第8話 終わり

 「わー!やめてー!」

渚が笑いながら後退りすると、帽子をかぶった子供達は目をキラキラさせながら満面の笑みで追いかけてくる。


 手には昨日の雨で園庭に出来たであろう、水たまりの泥が握られている。

躊躇なく人に泥を投げつける子、興味深げに廊下に塗りつける子、砂と混ぜて団子にする子、ポケットに詰める子など子供により遊び方は様々だ。

 渚ににじり寄る子達の脳は、泥をつけて先生の叫んだ声を聞きたい、つけた時の感触が知りたい、隣の子の声で更に興奮したいと、この瞬間にも様々な要求を出し凄いスピードで学んで行く。

 この子達のように「知りたい」「絶対やりたい」と熱意があったのはいつまでだったのかを考えるとやはり保育士になって2年目くらいまでだったように思う。


 渚は同僚に、苦手だと思われるくらいには真面目だ。

新しい知識を取り入れるために、児童心理学や発達障害児への適切なケアなど、子供に関する本は読み続けていたし、スクールカウンセラーの資格も取得した。

 そのためあまり保育、教育に関するアップデートのできていない同僚の保育士には、イライラしてしまう事もよくあった。

「あぁ……そうじゃないのに」「そんな風に抑えつけたら更にあの子は……」そう思うたびに胸が痛むし、腹が立つ。

はじめの頃はそのまま口に出してしまっていた事で、今より揉め事が多かった。


 7年目ともなると、多少空気が読めるようになりましにはなったが、それでも自分は煙たがられている事は肌で感じていた。

勿論理解してくれる良き同僚もいる。

その同僚と同じ時間帯に保育をする時は、連携が取れ、子供達も落ち着いていることが多く、発達障害のある子供のパニックも少なく感じる。

その時、渚は自分のやってる事や知識に間違いはないと、とても満たされた気分になるのだ。

 

 渚は駆けよってきた泥だらけの子供達を躊躇なく抱きしめる。

自分といるこの時間、少しでもこの子達が幸せでありますように、幸せな思い出をもって生きていけますようにと。


 その日は発表会に向けてのピアノの自主練習もあり、帰るのが遅くなってしまった。

足取りはとても重い。

家に帰れば、不機嫌な婚約者に会わなければいけない。

2ヶ月前くらいから常に喧嘩腰で話してくるようになり、ついには無視されるようになった。

はじめは困惑したし、どうにか仲直りできないか模索したりしたが、話し合いにもならずにお手上げだった。

付き合ってから、たびたび不機嫌になったり怒鳴ったりと、色々あるたびにこちらが折れてきたが、今回は2ヶ月も続き限界に感じている。

 離れているならましだが、同じ屋根の下に住んでいるため、かなりのストレスだった。


「別れるしかないのかな……」


思わず夜道で呟く。


 お互い27歳で婚約破棄なんて……6年も付き合ったのに?たった1ヶ月ちょっと揉めただけで?

頭には毎日同じ言葉がぐるぐる回る。いつもであれば、来歌に電話するのだが、今は少し違うような気がしていた。

 来歌と私も冷却期間なのかも知れない。

今は彼女のあの彼への熱がどうなるのか静かに見守るべきなのだろう。


……本当はすぐ止めたいけど。


 いつもは行かないコンビニに寄り、ストローを挿して飲むタイプのジュースを買ってみた。

少し歩いた先の公園にある、街頭に照らされたベンチに腰かける。

沖縄産ルナリアバナナ100%と書かれたジュースは100%砂糖なんじゃないの?というほど甘く、実際に「甘っ!」と口に出してしまった。

ベンチに手をつき自分の足下を見る。

 今の私を見て来歌ならどう言うだろうか。

馬鹿らしいかもしれないけど真剣に想像してみることにした。


「えー!あり得ないよ!!何怒ってんのか知らないけど自分の婚約者にイライラぶつけたり、傷つけたりして良いわけないじゃん?!」


最悪!といった表情がありありと想像でき少し笑ってしまう。


「渚……辛いかもしれないけど、1回離れた方がいいよ、自分を大事にして」


ここまで想像して何故か来歌ではなく、親の顔がちらついた。

 親はなんて言うだろう。

「勿体ない」だろうか「もっと渚がちゃんとしないと」だろうか。


違う。


 「渚の幸せが1番大事」だ。

 

 私の中で何かが終わり、周りが輝きだした。


そうだ、園児達のお父さんお母さんと同じ気持ちで、親はまだ私を見てくれている。

私は子供達と変わらない。私も私を愛さないと。

私が可哀想だと親も悲しいんだ!私を幸せにしないと!!

そう決めると、ジュースのパックをコンビニのゴミ箱まで捨てに行き、軽くなった足取りで家に帰った。

 

 マンションに着き、2人の名前が書かれた表札を見ると「これも、もしかしたら今日で終わりかも知れないな」と、はっきり思えた。

玄関のドアを開けると、婚約者の靴がばらばらに転がっている。いつもなら自分がそれを揃えたが、今日は足でどかして入る。

リビングに入ると「おかえり」も言わずに、寝そべりながら、スマホをいじる彼の姿があった。

「ただいま」

と声をかけてみたが、渚の存在自体を無視するような態度は、変わらなかった。


 拳を握り胸にぐっと力を込めて、彼に近づきそばに座ると、静かにはっきりと話した。


「悟……聞こえてないの?ただいまって言ってるの」


それでも彼は、黙ってスマホを見ている。

すーっと、大きく息を吸い込む。


「このまま私を馬鹿にする態度が変わらないのなら、別れます」


そこで彼はようやく起き上がり、顔をこちらに向けた。


 その顔はヘラヘラと笑っていた。

渚は泣きたくなるような気持ちを抑え、向き合った。もう駄目だと思った。

失礼なその男はスマホを手から離さず、不気味な笑みを浮かべたまま汚い口を開いた。


「やった、お前からそうやって言うの待っててん」


ズキンズキンと心が痛くなる。

「婚約破棄がどうとか言われたりさぁ、別れへんとか言われたり?ストーカーとかなったら面倒やん?」

泣きたくない、泣きたくない。必死で堪える。

「お前、俺のこと大好きやん?」

こんなやつを大好きだったことが、辛くなってくる。


「これで終わりやな、部屋の名義は俺やし、何日か以内に出てって」

 そういうとクソ野郎は、冷蔵庫から水をとりペットボトルから直で飲むと、寝室にスタスタと行ってしまった。

 

 ドアが閉まると、6年分の思い出と共に心が燃え上がった、記憶が刷られた紙が灰になっていくのを感じる。


胸から上がってくる熱気が、目元も熱くさせる。

悔しくて悔しくてたまらない。

泣きたくないのに涙が湧き上がり、次から次へと目から零れ落ちた。


 日付が変わる頃になり、やっと自分が風呂にも入ってないことに気づいた。お腹も空いている。

冷蔵庫を開けると、沖縄産ルナリアバナナ100%ジュースが入っていた。


「……こういう趣味は似てたんだよね」


また涙を1つ零すと、虚しくなり冷蔵庫を閉じた。

ふらふらと立ち上がりキッチンに向かうと、昨日買った食パンがあった。

それを手に取り焼きもせず、立ったまま囓る。

彼の前では絶対こんなことをしなかった、でももう関係ない。

また涙が零れ落ち、パンを噛むたびに口に入る。

 次に住む所を早く決めないといけない、一緒に買った家具はどうするのかを決めるには、彼とまた話さないといけないのだろうか……考える事は、いっぱいあった。


でも今は、自分のために泣いていたかった。

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