第9話

 中原咲に呼び出されたのは、放課後の図書室だった。

 窓の外では、沈みかけた太陽が校庭をオレンジに染めている。

 静まり返った空間に、心臓の音だけが響く気がした。

「……来てくれて、ありがとう」


 咲は本棚の影に立ち、視線を落としたまま言った。

 声は小さいのに、胸の奥に突き刺さる。


 悠真は、何を言えばいいのか分からなかった。


 しばらくの沈黙の後、咲が口を開いた。

「悠真……この春休み、何してたの?」

 問いかけは、淡々としているのに、まるで糾弾のように重かった。

「えっと……絵の仕事が多くて、家にいることが多かったかな」


 正直に答えると、咲は小さくうなずいた。

 けれど、その指先は制服の裾をぎゅっと握っている。


「……じゃあ、あの日、本屋にいたのは……偶然?」


 その一言に、呼吸が詰まった。

 やっぱり見られていた。


「……ああ、偶然だよ。俺も驚いた」


 必死に声を整えると、咲はほんの少しだけ笑った。

 けれど、それは泣きそうな笑顔だった。


「……そっか、偶然なんだね。

 悠真は、すごいね。絵も描けて、仕事もあって……

 でも、私には何も言ってくれなかった」


 最後の言葉が、刃のように突き刺さった。


(……言えなかっただけだ。嫌だったわけじゃない)

 喉まで出かかった言葉は、結局声にならなかった。

 罪悪感と自己嫌悪が絡み合って、胸が苦しい。


 咲は小さく息を吐いた。

「……ごめん、こんなこと言うつもりじゃなかったんだ」


 そう言って、彼女は立ち去った。

 追いかけようとしても、足が動かない。


 図書室の静寂だけが、悠真を包んだ。


 帰り道。

 風が頬に冷たく当たる。

 胸の奥はずっと重いままだった。

(……どうして、ちゃんと話せないんだ)


 スマホが震えた。

 画面には「白井紅葉」の名前。


 恐る恐る開くと――


『明日、部活の後に寄り道しない? 桜、もう散っちゃう前に見たくて』

 紅葉の無邪気な誘いに、胸の奥がざわめく。

 まるで彼女だけが、何も知らない世界にいるみたいだ。

 翌日の放課後、校舎裏の桜並木。

 紅葉は花びらを掬うように手を伸ばしていた。

「……きれいだね。悠真くん、こういうの、絵に描きたくならない?」


 振り返った彼女の笑顔は、光に透けるみたいだった。

 その眩しさに、罪悪感が一層膨らむ。


「……描きたくなるよ」


 精一杯、笑ってみせたけれど、心の奥は苦しいままだ。


(……俺は、何をしてるんだ)


 紅葉の横顔と、昨日の咲の泣きそうな笑顔が、何度も重なった。


 夜。

 机に向かっても、ペン先は紙の上で止まったまま。

 作業の締切は迫っているのに、頭は真っ白だ。

 咲の言葉が、何度も胸の奥で反響する。


『私には何も言ってくれなかった』

「……っ」

 気づけば、拳をぎゅっと握りしめていた。

 このままじゃ、全部失う。


 けれど――どうしたらいいのか、分からない。

 幼馴染も、静かな安らぎも、全部が遠ざかっていく感覚だけが残った。

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