第3話 相生くんとお友達になれそうだと思うの
帰宅するころには、普段の時間よりは大分遅くなってしまっていた。
明日が休みでよかった。今から家事をすると寝るのが遅くなってしまう。洗濯は明日に回してしまうか。夕食は惣菜を買っておいたので、準備はすぐに済む。
袋に入ったサラダを皿に開け、オリーブオイルと塩で味付けをし、そこにナッツをトッピングする。
値引きシールの貼ってあるパックを開け、あとで温めやすいように惣菜を大皿に盛り付けておく。白米は冷凍してあるものを使えばいい。
そこまで準備をして一息つく。
硝子は帰り道に一言も口を利かなかった。正確に言えば僕ら兄妹は会話が多い方ではない。沈黙している時間の方が長い。僕が硝子の顔を見られなかったし、話しかけることもできなかった。別に後ろめたいことなど何もないのに、硝子の視線が怖かった。
別に御浜さんを口説いていたわけではない。僕には恋愛感情がわからない。他人の好意、敵意、喜怒哀楽を慮ることができないのだ。
眼に見えない何かを信じるのは不安で仕方がない。信じるとは何なのか? そこからの問答になってしまうのだ。自分の感情ですら形にできず、何も見えず、暗中模索なのに、その他大勢の他人の気持ち、感情の機微など解るはずもない。
いつも、見えない何かに監視されている気分になる。そんなものはあるはずないのに、常に一歩後ろから自分を見つめる何かがいるのだ。
「兄さん。お風呂上がったよ」
硝子が声を掛けてくれる。
また考え込んでしまった。一人になると思考の海に潜り込んでしまう。
「ああ。ありがとう」
着替えを用意して、シャワーを浴びる。夜風に冷えた肌に、お湯の温かさが肌を突き刺してくる。そこで僕は自分の身体が冷えていたことを自覚するのだった。
寝床に入り、天井を見上げる。咲峰葵理さん、咲峰理人くん、御浜ゆづきさん、御浜さんのおばあさん。今日は色んな人に会ったし、会話をした。
僕にしては頑張って、他人と関わっていたと思う。
横になるとどっと疲れが湧いてきた。
無意識の内に無理をしていたようだ。僕には人と関わるということは疲れを伴うことらしい。
遥か未来で出会った彼女。
気の遠くなる過去で湧かれた彼女。
この胸に訪れる無色透明な何か。
誰のものでもあり、誰のものでもない顔。
それはとても原始的で、根源的な感情だ。
自分の内側の奥の方に刺さった針みたいに、淡く甘い刺激を与えてくる。
幾億の言葉が尽くせそうであり、その実彼女表現できる言葉が何一つない。
もどかしい。それすらも愛おしく、憎らしい。
僕は彼女に惹かれている。
天使だと言うのならば、僕の願いを叶えてくれるのだろうか。
大事な人を取り戻したい。もう一度会いたい。そんな前向きな望みではなく。ただ、同じ場所に行くことが出来たらいいなと。
瞬間。意識が引き上げられる。現実感を伴い。自分自身を知覚する。
突然、喉の渇きを覚える。妙な現実違和。精神と身体のバランスが崩れ、緊張しているようだ。
寝床から起きて、キッチンへと向かう。水を一杯飲めば、落ち着くだろう。
軽く火照った身体に、冷たい水が身体の隅々に行き渡る。
流しにコップを置く。静かな部屋。話し声が微かに聞こえる。
硝子が誰かと電話をしているようだ。特段大きな声というわけではないが、物音一つしないせいか、よく聞こえてしまう。意図せず盗み聞きするのは、趣味が悪い気がして自分の部屋に戻ろうと———。
「大丈夫よ。お父さん」
その台詞に僕の身体は凍りついてしまった。
「今日は病院に行ってきて。うん。先生は変わりないって。このままひどくならないように。ゆっくり今の生活を続けるようにって。えぇ、兄さんがいるから。家事もほとんど兄さんがやってくれてるから。お父さん。兄さんに変わらなくていいの? そう……。じゃあ、切るわね。また、来週」
そこまで聞いたところで、やっと僕の身体は動いた。自室に入り寝床に戻る。
硝子は父親と話していた。そして僕は、父親と話さない。それだけが事実だ。
物心ついたころから、父親と顔を合わせたことは片手で数えるほどしかない。多分というか、きっと街ですれ違っても気づかないだろう。
僕には親子の情が分からない。もっと言えば、人の情など理解できない。最初から持ってもいないものをどうして信じられるのか。自分自身のことも信じてしないのに、自分以外の誰かが、考えを持って行動をしている。そのことが、そんな当たり前の事実が、恐ろしくてたまらないのだ。
ああ、きっと、今日の夢見はとても悪そうだ。
僕は、病院近くのコンビニで買い物をしていた。
妹の硝子が怪我をした。子供の頃から、母親に連れられてフィギュアスケートの練習に明け暮れていた。毎日休みなく夜遅く、母親の夢とやらに連れ歩かれていた。
そんな中三の冬に、選手生命を絶たれるような大怪我をした。痛む膝を庇いながら、母親に言い出せず、無理を重ね、限界が来た。
食事も制限し、友達と遊ぶのも我慢して、勉強だって碌にしていない。それでも、自分にはそれしかないと、硝子は頑張って走り続けてきた。走り続けて、壊れてしまった。
硝子の右膝は、歩行には耐えられるくらいには回復するとの見立てだ。
裏を返せば、走ることはおろか、競技に復帰することは叶わない。下手をすれば、一生車椅子生活もありえたそうだ。
今は術後の経過を見に診察をしている最中だ。リハビリの相談もしているはずだった。
諸々終わったところで、僕に硝子から連絡が来ることになっている。
デザートでも買っていってあげようと思って、コンビニで待っていた。
僕のスマホが振動した。硝子からのメッセージだろう。診察が終わったのだ。
画面を確認すると、スタンプが押されていた。画面がスクロールし、スタンプで埋め尽くされていく。何か妙だと思った。スタンプ連打などする子ではないからだ。いたずらではないとしたら、僕は駆け出していた。嫌な予感がしていた。取り越し苦労ならそれでよかった。
コンビニから、病院への道路を駆け、病院の駐車場を走り抜ける。心臓が早鐘を打ち、意識が硝子を探し出すために、研ぎ澄まされる。
病院の入り口。車椅子を押されている女の子。俯いて、震えている。車椅子を載せられるように改装された車両に、今まさに乗せられようとしていた。後ろには、眼鏡を掛けた中年男性。高そうなカメラを首から掛けていた。
その光景が目に入った瞬間。僕は、音も光も思考も何もかも置いていった。
右の拳が男の顔を捉えたところで、僕の記憶は途切れていた。
中年男性は、左眼窩底骨折。鼻骨骨折。左肩関節脱臼骨折。両足首捻挫。
僕は、右手中手骨骨折と言われた。
警察での取り調べで分かったのだが、男性のカメラには、硝子の写真が多くあったらしい。硝子以外の写真もあったのだが、ある日を境に硝子の写真が急増していたそうだ。
自動車が車椅子をそのまま乗せられるように改装してあったのは、家で祖母の介護のためだ。家族のためのもので、その家族のための道具で硝子を連れ去ろうとしていたのだ。
僕はというと、相手の男性に大怪我を負わせ、カメラのストラップで首を締めあげようとしていたところで、警備員に取り押さえられた。
そのあとは警察からお𠮟りを受けていた。
「ああいうときは大人を頼って」
「今日はたまたま自分が怪我をしなかっただけで、相手が凶器を持っていたら危なかった」
「相手をあれだけ痛めつけたのはよくないが、勇気ある行動だったよ」
身元引受人である父親。その代理で父親の弟、叔父が手続きにやってきた。叔父は父親に借金があるらしく、いいように使われている。
「兄貴のことを悪く思わないで欲しい」
「実家の後を継ぐために、子供の頃から色々我慢させられてきた」
「俺は自由にしてきた。そのしわ寄せが兄貴に来ていたんだ」
「兄貴に、自由はなかった。勉強も趣味も恋人も結婚も。全て決められてきた」
「兄貴に恋人がいたんだが、無理やり別れさせられた。その子供がお前だ」
「お金持ちの家に生まれて、何不自由ない生活をして、広い豪華な家で暮らして、束縛もされてない」
「お前は十分に恵まれているよ。だから、兄貴の足を引っ張るような真似はしないでほしい」
叔父が何やら語っている。だからどうしたというのだろうか。父親の人生が大変だったから。叔父が自由に生きすぎて、借金やら病気やらしているのも。僕と硝子の母親が違うのも。硝子の母親が僕に一切関わろうとしないのも。何一つ僕の力では、どうにもできないことなのだ。周りの大人に、生み、育てられたことを感謝しろと口々に言われるのだ。僕が生まれる前の事情で、大人同士のいざこざで、僕は何もできない子供で、ただのストレスの捌け口で、だから僕は俯いて、ただひたすら耐えて、こう口にするのだ。
「すみません」
僕に許されているのは謝罪だけだった。生まれてきてすみません。生きていてすみません。息をしていてすみません。ごはんを食べてすみません。勉強してすみません。運動してすみません。遊んでいてすみません。甘えてすみません。存在してすみません。
僕は、誰に対して、何に対して、謝っているのだろう。
スマホに着信が入る。父親からだ。受話器に耳をつける。
「お前は俺がいなきゃ、犯罪者だったな」
分かっていた。硝子を助けたことなど、あの人にとってはどうでもいいことだったのだ。
僕たち兄妹は、引っ越しをすることになった。僕は転校。硝子は受験校の変更。スポーツ推薦でいけるはずだった学校への入学も流れてしまった。
オートロック、エレベータ、バリアフリー付きのマンションに住むことになり。実家を離れることになった。
地元の病院で、事件を起こし、巻き込まれた僕たちは好奇の視線に晒されていた。
硝子のストーカーが住んでいた場所も近かったので、引っ越しをすることは何もかも都合が良かった。
身体が重い。頭が泥に詰まっているかのようだ。悪い予感は当たっていた。
夢見は悪いし、一週間の疲れが溜まっている。今日は休みでよかった。身体は稼働することを拒否しており、布団に貼りついて動けない。最近、身体が言うことを利かない。
平日であれば、遅刻していたかも知れない。起きたくないのではない、起きられないのだ。
硝子はもう起きているのだろう。掃除機をかける音がする。
もしかして、昼を過ぎているかも知れない。部屋は明るい。
このままだと、夕方まで起きられない。そんな気がして、無理矢理身体を起こす。
疲労感が抜けず、常に身体に滞っているようだ。だからと言って寝てばかりはいられない。僕も家事をしなければいけない。
布団を畳んで、洗面所で顔を洗う。それからリビングへ。
硝子が掃除機のスイッチを止めて、僕に挨拶をする。
「おはよう。兄さん。今日は遅かったね」
「おはよう。硝子。ごめん。掃除してくれてたんだね」
「いいのよ。兄さんばかりに負担かけてられないし」
硝子は気にする必要はないと言ってくれる。
「最近、寝起きが悪くて、体調は悪くないはずなんだけどね」
怠け癖がついてしまったのだろうか。本能が休息を求めているようだった。
「そう……。朝ごはんの余りだけど、食べる?」
もう昼になろうかという時間だが、不思議と空腹感はない。
「ありがとう。少しもらうよ」
硝子がせっかく用意してくれたのだし、食べることにする。
「兄さん。駅前に買い物に行きたいの」
「わかった。すぐに準備するね」
硝子はサラダを食べていた。相変わらず食べるものに気を付けている。習慣などそう簡単に変わるものではない。
朝兼昼食を摂り、外行きの洋服に着替える。黒色の薄いジャケットに、白いTシャツ、黒いジーンズ。洋服はこれ二着しかない。夏は上を脱ぐだけで、冬はコートを着るだけで、衣替えが済むのだから、効率がいい。
硝子は春用ニットの青いトップスに、黒のスキニージーンズ。スラっとしている硝子によく似合っていた。
家を出て、バスに揺られて、駅前までやってくる。
土曜日はこうして駅前の大きいデパートまで出てくる。
競技を辞めた硝子の趣味は読書になった。日曜日は買った本を読んだり、勉強したりする時間にあてている。
洋服、雑貨、本屋を見たりして過ごす。
家族連れやカップル、友達同士と人通りが多い。
休日特有の活気に満ちた雰囲気。
僕は、飲み物を片手に、ベンチで休憩をしていた。硝子は本屋で物色している。こうなると硝子は、一時間くらい本屋に滞在している。見るもの全てが真新しく見えるらしく、広い本屋を一周するまでは戻ってこない。
行き交う人たちは、皆笑顔で幸せそうだ。幸福に満ち、幸せを噛みしめている。しかし、その裏では一人ひとり、悩みや苦しみ、不幸、葛藤を抱えているのだろう。
それでも、自分の役。父親の仮面、母親の仮面、長男の仮面、長女の仮面、祖父の仮面、祖母の仮面、自分に与えられた社会的役割を従順にこなしている。
僕は自分が世界で一番不幸で、世界中の悲しみを一人で背負っている。そんな顔をしていると、思いあがっていると言われたことがある。
そんなことを言われても、僕は自分の表情など見えない。気づけない。感情の振幅を把握出来ない。
読みかけの本でも持ってくればよかったかなと、僕は往々にして行き当たりばったりである。後悔をしつつ、新しい本を買うか、でも無駄遣いはやめておこうと葛藤していると、クラスメイトの姿が目に入ってきた。
「こんにちは、相生くん。奇遇ね。隣いい?」
咲峰葵理さんはもう既に隣に座っていた。紺色のロングワンピース。黒のショートブーツ。ベージュのカーディガンを羽織、帽子を被っていた。柔らかな柑橘系の香りが漂ってくる。
「こんにちは。咲峰さん。僕は、妹の買い物の付き添い」
「あら、いいわね。私は理人に頼まれて漫画を買いに来たのよ。誘ったのに面倒だって。出掛けるならついでに買ってきてだって」
紙袋を見せながら、微笑んでくる。いつもの制服姿と違い、大人っぽい雰囲気だ。長身の彼女が高そうな服を着て、笑顔を浮かべると、それはファッション誌の一枚のように、僕の瞳に写る。
やはり僕には彼女の姿が現実感を伴って見えてこない。失礼ながら、空想上の生き物、男の理想を演じているに過ぎないと感じて仕方がないのだ。
好意、嫌悪、そのもの以前の問題なのだ。同じ土俵に立てていない感覚。分厚い透明な壁に阻まれているような……。
「相生くんは漫画読まないの? 理人はゲームと漫画ばかりで」
「僕は読まないね。よくわからないんだ」
登場人物の心情だったり、セリフだったり、ストーリーの流れが分からず、読むのを諦めてしまう。
作者が悪いわけだはないのだ。文脈とか、キャラの表情が、どうしても理解できない。
理解できないからこそ、読み続けている面もある。
「ふぅん。相生くんって。休みの日は何してるの?」
その目は実験動物を観察する目をしていた。柔らかそうな瞳の奥に、一瞬鋭さが宿る。
「何って、家事をして、勉強して、あとはだいたい昼寝かな」
改めて聞かれると、僕の無趣味を露呈させられているようで、気恥ずかしくなる。
「大変ね。足の悪い妹さんを見ながら、家のことも頑張っているのね」
なんだろう。普通の質問のはずなのに、その奥には憐れみが含まれているような。勿論そんなものは勘違いで、被害妄想で。僕は咲峰さんに話しかけられると、居心地の悪さを覚えてしまう。
そんな咲峰さんは両親のことは聞いてこない。触れられたくない部分だと察しているのだろう。
視線を感じる。通り過ぎる人々は、咲峰さんに目を奪われている。彼女も人から見られることを意識して、完璧に演じ切っていた。
なぜ彼女は僕に構うのだろう。ただのクラスメイトで、一カ月前に転校して来たばかりの、知り合い以下の男に話しかけてくる理由が分からない。
休日のデパートに、わざわざ隣に座って、何が目的なのだろうと勘ぐってしまう。間違っても好意を抱かれていると思ってはいけない。
「私ね。相生くんとお友達になれそうだと思うの」
僕の疑問を見透かしたかのように、そんなことを彼女は口にした。
それが文字通りの意味とは捉えられない。本音はどこにあるのだろう。
「あら、信じてないのね」
どうやって答えるのが正解なのだろう。人付き合いはかくも難しい。今まで生きてきて初めてそんなこと言われた。人の裏ばかり、読もうとするのは悪い癖だ。
信頼、信用、というものはコップに満たされる水のようだと思う。信頼、信用できるかの判定がコップ内のどこかにあるはずなのだ。僕はそのコップの底が抜けてしまっているようだ。いくら他人から水を注がれても、全て漏れてしまうのだ。
「本当よ。私には目的があって、私と相生君は似ていると思うの」
そういう彼女の表情は、やはり学校で見るのと変化がない。たかが一カ月、されど一カ月。彼女にそう確信させる何かがあったのだろう。
「咲峰さんみたいな美人で、頭のいい人に、友達になりたいなんて、言われたことないから、光栄だな」
そもそも友達すらいたことないよ。友達ってどうやって作るの? 作れるものなのかしら。愛と勇気だけが友達なヒーローもいるが、僕には愛と勇気すらない。友達ってなんだ?
「心がこもってないわよ。でも、うれしい。ありがとう」
言われ慣れているのだろう。ただの事実の確認のようにあっさり流される。
「お礼にお茶でもどうかしら。カフェで呪文みたいなメニューを一緒に読んでほしいの」
早く硝子来ないかなぁ。今まで人付き合いをサボってきたツケが回ってきている。上手な断り方が思いつかない。
「心底興味がなさそうな顔、新鮮でいいわ」
咲峰さんも人のことをあまり言えないと思う。興味がないのはお互い様な気がする。
「どうして僕なのかなって」
咲峰さんは、常に人に囲まれていて、友達もたくさんいるように見える。
わざわざ僕なんかに絡まなくてもいいだろう。ここはひとつ、電話がきたふりをして席を外そう、そうしよう。ポケットに手をいれ、スマホを取り出す。
「あ、ごめんね。電話だ」
スマホに耳に付け、席を立つ。
「兄さん。お待たせ」
硝子が、リュックを重たくさせてきた。いっぱい買ったなぁと、感心していると……。
「こんにちは。硝子さん。読書好きなのね」
咲峰さんが硝子の隣に立っていた。
「葵理さん、こんにちは。奇遇ですね」
田舎の学生が休日に行くとこなんて限られているが、偶然出会う確率は低いだろう。美人二人が並んでいると絵になるなぁ。僕いらないんじゃないかなぁ。硝子に任せて、食品売り場で晩ご飯の材料を買ってこよう、そうしよう。
「じゃあ、あとは若い二人に任せて」
「なに言っているの? 兄さん」
硝子は呆れた表情をしている。あまり変なことばかり言っていると、そろそろ見放されそうだ。
「なんでもない。夕ご飯の材料買って帰ろうか」
硝子の買い物が終わるまで待っていただけだ。
「待って。硝子さんも一緒にお茶でもどうかしら? 私、友達いなくて」
呼び止める咲峰さん。本当に行くつもりだったのか。あまり邪険にしすぎるのもよろしくないかしら。でも、知らない人についていっちゃいけないって。死んだ母さんに言われている。会ったことないけど……。最近、余計なことばかり考えている気がする。
「いいですけど。兄さんは?」
決定権は僕にあるみたいだった。硝子は寄り道してもいいみたいだ。
「いいよ。じゃあ、行こうか」
「…………。よかった。いきましょう」
咲峰さんがなにか言いたげな眼差しを向けてくるが、気づかないふりをしよう。
建物内にあるカフェに三人で向かう。先に二人が歩いて、僕は後ろをついて歩いている。
二人は目を引く美人だと思う。実際すれ違う人々の視線は集めていた。今のうちにはぐれてしまえば、気づかれないのでは? ちょっと歩く速度を緩めて……。硝子が振り返る。駄目ですかそうですか。硝子にはお見通しだった。
「兄さん。迷子になっちゃうなら手を繋ぎましょうか」
「あ。いえ、すみませんでした」
うーん。お家帰りたい。こんなにもお家が恋しいとは。自分でも不思議なのだ。どうしてこんなにも咲峰さんに対して警戒心を抱いているのか。
カフェの座席は、休日のおやつ時にしては空いていた。
二人はもう注文を終えていた。なんか呪文みたいなの唱えていた。メニュー見ても注文出来ないのは僕が悪いのか? インドアで田舎者の僕にはハードルが高かった。何を頼んでいいか分からん。
「兄さんはホットコーヒーでいいわよね」
さすが妹。僕の分の注文も済ませてくれていた。聞きなじみのない言葉だらけで、困惑してしまった。僕にはオシャレはまだ早いらしい。
テーブル席に、咲峰さんと硝子が並んで座る。美少女二人が僕の目の前で、とても甘そうな飲み物を飲んでいる。とても絵になる光景なので、写真にでも収めたいところだが、被写体に了承を得る勇気はない。なので、脳裏に焼き付けておこう。数日したら忘れそうだけど。
僕の場違い感が際立ってしまう気がする。被害妄想なのは理解しているが、周囲から浮いている。自分の存在が線で囲われ、切り取りやすいようになっているようだ。風船でも括り付ければ空でも飛べるかも知れない。
「聞いてる? 聞いてないわね」
硝子がジト目でこちらを見ていた。バッチリ聞いていないのがバレている。文字通り上の空だった。コーヒーを一口。苦くておいしい。
「ごめんね。二人の邪魔しちゃいけないと思って」
「なに言っているの。主に兄さんの話してたんだけど」
「え、そうなの? どんな話してたの」
怖いなぁ。悪口言われていたらどうしよう。恥ずかしくて、もう学校に行けないかも。
「クラスでの兄さんの様子」
硝子が薄く微笑んでいる。見透かされたかのような視線に居心地が悪くなる。そうなの。君の兄さん、常にボーッとしているの。
「相生くん。転校してきて、あんまりクラスで話さないから。早く馴染めたらいいなって」
咲峰さんの眉尻の下がった笑顔。申し訳ない。人見知り故、許してほしい。
「多分。慣れたころに、寂しくなって自分から近寄ってくるから、それまでは、あまり構いすぎない方がいいんですよね」
妹よ。それはあんまりな言い草じゃないだろうか。反論できないけど。人のことを野良猫みたいに言っているが、君も似たようなものだからね。
「あはは。善処します」
僕の人生は、他人から心配をしてもらうことなどなかった。でも、それは勘違いで、もしかしたら気付かなかっただけなのかも知れなかった。
そこまで考え、足が竦んでしまう。崖の先に立つように、あと一歩で海底に転落する錯覚を抱いてしまう。どこまでいっても臆病なのだ。
他人がどれだけ優しくとも、どれだけ手を差し伸べてくれようとも、僕はその手を掴めずにいる。
「相生くんと、硝子さん兄妹仲良くて、羨ましいわ。何か秘訣でもあるのかしら」
「私と兄さんって仲いいのかな?」
「ええ、とても。私も理人と一緒にお出掛けしたいわ」
僕たち兄妹は普通にしているだけだと思う。他人様の家庭の事情など知らないのだから、何が普通かは分からない。普通の家族関係すら理解できないのだから対処に困る。
僕も硝子も、父親、母親、その他大勢の大人の事情で。今の生活があるのだ。
自分で稼いで、自分で住居を買うなり、借りるなりして、家具を買い、家電を買い、寝具を買い、光熱費を払い、水道代を払い、税金を払い、スマホ代を払い、食事代を払い、その全てを他者に依存している今の状態は、他人に命を握られているのだ。
「理人って、私のこと邪険にするのよね。全然構ってくれなくなっちゃって。一緒に出掛けることもなくなったわ」
「綺麗なお姉さんだから、照れてるんじゃないですかね」
思春期の男子は往々にして、そんなものだと聞いた。訳もなく、この世全てに反抗したり、ニヒリズムに染まったり、ペシミストになったりするものだと、師匠に教わった。師匠は小さい頃の僕に何教えてんですかね。
「あら、ありがとう。相生くんも落ち着いていてかっこいいと思うわよ」
ただの暗い人を一生懸命褒めている感がしてなんともモヤモヤする。勿論僕の思い込みで、性格が悪いだけである。言葉を素直に受け取れなくて申し訳なく思う。思うだけで改善に兆しが一向にないのは残念な事実。
「よかったじゃない。変な兄さんをちゃんと見てくれる人がいたじゃない」
妹よ。君も変だと思っていたのね。変な兄さんでごめんね。
「いやあ。こうえいだなぁ」
コーヒーを一口。中身がもうなかった。彼女たちは、まだ飲み終わりそうになく。僕はもう一杯飲む気はしない。
なんとも気まずい時間が流れる。僕はこの場から逃げ出したい気持ちに駆られる。具体的には、晩ごはんの買い物がしたい。
女の子二人で楽しそうに話をしている。化粧品、洋服、アクセサリー、趣味の話。その光景を眺めているだけで時間が流れていった。
まあ、買い物を後回しにして、何もしない時間も大切なもの。そう思えただけで、この時間は貴重なものだったのかも知れない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます