第一夜「巡り合い」

今夜は、どんな夜になるのだろう。

期待と不安の繰り返し。毎日似ているようで、同じ夜は一つもない。


そんなことを考えながら、いつも通り17時に車庫を出た。


銀座を目指して流していると、17時半ごろ、小洒落たマンションの前に和服の女性が一人立っていた。


(タクシー待ちか?)


減速して近づくと、手が挙がった。


(ビンゴ。タクシー待ちだ)


和服に髪もきちんと整えられ、営業モードは万全。

(どこの店だろう。錦糸町? いや、銀座だったらうれしい……)


そんなことを思いながら、車を寄せた。


「ありがとうございます。どちらまでお送りいたしますか?」

「銀座。小菅から高速に乗って」と女性。


(えっ……意外だ)


この辺からなら、下道で入谷まで走って首都高に入るのが普通。


(小菅から乗るなんて、距離より早さ重視か?)

「お急ぎですか?」と尋ねる。

「別に急いでるわけじゃないけど、その方が早いでしょ」


(……ん? なんとなく、聞き覚えのある声だな)


「はい。渋滞がなければ、小菅ルートのほうが断然早いです」

「銀座のどのあたりでしょうか?」

「電通通りまで。わかる?」

「はい」


(まだ外堀通りを“電通通り”って言う人がいる)


「じゃ、向かって」

「では、小菅から高速に乗って、新橋で降りて“御門通り”から電通通り、というルートでよろしいですね」


こちらも少しプロっぽく通り名で返してみた。

(見栄かな)


「うん、それでいいから。車、出して」


それから、しばらく淡々とした会話が続いた。


(どうしても、声が気になる……)


ルームミラーで顔を確認しようとするが、彼女はスマホをいじっているのか、俯いたままで表情が見えない。

お客さまをチラチラ見るのはマナー違反。今は運転に集中することにした。


両国ジャンクション。いつもは混む場所だが、今日はスムーズ。

ギアを一速落とし、なるべくブレーキを使わず、滑らかに走らせる。

(乗り心地がちがうのだ)


新橋で高速を降り、御門通りへ。

「このまま電通通りまで進んでよろしいですか?」

「先の信号、越えたあたりで止めて」

「はい」


(並木通りを越えた、銀座八丁目あたりか)


「こちらでよろしいですか?」

「うん。ここでいいわ」


精算を済ませると、彼女は静かに降りていった。

このあたりは古くからの店と新しいラウンジが混在する、銀座の狭間。

(和服ってことは、ママさん?)


雰囲気からすると、大箱のママっぽかった。

(……それにしても、どこかで聞いた声だった)


ふと見上げると、通りの看板が目に入った。

(そういえばこの道、ソニー通りの延長だけど、名前を知らないなぁ)


話のネタにもなる。機会があれば、誰かに聞いてみよう。


今日は最初の営業で、目的地・銀座に直行できた。

しかも割増し前。この収入はありがたい。


さあ、乗禁までの時間、もう一本いけるか。

気を引き締めて、再びハンドルを握る。

流して拾うか、付け待ちするか。

(悩みどころだ)


とりあえず流しながら、同伴客や出勤ホステスたちの動きを観察する。

(あれ? 今夜は静かだな)


同伴や飲みに来る客は少なく、歩いているのはホステスやママさんばかり。

帰る人の姿は、まだ見えない。

(しょうがないなぁー)


流しをやめて、東電前の付け待ちに切り替えた。

ここは、ロング狙いの個人タクシーが多く集まる場所だ。

中には短距離客を乗せない車もある。そんな乗車拒否を避けて、あえて法人タクシーを選んでくれるお客さまもいる。


しかし、ただ時間だけが過ぎていった。

銀座に出入りする車と人の波をぼんやり眺めながら、ひたすら待つ。


乗禁になる前にお客さまが現れてくれれば──と焦り始めた頃、

スーツ姿のサラリーマンが近づいてきて、窓をノックした。


ドアを開けると、

「いい? 行ける?」と、ぶっきらぼうに聞かれる。

「はい、ありがとうございます。どちらまででしょうか?」

「近いけど、ごめんね」


(なんで謝るんだろう……)

「いえいえ、大丈夫ですよ。ご乗車ありがとうございます」


笑顔で応じると、

「砧二丁目まで」

(ぜんぜん近い距離じゃないじゃないか)


「高速、用賀でよろしいですか?」

(あっ、聞き方が雑だった。焦りが出たな……)

「当たり前だろう!」

(よかった……)


基本、下道で行くのが原則。高速利用は了解を取らなければトラブルの元になる。

「用賀で降りたら環八ね」

「かしこまりました」

ハンドルを切り、霞ヶ関から首都高速3号渋谷線に入る。

用賀出口を目指して進むが、電光掲示板には「高樹町から三軒茶屋まで渋滞」と表示されている。


「お客さま、『この先渋滞』の表示がありますが、いかがなさいますか?」


「うーん……」としばし考える。

下道が空いている保証もない。


「ナビ、渋滞どう?」


「渋谷から先、真っ赤ですね」

完全に詰まっている。


「そっか、じゃあ渋谷で降りて、淡島通りで行こう」  


「かしこまりました」


渋谷で高速を降り、淡島通りへ。幸い渋滞はない。


「このまま道なりに進んで、城山通りから経堂方面でよろしいですか?」


「この辺、詳しいの? 足立ナンバーだったけど」


「いえ、世田谷はなかなか難しいですね」と照れ笑いを浮かべながら、

「以前、道に迷って、なかなか抜け出せなかったことがあって」


「道は細いし、一通ばっかりだもんな」


軽く笑い合いながら車を進める。


「そういえば、世田谷方面のタクシーって、城北の方へ行くの嫌うらしいですよ。くねくねしてて、方向が分からなくなるって」


「へぇ、そんなもんか」


「ええ、ナビがなかったら、ほんと迷子になりますよ」


そんな話をしているうちに、環八との交差点が近づいてきた。


「交差点、どうしましょう?」


「そうだな──信号が青ならそのまま突っ切って、赤なら手前で止まってくれ」


「承知しました」


信号は赤。車を止めて、料金を案内する。


「じゃあ、これ使える?」


サラリーマンがタクシーチケットを差し出した。


「はい、お使いいただけます。恐れ入りますが、金額と日付のご記入をお願いします」


「そっちで書いてよ」


「ダメですよ。これ、小切手みたいなものですから」と冗談ぽく、機嫌が悪くならないように促した。


しぶしぶ記入しながら、ふと後部座席に目をやった彼が、


「あれ、忘れ物だろう。これ?」と指輪を差し出してきた。


(えっ?……)


今日はまだ、銀座まで乗せた和服の女性しか乗っていない。

出庫前に車内は確認済み。相番もいない。


指輪の内側には刻印で「Sachiko」。


(絶対、彼女のものだ)


急いで会社に電話をかける。


「もしもし、忘れ物の問い合わせって何かありました?」


「いや、来てないけど。忘れ物って?」


「はい。17時半ごろにご乗車いただいた方かと思います。後部座席に指輪が一つありました」


「領収書は渡したの?」


「ええ、お渡ししました」


「じゃあ、問い合わせが来たら連絡します。でもさ、ダメだよ。ちゃんと車内確認しなきゃ」


(最後の一言、なんでいちいち嫌味を言うかな)


胸の内でつぶやきながら電話を切った。


とりあえず営業を再開するにしても、さて、どこを目指そうか。

ここは砧二丁目の交差点。


──新宿方面に流すか、渋谷に向かうか。

あるいは、もう一度銀座へ戻るか。

乗禁まで、あと1時間半は営業できる。


幸い、上りの高速は流れているようだ。


(やっぱり銀座だな)


高速代は自腹だけど──そう腹を括った。


用賀インターから首都高に乗り、汐留で降りる。

普通なら用賀から銀座なら霞ヶ関で降りるところだが、あえて汐留を選ぶ。


御門通りへ一本で出られるし、何より銀座八丁目が得意な漁場。

新橋方面にもすぐ振れるのがいい。


銀座八丁目の交差点に差しかかったところで、小洒落たマダム風の女性が手を挙げた。

手には紙袋。銀座で買い物を終えた帰りだろう。


「ありがとうございます。どちらまでお送りしますか?」


「砧四丁目までお願いします」


「はい、かしこまりました。ご指定の道はございますか?」


「お任せします。早くて安い道でね」


(ツッコミどころ満載だ)


お客さまには関係ないが、こっちはさっき自腹で用賀から戻ったばかり。

なのにまた砧?

──しかも「早くて安くてお任せ」って。


渋滞にハマって、いつもより料金が高くなったとか言われたら困る。


「そうですね、空いていれば高速で霞から用賀まで乗って、そうでなければ三茶で降りて世田谷通りでって感じでしょうか」


(この流れなら高速に乗るつもりでいけるな……)


「ゴールの砧四丁目ってどのあたりですか?」


「じゃあ住所言うからナビに入れて」


「はい、かしこまりました」


教えてもらった住所をナビに入力する。


「ではナビの案内に従って進めさせていただきます」


ナビは「霞ヶ関から用賀まで高速利用」のルートを示していた。

ナビの設定は通常「距離優先」だが、割増時間中だけ「有料優先」に切り替えている。


今回は切り替えを忘れていたが、結果的に「有料優先」設定で助かった。


「じゃあ、それで」


了承は取れた。


けれど用賀まで高速を使うと、それなりに料金は上がる。


(まあ、トラブルにはならないと思うけど、ちょっと気にはなる)


少し自分のズルさを気にしながらも、「了解済みだからOK」と自分に言い聞かせてアクセルを踏んだ。


「タクシー、長いの?」


「え? 経験ですか? いえ、まだ始めたばかりで」


「そうなんだ」


会話が少し途切れる。


この手の質問にはいつも「新人」を演じることにしている。


「いるのよね、道知らないのに知ったかぶりして結局迷うタクシー」


「そうですね」


「私はね、とりあえずお客さまに行き先を確認してナビに入れるのが一番だと思っています──って、それがルールですよね。でも慣れてくると面倒になるんでしょうかね」


笑って場を和ませる。


実際、住所確認はマストだ。

ゴールがどこかわからないまま走るとトラブルの元になる。


用賀まで高速を使うと料金が上がるのは承知の上だったが、言うべきか迷っていた。


が幸いなことに、渋滞はまだ解消していない。


「高速、ちょっと渋滞していますね。渋谷で降りて一般道の方が早いと思いますが、いかがでしょう?」


「そうなの? 運転手さんにお任せしてるから、どうぞ」


「ありがとうございます。ではナビに従って行かせていただきます」


結果的にトラブルもなく無事にお送りできた。


一息つくと、そこはさっきも通った砧二丁目の交差点。

一日に何度も同じ場所に呼ばれる。

タクシー乗務でのあるあるだ。


(今日はどうやら……“世田谷の日”……らしい)


高速は時間によって料金が上がることはない。

それはドライバーにとってあまりありがたい仕組みではない。


一方、一般道は距離と時間で料金が加算される。

つまり渋滞でもある程度は売上になる。


けれどお客さまは急いでいるからタクシーを使う。

渋滞に巻き込まれればイライラするのも無理はない。


そしてそのイライラは、背中越しにじわじわ刺さってくる。


(ほんと、渋滞は嫌だ)


もう銀座に行っても乗禁の時間。

さて、どうするか。これから長い夜になりそうだ。


(……流れに身をまかせるか、自分を信じるか……)



<予告 第二夜「指輪」>

今日も夕方5時、いつも通りに営業所を出発する。

これは変わらない。


しかし違うのは、和服のママに忘れ物の「指輪」を渡すため、必ず17時30分前後にあのマンション前を流すことが日課になっていたことだ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る