第8話 残念そうに見つめる悪魔は静かに微笑んでいた
違和感を覚えたのは、朝の授業が始まる少し前からだった。
僕はこのクラスで話す人間と言ったら、咲峰さんくらいだし、他のクラスメイトは僕に積極的に関わってこようとはして来なかった。
まあ僕も、遠ざけていたようなものだけど。
そんな空気みたいな僕なのだが、今日はやけに視線を感じる。空気の方が役に立つとか言ってはいけない。
好奇、恐怖、畏怖、困惑、様々な色の視線に晒される。
そんな他人様の衆目を集めるようなことをしただろうか。他人の気持ちなど一ミリも分からないから、視線の意味など推測するだけ無駄なことだ。
僕は気づかないふりをして、昼食まで過ごした。
昼食も妙な視線と、ひそひそ話に神経を削られる。
元々食事の味など気にしていなかったが、更に味気ないものに変化した。
御浜さんも異様な雰囲気を察知して、ほぼほぼ無言であった。
午後のロングホームルームになり、修学旅行の話題になる。
僕は行かないから関係ないなぁ。窓の外を見ながら、雲が動く様子を眺める。
机に突っ伏して、寝たふりをしていてもよかったが、中々の騒々しさで眠れそうにない。
仲のいい人グループで集まって、ネズミの国で楽しむ相談をしている。
仲良きことは美しきかな。同級生は一生に何度あるか分からない大人数の旅行を楽しみにしている。
それはキラキラ輝いて、光に僕の目は眩んでしまう。青春の光は僕みたいな人間には毒にしかならない。
僕、小学校の時と中学校の時も修学旅行に行かなかったからな。硝子の母親にお伺いを立てたら、請求書を出された上に現金を要求されたからな。
小学生の僕は健気だったと思う。大人にお願いをすれば、何とかなると思っていた自分はもういない。中学生の時は頼みすらしなかった。
因みに、父親からは僕に掛かった費用。硝子の母親からは慰謝料を請求されている。労働できない身分で、既に借金まみれなのは、悲しくなってくる。まあ、今となっては踏み倒す気満々である。
生きているだけでこれだけのお金が掛かるという、学びが得られたことだけが唯一の救いという救いのない話。
僕の人生は始まった瞬間から負債を抱えていることになる。ないものねだりをしたところで、得られるものは疲労感、徒労感だけなので、深く考えるのはやめる。
師匠に出会って、色々なことを教わっていなかったら、僕はとっくに壊れていただろう。たらればの話と言えばそれまでなのだが、確信めいたものはある。
嘆くばかりの人生で、うまくいかない理由を全て他人に委ねて、それでも自分は人一倍努力したと嘯くのだ。なんの根拠もない自信で、安っぽいプライドを塗り固めて、自分一人の力で生きていけると誇示するのだ。
僕は実の母親に捨てられた哀れな子供であり、そんな僕にみんなは優しくしないといけなくて、優しくしないみんなは途方もなく間違えていて、可哀そうな僕はいつまでも、どこまでも正しい。
無力な自分に酔いしれて、出来ない理由を、何もしない理由を、探し続けては足が止まる。
確かな歩みの砂浜の足跡も、波にさらわれて消えてしまい、どれだけ進めていたかも不確かになってしまう。
僕の苦しみも悲しみも喜びも、全てが自分の内にあるものなら、ありとあらゆる事象が自己責任で済ませられるのならば、僕の悩みは解決できるものになるのだろうか。
何をもって解決なのか、明確な答えがない状態で、正解の定義をしなければならない。
誰かが決めた正解の定義に従えば、もっと楽に生きていけたのだろう。
でも、僕は道徳、哲学、倫理、理想、正義、そういったものに盲目に従えるほど、利口ではなかった。
過去の人々が積み重ねていった答えに疑問を抱いてしまった。正しいものが欲しくて、本当のものが欲しくて、ただ、声にならない声しか上げられずにいる。
親鳥を見た小鳥のように、後ろを歩いていくとこもできず、つまずいて、転んでを繰り返して、やがては怪我をして、起き上がる体力すら無くなっていくのだ。
誰かの為に、何かをする。誰かを助けるために、自分を犠牲にする。それはとても美しいもののように見える。
地べたを這いずり回っている人間を、その手を無理矢理引っ張り上げて、立ち上がらせて、強制的に歩かせる。その人間の足が折れていても、その人間の肩が外れようと、助ける、救済するという行為が尊いと、助けを拒む人間を蔑むのだ。歩みを一歩進めるごとに、意識を失いそうになる激痛も、希望を失くしていく感覚も、全部、気のせいだ、大したことない、勘違いだ、みんなもつらい思いをしている、自分だけが不幸じゃないと、歩けない人間を軽蔑するのだ。
力のない人間を助ける自分に酔いしれる。自分にも誰かを救うことが出来ると、自分に言い聞かせて。
誰かを助けるというのは、突き詰めるところ、自分の為でしかないのだ。自分というフィルターを通してしか他人を見れない以上、人間という制約上、絶対的な他者理解など成立しない。そんなものがあるなら証明してほしい。
誰もが自分の中にあるルールに従い、ルールの中でしか生きることが出来なくて、他人との交流は個人同士のルールの擦り合わせだ。
共通認識の上に、相互理解を深めていく。
僕にはルールが分からない。大人、親、学生、子供、友達、家族、色んな立場の色んなルール。どれもが複雑に絡み合って、丸まって、ほどけないで固まって、全容の見えない塊となって地べたを転がる。
師匠は僕に教えてくれた。自力で立てるまで待ってくれた。自分に出来ること出来ないことを教えてくれた。傍に立って、寄り添って、転んでも直ぐに起こすわけでもなく、時間が掛かっても、僕が自分で起き上がるのを、信じて待ってくれる。
何でもお膳立てをするわけでもなく、恩着せがましく僕のためだということもなく、ただ導いてくれた。ゆっくりと出来るまで、優しい明りで暗闇の道を照らしてくれるように。
左眼に針が刺さったのかと思った。網膜の視細胞、桿体細胞、錐体細胞に刺激が走る。今はいない師匠の姿を幻視する。
ゲームが始まって以来、厳密にはスキルを得てから、左眼が痛む瞬間がある。最初は気のせいだと思っていたが、他に理由がないのだ。形容しがたい痛みに理由を強引につけている。
網膜に焼き付いたはずの師匠の姿が消え、未だ見慣れない教室の風景へと戻る。
窓の外を眺めていたはずなのに、意識が空高くまで飛んでいっていた。
今ならきっと空も飛べるはず。窓枠に手を掛け、足を外へ、なんてことはせず、現実へとチューニングする。
時計に目をやると針はあまり進んでいなかった。
何もすることがない退屈な時間。このクラスに僕の居場所がなく、勿論自分で選んだことだから、人のせいにする気はない。
クラスの人は楽しそうに、一度きりしかない人生を謳歌するように、キラキラと輝くもの。僕の周りに透明な壁が覆われていて、それは他人が築いたものではなく、紛れもなく自分自身で築き上げたものだ。
机に突っ伏して本当に眠ってしまうことにする。
「相生くん。ちょっといいかしら」
瞬間、空気が凍り付く。僕なんかやっちゃいました?
あれだけ騒がしかった教室が、沈黙に包まれていた。
そんな空気も意に介さず、咲峰さんは僕に話しかける。
「相生くんは一人みたいだけど、グループに入らないの?」
「僕は修学旅行いかないからね」
そもそもグループにも入れてもらえないだろうけど。
「そうなの? 残念。私のグループに入ってもらおうと思ったのに」
静かな教室。皆が咲峰さんの発言に注目していた。
空いている席の椅子を寄せて、僕の隣に座る。
「自由時間も私と一緒に回って欲しかったのに」
真意が読めない。冗談と本気。どちらともとれる絶妙なバランスで、話を進める。
「お土産は何がいいかしら?」
「その気持ちだけで十分だよ。ありがとう」
その優しさで心の涙が止まらない。感動をありがとう。お代は出世払いで。
居心地の悪さに拍車がかかる。どうして彼女は僕に絡んでくるのか、意図が読めない。
今すぐ席を立ち、恥も外聞もなく、帰宅したくなる。早く本題に入って欲しい。
「それより、咲峰さん。僕に用事でもあるのかな?」
咲峰さんは、わざとらしい仕草で驚いた真似をして見せる。
「察しが良くて助かるわ」
彼女はスマホを取り出し、一枚の画像を僕に見せてくる。
「…………」
この学校の制服を着た男女が、路上で抱き合っている一枚の画像。暗がりでもよく映っていた。最近のカメラ機能は性能がいいのね。普段使わないから、性能の良し悪しは判断できない。男が女の頭に手をやり、もう片方の手は杖と一緒に繋いでおり、仲の良さが伺える。女は背中を向けているが、男の顔はぎりぎり判別できるくらいだった。よく見知った顔が画面に映っていた。その男は顔色が悪く、目の下のクマが特徴的で、無造作に伸びた髪も、不健康さに磨きをかけている。
「夜の路上で抱き合うなんてすごいね。というか男の顔がひどいね。相手の子は美少女なのにね」
「背中向けてて、顔見えないじゃないの。硝子さんが美少女なのは同意するけど」
硝子がぺたんこだからって、前と後ろが区別できないとか言うな。
というか僕と硝子だった。何故、葵理さんがこんな画像を持っているのだろう。
「メッセージアプリに画像が貼られたのよ。思わず保存しちゃった」
便利な時代ですな。情報の共有があっという間になされる世界。
「どうしてこれを僕に?」
「相生くんも見たいかと思って。おひとつどうぞ」
わあ、有難迷惑。朝からの視線の意味がやっと分かった。
最近、同じ学校に転校して来た兄妹。遠い土地から引っ越してきた二人の兄妹。娯楽のネタとしては格好の的だろう。画面越しの距離の遠い他人より、身近にいる赤の他人だろう。物理的に近い方が、コンテンツとして優秀なのかも知れない。
僕ら兄妹の二人暮らしで、二人で近所の買い物もよく行っているし、それはまるで恋人の距離感に見えていたのだろう。
「なんて噂されているか聞きたい?」
無邪気な表情の咲峰さん。楽しそうで何よりだ。
「聞きたくないなぁ」
いや割と冗談抜きで止めてほしい。自分の噂など聞きたくない。見えないところで勝手にやっていて欲しい。
「兄妹で付き合っているんだって。もっと生々しい内容で噂してるけど。私の口からはとてもじゃないけど恥ずかしくて言えないわ」
うん。そんな気がしていた。学生の色恋は娯楽として都合がいいのだろう。無責任に話を広げて、コンテンツとして消費しても良心が痛まない相手だろうし、暇つぶしとしてちょうどよかったに違いない。
異質な人間が異質なことをしている。その結果何が起こるか? 行きつく先はコミュニティからの排除である。
人間の脳の構造。機能は一万年前から変わっていないらしい。本で読んだ。その情報が正しいかは研究者ではないので、詳細は分からない。
道具だけが進歩を続け、使う人間の中身は進化していない。歪な構造ではある。
人は、人間だから特別なんじゃなくて、人で在り続けようとしているから人間なんだ。
所詮人間は動物だってことを忘れてはいけない。動物だからこそ、自分を通して見ている相手のことを忘れてはいけない。と、師匠は言っていた。
「わざわざ教えてくれてありがとう。僕そういうのに疎いから助かるよ」
咲峰さんは善意で教えてくれたのだろう。そこにきっと悪意はない。ないものを証明できないから追及するだけ野暮だろう。悪魔の証明。つまり咲峰さんは悪魔。証明終了。
頭に角とか、お尻に尻尾とか生えていないかしら。
「どういたしまして」
小悪魔葵理さんはニコニコと僕の顔を眺めている。どっかいかないかなぁ。
「妹さんとの関係を噂されての感想は?」
それは勿論———。
「ノーコメント」
最悪だ。人は語りえぬことには、沈黙しなければならない。
この噂話は僕たち兄妹の話ではある。だが、僕たち兄妹の実態などどうでもいいのだ。そこにおもしろそうな話題があり、おもしろそうな人間がいれば、コンテンツの完成だ。飽きたらゴミ箱に捨てるだろう。誰がそのゴミを回収して処理するかは不明である。
そこらの地面に投げ捨てられて、踏みつけられるのがオチだろう。土に還るのであれば、栄養になるのでましだが、なんの肥しにもならないであろう。
「あら、残念」
心底、残念そうに見つめる悪魔は静かに微笑んでいた。
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