おたずねこ
クフ
おたずねこ
猫を拾った。
犬は飼ったことがあったから、ある程度犬種の見分けもついた。チワワとポメラニアンだって天と地ほどの違いがある。ただ明らかに猫だったので、なんという猫種?なのかわからなかった。毛は長い。ヨーロッパの貴族が飼っていそうだと思った。しかしヨーロピアン、なんて種類の猫はいるんだろうか。
実際いた。が、その猫はヨーロピアンショートヘアには分類されなかった。そもそもショートヘアとは程遠く。ペルシャ、と病院で判定を受けた。
「怪我はしてないですね」
拾ったときには白い毛並みに乾いた茶色の血がこびりついていて、死にかけなのかとヒヤヒヤしたが、どうやらその血は猫のものでなかったらしい。飼い主の返り血でも浴びたんだろうか。狙って、眉間に。どこかの男が風呂場で血塗れの手首を垂らしながら死んでいる光景が思い浮かんだ。そうすると、狙ったのではなく、たまたま猫の上に落ちたのが自然かもしれない。
簡単な手続きを踏んで、その猫は私のものになった。今後、法律上は私の所有物と認められるらしい。かわいそうに。ひたすらかわいそうだと思った。小学三年生のときに、不注意で蚕を殺した私、その私の持ち物になってしまうのだという。この碧色の目の猫は。美しいのに、ともすれば人面猫にも見えた。
「不気味の谷みたい」
猫がにゃあ、と初めて鳴いた。
名前は谷くんになった。下の名前はない。谷が下の名前かもしれない。どちらでもよかったし、谷くんもどうでもいいと思っている。
とにかく偏食だった。キャットフードは一切口に入れず、ふやかしたご飯に肉を混ぜたもの、果物、ヨーグルト、等々人間が食べる範囲でなら何とか受け入れた。量に気をつけないとあっという間に太ってしまうのだが、谷くんは私の出した分だけでいつも満足した。排泄は外で必ずやってくるので私が片付けることはない。仕事中は小窓から出ていき、仕事が終わる頃にちょうど帰ってくる。何をしているのか知らない。引っかかれることはないが、過激なスキンシップが嫌いなようで、吸おうとしたら降ろせと静かに抗議する。優しく撫でるくらいなら許可された。寝るときは別で、フカフカの羽毛布団の上でないと谷くんは寝なかった。
賢い猫といえばそれまでである。適度に自我があり、聞き分けもよく飼い主の苦労になることは一切しない。どころか世話をさせない。自分のことは自分でやるとでも言うように。私は食と住、たまに医療と必要な物を与えてやるだけ。ただ、獣医から去勢手術の話が持ち上がったときは、強く抵抗の意を示していた。
ただの賢さから、人間的な独立の感性、思考を垣間見たことについて、これといった決定的な瞬間はない。私が着替えるときは姿を消し、着替え終わった頃にすたすたと戻ってくる。私が本を読んでいるときは、ソファの背に乗って肩上から覗き込んでくる。途中でやめると、また抗議の視線を浴びるので結局最後まで読む羽目に遭う。映画も一緒に観ていた。じっと画面を見ながら、私と同時に涙が溢れてさえいた。スマホやパソコンの画面は覗き込まなかった。
紳士的で文化的で常識的な谷くんの前世にはきっと豊かな精神性があったに違いなかった。それが過去の人間であれ未来人であれ宇宙人であれ。谷くんという個に時空の縛りは通用しないと直感した。そんな奇跡の恩寵を受けてさえ「私の所有物」という狭い箱に押し込められて彼は終わる。ただ、別に、そこから出してしまうことにも抵抗がなかった。
谷くんが外に出ている間、事故に遭って死ぬ可能性を考えたが、それを防ごうとするのは過剰な責任ではないかと思った。猫は気まぐれで、自立し、動き回るもの。だろうし、特に谷くんには人間的な意識がある。自立を妨げるのは誤りだと考えた。どこで死のうが谷くんの勝手、どこで生きようが谷くんの勝手。それでも谷くんは必ず戻ってくる。絶対に、私の元から離れようとはしなかった。
三月の終わり頃になる。松濤のある屋敷で自殺者があったとニュースに上がったのは、谷くんを拾った日から半年以上も経ったあとだった。私が居を構えている下北沢からそれなりに近い。そもそも松濤という大金持ちの巣窟から、何らか死に関する情報が得られたというだけで、好奇の目が殺到した。
七カ月前に死んだ男が、いまさら世間の前で死んでいる。理由は想像に難くない。家の人間が自殺を隠しておいただけだ。不都合ならいくらでも出てくる。今だって、興味本位で屋敷街をうろつく連中があとを絶たない。文化村で公演を終えた友人が、「散歩がてら」にその様子を見てきたらしく。
「具体的にどこの家とかは、ちらっと歩いただけだからわかんなかったけど、変なユーチューバーみたいな人たちがチラホラ歩いてた」
「何だっけあの」
「なんとかモンってやつ」
「もいた」
常時の口語を意識しながらの文面が、途切れ途切れに送信された。先方が初公演の様子を投稿して得た、久方の友人との会話をどうにか続けようとした結果、このネタに行き着いたのであった。
しかし、いくら一般にお披露目されたお屋敷街の珍事とはいえ、ただの自殺にここまでの注目が集まるものだろうか。そもそも、このニュースを最初に報道したのはどこか。死んだ男とはどういう立場の者なのか。どの記事にも具体的に誰が死んだとは書かれていない。思うに書く必要は、ない。書かないメリットの方が大きい。場所の名前だけで十分に注目は集まる。あとは誰が死んだのか、国民が推測し、あるいは妄想し、議論する。話題が話題を呼び、拡散する。よしんば誰かが突き止めたとしても、公表したのはいずれの新聞社でもなく、単なる個人であるから、責任を問われる心配はない。とはいえ責任の一端は担うだろうが、いつ潰れてもおかしくない弱小メディアが発端であることを考えると、遺族にとってはせっかくの根回しが無駄に感じられたことだろう。
珍しく地上波の放送を見ようとテレビを点けると、谷くんも興味を示した。思えば谷くんにニュースを見せたことはなかった。
チャンネルごとに報道の内容が違った。時間的にニュースそのものよりもコメンテーターが喋っているようなものが多い。昔のドラマが放送されているチャンネルに辿り着いたあたりで、テレビを消そうとしたが、なぜか谷くんが鳴いた。抗議した。
「なに?」
しきりにリモコンを持つ腕の方を柔く引っ掻いている。私はテレビの操作権を谷くんに譲った。谷くんは「1」のボタンを強く押して、そのままにした。公共放送だった。
見るともなしに、ゲームをしながら時間が過ぎるのを待った。私も待っていた。自分でもなぜ男の死についてこれほど興味があるのかわからない。谷くんに関係があると予感していたのなら、自然で、受け入れられやすい。谷くんの元の飼い主が彼で、眉間に付着した茶色の血痕が彼のものだったとしたら、実にわかりやすく事が収束する。単純な理想である。理想でない出来事が起こらないように、私は願っているのかもしれない。
谷くんはチャンネル1の番犬、ならぬ番猫と化していた。何が彼にそうさせるのか、私には見当もつかない。
六時を過ぎた頃、番猫が主人に知らせる前から、相撲の春場所の映像がニュースと交代していた。
「続いて、先日お伝えしたニュースの続報です。
東京都渋谷区松濤の住宅街で、男性の変死体が発見されました。警視庁の発表によりますと、死亡したのはこの家の住人とみられる四十代の男性で、遺書のようなものが見つかっていることから、自殺の可能性が高いと見られています。また男性はおよそ七カ月前に死亡していたとされています。
インターネット上では、男性の身元や死因について憶測が飛び交い、一部では有名企業の関係者ではないかといった未確認の情報も流れています。
警視庁は引き続き、当時の状況について慎重に調査を進めるとしています」
馴染みのあるようでないようなアナウンサーの声が、部屋中に充満した。谷くんは慎重にその言葉一つ一つを咀嚼した。ように感じた。続報といえど新情報となるものはほとんどない。四十代であること、遺書が残っていること、有名企業の関係者という憶測ともども、不自然さを醸す材料にはあたらなかった。
谷くんが私を見上げた。要望を言うときの目をしていた。すぐにその視線から脱しても、意味を成さなかった。私の、彼に対する抵抗は受け入れられない。谷くんに対する甘さではなく、たとえば病院で踏んだと思しき「所有」の手続きに関して、何か私の知らない内容が組み込まれ、それに縛られているという想念に、しばしば取り憑かれることがあった。
二日後に動物病院の予約が入っていた。フィラリア予防の薬をもらいに行くついでである。血液検査を終え、獣医師によって厳かに宣言された「健康体」のお墨付きは、飼い主としての合格ラインを越えたことの過分な証明となる。私が原因で谷くんを不健康に陥らせたとあらば、いつぞやの蚕の死のときのように、瓶底メガネをかけた声の高い少女が私を背後から刺すに違いなかった。今はいないとしても、彼女の同族はどこにでもいる。一度手にして、責任を背負う決断をしたのなら、お前は最後までそれを守り抜かなければならないと言って、錆びたハサミを夕陽に翳す。
待合室のイスに預けた背中がかゆみだした。小さな虫が這っているような感覚があった。左手で谷くんを入れた鞄を抱え、服の上から古傷の箇所をなぞったが、錯覚だった。
「天谷さーん」
受付の看護師に呼ばれ、立ち上がった。カウンター上の、九ヶ月分の薬を入れた袋には、「天谷谷くん」と書かれている。あまやたに、と読む。病院では谷くんという名前は下の名前扱いとなっている。印字された文字を初めて見た看護師は、おそらく谷の重複について小さな好奇心を抱いただろうが、しかし、どうでもよかった。薬をバッグの中へ雑に押し込んでいると、「あ、天谷さん」と今度は受付の奥から担当医が顔を覗かせた。伝え損ねたことがあったと。
「なんか警察の方から、こんな猫見なかったかって」
看護師の左肩越しに、割れたスマホの画面が差し出された。メールにでも送りつけられたのか、画面右上の方にpdfの赤いマークがついている。見るまでもなく、谷くんとそっくりなペルシャ猫がその中に入っていた。
「そっくりですね」
見たままを伝えた。担当医は困ったような笑みを浮かべた。
「僕も事情はよく知らないんですけど、あの松濤の自殺知ってます?うん、あれの近くの防犯カメラに映ってたみたいで」
何度も。と彼は付け足した。
谷くんを鞄の中に入れたまま、松濤へ出向いた。文化村を背に踏み入れた静寂の街は、繁華街から生じたあらゆる音を飲み込んでいる。賑やかさを渋谷の大通りに封じ込めているようにも、逆に賑やかさから己を守っているようにも思える。しかし、この堅牢な静寂というのは人工物に似て、小さな綻びから生じた糸に適応する術を持たなかった。友人の言った通り、スマホを持ちながら辺りを彷徨い歩く配信者の多いこと。警察の規制は一部の区域に限られているようで、あとは野放しだった。
声をかけられもした。
「この辺に住んでる人?」
「いいえ」
「あーヤジウマってやつ?」
曖昧に頷く他なく、嘲笑を浴びる羽目に遭った。幸運なのはカメラに映されなかったことだろうか。
自分でもここで何をするつもりなのかわからない。いや本当はわかっていたが、それをする勇気がなく、決心がつかないでいるだけだ。
近くの公園のベンチに腰を下ろした。トンネル状の鞄のチャックを開けて、谷くんを外に出した。彼は慎重に周りの様子を見たあと、珍しく私の膝の上に乗った。自身の不甲斐なさを埋め合わせようとしているようにも見えた。
「あーあ」
その空気にわざと乗る。
「お尋ね猫だね」
谷くんの耳がぺたりと寝た。「ね」が二つ並んでいるのが気に食わなかったので、頭の中で「おたずねこ」と言い直した。同時に、谷くんが「みゃー」と間延びした鳴き声を発した。同じことを言ったのだと思う。
それから日が傾くのを待った。待ちながら、再び背中の傷が私を苦しめ始めた。病院にいたときとは打って変わって、ひどい痒みに様変わりしている。明らかに原因がある。腰を少し曲げて、傷の跡を触ろうとするのと同時に、谷くんが私の胸元で身動ぎする。谷くんの目が私の目の前にあった。私が影になったせいか、驚きからか、瞳孔が開いている。
痒みの原因が傷の真上にできた蕁麻疹であることを突き止め、体勢を元に戻したが、谷くんの瞳孔は小さくなっただけだった。細くならない。やはり猫ではなさそうだと思った。しかし今さらでもあった。今さら動物病院の担当医がそれに気づいたとて、指摘はしまい。彼はもうずっと前から谷くんの異常に気づいている。何なら私よりも前だったろう。だが彼の責任は谷くんにまつわるものすべてを詳らかにすることではなく、谷くんを、健全な飼い主のもとに、健康な状態で生存させることにある。彼はそのことをよく心得ている。だから私に転嫁した。
彼らの責任に関する知恵は、私が九歳のときに初めて露見した。班ごとに蚕を育てるという総合の授業。その頃から私は虫が苦手だったが、自分に暗示をかけられる程度には理性が欠如していたおかげで、白くうねうねした生き物に何らかの愛着を見出すことができていた。次の週末には誰の家で世話をするかという話になったとき、真っ先に手を挙げ続けたのも、その暗示の延長である。
班リーダーの高倉綾乃、例の瓶底メガネの少女による圧力だったと解釈することもできたが、私の記憶はいつも、私自身が持つ性質への考察に基づいている。外的要因は当てにならない。私が世話をし、いつの間にか死なせていたという結果だけが残るのなら、その過程はどうでもよかった。「朝起きたら全滅していた。理由はわからない」。学校に蚕の専門家がいるわけでなし、この殺害は私自身の不注意として処理され、最終的に高倉が私を刺すに至った。連帯責任として、総合の授業の成績が落ちることに激怒してのことだった、と記憶している。
本当はなぜ死んだのか。真剣に理由を考え、桑の葉からの細菌感染を疑ってみたり、もう一度蚕を飼い直す提案をしたりもした。しかし母に「もう蚕のことは考えるな」と諭されたことで、私の弁明の機会は真相とともに闇に葬り去られた。そして学んだ。背負う責任は必要最低限にするべきである。さもなくば、余計な問題に巻き込まれるのだと。
だがその最低限がわからなかった。どこまでを果たすべき責任と呼ぶのか。知るために何度も動物を飼った。弱く脆く何かの庇護下に置かれぬ限り死んでしまうものを選び、その天命尽きるまで共に生きた。どうしてそんなに動物を、と聞かれ、馬鹿正直に理由を答えれば「動物を実験に使っているのか」と非難されたが、それでも飼った。
その結果は、今の状況を見れば明らかである。
うたた寝をしていたらしい。いつの間にか空の端が赤い。飽きた配信者が続々と帰路につき始めた。夜までいる連中と、夜からくる連中がまだいるだろうが、住民の出入りが若干多くなる夕方の間に済ませてしまえば目立たぬ算段だった。
公園を離れ、例の家を探した。ちらほらいる配信者たちが良い隠れ蓑になった。スマホを持たずこの辺の住民の顔をして歩けば、誰も疑いの目を向けてこない。勘に任せて歩いた先、黄色いテープで囲まれた一帯と警官や記者の群れが、ここが現場だ、とばかりに己の存在を誇示していた。
洋館だ。赤茶のレンガと黒黒とした庭。手入れはされているはずだが、幽霊屋敷のそれを意識して造られているとしか思えない。立ち止まっていれば一人の警官と目が合い、向こうから私に近づいてきた。感情の読めない顔をしている。
「猫ですか」
面食らった。
「そのバッグ」
警官とはこうも観察眼のあるものか。感心する。警官の指に釣られて、徐ろに鞄を持ち上げて見せた。彼がその中にあるものを見ようと距離を詰める。警官とは反対の方から、トンネルの奥にいるであろう谷くんの姿を確認するために、暗がりの中を覗き込んで数秒。はたと何かに気づいたように、私は言った。
「あれ、どうして」
トンネルの中には、何も入っていない。
警官が虚ろな視線を私に向ける。わざとらしい「どうして」の声に対して、警官は十分に訝しんだ。十分すぎるほどだった。しかし、次に放たれるであろう言葉は、屋敷から響く奇妙な音に飲み込まれた。
それは、猫の鳴き声。大量の。
どよめきに釣られ、彼は後ろを見た。その視線の先を追うと、二階の窓からたくさんの猫が落ちてくるのが見えた。ぼろぼろと雨のように。
「なんだありゃ」
警官は私のことなどそっちのけで、意味もなく無線を手にしながら、持ち場へ戻っていった。私はその場に立ちすくしていた。いまだに自分の判断を正しいと思えなかったからだ。
谷くんを逃がした。谷くんの意を汲み、その通りにしてやるのが己の最低限の責任であると判断してしまった。警官に引き渡すでも、小さな部屋の中に閉じ込めておくでもない。つまり社会に生きる者としての責任と、飼い主としての責任のどちらも取らなかった。私は個人として、谷くんという個を尊重しなければならないと考えてしまった。
なぜか?いやそれどころではない。二階から猫。大量の猫、数にして数十匹の猫たちが群れを成して家の門をこじ開けようとしている。警官たちは必死にそれを防ごうとし、記者もそれに倣った。まだ落ちてくる。あとからあとからやってきては群れの中に飛び込み、皮膚が結合し、脳という脳が互いにめり込み、やがて群れの中心部分から巨大な猫の頭が出てきた。ペルシャではなくヨーロピアンショートヘアである。その下の器官を作るために、猫の頭と首は天に向かって伸び続け、恐れをなした一人の警官が発砲したが、銃弾も吸い込まれた。猫は牙を剥いている。明らかな敵意である。警官が列を作って銃を構えた。
しかしついに、巨大な肉球によって押し潰された。何かが飛散するまでもなく、すべて猫の中に吸い込まれる。音も一緒に消えた。程なくして機動隊が到着し、呆けた私を保護しようとして、失敗した。あの猫ではなく、その背後から塀をぶち抜いて来た外車に、私は連れ込まれた。あまりにも一瞬だった。何人か轢いたのかもしれないが、気にする余裕はなかった。
「間に合ってよかった」
私を連れ込んだ白髪のその人は、王子のごとき微笑みを浮かべている。
美しい男で、一目で谷くんだとわかった。北欧系の人とのハーフ、あるいはクォーターなのだろう。彫りの深さが日本人とは違う。しかし嫌になるほどのくどさでもなかった。ただ美しい男が車を運転している。私を乗せて。
「驚いたでしょう。いや、あなたは驚かないか」
谷くんは私について分かっているようで、分かっていなかった。お互いにそんなものである。私も彼がここまで涼しい顔をして人を薙ぎ倒していく人間だとは思わなかった。
形振り構わず突っ切っていく。有名な配信者の顔が宙高く舞う。谷くんを逃がしたことが、なぜこんな状況に繋がるのかまるで理解できない。私の想定していたのは、あの屋敷に入った谷くんが、自殺の現場にあったものを持ち出す、その程度の小細工である。男の死と谷くんとの具体的な関係には興味がない。ただ谷くんのやりたいことが為せるように。そのはずだったと、リアリティに欠けた映像を見ながら思う。ただの映像ならば良かった。撥ねたあとに残った人の破片と、咲いたばかりの花の形を残したままの桜がフロントガラス全体に散って、ワイパーがそれを鬱陶しそうに振り落とす。そこでようやく、何かを振り絞りながら、どこへ向かっているのと聞いた。彼は「宇宙です」と答えた。意味が理解できず、一瞬言葉を失った。
「厳密には、その少し外側に位置するネザレム空間という場所です。アメリカのカールスン財団というのはご存知ですか?
一般的にはあまり知られていませんが、大規模な宇宙開発を行う企業です。ネザレム空間というのも彼らが発見したもので、今世界中の宇宙開発機関とともにそこへ行く準備をしています」
「なんで?」
「興味があるからですよ。到達自体は火星に辿り着くよりも簡単だと見込まれています」
「じゃなくて、なんで谷くんがそこに行こうとしてるの?」
谷くんは黙った。彼の言うことが事実にせよ妄想にせよ、この慌てぶりを見ると、何か自分の命に関わるような事態なのではと思わせる。いや本当にそうなのかもしれない。このまま人間としてこの世界にいては死ぬ。だからそこへ、
「逃げようとしてる。死なないために」
黙ったままだった。その反応からして、おそらく当たっている。しかし、なぜこのままでは死ぬのか、そこに行って何が変わるのか、なぜ谷くんは人間に戻ったのか、すべて伏されたままだ。だが私には聞けなかった。ドア一枚隔てた向こうは衝撃音ばかりが響いているはずなのに、車内には静寂が漂っている。それを、恐ろしいと感じていたから、だろうか。谷くんが話し始めるのを待つしかなく、私はそれまでぼんやりと薙ぎ倒された人の山を見ていた。
閉じた踏切を突っ切り、谷くんはようやく口を開いた。
「ファイナル・デスティネーションという映画を、一緒に観たのを覚えていますか?
僕は生まれたときからあの状態に似ているんです。別に死を予知できるわけではないんですが、定期的に死が僕のそばを過ぎる。避けて間一髪ぶつからなかったことも、避けずにスレスレで通り過ぎたこともあります」
いつも何かに脅されているようだったと谷くんは言った。その表情に恐怖はなかったが、ある種の諦念のようなものは読み取れた。
谷くんの身に起こる不可思議な死の襲撃を、科学的に解明したのが、今や巨大なヨーロピアンショートヘアとなった彼である。自殺したと思われていた四十代の男、三谷浩二。彼は谷くんの、年の離れた腹違いの兄で、物理学者だった。
「生命には一つ一つ確率場がある、という仮説です。実験で確かめたわけではありません。個体それぞれに装置として備わった『生存確率』と言っても良い。普通の動物はこれが高くなる方向に無意識に操作するんですが、僕はいつも低くなる方向にしか操作できない」
車が揺れる。人や桜だけでは飽き足らず、今や家という家を破壊し、この車は一直線にどこかを目指した。ただの外車だと思っていたが、サイドミラーから見えた車体は、ジェット機のように変形していた。
谷くんは何でもないように話し続ける。私はただ、目の前の現象を飲み込み続けている。
「遺伝的なものだそうです。僕の祖母はノルウェー人なんですが、確かにその家系を辿ると早くに変死した人間が多い。異常なほど。現在僕のような体質の人間は世界に数十人程度存在していて、それぞれの遺伝情報を確かめたのですが、どうも僕たちのミトコンドリアDNAは地球上のいずれの人類系統とも一致していない。それで太古の先祖が宇宙人と交わった可能性が囁かれています」
彼が笑った。私には何の冗談なのかわからなかった。
「じゃあ、猫になった理由は?」
「兄の提案です。庇護される、つまり人から常に観測される状態であれば安定すると」
「お兄さんにずっと守られてたんじゃないの?」
谷くんは私を見、また前を向く。もはや前方に注意を向ける意味はなかった。
「だからここまで生きてこれたんです。でも僕は箱の中で生きるのに強く不安を感じていた。あなたのように普通の確率の中で生きる人間には、わからないかもしれませんが」
東京湾から車体が浮き始めた。これまでに通ってきた地域は半壊だろうと想像する。何人死んだんだろうと思った。私の間違いで、取る責任を間違えて、災害を起こした。
三谷浩二はこの男の身体に潜む狂気的な生存欲求に気付いていたに違いない。だから人間のままではなく、猫に変えて、環境も変えて、谷くんが自由に動けない状態で生かした。ところが谷くんはそんな微妙な立ち位置では満足しなかった。「完璧に安全な」環境を希求していた。箱の中で死に向かうシュレディンガーの猫は、観測され続けるだけでは飽き足らず、観測されなくとも存在が確定する世界に逃げようとしていた。彼の言うネザレム空間という場所では確率が揺らがない。すでに調査員が派遣され、裏も取れていると言っていた。
その信憑性よりも、私の取るべき責任は何なのか、先ほどからずっと考えている。
また刺されればいい?法律で裁かれれば?人一人が檻に放り込まれ、死ぬまで身を粉にして働いたとしても遺族は死ぬまでやりきれない思いでいる。いっそめった刺しにしてしまえばいいが、それでも足りないかもしれない。起こったことに対して見合う責任の取り方が、今のところ見つからない。
私の心も焦り始めた。いやもっと前から焦っていなければならなかった。たとえば蚕が死んだ段階から。たとえば谷くんを拾った段階から。私は、本当に責任というものの重みを理解しているのだろうかと、疑念を抱く。
谷くんなら答えてくれるかもしれないという期待が、逆にその疑念を押し潰し、代わりに他の疑念が湧いて出た。
「お兄さんはどうして猫に…したの?」
「ネザレムへの道案内に。僕のときもそうでしたが、帯状回を猫の眉間に入れるだけでは意識を保ちづらく、さらに完璧な融合まで数年かかります。だから脳の各部位を細かく切り分け、七十六匹の猫に分散した。三十パーセント程度の融合率であれば自律運動は可能。時間にして約七カ月です。その後一つにまとめてしまえば、最短で人間の意識を持つ猫の完成、となる」
その道案内にどうして彼が必要なのかを、谷くんは説明しなかった。尋ね方を変えなければならない。谷くんの額から一筋の赤が垂れ、高い鼻の根で二つに分かれた。それを見てなぜか、別の質問になる。
「私は、あなたを守るためにここにいるの?」
「そうです」
「あなたを所有してるから?」
「ええ。あなたにはその『責任』がある」
血は溢れ続け、彼の白い鎖骨の上にポタポタと垂れた。一体誰がこんな化け物を育てたのかと思った。兄なのか、世界なのか、それとも私なのか。谷くんは何でも答えたが、その本心や本質に関わる部分になると答えなかった。
ジェット機の後ろから、あのヨーロピアンショートヘアが全速力で追いかけてくる。色々なものを吸い込みすぎたのか、いつの間にか富士山程度の大きさになって、東京の右三分の一に追い討ちをかけていた。それでも彼にはまだ理性が残っているのではないかと思った。むしろ理性が余りすぎている。谷くんを止め、日本のみならず世界の崩壊を防がなければならないと思っている。そうであればいいと思った。そうでなければ私はどこで責任を取ればいいのかわからない。谷くんはサイドミラーを見つめたままの私の頬を掴み、無理矢理自分の方に向けた。長い爪が食い込み、ついに私の顔からも血が流れ出す。
「僕を見てくれないと困ります」
もとより彼には豊かな精神性などなかったのではないかと、今さら認識が崩壊し始めている。
ジェット機が大気圏を突破した。としか思えなかった。生存確率を安定させるために自分を見ろというので谷くんを見続けているが、視界の端が明らかに黒くなっている。視界の中心にある彼の顔は血を流しすぎたせいで青くなり、黒くなった。このまま宇宙ステーションと合流するらしい。巨大猫はもはや彗星並みの大きな影となって、すべてを飲み込もうとしている。
「お兄さんが、あなたを殺す方が早いんじゃないかな」
「心配無用です。あなたがいる限り」
車のドアにはロックがかかっていて、車窓は硬いという形容では済まされなかった。すでに色々な方法を試した。イスの頭を抜いて窓の根元に叩きつけようが、カッターを持って谷くんの首を狙おうが何も起こらなかった。叩きつけようとした瞬間に私の指が折れた。カッターを動かした瞬間に車体が大きく揺れ、得物を落とした。私が谷くんを認識し、所有している限り、すべての確率が、谷くんが生き延びる方へ収束していく。
「あなたを止めるにはどうすればいい」
「なぜ止めたいと思うんですか?」
「責任が取れなくなる」
「誰に対して?」
そういえば、誰に対して、だったろう。途端にわからなくなった。
「あなたの責任は、僕を守ることにある。飼い主としてでも社会性動物としてでもなく。僕がネザレムに向かうまで、あなたは僕のそばにいればいい。それで全うされる」
谷くんの言葉が反芻される。責任、守る、ネザレム、そばに、全う。だが、本当に重要なのは「まで」という言葉で、その他は飾りであった。それに気づいたときには、透明な巨クジラが口を開けていた。あの中に入るのだという認識と、強烈な光に目を焼かれそうになったのは、ほぼ同時である。
クジラの中は無重力ではなかった。失明するのではないかというほど明るく、私はずっと目を閉じていなければならなかった。谷くんはどうやって移動しているのかわからない。私が目を閉じているのはあなたにとって不都合ではないかとか、光を抑えるくらいはなんとかできるはずだとか駄々をこねてみたが、谷くんはずっと無言だった。それ以外の音も匂いも無い。私の右手首に伝わるヒンヤリとした手の感覚だけが頼りだった。
少し経ってゴン、という鈍い音が響いた。巨大猫がクジラにぶつかったのかもしれない。谷くんも立ち止まる。
彼が何だかよくわからない言葉を喋ったあと、次第に暗闇の奥の光が失われていった。ゆっくりと目を開けると、そこにいたのは谷くんではなく、五つの黒い斑点だった。肉球の形に見えなくはなかった。その右端の斑点が私の腕に巻きついている。ひどく強い力で。
一番下の斑点が、日本語であろうものを発する。
「お察しの通り、兄です。ドッキングに成功したので、これからは彼がナビゲーターです」
黒い楕円が細くなり、弧を描いた。笑った、と思う。彼は私のことを強く引っ張り、クジラの目に当たるところまでやってきた。細い穴の空いた地球が見える。
あの中に東京がある。渋谷区がある。松濤がある。家がある。ビルが崩れ、道路が陥没し、燃え上がり、人々は塵となって消えた。これほど現実的に見えるものだと思っていなかったから、拍子抜けした。今まで見てきたものよりずっと、夢らしくない。
「夢だと思っていたんですか?」
「松濤の公園で、うたた寝したから」
「ああ、そうでしたね。あなたは過去の夢を見ていた」
背中の蕁麻疹がいつの間にか広がって、その中に飲まれたのかもしれないとも思った。どんな事情にせよ、私が現実にいないと分かればそれでよかったのだが、しかし最も大きな責任が私を覆う影となって、夢や幻から私を遠ざける。その責任も元を辿れば三谷浩二で、三谷浩二からさらに辿れば、谷くんを生んだ親となり、その祖母となり、ずっと前に結ばれたかもしれない宇宙人となり、それらすべての方向性を決めた世界そのものとなる。
蚕の死も同じだった。だから人々は何をどれだけ背負い、誰になすりつけるかを考えなければならなかったが、私はそれを怠り、いやそもそも馬鹿だったために、こんな状況を招いた。
谷くんはどこを向いているのかわからない。そもそも見えてすらいないのかもしれなかった。真ん中二つの黒い斑点は、瞳孔はおろか光すらも受け入れていない。彼は今や別のものに変わり果て、ネザレムという約束の地に適応するための準備を始めている。
一方の私は何にもなれない。谷くんの言うようにネザレムに行く「まで」の話だというなら、おそらくここに捨て置かれるのに違いない。そして何かに拾われる?谷くんの押し付けた責任の塊として、私は別のものに飼われ、庇護され、自己という責任のみの範囲で生きることを学び、幾年か幾世代もかけて逃亡を企て、クジラに乗り込み、ネザレムを目指す。
推測が推測を呼び、肥大化した妄想となる。私の唯一の特技だった。というよりも人間としての特性だったと、思いたい。
「粗末な特性ですね。ここに残すのは、あなたが健全な状態で生き延びる可能性の高い、唯一の選択肢です」
ふと、横を見ると、谷くんの両目の部分が混ざり、丸まった猫のようなサイズになって、再び人間の姿を模した。だがもはや美しいとは思えず、私はただそれが谷くんであると認識するのに精一杯だった。
彼がまた私の腕を引っ張る。今度は優しい力で。私たちの立っていたクジラの目の部分が外に飛び出し、少しだけ地球が大きくなった。
「ネザレムでは、地球が月のように見えるそうです」
「どうして?」
「あなたは尋ねるのが好きだな」
「尋ねないほうがおかしい」
谷くんが柔らかく笑う。
「好奇心は猫をも殺すというでしょう。あなたはなぜあのとき、蚕の死の真相を明かそうとしたのですか?」
谷くんの言葉の前後が上手く噛み合わない。私は別に、真相を明かそうとしたことで死にかけたわけでもないのに。
「身の潔白を示すため」
「潔白を示してどうなる?すでに刺されているではありませんか」
彼が私の背中を撫でた。細い指先がシャツの下から入り込み、皮膚を伝い、傷のあるところにぐっと爪を押し込む。痛みはなく、逆に痒みが思い出された。
「それでも私が悪くないって認識しないと、きっとそれ以降の人生に影を落とすようになる」
「刺されたのがトラウマだと?ふふ、そうだとしたらこの状況は、あなたの豊かな精神世界に違いありませんね」
谷くんの爪が私の背中から遠のく。首の後ろから差し出された彼の手には、私の血と思しきものが付着している。
それが私の頬に塗られた。新しい血と古い血が混ざって、お互いに牽制し合っている。
「答えを教えましょうか、僕の飼い主」
私は答えなかった。地球が遠くなって、米粒くらいに小さくなっている。あれがどうやって月に見えるというのだろう、とぼんやり思う。
「本当はね、ただ知りたかっただけなんです。あなたも僕の兄も。誰がどうして生まれ、どうやって死にゆくのか、その様子を見たいだけ。その欲求が、人一倍強いというだけ。あなたは最初から、責任を取ることに執着していない。いや責任そのものには人よりも興味があった。蚕の事件をきっかけに、責任の定義、その範囲を知るために、そう、ずっと『実験』してきたでしょう」
「だから、何なの」
彼の顔を見上げる。
「だから、あなたを選んだ。人であれ動物であれその自立心と責任を尊重する、言葉を変えれば、自らの介入を捨てて物事の行く末を見守るあなたが、僕の飼い主として最適だった。本当は、僕もあなたを所有しているんですよ」
谷くんが私の髪を撫でている。動物病院で行ったあの手続きの正体が、ようやくわかった。あれは確かに私が谷くんを所有することを証明するものだったが、同時に谷くんが私を所有するのを認めるものでもあったのだ。だから私は谷くんの要求に逆らえなかった。
いやそうではない。興味があった。谷くんのすること、谷くんがもたらすこと、その先にあること。この意味で、私は最初から責任を逸脱していた。尊重や責任などという言葉のヴェールで覆っていた。その内側の抑制しきれぬ好奇心を。
「僕が忠告しているのは、あなたの人間としての特性、つまり好奇心そのものについてです。ネザレムでは僕たちの生存確率は常に一定となり、どんなものも均一に存在し続けられるようになる。いわば、『安定した死の空間』。あなたにとっては何も無い空間ともいえる。それがどんな苦痛をもたらすか…説明は必要ですか?」
首を振った。谷くんは満足して私の髪から手を離した。それでもまだ聞きたいことがある。
「でもそのことはあなたと直接関係がない。どうして私を心配するの?」
返答はない。私の所有者としての、なけなしの責任感か、巻き込んだ罪悪感か、それとも少しだけ共に過ごして生まれた情からか。推測が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。そのうちのどれであってほしいという希望はなく、私はただ谷くんの本心が話されるのを待ったが、ついにその瞬間は訪れなかった。
そろそろクジラが巨大猫から離れるらしい。谷くんを含む、死に囚われた避難民は巨大猫の方に移動する。クジラには地球に住まない選択をしたがネザレムにも行かない者が残り、地球に帰ることもなく宇宙の何処かを彷徨うという。巨大なクジラに見つめられながら。
谷くんはまた肉球の形に戻った。
「ネザレムでの生活がシミュレーション通りになるとは限りません。あくまでも確率で予測されるものですので。その一縷の可能性に賭けたいというのなら、僕に着いてきてください。僕はそうあってほしくありませんが」
答えはもう決まっている。私はもはや見えなくなった地球に興味を持たなかった。谷くんの右端の斑点を撫でて、言う。
「私の責任は、あなたが天寿を全うするまでそばにいることにあると思う」
「そう、わかりました。僕はその決定に一切の責任を負いません」
何度も耳にした責任逃れの台詞が、こんなところで使われるというのは、どうしたって皮肉以外の何物にも捉えられなかった。また光り始めたクジラの内側で、私は目を閉じた。谷くんの手であろうものを掴み、眩い光の中を進んだ。ひどく強い足取りで。
それから先のことはほとんど記憶になく、ただ背中の痒みがいつの間にか引いたことだけ、何となく覚えている。
三月の終わり頃、靖国の開花宣言からほどなく、桜が視界の上の方を覆っている。
松濤の公園のベンチにいた。まだ日が出ていて明るい。私の膝の上では人間の姿の谷くんが寝転んでいて、寝惚け眼の優しい目を私に向けている。影になって、瞳孔が大きくなっていた。まるで恋人がするように、私の頬に手を添え、うっとりと笑う。
私も笑った。途端にキスを落としたくなった。いつも猫にしているように、額に唇を押しつけて、そのまま吸おうとすると嫌がるから、すぐに離す。その程度の関係で良かったのに、余計なことをしたと少し後悔する。
「夢、見てた?」
不自然に砕けた口調なのが違和感でしかなく、また笑ってしまう。
「見てたよ。壮大なやつ」
「僕も見てた。壮大なやつ」
「うそつけ」
「ホントだって」
いいから早く身体を起こせと太腿で谷くんの頭を叩くと、彼はしぶしぶ半身を起こした。
公園を出て、しばらく松濤の中をあてもなく歩いた。その間に谷くんとは色々な話をしたし、お互い無言にもなった。昨日観た映画の話が、一番盛り上がったと思う。ディープインパクトは泣く。アルマゲドンはストーリーよりも曲だね。どこで泣いた?あの失明した宇宙飛行士のところ。同じだ。知ってるよ、目撃した。僕も見たよ、君が泣いてるの。私が泣くときって、どんな顔?うーん、なんだろう。
「この世で一番きれいなものを見たときの顔」
谷くんが私の少し先を歩き、歩みを止めた私を振り返った。信号の無い横断歩道で、彼は道路と歩道の縁にいる。
その瞬間に黒い何かが私の目の前を過ぎり、同時に右の方で大きな衝撃音がした。あの洋館の門に向かって、外車が勢いをつけて急カーブしたらしく、斜め前にいたはずの谷くんは跡形もなく消え去っていた。わらわらと人が集まる。しかし上品で、野次馬的ではなく、誰もが冷静に事の収拾をつけようとしていた。その中には、私を刺したはずの高倉綾乃や動物病院の獣医、私の友人たちもいた。彼らは真っ先に私を心配しにきた。屋敷に侵入した外車からは、顔を真っ青に染め上げた三谷浩二が出てきた。
まさか。いや、ここで成功するはずが。ぶつぶつと何かをつぶやきながら、奥から何かを拾い上げてきたかと思えば、ぐちゃぐちゃになって原型を失った猫だった。恐怖に慄いた顔で、私の両腕にそれを押し込める。
「あ、あなたのものです」
私は腕の中の谷くんを見た。桃色の花びらがその上に落ちた。泣いていたらしく、高倉綾乃が私の頬を、錆びた鉄の匂いのするハンカチで拭いた。
振り払うために視線を上げる。今や咲いたばかりの桜が雨のように散っている。その奥では、月の代わりになった地球が、満足そうに笑っていた。
おたずねこ クフ @hya_kufu
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