたじろいだのか、悟の動きが止まったので、急いで小走りでリビングを出た。
この後、宅配便業者が取りにくるはずだった荷物を横目に、急いで靴を履く。
自分は靴の踵を踏みつけて履いたが、ルナリア人の子には「焦らなくていいから」と、声をかけ丁寧に履かせてやった。
玄関を出ると、一気に肺に空気が入ってくる。まるで先程まで、息が吸えなかったようだった。
彼女も同じだったようで、咳き込んでしまった。
とりあえず階段を降りようと、誘導したその時。
バァン!という音と共に、背中にある玄関のドアが揺れた。
悟が癇癪を起こし、物を投げつけたのだ。
渚はドアをきっと睨みつけたが、ルナリア人の子供は「っはぁ……!」と声を出すと胸の前で洋服を握りしめ、しゃがみ込んでしまった。
「ご、ごめんなさい、怖かったね」
と焦って声をかけたが、目を見開きまた泣きはじめてしまった、ガタガタ震えている。
このままじゃ良くない……この子は限界だ。
早く逃げたかったが、彼女の体毛のある身体は、目立ち過ぎた。
とりあえず彼女の腕を取り、無理やり歩かせて一階のマンションの横にある、貯水槽の影に移動した。
彼女がなるべく隠れるように、道路側に渚が立つ。
「しばらくは大丈夫だからね、あいつ外では優等生だから、たぶん出て来ないよ」
と、なるべく優しく声をかける。
異国の地で地面に座り込み、ブルーベリーピンク色の体毛と唇を震わせる彼女を見て、渚は覚悟を決めた。
スマホを取り出し、耳元にあて、電話をかけだした。
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