第1.5話 尊の優しさは、あたしを助けたよ

 僕の師匠は変な人だった。

 実家に住んでいたころの僕は、ずっと一人だった。

 厳密にいうと、勿論一人なわけはない。それでも、僕は一人だったと言いたい。

 父親は、ずっと家にいなかった。

 母親は、硝子を連れて歩いていた。

 硝子にはフィギュアスケートの才能があった。毎日夜遅くまで練習していた。

 僕は、広い家に一人。

 その頃の記憶があまりない。家は常に綺麗だったような気はする。母親は家事をするタイプではなかったはずだが。

 多分、お手伝いさんでも雇っていたのだろう。

 綺麗な洋服、おいしい食べ物、豪華な住処。何も不満に思うことはなく。ただ漠然とした孤独に包まれていた。

 友達もおらず、家に居た僕は、よく外に出かけていた。冒険のつもりだったのだろう。両親からの課題さえこなしていれば何も言われなかった。いかに早く課題をこなし、自由な時間を確保することに注力していた。

 そんないつもの冒険の一幕。リュックに、スポーツドリンク、菓子パン、ポテチを詰め込んで、遠くを目指して歩いていた。

 僕は不思議な人に出会った。どこまでこの道は続くのかなとひたすら山道を歩いていた。そこで仰向けに倒れている女性がいた。

 髪はボサボサ、服はボロボロ、お酒とタバコのにおいがする女性だった。

 なぜ声を掛けたかはわからない。たぶんこのころの僕に人の心が残っていたのだろう。放っておけないと思った。

 女性に飲み物と食べ物をあげた。お腹が空いて、動けなかったらしい。

 リュックの中身がなくなった僕はその日の冒険を切り上げた。

 来週も同じ場所に出かけてみると、女性が同じ場所で座って待っていた。

 髪と洋服は、綺麗に整えられ、お酒とタバコのにおいもしなかった。

 年齢は母親より下に見えた。初めて会った時と別人かと思ったほどだ。

 助けてもらったお礼をしたいと言われたので、僕は願いを口にした。

 ——————強くなりたい。

 その時からその女性は、師匠になった。

 

 そこから一年、師匠との不思議な交流だった。

 身体の鍛え方、掃除、洗濯、料理の仕方、色々教えてもらった。師匠はいいとこのお嬢様だったと言っていた。嫁ぐために必要だったらしい。

 何かの格闘技も全日本までいったことがあるとか。

「尊、なんで強くなりたいんだ」

 師匠の元に通い始めて一カ月。唐突に師匠に聞かれた。

「僕はね。いい子でいなきゃいけないんだって」

「お前の着ている服も、毎日飢えずにいるのも、雨風凌げているのも、全部俺のおかげなんだから」

「お前は、俺の言うことを聞かなければならないんだって」

「約束を守れないんだったら、家から出ていくしかないんだって」

「お父さんの言うことちゃんと守らないと、お母さんに怒られるから」

「迷惑なんだって、だから泣かないようにしないと」

「だから、ちゃんと約束守れるように、強くなりたいんだ」

 僕は一気に喋っていたと思う。順番も理屈もぐちゃぐちゃで。

 それでも、師匠はちゃんと聞いてくれた。

 僕の拙い言葉も、僕の幼い願いも茶化さず、受け入れてくれた。

 僕はその日初めて、他人の胸の中で泣いていた。

 話して、涙を流して、言葉にならない言葉で、心を吐露していた。

 

「わたしにも、尊くらいの娘がいてね」

 半年くらい経った頃、師匠が唐突に切り出した。

「駆け落ちしてさ。実家が息苦しくて、連れ出してくれた人がいてさ」

 空を眺める師匠の目は、どこか遠くにあった。

「でも。別れちゃった。ケンカばかりしてね。お互い子供だったんだろうね」

 男は、師匠と娘を置いて出ていき、住む場所のなくなった師匠は実家を頼った。

「お役所がそういうんだから、仕方ないよねぇ」

 娘は実家に預けられ、師匠は今のこの家に住むことになった。

 小さな山の上にある一軒の平屋。師匠はそこから一生出られないと言っていた。

 寂しそうに、そのままどこか消えてしまいそうな師匠を繋ぎとめておきたくて、僕は手を繋いでいた。

「ありがとう。尊は優しいね」

 初めて僕が存在することを認められた気がした。


 師匠と出会って数年。僕は中学生になって、師匠とも長い付き合いになっていた。日々痩せていく師匠のことは気になっていたが、この先もずっとこの関係が続いていくのだと無条件に信じていた。

 だけど突然、別れを告げられた。

 治らない病気で、これから入院しなければならないこと。もう二度と僕と会えないことを告げられた。

 僕は黙ってずっと師匠の話を聞いていた。

 この家に住んでから、ずっと引きこもって家に居たのがよくなかった。お酒とタバコがやめられず、自堕落で、不摂生な生活を長年続けていた身体は、いつのまにか病に蝕まれていたらしい。

 僕と出会った日。あの日に師匠は病気を宣告された。家族とよく話して治療方針を決めてと言われた師匠は、当てもなく彷徨っていた。色々諦めて家に帰る途中で力尽きてしまったらしい。

 そこで冒険中だった僕がたまたま通りかかったのだという。

 自分の子供と同じくらいの年の子が、自分を心配してくれて、助けようとしてくれた。

「尊。ありがとう、あの日助けてもらえたから、いまここにいるんだ」

 僕は既に泣いていたと思う。感情が溢れ、抑え込もうとすればするほど制御を失う。

「ごめんね。言い出せなくて」

「尊の優しさは、あたしを助けたよ」

「尊の優しさを利用して、母親らしいことをして見たかったんだ」

 僕には、師匠の言っていることがよくわからなかった。わかろうとしてなかった。

 頭の中がぐるぐるしていて、怒りと悲しみと、師匠との楽しかった思い出が混ざり合って、よくわからない塊となって、僕の頭に滞っていた。

 僕はよくわからない塊から逃げるように、走り出した。目の前の師匠から逃げ出した。それでも、いつまでたっても、塊は離れない。そうだ。その塊は自分の中にあるのだから、逃げられるはずなかったのだ。

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