第0夜「序夜」

個人タクシーをやりたくて、この仕事を始めた。

理由は単純だ。


“車の中”という、自分だけの城にいられるから。

そこには、ちょっとした自由がある。


それに、運転が好きだし、地図を眺めるのも苦にならない。

振り返れば、曖昧で漠然とした動機だったけれど、それでも足を踏み入れた。

いや、「踏み入れてしまった」のかもしれない。


気がつけば、もう七年が経っていた。

それでも、後悔はしていない。

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いまは夜専門の勤務──いわゆる“ナイト”と呼ばれる夜日勤。

繁華街を回り、終電を逃した会社員やホスト、ホステス、クラブのママさんたちが主なお客さまになる。


夕方5時に出庫し、帰庫は明け方の9時。

この14時間が、勝負の時間だ。


七年もやっていると、自分なりの“好きな場所”、言い換えれば“漁場”みたいなものもできてくる。

まずはそこを目指して車を走らせるのだが、その道中、お客さまから手が挙がることもある。


ありがたいことだが──つまりは「思い通りにならない」ということでもある。


なかには、行き先を限定したくて“回送”にして走るドライバーもいる。

──だがこれは、本来は営業違反だ。


思いもよらぬ場所へ“飛ばされる”。

初めての街、初めての道。

同じ目的地でも、道順は一つじゃない。


道路状況も、日によって、時間帯によって、刻々と変わる。

それを「新鮮だ」と思えるようになると、少し楽になる。


毎晩が冒険で、そこにこの仕事の醍醐味がある。


とはいえ、七年も続けていれば、“初めて”という場所は減っていく。

逆に、「またここか」という送り先が増えてくる。


もっとも、同じといっても町名くらいの話で、正確な行き先まで一緒なんてことは、常連でもないかぎり滅多にない。


「運転が好きで、地図を見るのも好きなんです。天職ですかね」

そんなふうに笑って答えると、車内の空気が少し和む。


たったそれだけで、会話が生まれることもある。


好きな漁場──それはあくまで個人的な感覚だが、客層がよく、比較的ロングが狙える場所。

昼の営業と違い、夜はお客さまの数が減り、代わりにライバルが増える。


特に、夜の時間帯は個人タクシーが大量に出てくる。

だからこそ、“効率よく”“勝負になる”お客さまを拾えるかが重要になってくる。


「運だよ」と言う人もいるが、そうとも言い切れない。

場所と時間、そして流すべきか付けて待つべきか──その判断がすべてだ。

その判断こそが、運を呼び込む。


それでも、どんなに空車が並んでいようと、「必ず誰かを乗せられる場所」がある。


それが、“銀座”だ。


銀座は、自分に“技”と“自信”をくれた場所だ。

常連もできた。

けれど、それ以上に、ここには他の街とは明らかに違う空気がある。


“粋”を大切にする街──そう言っていいだろう。

赤坂や神楽坂、日本橋人形町も粋な街だが、銀座はどこか少し特別だ。


たとえば、歌舞伎町や六本木がギラギラと輝くネオンと、騒々しく無秩序な熱気に包まれているとしたら、

銀座は、しっとりとした柔らかな明かりが静かにきらめき、夜の闇に奥ゆかしい華を咲かせているような街だ。


そして何より──

「見栄を張ってこそだぞ」

そんなことを、教えてくれた街でもある。


銀座のホステスやママたちは、出勤も帰宅も、たいていタクシーを使う。

乗る場所もそれぞれ決まっていて、ドライバーたちはそれを狙って流したり、付け待ちしたりする。


同じお客さまを何度か乗せることもある。

そういうときは、名刺を渡すようにしている。

常連になってもらえるように、さりげなく売り込む。


とはいえ、タクシーの仕事は不安定だ。

だが、それもまた面白い。


名刺一枚が縁をつなぎ、思わぬ出会いにつながることもある。


銀座からの帰り道、多くのお客さまはお釣りを受け取らない。

「見栄は張らなきゃね」

そう笑って言った常連のひとことが、忘れられない。


──見栄張ってなんぼ。見栄を張れなくなったら終わり。

それが銀座の美学なのかもしれない。

それこそが、粋、なのかもしれない。

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毎日、決して同じ展開にはならない仕事。

それを「新鮮だ」「毎晩が冒険だ」と思えるようになるまでには、時間がかかった。


信じられないかもしれないが、110番通報、交番や警察署への立ち寄り──

そんなことが、決して珍しくないのだ。


幸い、重大事件に巻き込まれたことはないが、

無賃乗車、寝て起きない、目的地が違う、料金が高すぎる──いわゆる“トラブルの宝庫”。


もちろん、それは“エピソードの宝庫”でもある。

ときには、自分が引き金を引いてしまうこともある。


怪談よりも、背筋が凍るような出来事だってある。


なかでも、いちばん厄介なのが「酔って寝込まれたお客さま」。


酔っているうちに乗せてしまった場合、まずやるべきは目的地の確認。

「どちらまで?」と聞いて、ちゃんと返事が返ってくれば、まだいい。


住所が出てくれば、ナビに打ち込み、ルートの確認をしておく。

出発前に「この道でよろしいですか?」と尋ね、うなずいてもらえれば安心──

と言いたいところだが、酔客の「うん」なんて、まったく信用ならない。


「○○の近くまで行ったら指示するよ」

そんな曖昧なセリフに乗せられて出発すると、だいたいロクなことにならない。


いざ着いてみたら、寝ている。

お声がけして起きたと思ったら、

「いや、もっと先だよ。まっすぐ、まっすぐ!」


その言葉に従って走っていれば、たいていの場合“通り過ぎる”。


「なんで通り過ぎた!」

あるいは「ここは、どこだ!」と、逆ギレされる。


最悪、起きない。

そうなると、警察沙汰だ。


──泥酔客相手の「まっすぐ」と「ここは、どこだ?」ほど怖い言葉はない。

これはもう、タクシー業界の“あるある中のあるある”だ。


目的地がはっきりしていても、高速を使うかどうかで料金は大きく変わる。

酔っているお客さまは「急いで帰りたい」と高速OKを出してくれても、

領収書を見た途端に、「高い!」が常套句。


「どこ通った!?」と詰め寄られることもある。


だからこそ、“相場感”が必要だ。

主要な目的地や中間地点については、記録し、記憶するようにしている。

(……もっとも、酔客には通用しないことも多いが)


忘れられない出来事がある。

ある日のこと、お客さまにこう聞かれた。


「今日の試合、どうなった?」


普段ラジオを聞かない自分には、答えられなかった。


基本的に、接客では野球や贔屓チームの話題は避けている。

かつて、自分が客として乗ったタクシーで、友人と野球の話をしていたとき、

「降りろ!」と運転手に怒鳴られたことがあったからだ。


そのときの乗客も、どうしても試合結果が知りたかったようで、

「ラジオをつけろ!」と声を荒げた。


慌ててスイッチを入れると、応援しているチームは負けていた。


(……最悪だ)


案の定、不機嫌になり、矛先はこちらへ向かう。


「タクシードライバーたるもの、朝は新聞、昼はラジオで世の中を知っとけ!」

延々と説教がはじまる。


何を言っても怒る。黙っていれば、それもまた怒る。


──針のむしろとは、まさにこのことだった。


とはいえ、無事に目的地へ着けば、精算して、降ろしてしまえば終わりだ。


(二度と会うことはない)


──とは言っても、タクシーを始めたばかりのころは、こういう出来事を長く引きずった。

営業所に戻ってから、思わず愚痴をこぼす日もあった。


それでも、

新聞を読み、ラジオに耳を傾け、

お客さまの言うとおり「世相にアンテナを張っている」先輩ドライバーもいた。


「景気を知りたければ、タクシードライバーに聞け」──

そんな話を聞いたことがある。


景気が悪くなれば、真っ先にタクシーを使う人が減る。

チップなんて、夢のまた夢だ。


人の流れが滞れば、そのまま売上に直結する。

ニュースよりも早く、街の温度が肌でわかる。


ドラマにあるような「前の車を追ってくれ!」というセリフ。

あれは作り話ではない。

自分も、実際にあった。


芸能記者か探偵か、捜査関係者かはわからないが、追跡や尾行に付き合わされたこともある。


“芸能人”や“著名人”をお乗せすることもある。

そのときには、また別の緊張感がある。


車内で交わされる会話、行き先──すべてに、ドライバーとしての秘匿義務がある。


とくに複数人を乗せた場合、

「誰とどこへ」という情報を記憶にとどめると、ロクなことにならない。


実際、同僚の一人がある芸能人を降ろした直後、次に乗ってきたお客さまにこう聞かれた。

「今の、〇〇さんだった?」


軽くうなずいたつもりが、そのときの会話が週刊誌に載ったという。


それ以来、見聞きしたことは、できるだけ「その場で忘れる」ようにしている。

(……とはいえ、なかなか忘れられるものではないが)

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タクシードライバーは、「話し相手」であると同時に、

「沈黙のプロ」でもあるべきなのだ。


──それが、この仕事の妙。


一度きりの経験でも、忘れられないエピソードは数えきれないほどある。

そして今夜は、どんな夜になるのだろう。



<予告>

第一夜「巡り合い」


今夜は、どんな夜になるのだろう。

期待と不安の繰り返し。毎日似ているようで、同じ夜は一つもない。


そんなことを考えながら、いつも通り17時に車庫を出た。


銀座を目指して流していると、17時半ごろ、小洒落たマンションの前に和服の女性が一人立っていた

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