第14話 でも、私はそんな未来を望んでない

 友達というものが初めて出来た。

 藤原小夜さん。クラスメイトで体育の時間は図書室で一緒になる女の子。

 ファンタジーな小説を愛読していて、いつも僕に薦めてくる子。

 いつもは死んだ目をしていて気だるげにしている子。

 クロちゃんのことになると、別人みたいに目がキラキラする子。

 妹以外に連絡先を交換した初めての子。

 僕の左眼は別の可能性を映していた。

 その日のうちに付き合う未来だ。

 勇み足で浮き足だっていた僕たちは、高校卒業後に同時に家を出る。

 誰も僕たちを知っている人がいない土地に引っ越し、二人で働きつつ、慎ましやかに暮らすのだ。

 幸せとは何かを分かりかけていたその瞬間に訪れる出来事。

 左眼が視せる硝子を失う未来。

 形ばかりに囚われていた僕たちは少しずつ積んで行くはずだった信頼も信用も、全部飛ばしてしまった結果だ。

 硝子を失ってしまったことを受け入れられず、そのストレスを藤原さんにぶつけ、だんだんとすれ違って行く。そんな未来。

 そんな先の未来で硝子を失う結果となり、そこまで見たところで僕は現実に引き戻される。

 それは白昼夢? それはただの妄想? 一瞬の幻は僕の選択にヒヤリと背中に氷を押し付けられたようだ。

 藤原さんと握手をした後、お互いに照れくさくなり、会話が少なくなり、自然と帰宅する流れとなった。

 友達だから手を繋いだりして歩いたりはしない。ただ、いつもより近い距離で隣り合って歩く。

 改まって友達と言われても、二人の関係性が劇的に変わることはなかった。

 図書室で過ごすだけの間柄から、少しずつ二人の時間を増やしていければいいと思う。

 話が終わり一緒に電車に乗った。お昼時を過ぎようとする時間に最寄り駅へと到着する。

 藤原さんの家は駅を挟んだ反対側にあるので、改札を出たところで解散となる。

「また学校で」

 楽しかったよ。とお互いに軽く手を振り別れる。

 送って行こうかとも思ったが、家のことを話した内容からして、あまり家を見られたくないかも知れないし、友達の距離感で送っていくのは個人的に違和感があった。ヘタれているわけではない決して。

 ここら辺で軽く食べてから、夕飯の買い物をしようか、買い物をしてから家で食べようか、悩んでいると———。

「おかえりなさい兄さん」

 ここで聞くと思わなかった。聞き慣れた僕を呼ぶ声。

 心臓を氷の手で鷲掴みにされた。そう感じる程の衝撃。

 右手の杖がコンクリートを打つ。

 音なんて鳴らないはずなのに、一歩一歩進むたびに、僕は硝子の歩みに耳を澄ませている。

 グレーの長袖のカットソーに、黒のキャミドレスと可愛らしい出で立ちだ。

「あの人が兄さんのお相手でしたか……」

 藤原さんが歩いていった先を凝視している硝子。

 その声に温度がなく、背筋が凍る思いだ。

「どうしたの硝子?」

 今までに聞いたことのない恐い声音をしていた。

「何でもないですよ。ただの確認です」

 それよりも、硝子が顔をぐいっと近づけてくる。

「どうですか? 私の服」

「可愛い。とっても似合ってるよ」

 僕はノータイムで返答した。考えるまでもない。若干食い気味で硝子も引いているようだった。

「そ、そうでしょう。頑張ってオシャレしました」

 その場でくるっと回ることは難しいので、軽く腕を広げてポーズをとる。

 言葉の通り硝子は軽くメイクをして、普段着ないドレスでここまで来たようだ。

「一人で来たの?」

 僕は硝子の周囲を見渡して、他に誰かいないか確認する。

 スマホの画面を見ながら待ち合わせをしているであろう女性。荷物を両手に持って、連れを待っているであろう男性。後は通り過ぎていく人々。僕たちに注目している人間はいないと思う。

「そうですよ。兄さん。私一人で出掛けられたんですよ」

「大丈夫だった? 変な人に話し掛けられたり、追いかけられたりしてない?」

 数カ月前の事件が脳裏をよぎり、警戒する姿勢をとってしまう。

 杖を持つ右手が僅かに震えていることに気付く。

 硝子は内から涌いてくる恐怖を感じながら、痛む右膝を杖で庇いながら、ここまで一人でやって来た。

「そうか……。すごいな硝子は……」

「もっと誉めてください」

「本当にすごいよ」

 僕と違って———。

 その思いに嘘はない。

 歩けなくなるケガを負っても、外を歩けなくなる程のショックを受けても、硝子は一人で立ち直ってきた。

「でも、どうしてこんな無理をしたんだい?」

 単純な疑問だ。今日家を出る時は普通に送り出してくれたのに、ずっと家にいると言っていたのに。

「だって、兄さんに置いていかれたと、急に不安が襲ってきたの……」

 顔を伏せ、胸の前で手を組み、何かに祈りを捧げるようなポーズみたいだ。

 僕が硝子を置いていなくなるなんてことあるはずないのに……。

「ううん。今までは置いて行かれるわけがないと思っていた。でも、明日は? 一週間後、一ヶ月後、一年後、卒業後、就職したら? だんだんモヤモヤが大きくなったの」

 それは僕たち兄妹が現在抱える問題であり、これから先必ず訪れるものだ。

「兄さんも私も、このままじゃいられない。でも、私はそんな未来を望んでない」

 いずれやってくる別れの予感。それはいつだって自分の影みたいにピタリと張り付いてくる。

「でもね。同時に気付いちゃったの、私の存在が兄さんの邪魔をしているんじゃないかって」

 それは僕が経験した師匠との別れと近い感情かも知れないと、初めて硝子に共感出来たかも知れない。

「子どもの我儘で兄さんの可能性を潰していないか、私が足を引っ張っていないか、そう考えたら怖くなったの……」

 そんなことはないと、即答できなかった時点で答えは出ているようなものだ。

 硝子本人に何の落ち度もないのに、彼女の過去、両親、僕と暮らし始める前の要因の積み重ねが答えを出すことを拒んでいた。

「……っ、ぁ———」

 何かを言わなければと、否定の言葉を伝えなければいけないと、必死に脳内の辞書をめくればめくるほど、何が最善か分からなくなり、自分の中で言葉が重さを増していく。

 言うべき言葉と言うべきではない言葉が幾重にも重なり、大きな塊となって喉奥を詰まらせる。

 呼吸が苦しい。酸素が薄い。心臓は酸素を早く送るために早鐘を打ち、薄い酸素を補うために血管が収縮する。口が渇く。頭が重い。指先が痺れてきた。指が上手く動かない。早く呼吸をしなければ、僕はこのまま溺れてしまうと———。

「ごめんなさい」

 ふわりと、柔らかい感触に包まれる。

「兄さんを困らせるつもりなかったのに、ずっと兄さんを困らせている……」

 周囲の気配が消える。違う。僕が何も感じられなくなったのだ。

 そんな僕の拠り所が硝子と触れ合っている部分だけだ。

 あぁ———。ここは駄目だ。空気が薄い。暗い。明るいところに行かなくては、この温度はいけない。身体の内側が茹でられたかのように熱い、外側は凍えるように冷たい。

 ここは一体どこなのか———。

 心臓が必死に収縮し血液を巡らせようとしている。

 破裂もしくは硬化してしまうのではないか。

 そうだ。横にならなくては、この苦しいだけの役立たずの心臓を取り出さなくては———。

 喉に詰まった異物を掻き出さなければ———。

 光ではなく温もりでなく、無機質な冷たさを求める。

 何とか壁に背中を預ける。空いた両手で喉元と胸を抑える。

 霞む視界に硝子の表情がチラつく。

 よく見えない。悲しませていたらごめん。ゆっくりと確実に意識が消えそうになり———。

「———か。———ですか」

 つい最近聞いた声の気がする。

「大丈夫ですか」

 肩を叩かれているようだ。

「顔色悪いな……駅員か救急車どっちだ」

「いや……大丈夫———」

 少し休めば元に戻る。そう言いかけて。

「どう見ても大丈夫じゃない。持病とかじゃないんだな?」

 首だけコクりと動かし、「多分過呼吸」と緊急性のあることでないことを伝える。

「じゃあ、近くにオレのバイト先がある。そこで少し横になろう」

 反対する気力もなく、抵抗する力もなく、声をかけてくれた男性の肩に捕まり、ヨロヨロと移動開始する。

 駅前から本当に少し移動した先の細い路地の間、人通りがあまりなさそうな場所に、そのお店はあった。

 四人掛けテーブルが二組、カウンター席が十席程度の喫茶店だった。

「おはよう。かおりさん。連れを少し休ませてくれ」

「お疲れさま。夕日。バイト前にケンカすんなって言っただろう」

 カウンターの奥から女の人の声がする。

「ケンカじゃないよ。人助けだ」

「いつも人助けしながらケンカもするじゃないか」

「大丈夫今日はしてないよ」

 四人掛けの席のソファーに横にならせてもらう。

 コーヒーの香ばしい香りとタバコの染み付くような独特の香りが鼻腔をくすぐる。

「かおりさん、あの痴漢捕まえた人だよ」

「マジで! 早く言いなさいよ。お礼しないと」

 バタバタと人が動く気配が遠くから聞こえてくる。

「具合悪そうね。彼……」

「尊だ」

「尊くん。ゆっくりしていいからね。そこのかわいい子は? 尊くんの彼女?」

「お世話になります。相生硝子です。妹です」

 硝子の余所行きの声が聞こえてきた。気遣う余裕がなかったが、硝子はきちんとついてきていた。

「硝子ちゃん。座りなよ。飲み物出すよ、コーヒー飲める?」

「はい。ありがとうございます。お邪魔します」

「かおりさん。オレのは?」

「仕事中は店長だ———。まだ仕事前か……しょうがない出してやる。これ飲んだら仕事だよ」

「はーい」

 向かいの席に誰かが座った気配がする。

 お湯を沸かす音、挽いた豆の香り、カチャカチャと触れる食器。

 自然と気が逸れ、自身の身体の状態が大波から漣になったのを感じる。

 僕は腕で瞼を抑え、意図的に情報をシャットダウンする。真っ暗の視界の中、遠ざかる日常音を聞きながら、だんだんと意識が闇の中に沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る