第9話 だから、ちゃんと見ててね。兄さん
放課後になり、帰宅の為、硝子と合流する。
顔も名前も知らない生徒が遠巻きに僕たちを眺めては追い抜いていく。
一枚の画像だけで、盛り上がり過ぎである。自分に責任が及ばない噂話が楽しいのだろう。到底理解できない感情ではある。
この状況がいつまで続くのか、気が滅入りはじめていた。
遠巻きに見られるのは、硝子の母親のおかげで慣れている。かなりの頻度で学校にご意見を賜っていたから、硝子もついでに僕も爆発物扱いされていた。
慣れているからとは言え、続いて欲しいわけでもない。
あの母親は、虫よけとしては超優秀だったのだなと、悪い面だけでなく、いい面も見ていこうと思う。なお不利益のほうが多い。
何事もなく、平和に学校生活を過ごしたいと思っていたのに、わずか二カ月で頓挫してしまった。
「ゆづきさんだ」
硝子の声に、目線を上げると御浜さんの姿がある。校門のところで男の子と話をしていた。
御浜さんはすぐに家に帰り、家事をするので、帰宅のタイミングで顔を合わせることはなかった。
パーカーを着た大学生くらいの若い男が、御浜さんと談笑している。
「お? きたきた。こっちこっち」
見覚えがあるようなないような男が、僕たちを手招いていた。
さすがに無視できず、男と御浜さんの下へ。
「あの時はありがとな。あいつ痴漢だったんだよ」
先週、中年男性を引き渡したときの彼だった。
「いえ、こちらこそ。あとは任せてしまいましたし……」
「なんで、敬語? 俺たち同級生だぜ」
明るい髪色の男は、明るい声で指摘する。
「ゆうちゃん。尊さんと知り合いなの? 絡んだの?」
御浜さんが僕とゆうちゃんの顔を交互に見比べる。
「尊さんはゆうちゃんと違って不良じゃないんだから絡んじゃダメだよ」
小柄で気弱そうな御浜さんが、見た目厳つい男の子に気負いなく話し掛けている様子は新鮮だった。
「絡んでねぇし、不良じゃねぇし」
二人の心理的距離感はとても近い。それこそ家族のような。
「自己紹介まだだったな。オレは
同じクラスだった。しかし彼を一度も見かけたことがない。明るい髪色に灰色のパーカーにジーンズと、制服とは程遠い格好をしている。
「ゆづとは幼馴染みなんだ。近所の団地で母親同士が仲いいんだ」
「そうねー。ゆうちゃんとわたしはご近所さんだもんね。ゆうちゃんはどうして尊さんのこと知ってるの?」
「痴漢を捕まえたんだよ」
御浜さんは驚いた顔をしていた。
「すごいね。尊さん」
「いや、たまたまだよ。本当は逃げ出したかったんだ」
本心である。あんなことそう何度も出来ない。
「そうかぁ。鮮やかだったぜ。何年やってたんだ」
日影くんも驚いた顔をしていた。二人とも似たようなリアクションで微笑ましい。
「五年くらい。今はもうやってないんだ。そういう日影くんは?」
「オレも似たようなもんだ」
日影くんはあっさり笑っていた。
「ゆうちゃん。結構いい選手だったんだけどね。高校で辞めちゃったんだよね」
「まあな。バイト忙しいからな」
日影くんと御浜さんはお互いの事情がよく分かっているようだった。
「そろそろ学校行かないと留年しちゃうよ。ゆうちゃん」
「そうなるとゆづと同級生か」
「やだよ。頑張って進級してよ」
「おぅ。頑張るかぁ」
とても仲のいい二人に見える。それはまるで、兄妹のようで気心の知れた仲のようだった。
「もうそろそろ時間だから行くよ」
「オレも行かなきゃ。あのときはありがとな。尊って呼んでいいか? 俺のことは夕日でいい」
「わかった。夕日。またね」
「おう。またな。尊」
二人は僕たちの家とは違う方向へ歩いていった。何か色々ペースを狂わされていた。
御浜さんと幼馴染みの日影夕日くん。痴漢を捕まえようとするくらい正義感が強いようだ。いい人と知り合えた。
噂話でモヤモヤしていた気持ちが少し晴れていくような、そんな気がしていた。
フライパンにオリーブオイルを敷き、クミンシードを焦げ付かないように熱する。オイルに色が付き、香り立ってきたら、みじん切りにしたニンニク、ショウガを炒める。焦げ付く前に、みじん切りの玉ねぎも炒める。そこで塩を振る。玉ねぎの水分が抜けやすくなり、炒め時間も短くなるし味も出る。玉ねぎの色が変わったら、トマトペーストと混ぜ合わせながら炒める。塩とスパイスを入れ、味のベースを作る。
野菜とスパイスが十分混ざったら、豚ひき肉を投入。豚ひき肉にも塩胡椒を振り、プライパンの熱を下げすぎず、上げすぎず、温度を上げすぎると香りが抜ける。
豚ひき肉に火が入り、野菜の水分がある程度飛んだらキーマカレー完成。
味を変えるためのトッピングとしてチーズも別の容器に添えておく。
「前から疑問だったんだけど……」
テーブルに頬杖をついている硝子が僕の顔を見ている。
「兄さんって、料理上手よね。誰に習ったの?」
どうしたんだろう。藪から棒に、そんなこと気にしたこともなかったのに。
「インターネットにレシピとかコツとか色々載ってるよ。ほぼ独学」
あとは師匠と一緒に作ったり、実家でも自炊したり経験値もあった。
「兄さんって、器用だよね。兄さんが居なかったら、毎日コンビニご飯かカップ麺の自信があるわ」
そんな変な自信持たないで欲しい。今まで、家事全般を禁止されてきたのだから、当然のことだろう。
「でも、今は洗濯と掃除はしてくれるじゃないか。とても助かってるよ」
「それは兄さんに下着見られるの恥ずかしいし……。それに掃除くらいはしないと、兄さんに全部家事させちゃうことになるし。私も料理覚えようかな」
「まあ、今の生活に慣れてからでいいんじゃないか」
テーブルにサラダ、キーマカレーが並ぶ。
「「いただきます」」
手と声を合わせて、サラダから食べ始める。
サラダを食べ終え、キーマカレーを一口。
「うん。やっぱりおいしい。市販のルーじゃなくて、スパイスから作っちゃうんだから、すごいよね。将来、料理人になるの?」
硝子はおいしそうに食べてくれる。師匠以外には食べさせたことはないし、おいしいと言ってもらえて、素直に嬉しいと思う。
「僕、基本的に面倒臭がりだし、自分の料理をお客さん相手に作るのって想像できないな。分量とか正確に測ったことないし」
「そうなんだ。毎回おいしいから向いてると思うけど」
硝子は無邪気な感想をそのまま伝えてくる。
「今は硝子においしいって言ってもらえているから、それで十分だよ」
プロの仕事風景とかを動画だったり、本で見てみたりしたが、野菜の下ごしらえの量、魚のさばき、肉の掃除等の細かなテクニックがあり、その細やかな仕事が僕にはとても勤まるものではなさそうであった。
僕は自分と自分の周りの人がおいしくご飯が食べられたら、それで十分だった。
お金を得る。労働をする。世の大人たちは難しいことをしているのだなと、頭が下がる思いである。思いだけで実際は下げない。
実の父親は金と住処だけ与えていれば、子供が勝手に育つと思っているだろうが、感謝していることがないことはない。
子は親の背中を見て育つ。僕にとっての親は師匠だった。
環境と遺伝が干渉しあって、人格の形成が成されるという。環境だけのせいではないし、逆もまた然り。遺伝のほうは見込みがないので、環境に期待するしかない。
「兄さんって。女の人の相手に慣れてるよね。基本褒めるし、何か適当に流すし」
師匠といた時間が長かったからね。あの人教員免許も持っているし、教えるのは上手だった。自分が学んだことを全て伝えようとしていた。僕の人生に彩りを与えようとしていた。
僕は師匠の願いに報いることができるだろうか?
「年上の人好きだよね。よく目で追ってる」
よく見ていると思った。僕は自分ではそんなことをしているつもりなどなかった。
「三十五歳くらいのおばさん」
本当によく見ている。師匠が生きていたら、そのくらいの年齢なのだ。
「経験を重ねた女性に、そんなことを言ったら怒られるよ」
お姉さんと呼べ。いない人の声が聞こえる。
言葉遣いが、顔にそのまま表れる。顔が良くないとうまくいくものも困難になる。
「優しくするのに近づいたら、その分距離を取って、傷つけて、突き放したと思ったら、助けに来て、甘やかして」
DⅤ彼氏かな? 悪い人もいたもんだ。
「私、兄さんのこと好きよ。でもそれ以上に分からなくなるの……。私は本当に兄さんと話してるのかなって」
僕にも分からない。本当の自分とはなんだろう。どれも本物でどれも偽物だ。
「兄さんは私のことを救ってくれた。私は兄さんの力になりたい、でも兄さんは私のことを必要としてない」
「そんなことないよ」
「そう言ってくれるのも分かってる。兄さんなら私の望む答えをくれる」
「…………」
「兄さんには触れて欲しくないモノがある。決して立ち入れない場所がある」
「そんなこと……」
ないとは続けられなかった。言葉が見当たらないのだ。
死者に囚われる。過去。不可逆。取り返しのつかないものに拘ってしまう。
仕方のないことだと自分に言い聞かせる。過去の積み重ねで、今の自分があるのに蔑ろになど出来ない。それまでの人生を否定すると、惨めな気分が湧き上がる。
だからこそ、宝物のように大事に、誰の目にもつかないように、包んでしまいこむ。
宝物が、腐り落ちて、爛れて、熟成して、酸化して、原形を留めていなくても。それが大事だと後生大事だと抱え込む。重荷になって次第に身動きが取れなくなっても、手放せずにいるのだ。
「私には願いがある。でも今の私には無理な願い」
硝子が、薄氷を散らせた朝日のような微笑を浮かべる。
「だから、ちゃんと見ててね。兄さん」
今はそれだけで良いからと、妹の顔は希望の色が滲んでいた。
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