第11話

夜の静けさは、昼間のざわめきを嘘のように消し去っていた。

パソコンの画面にだけ光が灯り、机に突っ伏す悠真の影を長く伸ばしている。

モニターには、途中で止まったデジタルイラスト。

色は塗りかけのまま、キャンバスには静止したキャラクターがこちらを見ていた。

けれど、もう何分もペンは動いていない。

ペンタブに添えられた手は冷え、頭の中は教室での出来事がぐるぐると渦巻いていた。


──咲の涙。

──紅葉の揺れる瞳。

──「もう、全部話すよ」と口にした自分の震える声。


深呼吸をしても、胸の奥のざわつきは消えなかった。

どちらの瞳も、脳裏に焼き付いて離れない。


「はぁ……どうすりゃいいんだよ……」


ため息が、夜の部屋に静かに落ちた。


そんな時、机の端に置いたスマホが震える。

画面に浮かんだのは、見慣れた名前。咲。


『少し、話せる?』

短い文面。それだけで胸が締め付けられた。

けれど、返信しようとした指は空中で止まる。

未読の通知がもう一つ、画面に残っていた。

紅葉からのメッセージ。


『今日のこと、私のせいだよね。ごめん』

どちらの想いも真っ直ぐで、重くて、苦しかった。

手のひらに汗がにじむ。どう返せばいいのかわからない。

窓の外に目をやると、春の夜が静かに広がっている。

街灯の明かりがぼんやりと滲み、遠くで犬の吠える声が微かに聞こえた。

カーテンを揺らす夜風はやけに冷たく、孤独を強調するようだった。


「……俺は、どうしたいんだ」


呟いた声は、部屋の中に吸い込まれ、やがて玄関のチャイムの音に掻き消された。

こんな時間に? 胸騒ぎが走る。


足音を忍ばせながら玄関に向かうと、ドアの向こうに立っていたのは――咲だった。

制服のまま、薄手のパーカーを羽織っただけの姿。

夜風に髪を揺らし、濡れた瞳で必死に笑おうとしている。


「……ねぇ、少しだけでいいから、そばにいちゃだめ?」


その一言が、悠真の胸に静かに落ちた。


「……咲……こんな時間に……」


「ごめん。でも、どうしても悠真くんに会いたくなっちゃって」


小さな声は震えていて、目元は赤く腫れていた。

昼間、あの教室で流した涙の続きが、まだ彼女の心に残っているのだとすぐにわかった。


悠真は一瞬迷ったが、結局、ドアを開けて咲を中に招き入れた。


リビングに入った瞬間、咲は小さく深呼吸をした。

ほっとしたような、その姿が痛々しいほど愛おしく見えた。


「……さっきのメッセージ、返事しようと思ったんだけど……」


「ううん、いいの。こうして来ちゃったから」


ぎこちない沈黙。

時計の針が静かに時を刻む音だけが、部屋に響いていた。


やがて咲がぽつりと呟いた。


「悠真くん……私ね、今日、ほんとは怒ってたんだ」


「……怒ってた?」


「うん。だって、ずっと何も言ってくれなかったでしょ。

 私だけ置いてけぼりで、知らないうちに紅葉さんとも仲良くしてて……」


俯く肩が小刻みに震える。

悠真は何か言いかけたが、咲はそのまま続けた。


「……でも、今はもう、怒ってるより……怖いの」


「怖い?」


「悠真くんが、私の知らない方に行っちゃいそうで……」


その言葉に、胸が強く締め付けられた。

幼馴染だからこそ、何も言わなくても通じると思っていた。

でもそれは、思い上がりだったのかもしれない。


悠真が何か答えようとした、その瞬間。


玄関のチャイムが、もう一度鳴った。

二人とも、ピクリと肩を震わせる。


「……誰だ?」


恐る恐るドアを開けると、そこには――紅葉が立っていた。

長い髪を夜風になびかせ、困ったように笑う彼女。


「ごめんね……やっぱり、直接謝りたくて」


リビングに戻ると、咲と紅葉の視線がぶつかった。

火花のような沈黙が落ちる。

夜の静けさが、三人の鼓動をはっきりと浮かび上がらせた。

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