第13話 君のことを知りたいと思ってしまったんだ

「私の個人的な事情に付き合ってもらってごめんなさい」

 まずどこから話そうかと言葉を探している。きっととりとめのない話になるだろうから、頭の中で必死に纏めているのだろう

「いいよ。藤原さんの思うように話してみて、それくらいなら僕は待つし、できる限り聞くよ」

「うん。ありがとう。君のそういうところが———」

 伏し目がちに首を横に振る。

「いや、何でもない。私の話を聞いてくれるかい?」

 勿論。と僕は黙って頷いた。


 私は人前でご飯が食べられない。人の作ったものが食べられない。中身の見えないものが食べられない。固形物が食べられない。

 アレルギーとかではない。無理やり連れていかれた病院では心因性のものと言われた。そしてそれに心当たりがある。

 物心がつく前から、左頬に傷があった。

 確かな記憶が残っているわけではないが、泣きじゃくる私に無理矢理誰かが食べさせようとして、大きな傷がついた。

 祖父母の内のどちらかだと思うのだが、二人とも答えてくれない。

 顔の傷が二人の罪の象徴となってしまった。

 私はご飯を食べることに恐怖を抱いてしまった。

 祖父母の家の離れに独り暮らしが出来る平屋を建ててもらった。

 トイレ、お風呂、洗濯機、キッチンが揃っている場所を用意され、そこで暮らすように言われた。

 私たちの顔を見なくて済むように、自立出来るようにと、さも私のためだと言うように

 そんなものはただのおためごかしだ。

 私のためと言いながら、何で私を遠ざけたのだろう。

 何故私の顔を見るのをやめてしまったのだろう。

 他人の作ったご飯を食べられなくなったのはいつだろう。

 食べ物をぐちゃぐちゃにしてグチャグチャにして、ソレが安全だと思うようになったのはいつからだろう。

 それでも、私はソレを口にすることが出来ない。

 私を害するものでないと分かっていても恐怖心は私に根を張り一体化し、ソレはもはや私なのだ。

 水と、形も残らないくらい煮崩した食べ物なら口に出来るようになったのはいつからだろう。

 そんな風になってしまった私を可哀想と憐れむのだ。みんなとご飯を食べられない私を、人前に素顔を晒せない私を、祖父母が可哀想だと気を遣うのだ。

 なに不自由ないようにと、何もかもを準備して、私を善意の鎖で縛るのだ。

「可哀想な小夜ちゃん。ご飯を食べられない小夜ちゃん。可哀想な小夜ちゃん。顔に大きな傷がある小夜ちゃん。可哀想な小夜ちゃん。僕たち、私たちが小夜ちゃんのために全部用意して上げるからね。何も心配しなくていいよ。可哀想な小夜ちゃん」

 私に婚約者がいるらしい。

 祖父母が私に話を持ってきたのだ。

 大学にも行かず、就職もせず、ただ祖父母のあてがった人の妻になれと。

 顔に傷があるお前にはそれが最良だと、全部小夜ちゃんのためと、それが免罪符のように、お前には善意を受け取る義務があると、何度も私に刻み、刷り込むのだ。

 施しを与えられたのだから幸せでいる義務があると嘯くのだ。

 籠の中の小鳥のように一生をそこで過ごせと決められるのだ。

 そんな私は外の世界で生きることを諦めた。翼を捥がれて仕方がないと飛ぶことを止めたのだ。

 いつだって籠の外にだって出られたはずなのに、外の世界で生きていくことだって選べたはずなのに、今の生活に安心してしまっている自分もいるのだ。

 私はこれからも何も知らずに何も出来ずに狭い世界の中で終えていく道をただただ時間が通り過ぎていくのを待つだけなのだ。

 未来の不安はないが、未来の希望もない。私はこれからも決められた時間、変わらない場所で生きるのだ。

 私を救ってくれようとした人もいたはずなのに、その声に耳を傾けることもせず、差し出した手を掴むこともせず、私の籠を壊して、連れ出してくれる人をそんなお伽噺を夢想するのだ。

 私の読んでいる好きなお話のように、突然力に目覚めて何もかも解決して、私の才能や努力、この見た目を好きでいてくれるそんな人をただ夢に見て待ち続けている。

 何故だろう。そんな力を得たところで、私には現状を変える意志などないのに。

 そういつだって私は鳥籠の中のベッドで夢を見ている。

 優しい両親。優しい祖父母。優しい友達。優しい恋人。優しい世界。

 どうあがいても私が得られないありふれたもの。

 当たり前にあるはずなのに、私には無いモノ。

 両親は私が生まれる前にはもう別れたらしい。

 母は祖父母の反対を押し切り、駆け落ちをし、遠くの地で私を産み。そしてすぐに分かれてしまった。

 そして母は産まれたばかりの私を祖父母に押し付け、自分はまたどこかに行ってしまったと聞かされた。

 子どもである私はその話を鵜呑みにするしかなく、漠然と両親に捨てられた子として生きていくしかないのだ。

 両親から捨てられた可哀想な私。そうやって私はこれから先も与えられた幸せで生きるのだ。

 私は何も持っていないのではない。奪われてもいない。ただそこには祝福だけがあるのだ。

 私は祝福されているのだから、幸せでいないといけない責任があるのだ。

 でも私は、私自身にいつだって失望させられる。

 消えない傷と消せない傷を隠すために、私は人と関わってはいけないのだ。

 鏡を見るたび落胆させられる。左口角から左耳下にかけての傷口。

 負い目が完全に消え去って、素顔のままの私を愛してくれて、そのままの私を理解して受け入れてくれるそんな理想の存在をどうして求めてはいけないのか。

 傷がある私を受け入れて欲しくて、私はその傷をなかったことにしたくて、その願いは矛盾しているけれど、どちらも私なのだ。

 こんな私だけど救われる日が来ることを夢を見てはいけないのか。

 せめて夢の中でだけでも、私は幸せになりたい。


 気が付いたら藤原さんの手を握っていた。

 水分と栄養の少ないカサカサの手。それは過去に取れなかった手の形をしている。

 彼女の境遇はどうしても師匠に重なり過ぎる。僕の後悔が過去から走ってきた姿をしていた。

 それは僕の妄想であり、都合のいい解釈に過ぎない。

 それでも、僕はそのことに救いを見出してしまった。

 あの日の悔いを雪ぐチャンスが来たのだと思ってしまった。

 自分の浅ましさ、卑しさに吐き気が催してくるが、それは表に出さない。出せない。

 彼女の姿を見て、話を聞いて、救われるかもしれない。やり直せるかもしれないと期待を持ってしまった。

 師匠と藤原さんは違う人間だと理解している。

 だけれども、あの日置いてきた贖罪が果たせるのだと、そう願ってしまった。

「相生君……」

 藤原さんの瞳が、僕の瞳を捉える。光と力のない瞳だ。

「私は多分君にひどいことをしている。私は普通の恋愛が出来るんじゃないかと君と話しているうちに勘違いしてしまったんだ……。こんな私と普通に話してくれる君に寄りかかってしまった。君は許してくれる。そういう確信があった」

 今にも消えてしまいそうな彼女の姿が、許しを乞うその声が呼び水となり、ジリジリと脳を焼いて網膜にいないはずの姿を映し出そうとしてくる。

「ごめんなさい。私の将来はもう決まっていて、残されている時間も少なくて、きっと変えようがなくて、どうしようもないものだけれど……。君のことを知りたいと思ってしまったんだ」

 今にも手折れてしまいそうな身体と心で僕と向き合おうとする女の子。

 その姿は砂漠に咲く一輪の花のように儚く美しい。

「私は君のことを試したんだ……。私のことを許してくれる人間がいる。その事実が欲しかっただけなんだ」

 寄る辺のない、ただこれから枯れていくだけの花を、僕は守りたいと思ってしまった。

 それは鉢に植え替えて僕の手元に置きたい。そんな醜い欲が脳裏をチラつく。

「私は人間が嫌いなんだ。狭い世界しか知らない子どもが知った口を利く……。そう思うだろう。私もそう思う。でも、今までの私が私の全てでそれしか知らないのだから、どうして嫌いでいてはいけないのだろうね」

 彼女の語ったことが本当であれば、それは仕方のないことのように思える。

 考えることを、選択することを奪われ続けた彼女は自分の力で生きていないと、自分で何一つ選ぶことのできない人間だと周囲から蔑まれるのだ。

「そんな私だけど相生君。君のことは嫌いじゃないよ」

 人は語りえぬことに沈黙しなければならない。

 今はそれしか言えないと、好意を伝えられない自分に落胆しながら藤原さんは自分なりの勇気を振り絞り、それでも視線はしっかりと真っすぐ僕に伝えてくる。

 好きの反対は無関心とよく言ったものだ。感情を向けている時点で対象への関心が生まれている。

 無関心でいてくれればよかったのに、初めからその選択肢がなかったかのように、彼女はその見た目から周囲が放って置かなかった。

「藤原さん僕も君のことは嫌いじゃないよ」

 藤原さんの言葉は、そのまま僕にも当てはまるのだ。

 僕は好意が分からない。より正確に言うならば、その感情は全て師匠由来のモノなのだ。好意=師匠であり、師匠を他の誰かに置き換えることは出来ないし、なにより相手に失礼だ

 僕の頭が固いことが原因で、変なこだわりを持っていると、半ば自覚しているが、先入観などそう簡単に修正出来るものではないし、出来たら誰も苦労しない。

 置き換えるのではなく、同列の誰かをその位置に置ければ良いのだが、未熟者ゆえその境地に至っていない。

「ふふっ、はっきりしないね私たち」

 その曖昧な関係、ぬるま湯の気持ちは、恋とか愛とかそんな激しい劇的なものではない。

「だから、まずは友達から始めよう」

 藤原さんはキョトンとした表情を浮かべ、しばらく固まった後———。

「そうか。そうだよね。何を焦っていたのだろう。何でそんな簡単なことにも気付かなかったのだろう」

 藤原さん自身もまた人間関係の距離感が間違っていたことを悟った。

 今日僕たちは知り合いから友達になった。

 それはとても小さな一歩だけれど、前に一歩進めた。そんな感覚が僕たちにはあった。

 固く結ばれていた手はほどけ、僕の右手と結び直され、よろしくの握手をしていた。

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