第8話

春休みが終わり、新学期が始まった。

朝の教室は、新しいクラス表を手にした生徒たちで騒がしい。

笑い声と、名前を呼ぶ声が入り混じる。

蒼井悠真は、窓際の席に腰を下ろしながら、心のどこかでため息をついていた。


(……あの日以来、咲とはほとんど話してない)


あの日――駅前の本屋での偶然。

咲が立ち尽くしたあの瞬間が、何度も頭をよぎる。

彼女の笑顔は、笑っているのに泣きそうで、見ていられなかった。


「悠真、クラス一緒だね」

背後から声がして振り向くと、中原咲が立っていた。

胸が一瞬、ほっと緩む。


けれど――


「……うん、よろしくね」


短い言葉だけ残して、咲は別の友達の輪に加わってしまった。

いつもの自然な笑顔じゃない。

それが胸に刺さる。


昼休み。

新しい教室の窓から、春の光が差し込む。

悠真は弁当を広げながらも、箸が進まなかった。

咲は向かいの席で、友達と楽しそうに話している。

けれど、ときどき視線が合いそうになると、すぐに逸らされる。


(……避けられてるよな、完全に)


罪悪感が胸を締めつける。

自分は何をしているんだろう。


その日の放課後。

悠真は、人気の少ない廊下を歩いていた。

作業の依頼が来ていたことを思い出し、早く帰って絵を描きたいはずなのに、足取りは重い。

「……蒼井くん?」


振り返ると、白井紅葉が立っていた。

夕焼けを背にしたその姿は、まるで絵から抜け出たみたいに静かだ。


「新学期、どう?」


「……まあ、普通かな」


つい曖昧に答えると、紅葉は少しだけ首を傾げた。


「顔色、あんまりよくないよ。もしかして……中原さんと、何かあった?」


ドキリとする。

図星すぎて、言葉が詰まった。


紅葉は一歩、近づいた。

「この前の、本屋のこと……気にしてるんでしょ?」


悠真は小さくうなずくしかなかった。


「……あれ、咲に悪いことしたよな」


紅葉はしばらく黙ったあと、静かに言った。

「でも、蒼井くんは悪くないよ。偶然だったし……それに、わたしは楽しかった」


その言葉が、胸に落ちた瞬間――不思議と余計に苦しくなった。


夜。

机に向かい、ペンタブを握る。

依頼の作業を進めなきゃいけないのに、線が思うように引けない。

視界の端に、通知が光る。

スマホの画面に「中原咲」の名前が浮かんでいた。


指が震える。

勇気を振り絞って開くと――


『明日、少し話せる?』

心臓が跳ねる。

けれど同時に、胸の奥に冷たい不安が広がった。

(……話すって、何を? まさか……)


翌日の朝、校門前で咲を見つけた。

彼女は制服の袖を握りしめながら、少しだけうつむいている。

「……おはよう、悠真」


久しぶりに向けられた声。

それだけで胸が熱くなるのに、次の瞬間、言葉に詰まった。


「……昨日のこと、話したいの」


その瞳はまっすぐで、逃げ場がなかった。


悠真は、胸の奥で警鐘が鳴るのを感じていた。

彼女とちゃんと向き合わなきゃいけないのに、怖くて仕方がない。

紅葉との静かな時間と、咲との幼馴染としての時間。

両方を失う未来が、ふと頭をよぎる。


(……逃げたくないけど、どうすればいいんだ)


春の風が吹き抜ける校門前で、悠真の心臓だけがやけにうるさく響いていた。

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