第5話

春休みも残りわずかになった午後。

薄曇りの空から、かすかに光が差し込んでいる。校舎の影は柔らかく伸び、風は少しだけ冷たさを残していた。

蒼井悠真は、校舎の裏道を歩いていた。

理由は特にない。家に籠もって作業ばかりしていると、たまに無性に外の空気を吸いたくなる。

手には、最近よく持ち歩くスケッチブック。構図のアイデアが浮かんだら、すぐ描き留めるのが癖になっていた。


「……このままだと、春休み終わっちまうな」


ぼんやり呟きながら歩くと、足が自然と学校の図書室に向いていた。

休み期間はほとんど人気がなく、静かな空間が広がっている。

集中したいときや、何も考えずに落ち着きたいとき、ここに来るのは昔からの習慣だった。


ガラガラ……とドアを開くと、案の定、人影はまばら。

そして、その中に――


長い黒髪を背に垂らし、窓際で本を開く少女の姿があった。

白井紅葉。


まるで、静寂そのものが彼女を中心に存在しているかのようだった。

頬に落ちる光が透けて、白い肌をより際立たせる。


「……」


悠真は、少しだけ足を止めた。

声をかけるか、迷う。

でも、心臓は勝手に速くなる。


椅子を引く音が響くのが妙に大きく聞こえる中、彼は紅葉の斜め向かいに腰を下ろした。


ページをめくる音だけが続く。

その沈黙が苦しいのか、心地いいのか、自分でもわからない。


やがて、紅葉がゆっくり顔を上げた。


「……あなた、この前も図書室にいましたよね」


黒い瞳が、真正面から悠真を捉える。

低く落ち着いた声に、胸がどくりと跳ねた。


「あ、ああ……。たまに、ここで絵の構図考えたりしてるから」


「絵、描くの?」


「まあ……ちょっとだけ。趣味みたいなものかな」

(副業の話は、今はまだ言わないでおこう)


紅葉はわずかに目を細め、スッと視線を窓に向けた。

外の曇り空を映すその横顔は、氷のように静かで、美しかった。


「……絵を描く人は、よく人を見てるのかと思って」


「人を、見てる……?」


「ええ。視線とか仕草とか。そういうのを、ちゃんと覚えてる感じがする」


その言葉に、悠真の胸が少しだけざわめく。

確かに、自分は人を観察する癖がある。特に、彼女のような人なら尚更――。


「白井さんは……よく、こうして本読んでるの?」


「うん。家にいても退屈だから」

紅葉は淡々と答えるが、その指は本の端をそっと撫でていた。


「物語の世界にいる方が、楽だからね」


静かな声。けれど、その奥にほんのかすかな孤独を感じた。

悠真は、何か言いたくなったが、結局言葉にできない。


夕方になり、図書室を出たとき、紅葉がふと立ち止まった。

「……じゃあ、また」


短い一言を残し、風に髪を揺らして去っていく。

悠真はその後ろ姿を目で追いながら、なぜか胸の奥に熱がこもるのを感じていた。


その帰り道、スマホに通知が入った。

送り主は――中原咲。


『ねえ、明日ひま? ちょっと遊ばない?』

画面を見た瞬間、心臓が二重に跳ねた。

幼馴染の誘いが、こんなにも意識に触れるなんて思っていなかった。

咲と過ごす時間は心地いい。

でも、紅葉と過ごした静かな時間は、胸の奥をくすぐるような不思議な熱を残した。


自分の中で、何かが少しずつ変わり始めている――。

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