第2話 大丈夫だから、迷惑だなんて思っていないよ

 懐かしい人の夢を見ていた。

 僕は今もあの人の面影を探して、現実を生きている気がする。

 夢も現も、その全てが僕の頭の中での出来事であるのならば、それ故に、僕の中には誰も存在しない。

 硝子は既に起きているようだ。昨日、落ち着いた後はよく眠れたらしい。

 スマホのアラームが鳴り響いているのに気付いた。最近は、妙に寝起きが悪い。身体は起きているのに、心と体の接続が上手くいっていないように思う。

 アラームを消して、寝床から起き上がる。頭の中は霧に満ちて、スッキリとしない。寝不足なのかな? 時間は十分なはずだけど。身体が右下へと流れていく。感覚だけだった。実際は、真っすぐ立っている。だけど、前後左右、音の大小、自身の身体の感覚。チューニングがずれている。深呼吸をして、指先、足先まで自分を意識する。空気を肺に取り込み、心臓が新しい酸素を身体の隅々まで行き渡らせる感覚を想像する。

 三回深呼吸をしているうちに、僕の身体は現実へと引き戻された。

 スマホの画面を確認。今日は硝子の右膝の定期検診の日。

 あとは普段の授業と変わらないはず。いつもの準備をして、洗面台に向かう。

 冷たい水に顔を打ち付け、鏡を見る。目の前にいる男の顔が歪んで見える。

 こんな顔は、硝子には見せられない。

 洗顔、化粧水、髪型を整え、寝間着を自分用の洗濯籠に入れ、制服に着替え、相生尊を形成する。ルーティンをこなし自分を確認する。

 今日も、硝子の良き兄でいよう。


 放課後になり、硝子と合流する。

「膝が痛い」

 表情の変化はあまり見られない硝子だが、額には汗が滲んでいる。

 空は灰色で、空気は湿気を含んでいた。今すぐにでも雨が降り出してきそうではあった。

「雨降るのかな。午後から痛くて」

 手術後からこうした訴えは多くあった。そして例外なく雨が降るのだ。

 硝子いわく、膝が引っ張られるように痛い。耐えられないわけじゃないけど、思わず口から「痛い」というくらいには、じわじわ痛い。そう漏らしていた。俗にいう古傷が痛むというやつだ。

 二人並んでバス停で待つ。電車の最寄り駅行きのバス停は、反対側にあるので、僕たちの方にはあまり並んでいない。

 ポツリ、ポツリとまばらに雨が降り出してきた。天気予報は曇りのはずだったが、降ったものは仕方ない。鞄にしまってある折りたたみ傘を開いて、硝子の頭上に掲げる。

「ありがとう。兄さん」

 しばらく待つとバスがやってくる。道路が混んでいたのだろう。定時より少し遅れていた。

 僕よりも先に硝子がバスに乗り込む。両手で手すりを掴んで、左足をタラップに乗せる。両手と左足の力を使い、右足を上げる。一連の動作を僕は見守っていた。いつ後ろ向きに倒れるかわからないからだ。つかず離れずの距離を保ちながら車内に上がる。

 席は埋まっており、人がまばらに吊革に掴まり立っていた。

 その誰もが、スマホの画面に夢中で顔を上げすらしない。興味がないのだろう。杖を持って立っている女の子のことなど、普通の人よりも時間をかけて、バスに乗った女の子のことなど、誰も気にかけていなかった。ここにいる誰もが硝子に席を譲ろうとは考えていない。

 いや、と考えを一旦止める。席を譲ってほしいのなら、素直に僕か、硝子が言えば良いのだ。勝手に他人の善意に期待して、勝手に失望するのは、身勝手だろう。病院に向かうバスだ。きっと誰もが体調が悪いのだろう。それこそ、外から見ただけでは、体調の良し悪しなど他人に解るはずもないからだ。人は自分の見たいものしか見ないし、不都合なものからは視線を逸らしてしまうものだ。

 それに硝子は気にしていないようだった。

 バスに揺られること十五分したところに総合病院がある。引っ越しをしてから、硝子の右膝の検診を引き継いでいる。

 降車するときも、一段、一段確かめながら、おっかなびっくり降りる。僕は先に降りて待っている。地面は雨で濡れており、滑りやすくなっており、一歩がどうしても慎重になる。

 右側に立ち、傘を差しながら歩く。雨は止まず、僕の右肩を濡らし続ける。


 受付を済ませ、ロビーで順番を待つ。病院の中は、薬品の独特な臭いが満ちていた。

 空調がよく効いていて、少し肌寒いくらいだ。

 街で一番大きな病院で、ロビーには、患者、医療事務、看護師、医師、様々な人が行きかっていた。

 硝子は整形外科のフロアで待っている。予約を入れてあるが、担当の医師は診察する人がひっきりなしに来ているようだ。

 病院というのは、得てして待っている時間が長いものだ。受付に呼ばれるまで待ち、医師に呼ばれるまで待ち、検査が必要なら、検査室の前で待ち、また医師の前で待ち、会計の人に呼ばれるまで待つ。

 診察の時間は待つ時間に比べれば、医師の労働時間に比べれば遥かに短時間だというのだから、医療従事者には頭が下がる。

 幸いにして、学校帰りなので、読み物には困らない。

 文字を読んでも、頭の中に入ってこない。一人になり、やることもなく座っていると、疲れが自覚しやすくなる。

 ページを閉じて、瞼も閉じる。休憩しよう。もし眠ってしまっても、硝子が起こしてくれるだろう。

「相生くん?」

 うとうとしていると僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 見上げると、クラスメイトの咲峰さんが僕のことを見下ろしていた。

「病院で会うなんて偶然ね、どこか悪いの?」

 頭が悪い。とつい軽口が出てしまいそうになる。

「僕は妹の付き添い。咲峰さんは?」

 聞いてから後悔する。病院という場所柄、あまりいいことは聞けないであろう。答えづらいことだってあるはずだ。だからと言ってお互いの存在を確認しながらも無視することはよくないことだろう。人付き合いは難しい。

「私も似たような感じかな。弟の付き添い」

 案の定少し困ったような笑顔で答えてくれた。

「ごめんね。言いにくいよね」

 自分のことだったら、自分の判断で言えるのだが、妹のことなので僕が勝手に口にすることは出来ない。

「私もごめんなさい。不躾で」

 咲峰さんは一席開けて、隣に座る。彼女は老若男女問わず、視線を集めていた。

 一挙手一投足、所作の一つ一つに美しさを感じる。他人からの視線を意識した、訓練されたものだ。自分の身体を隅から隅まで、それこそ、流れる髪に一本でさえ、自分の意志で動かしているように見えた。

 それは、絵画、彫刻、美術品じみた美しさを携え、自信に満ち溢れているように伺える。しかし、裏を返せばそれは、作り物、演技めいている。

 そんな人生、疲れると思う。望まれる誰かの為に、自分というものを、厚い化粧で塗り固め、誰にも見えないように、分厚い壁で覆い隠している。

 見眼麗しいというだけで、自らの意思とは関係なく、他人の期待を、耳目を集めてしまうものだ。そこにいるだけで、コンテンツのように消費され、勝手に期待され、勝手に失望されてしまうのだ。

 そういう僕も、勝手に咲峰さんの人生を想像したりして、おこがましいにも程がある。咲峰さんの人生は、僕なんかに哀れまれたりするようなものではないだろう。

 僕は咲峰さんに関わりを持つ気はないし、彼女は、転校して来たばかりのクラスメイトだから話しかけて来ているのだろうし。そこに意味などないのだろう。

 よくできた映画、ドラマの登場人物。それが咲峰葵理さんへの印象だ。

「姉ちゃん、終わったよ」

 そんな声とともに、僕と同じ制服を着た男の子が、咲峰さんに近寄ってくる。

 思索に耽っており、全然気が付かなかった。つい考え込んで周りを見ないのは悪い癖だ。

「あのやぶ医者むかつくことばかりいうんだ」

 身長は硝子と同じくらい。顔立ちは咲峰さんにそっくりだが、目つきが鋭く、ギョロっとしている。線の細い、繊細そうな美少年だ。

「おれは、学校だって行ってるし、ランキング一桁だし、おれなりに頑張ってるし、なんで悪く言われないといけないんだ」

 言っているうちに感情が昂ってきたのか、怒りが抑えきれないようで、少し大き目な声がフロアに響く。

「そうね。理人りひとはすごいんだもんね」

 幼子を落ち着かせるように、語り掛ける。

「でも、病院の中だから大声はやめようね。続きは家で聞くからね」

「わかったよ。姉ちゃん」

 その光景は、若い母親と小さい子供のような関係性であり、歪なものに見える。

「隣の人は誰?」

 柔らかくなった目つきが、刃物のように鋭い視線へと変化する。

「クラスメイトの相生尊くんです」

 別人、関係ない人のふりをしていたのに、咲峰さんに紹介をされてしまった。早めに席を立って、飲み物でも買いに行けばよかったと、後悔しても遅い。

「相生です。お姉さんには気にかけてもらっています」

「ふーん。姉ちゃん狙い?」

 興味など微塵も感じさせないように言い捨てる。

「僕は学生の身分なので恋愛はしませんよ。学業優先です」

「なんかつまんない言い方。姉ちゃん綺麗だし、スタイルいいから、いろんな奴が声かけてくるんだよね」

 そのたびに、わざわざお断りを入れるのだとしたら、大変そうだ。

「理人。ちゃんと挨拶して」

 咲峰さんの優しくも、言い聞かせるような声。

「咲峰理人」

 ボソッと、捨てるように言い放つ。

 咲峰理人くんは、人付き合いが得意なタイプではないようだ。まあ、僕が言えた義理ではないけど。姉の葵理さんは、人当たりがよく、世渡りが上手なイメージだ。

「兄さん。おまたせ」

 硝子が憔悴した顔をしてやってくる。左手には中身一杯のビニール袋。

「あれ?荷物が増えてる」

「隣に座ってたおばあさんがくれたのよ」

 孫にお菓子をあげる感覚なのだろうか、硝子はご年配の方から、結構食べ物を貰ってくる。

 おまんじゅう、クッキー、チョコレート、カロリーの高いもので太らせようとしているみたいだ。

 まあ、硝子の細く薄い木の枝のような身体は、不摂生で不健康、不憫に見えるのかも知れない。

「困ったわ」

 食事に関しては、競技者時代の影響で、特にお菓子類を食べる習慣がなかった。くれた人には申し訳ない。捨てるのも難だし、御浜さんにあげることになるかな。

「なんで、おやつをくれるのかしら」

「さあ、可愛いからじゃない?」

 痩せすぎだから心配させているとは言えない。

「妹になに言ってるのよ……」

 硝子は呆れた表情をしていた。適当に答えているのが分かっているのだ。

「相生くん。妹さん?」

 咲峰さんが僕たちを見比べ、聞いてくる。

「はじめまして、妹の硝子です。兄がお世話になっております」

 礼儀正しく、お辞儀をする。おい、妹よ。お世話になっているとは限らないだろう。まあ、ただの社交辞令だろう。

「はじめまして、咲峰葵理です」

 咲峰さんは席を立ち、硝子にお辞儀をする。その所作は美しく洗練されていた。百度行っても百度寸分違わず、同じ動作ができるように訓練されているようだった。

「…………」

 硝子の視線は、葵理さんの胸に注がれていた。交互に自分のものと見比べて、自分の胸をペタペタ触っていた。板とメロンくらいの圧倒的な差がある。

 硝子のそんな様子は珍しい。他人とあまり比べたりしない性質の硝子が、少しショックを受けているようだった。

「硝子ちゃん。珍しいね」

「……。咲峰くん」

 笑顔が貼りついていた。こちらも珍しい。こめかみあたりがヒクついて、表情筋を必死に保っていた。

 理人くんと仲が良いのかと思ったら、距離感がおかしいだけだった。名前呼びも、ちゃん付けも許可してないのだろう。

「どこか悪いの? 毎週病院大変だよね」

 理人くんには、硝子の杖も歩き方も気になるものではないらしい。足が悪いことが想像できないらしかった。

「俺も毎週カウンセリングでさ、早く帰ってゲームしたいんだけど、パパとママがうるさくて、たまに遅刻しちゃうけどさ、毎日じゃないし、チームのみんなも俺がいないと困るって言ってるし、たまに起きれないのってしょうがないと思うんだよね」

 堰を切ったかのように、構わず話し続ける。クラスでもこんな調子なのだろうか。

「理人。相生さん困ってるから。その辺にしておいて。それに名前呼ばれたわよ」

「わかったよ。また来週ね」

「相生くん。相生さん。またね」

 葵理さんが理人くんを連れて会計のほうへ向かっていく。硝子が咄嗟に呼び止める。

「硝子でいいですよ。私も葵理さんとお呼びしてもいいですか?」

「うん。お互い苗字呼びだと分かりづらいものね」

「じゃあ、俺も理人って呼んでよ。硝子ちゃん」

「異性の名前を軽々しく口にする習慣はありませんの。咲峰くん」

 硝子はオホホと口元に手をやって、軽くあしらっている。慣れているな。そして、目が笑ってない、怖い。

「ごめんなさい。硝子さん。理人に後で言っておくから」

 そういって二人は、嵐のように去っていった。

「硝子、膝はどうだった?」

「前回と変わらないね。適度に運動して、痛くなったら無理しないで、何かあったらまた来てください」

 まあ、それ以外言いようがないよな。悪化してないだけ良しとするしかない。

「痛み止め出てるから、薬局寄っていかなきゃ」

 病院の近くに薬局があるので、大した手間にはならない。

 硝子から、おやつの入った袋を受け取って、僕のリュックにしまう。

「兄さん。葵理さん、綺麗な人ね。それに……」

 硝子が言い淀む。自分のものと比べて圧倒的な差があり、直線と曲線の差分を大いに気にしているようだった。

 ゆづきさんの時は気にしていなかったのに、何かプライドでも刺激されたのだろうか、怖いなぁ。確かめる勇気など僕にあるはずもない。

「私はまだ成長期。発展途上。まだ大丈夫なはず」

 怖いなぁ、触れないでおこう。掛ける言葉が見当たらない。

 会計で名前が呼ばれるまで、硝子はずっとこんな調子だった。


 いつもにくらべて遅い時間の帰路につく。雨は止んで、夜色に染まった雲がちらほら浮かんでいた。

 放課後から病院へ行くと帰りが遅くなってしまう。いつも行くスーパーで割引された惣菜を買う。明日は休みだが、この時間からご飯を作る元気はなかった。

 雨に濡れたアスファルトから、湿った独特な香りが立ち昇り、鼻腔を刺激する。闇色に染まった道路が、車のライト、ビルの灯り、街灯が星のように瞬いている。

 人通りの少ない道を二人で歩く。

 ふと、気になって視線を移す。車道を挟んで反対側の歩道に、片隅にどこかで見た面影のある、御年配の女性が何も持たず、摺り足でふらふらと歩いていた。

 駅の方に向かって歩いているようだが、今にも転びそうで危なっかしい。ダウンジャケットを着ており、春の夕方と言えども、いささか厚着に見えた。

 その視線も、目的を持って前を向いているというよりは、空を見てウロウロさせていた。

 余計なお世話かもしれないが、明日のニュースとかになっても目覚めが悪い。取り越し苦労なら、それはそれで良しとしよう。

「硝子。少し待っててもらえるか?」

 走って行って驚かせてはいけないが、悠長に歩いて間に合わなくても困るので、僕は小走りで横断歩道を渡り女性の元へ。

「こんばんは。なにかお探しですか?」

 なるべく視線を合わせて声を掛ける。見ず知らずの人に、いきなり話しかけられたりしたら警戒させてしまうだろう。

「……」

 御年配の女性は、真冬の上着、もこもこのズボン、踵を踏み潰した靴。ちぐはぐな格好をしていた。

 目線もどこを見ているか分からない。こういうときは、交番、警察の方がいいのかな? 多分、連れて歩くよりは、お巡りさんに来てもらった方が速そうだ。

「こんばんは。駅に娘を迎えにいってまして」

 うむ。一見返事はちゃんとしているようだが、娘は何歳だろう。

 小柄で柔和な雰囲気を漂わせている。似た雰囲気の人を、どこかで見たような気がする。誰だったかな。喉元まで出かかっていて出てこない。

「お兄さん。男前ですけど。わたしには旦那と子供がおりまして……」

 ナンパだと思われてしまった。まあ、怖がられるよりましだとしよう。

 スマホを取り出し、一一〇番通報しようとしたところで、硝子がやってくる。

「兄さん。いきなりどうしたの? あら? えーっと、ゆづきさんのおばあさん」

「硝子。会ったことあるの?」

「会ったことないけど、写真見せてもらったことあるのよ」

 でもよかった。警察に保護してもらうよりは、御浜さんに迎えに来てもらう方がよいだろう。

「硝子。御浜さんに連絡お願い、きっと探してるから」

 わかった。と硝子は電話を掛ける。すぐに繋がり、ゆづきさんが迎えに来るそうだ。

「兄さんの言うとおりだったわ。ゆづきさん。声が焦ってた」

「うん。聞こえてたよ」

 スピーカー越しに、声が聞こえていた。ずっと探していたのだろう。

 道路の真ん中で待つのも変なので、近くの公園のベンチで待つことにする。

 御浜さんは外に出ており、こちらにもすぐに来れるようだ。

 十分経たないうちに、御浜さんがやってきた。

 息が上がり、顔から汗も流れ落ちており、ここまで必死に走ってきたのが伝わってくる。

 いつもの制服姿ではなく、Tシャツとジャージのズボンのラフな姿だ。

「落ち着いてからでいいよ。御浜さん」

 顔も真っ赤で呼吸も荒く、必死に話そうとしているが、うまく声が出ないようで、しばらく息を整えていた。

「ちょっと冷たい飲み物買ってくるから」

 硝子に任せて、僕はその場から離れる。服装も急いで探しに出たような感じだった。

 ずっと走り回っていたのだろう。涙も浮かべて、顔もくしゃくしゃだった。そんな姿を僕には見られたくないだろう。

 公園の入り口付近にある自動販売機までくる。

 あまり早く戻りすぎても気まずくなりそうなので、御浜さんの飲み物を買う前に、自分が飲む缶コーヒーを買う。

 封を開けて一口飲む。砂糖の甘味が口の中に広がる。苦味はあまりない種類だった。

 普段は自動販売機で飲み物を買わないし、缶コーヒーも飲まないから適当に買ったが苦手な味だった。

「甘い」

 思わず呟いてしまう。御浜さんは一生懸命だった。髪もボサボサで、碌に着替えも準備せず、履いていた靴も左右違った。

 その姿は、僕にはとても眩しく映った。尊いと思った。参った。自分でも不思議なくらい動揺していて、動揺していることに動揺する。

 家族の為に一生懸命になる人の姿を初めて見た。

 御浜さんの家庭の事情は詳しくは知らない。母子家庭で祖母の世話をしているというくらいだ。放課後は誰とも遊ばずに、部活にも入らずに、すぐに帰宅して、家事をしているという。

 甘口のコーヒーをゆっくり飲み込んでいく。甘さが身体にじんわりと広がっていく。

 御浜さんが落ち着くのを待つ前に、僕も落ち着かないといけなかった。

 

 自動販売機で、スポーツドリンクとお茶を買い、三人の元へ戻る。

 御浜さんのおばあさんは、御浜さんに会ったことで現状を把握出来たようだ。少し落ち込んでおり、二人に謝っているようだった。

「お待たせしました。どっち飲みます?」

 並んでベンチに座っている二人に飲み物を差し出す。

「ありがとうございます。尊さん」

 御浜さんはスポーツドリンク。おばあさんはお茶を受け取った。

 二人の背格好と雰囲気は似通っており、なるほど親戚関係にあると分かる。

「御浜さん。落ち着いたみたいだね」

「はい。ありがとうございます。尊さんと硝子ちゃんが見つけてくれなかったら……」

 その声に明るさはなく、疲労が淀んでいた。

「気にしなくていいよ。見つけたのは僕だけど、誰か分かったのは硝子のおかげだから」

「家に帰って、洗濯して、掃除して、おばあちゃんが帰ってくるのを待って、ごはんの準備をしようと思ったら、寝ちゃって、起きたらおばあちゃんいなくて……」

 それで慌てて外に飛び出したのだろう。自分一人しか家族の面倒を見れなくて、身体の調子が悪いおばあさんを必死に探して。誰かに頼ることもせず、自分一人の力で。

「ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

 さっきから御浜さんは、自分を責めるのをやめない。ここにいない誰かにずっと謝っているかのようだった。

「御浜さん。大丈夫だから、迷惑だなんて思っていないよ」

 僕は本心を口にする。さっさと警察に電話しようとしていたのだ。大したことなどしていない。むしろ、硝子が写真だけの情報で、御浜さんのおばあさんだと分かったのだから。人情味に溢れたいい子だと思う。

 他人様の家庭の事情に、口を出せるほど、僕は人間が出来ていない。自分で稼ぐことも出来ず、親の脛をかじっている子供に過ぎないのだ。無力な自分に嫌気が差すことがある。頭で考えているだけで、実際に行動に移すことなど出来ないのだ。

「そうだ。硝子が貰ったんだけど、僕たち食べないから、よかったら貰ってよ」

 病院でもらったお菓子の袋を、リュックから取り出し、御浜さんに渡す。

 くれた人には悪いが生憎僕も硝子もお菓子を食べない。

「あ……ありがとうございます」

「僕たちもう行くね」

 よく見たら、御浜さんの肩に力が入っており、身体は小刻みに震えていた。いくら温かくなったとはいえ、汗をかいた身体は夜風に当たり、冷えたのだろう。おまけに上はTシャツ一枚と薄着だった。

 僕は制服を脱いで、御浜さんの肩にかけてあげる。臭かったらごめんね。

「嫌だったらごめんね。寒そうだったから」

 あまり面識のない男から上着を借りるのは、女子からしたら思うところがありそうだ。それでも、偽善だと分かっていても、僕はそうしたいと思ってしまっていた。

「嫌だなんてことは……。ありがとうございます」

 御浜さんは俯いてしまって、その表情は窺い知れない。恥ずかしい思いをさせていないことを祈る。

「来週、会ったときに返してくれればいいから」

 僕は他人に感謝されるのが苦手だ。自分がしたいようにして、自分の我儘を押し通しているだけなのに、お礼を言われると、背中あたりがくすぐったくなる。そこに、信念や哲学、思想などないのに。ただのお為ごかしでしかないのに。他人から真っすぐな感情を向けられると、そんな自分が剝き出しになる気がして、恥ずかしくて仕方がないのだ。

 そうやって自分の気持ちからも逃げてきた僕は、他人の気持ちになど目を向けることなど出来ないのだ。自分を顧みることができず、他人と真正面から向き合うこともできず、臆病な僕はこれからもずっと、色々なものから目を背け続けるのだろう。

 逃げ癖のついた自分自身に、嫌気が差したと言いながら、そんな自分に甘えるのだ。

 僕はしばらく後ろを見ることができなかった。行動を起こした結果を確認することが、こんなにも、不安に満ちていた。

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