第1話

 昼下がりの校舎は、どこか気だるくて、廊下の窓から射す光が床に長い線を描いていた。授業中の静けさの中に、微かな足音だけが響く。


 幾夏(きか)は、静かに校舎へ入ってきた。制服ではない。ごく普通の、何の変哲もないTシャツとジーンズ姿。髪は以前のまま、肩までのストレート。派手でもなく、浮くわけでもなく、それでいて学校の空気とは少しだけズレて見える。


 通い慣れたはずの廊下を、彼女はまるで“見学者”のように歩いていた。目線は少し泳ぎながらも、どこか確かな意志を帯びていて、途中、窓際に立ち止まっては外を眺め、何かを確かめるように息をついた。


 やがて彼女は、2年U組の教室の前で立ち止まった。


 中では授業が進行中だった。教師の声がぼんやりと漏れ聞こえる。幾何はそっとドアの小窓を覗き込む。視線の先にいたのは、八音(やね)。


 八音は、真っ直ぐ前を向いていた。背筋を伸ばし、ノートを取りながら授業を聞いている。以前と変わらない姿だったが、幾何はどこか安心したように微かに笑って、小さく手を振った。


 それに気づいたのは、八音ではなく教師だった。


「八音さん、外にお友達来てるよ。行ってきなさい」


 黒板の前から、そんな柔らかい声が飛ぶ。


 教室の中で数人の視線が一斉に八音へ向いたが、八音はそれらに反応せず、淡々とペンを置いて立ち上がる。無言で扉を開け、幾何のもとへ向かう。


「……来たの?」


 八音が口を開いたのは、それだけだった。


「うん。ちょっとだけ、話したくて」


 幾夏は曖昧な笑みを浮かべながら言った。その顔には疲れも、後悔も、覚悟もない。ただ、“今だけは普通の時間を過ごしたい”という切実な願いがにじんでいた。


「道場、行こ、」


「うん」


 二人は並んで廊下を歩き出す。会話は少ない。でも、足取りにはどこかかつての名残があった。


 静かな校舎の中、誰にも呼び止められることなく、二人はゆっくりと、道場へ向かっていった。

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