第15話 ああ見えて結構苦労してるからさ
優しいオレンジ色の照明の下。誰かが作業をする音色に耳を傾けながら、僕は自分の身体感覚に意識を向ける。余計な力が抜けたのが解る。浅かった呼吸も意識せずとも落ち着いてきた。あれだけ慌ただしかった心臓の鼓動も今は平常運転になりつつあり、指の痺れも取れてきた。
「日影さんありがとうございました」
「いいってことよ。さっきかおりさんが言ってたけど、俺たちも尊に助けられたんだ。困ったときはお互いさまってヤツだ」
「私だけだったら何も出来なかったです……」
「気にするなよ。あんなの場数を踏んだおかげなだけで、オレも硝子さんの立場だったら何も出来なかったかも知れないしな」
「はい……」
硝子の沈んだ声が聞こえる。今すぐそんなことはないと、僕は硝子のことを励ましたいのに、頭の中ではそうするべきだと解っているのに、動くことも口を開くことも出来なかった。
「コーヒー二つに、おしぼり置いとくね、お砂糖とミルクは箱の中にあるから」
かおりさんと呼ばれた女性が飲み物を持ってきてくれたようだ。
インスタントとは明らかに違う豊かな香りが漂ってくる。
「あちっ」
夕日くんは猫舌のようだ。
「冷める前に飲んだ方がいいぜ、冷めてもおいしいけど」
手をつけない硝子の様子を見て勧めてくれているようだ。
「いただきます」
「どうよ」
「はい……。おいしいです」
「夕日くんや、その絵面はどうみてもおいしいのカツアゲ現場にしか見えないって」
「かおりさんひどいなぁ、こんなさわやか好青年どこ探してもいないってのに」
「チャラ男が何か言ってるけど、硝子ちゃん無理に感想言わなくていいからね」
「いえ、おいしいです。家で飲むものとは別物でびっくりしました」
「へぇ、コーヒー飲むんだ」
「インスタントですけどね、豆から淹れたコーヒーってこんなに違うんですね」
「だねぇ。最近はチェーン店のレベルが高いけど、その場で豆を挽いて、ハンドドリップで入れるとやっぱ機械との違いが出るね。まあアタシもまだまだ勉強中だけど」
三人の和やかな雰囲気に、僕は起き上がるタイミングを逃しつつある。
会話に水を差してはいけないと思う反面、このまま迷惑をかけ続けるわけにはいかないので、意を決して、しかし勢い任せでなくゆっくりと起き上がる。
「兄さん。大丈夫なんですか?」
「うん……。心配かけたね」
申し訳なさで硝子の顔が見れない。心の弱さが暴かれてしまったようで、恥ずかしさが込み上げてきそうだ。
「おぉ、顔色戻ってるな。さっきは真っ白通り越して真っ青だったぜ」
「夕日くんもありがとう。二回も助けられたね」
二回も助けたことあったっけと表情で疑問を表現する夕日くん。
「警察への引き渡しの対応と今回で二回目でしょ」
「あぁ———。うん? うぅん……。うん」
あまり納得はしてない感じだ。僕としてはあの件は貸し借りゼロで終わった話になっていた。あれ? その理屈で言うと現在の借り一つになってしまう。深く考えないようにしよう。
自然と店内の様子が目に入る。優しい光とマッチした年季の入った、しかし手入れの行き届いていることの良く分かる備品類。カウンターの奥に色々な種類のビンが陳列してあった。
「もう起きて大丈夫かい?」
おそらくかおりさんと呼ばれていた女性だろう。金色に近い茶色の薄い色彩の髪。下ろした時に肩甲骨辺りまで伸びるであろう髪を、髪止めで後ろに纏め上げている。
紺色のポロシャツに、ベージュのチノパン、白のスニーカーと作業のしやすさ優先の格好をしていた。
声は少し低めだ。語尾や息の抜ける音にザラザラとノイズが入るような特徴があった。
声の印象よりはずっと若い印象だ。
この喫茶店の店長なのだとしたら若すぎるくらいだ。
「お水飲める? 少し風味づけしてあるから苦手だったら遠慮なく言ってね」
慣れた手つきでコースターとコップを置く。
「いえ、いただきます」
水自体に味の変化はなかったが、飲んだ後に鼻を抜ける香りに変化があった。レモンとミントかな。さりげなく分かるくらいのアクセントだった。
「美味しいです」
「そう? 良かった」
かおりさん? がテーブルの横に立って僕の顔を眺めている。
「えぇっと……」
かおりさん? 店長さん?なんて呼んだら良いのか迷っていると向こうもそれを察してくれる。
「自己紹介がまだだったね。日影かおり、じいちゃんの店を継いで店長やってます」
前職は夜職だったこと、昔は痩せていたが、身体を壊してそれからぽっちゃりしたこと、仕事を辞めた後、家で塞ぎ込んでいたら、祖父の店の手伝いに誘われたこと、そしてそのまま祖父の店を引き継ぐことに、ざっくりまとめるとそんな感じだ。
「貯金がまだまだあるからやっていけてるけど、いずれは店を閉じないとね」
湿っぽい話の内容の割にかおりさんは晴れやかな表情をしている。
「ねえ、それよりも肌綺麗ね。ちゃんとスキンケアしてるみたいだし、尊くんモテるでしょ」
「はい。兄さんは今日もデートしてきました」
間髪入れずに硝子が返事していた。
「どうでしょう。自分では分からないですね」
こういうときの正解の返答も分からない。
「それに引っ越しして来たばかりですし、彼女もいないですよ」
「謙虚で物静かな儚げ美少年。高校生くらいじゃ魅力は伝わらないか……年上にもモテそう」
「年下にもモテるんですよ」
何故硝子が答えているのだろう。
生まれてこの方モテたことがないので分からない。
「かおりさんオレは?」
「あんたもモテそうだけど、チャラい。前職で見慣れてるわ」
「相変わらず塩だなぁ」
夕日くんとかおりさんの早いテンポで返される会話を聞きつつ、どんな関係性なのだろうと疑問に思った。
「夕日はあたしの甥っ子だよ」
そんなに顔に出ていたのか、かおりさんが答えてくれた。
「母ちゃんの妹なんだよ。えぇと、つまりお———」
「お?」
瞬間空気が凍り、鋭い眼光が夕日くんを突き刺す。
「お……お姉さまなんだ。オレの」
「そうだよな。夕日。アタシはあんたの姉さんだ」
成る程と二人の心理的距離の近さに納得する。
「夕日は着替えて仕事の準備しな」
「はいよ」
夕日くんは空になったカップを持ち、カウンターの奥に消える。
「二人ともお昼はまだかい? せっかくだからごちそうするよ。何か苦手なものはないかい?」
「場所も借りて休ませてもらいましたし、飲み物もごちそうになりましたし、悪いですよ」
「尊くんは痴漢を捕まえてくれたんだろう。そのお礼だよ。それに未来のお客さんになってくれるかも知れないし」
「いいじゃないですか兄さん。せっかくだからいただきましょう」
「分かりました。せっかくなのでお言葉に甘えさせていただきますね」
硝子にも心配させたし意見に反対することはない。
苦手なものはないと伝えると、かおりさんはカウンターに戻り調理を始める。程なくしてケチャップのいい香りが漂ってきた。
かおりさんと同じ格好をして戻ってきた夕日くんと一緒に賄いを食べる。
今日会った人と食事をすることも珍しいのに、誰かが作ったご飯を食べる。久々の感覚だった。
硝子は慣れた様子で食事を進めている。
僕の日常とかけ離れた出来事を現実と受け止められずに半分上の空だったと思う。
賄いのナポリタンは美味しかった。
たっぷりのオリーブオイルでケチャップをフリットしトマトの酸味を飛ばして、甘みと香ばしさをソースに活かす。祖父からレシピを受け継いで作った自慢の逸品らしい。
その言葉通り普通の味付けとは一線を画していた。
「ごちそうでした。美味しかったです」
「はい。私もです」
「お粗末様です。夕日、それ片したら配達行ってな」
「いつもんトコ?」
「そうだよ」
夕日くんが四人分のお皿を手際よく片付ける。
「ありがとう夕日くん」
「いいって尊と硝子さんはお客さんだから気にすんな」
そう言ってカウンターの奥に下がっていく。
「かおりさんもありがとうございました」
「いいってことよ。あの子も言ってた通り、困ったときはお互いさま。それに尊くんには助けられたし」
かおりさんの目を細めて、口角を上げる屈託のない笑顔は夕日くんにとてもよく似ていた。
「いつでも来ていいからね。まあそんなに面白い場所でもないけどさ」
「はい。またいつか」
これは偽らざる本心だ。ただそれがいつになるか分からないだけで……。
そんな僕の心を見透かしているのだろう。
「あの子と仲良くしてくれると嬉しいな。ああ見えて結構苦労してるからさ……」
笑顔を崩さず夕日くんの心配を吐露したかおりさんの表情は、慈愛に満ちた母のようであり、弟の手を引っ張っていく姉の顔をしていた。
ここには僕の失くしてしまったモノがある気がして、また来ようかなと一瞬そんな考えが頭をよぎるが、すぐに勘違いを訂正する。
そうだ。あの笑顔は僕のモノではないし、失くしてしまったモノの替わりになど成りえない。
目の前にあるからと言って、どうして願えば手に入るなど思ってしまったのか、無いものねだりを続けてしまう往生際の悪い自分自身にやっぱり落胆してしまうのだ。
みんなが当たり前に持っているモノを僕は持っていない気がして、惨めな思いをしないために、きっと今日のことも遠い過去のこととして忘れてしまえばいいと……。
そんな後ろ暗い決意をしながら、硝子と一緒にいつものように家に帰った。
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