第3話



最終章


 夢で見たあの頃の話を終えた二人の顔は、涙も鼻水もごちゃ混ぜに濡れていた。

この日から何年経ったんだろ、懐かしいなあ。

「じゃあいってくるね」赤く腫れた目を擦りながら、大きなあくびをして仕事に向かった彼に悪いなと思いつつ、今度は自分だけの思い出を振り返る。


 小学校一年生の頃、当時から背の大きかった私は男子にからかわれてよく泣いていた。

いつものようにいじめっ子の男の子に囲まれていたところに、透き通るほど白い腕が割り込んできた。

「やめなよ!」

芯のあるその声に男の子達は「おにわだ!おにわがきたぞー!」と笑いながら走り去った。

「大丈夫?」差し出された真っ白な手を掴んで立ち上がると、その小さな女の子は下から覗き込むようにニコッと笑う。

「かおりは、なにわかおり!あなたは?」

「かわぐちなな…」

「なな!よろしくね!」

先週家族で観に行ったミュージカルの女優さんみたいに両手を広げて、机の隙間を駆け回る女の子からは優しいひだまりの匂いがした。


 実は家が近かったらしい彼女と毎日のように一緒に帰った。雨が降っても雪が降っても、クラスが離れても帰り道だけは一緒だった。

お母さん曰く「あなたが生まれる前は飛行機の形をしたジャングルジムがあった」飛行機公園で、他の友達も一緒になって遊んでいた。

その隣にある、フェンスで囲まれた遊具のないグラウンドでいつものようにサッカーをしている一人の男の子に目を奪われた。知ってる子も一緒にいるから多分同級生なんだろうな。小学校五年生の私は幼稚園以来の恋をしていた。


 「菜々、好きな人いる?」

「いないよ〜!」道路の向こうにあるコインランドリーの中で回り続ける衣服を見つめながら、互いに認める大親友に初めて嘘をついた。

親や兄妹が観るドラマに影響されて、誰が誰を好きだとか、今思うと可愛らしい恋人ごっこが楽しい時期だった。

本当は隣のクラスの西野くんが好きだっていつか言おうと思ってたけど、完全にタイミングを逃してしまっていた。

「あたしも!」とあどけなさが徐々に抜けて綺麗になっていた香は、びっくりするほどモテモテだった。当の本人はそんなことには微塵も気付いてなさそうだったけど。


 とっても大人に見えていた中学生も、いざ自分がそうなると存外子供なのだと気づく。

不安でいっぱいの入学式、香と別のクラスになって知らない顔だらけの教室で一人縮こまっていると、隣の席に知りすぎてる顔が座った。

バクバクと高鳴る心臓を抑えるのに必死で、その日はあっという間に終わってしまった。


 「カップル」という響きに憧れるのは中学一年生にとって年相応のことだろう。爆増中のカップルの中には対して好きでもないのに付き合ってる人たちもいるらしい。なんて不埒な!と横を見て、その美しい横顔に頬が熱くなる。

あぁ、夢でもいいから西野くんと付き合ってみたいなぁ。誰にも相談できないこの密かな恋は真っ赤に柔らかく熟していた。


 「香ぃ、好きな人いる?」

今度は私が聞いていた。

「いないよ?」まだ自分の美貌に気づかない愚かな彼女を守ってやりたくなる。

「なに、もしかして菜々はいるの?」

一気にテンションを上げた香が石のベンチから腰を上げる。

「いやいやいや!いない!いないから!」

彼の横顔が頭に浮かんで紅くなった頬を見られぬように下を向く。

「へ〜?隠し事するんだ?」

意地悪な顔をしたかと思えば真面目な顔になって続ける。

「菜々は可愛いんだから自信持ちなよ!なんだったら私も協力するからさ」

本当に可愛い人に言われる可愛いは素直に嬉しかったけど、この鈍感に協力されるのは困る、とやんわり断る。

「ありがとう、頑張ってみるよ」

そう意気込む私の背中を叩き

「それでこそ菜々!」ともう一度ベンチに腰を下ろした。


 「西野くん」天文学的確率で二人きりになった放課後に命懸けで声をかける。

「ん?」

どこを見ているかわからないその瞳さえも美しい。

「一緒に帰らない?」

ホップステップで飛び出した言葉に目玉まで飛び出してしまいそうになる。

「いいよ」

目を糸のようにして笑うその言葉に足の指先まで熱くなった。

下駄箱を出て、コの字の校舎に囲まれた正門までの道を、肩にかけたバッグの紐を両手で握りしめながらうつむいて歩く。チラリと隣を見ると肩掛けのカバンをリュックのように背負い、ポケットに手を突っ込んだ彼は堂々と歩いていた。いつもは二十分くらいの帰り道も、好きな人と歩くには短すぎると、わざと信号に引っかかる。

「西野くんは彼女とかいないの?」やっとの思いで声になった心の中の音はこの街中に響いた気がした。途端に嫌な汗が吹き出して壊れたブリキのように彼の方を見る。

「いないよ」頭を掻きながら彼が放った短い言葉に乙女の心は踊りだす。

「ほんと!?西野くんカッコいいから彼女いるんだとおもってた!」喜びを全面に押し出した言葉に「ほしいけどね」と長めの前髪を頭のてっぺんに撫で付ける彼と目が合った気がした。

信号が青に変わると同時に鳴り出した電子音が

浮ついた私たちをいつもの街に引き戻す。

同じ方向に進み出す車や、自転車その全てが私たちを見ているような気がしてソワソワしてくる。反対側の歩道に、腕を組んで歩く同じ制服を見つけると、大股で少し先を歩く彼との距離感をもどかしく感じる。

「西野くん!私たちも付き合わない?」

いろんな過程をすっ飛ばした言葉に、彼はよろけながら振り返る。点滅を始める歩行者信号はこの鼓動と同じテンポを刻んでいる。

「いいよ」

ギリギリで渡った信号の先で固まっていると、スカートを揺らすほど近くを走り抜ける車に気づいて一歩前に出る。同じように固まって斜め上を見上げながら頭を掻く西野くんにぶつかった。

「わっ、ごめん」

「いいよ、行こ」

付き合って初めての、短い会話は今でも覚えている。

結局次の日に別の女の子と名前を間違えられたショックであっけなく別れちゃったけど。

熱々のフライパンの放射冷却みたいに、中学生の恋は熱しやすくて冷めやすかった。

長かった髪も、未練と共にバッサリ切ったつもりだったけど彼のことを心底嫌いになるということはなかった。


 中学二年生になると今度は、西野くんと離れて香とは同じクラスになった。すっかり慣れた中学校生活を親友と共に謳歌していると悲しい出来事が起こる。香のお父さんが病気で突然亡くなってしまった。私でさえ一週間くらい泣いてたのだから、実の娘である香の心中を想うだけでも胸が裂けそうだった。見るからにふさぎ込んでいた香が久しぶりに明るい声で話しかけてきた。

「ねぇ!」

私の机に両手をついて飛び箱でも飛ぶのかという勢いに、元気な香が帰ってきたと嬉しくなる。

「そんなに慌ててどうしたの?」

シンプルな私の問いかけに「えっとあっとその」

ともじもじしている彼女に何かを察する。

「隣のクラスの、イ、イ、イケメンな人しってる?」真っ白な頬を紅潮させる香を可愛く思うと同時にまさか西野くんのことではないかと冷や汗を流す。

「あぁ、西野くんじゃない?」

名札見てくる!そういって教室を飛び出したかと思うとすぐに戻ってきた香はお決まりのポニーテールをブンブンと振り回しながら頷く。

「名前は西野祐希でーー」

得意げに語った彼の個人情報は、私が一年かけて集めた貴重なものだ。図書室にある占いの本で彼と私の相性を確かめたり、朝の星座占いでラッキーアイテムを見るために必死の思いで収集した。目の前で興味深そうに聞いている可愛い女の子にこの宝を全部あげようと思ったのだけど、ストップ!もういいよ!と照れくさそうに止められてしまった。

でもよく考えるとこんな健気で可愛い女の子を、名前を間違えちゃうような男には渡したくない。かといって大事な親友の初恋を出鼻から挫いてしまうのもためらわれた。

「西野くんはやめたほうがいいかもよ、こないだも彼女泣かせてたし」

結局たどり着いた助言は思ったより卑屈なものになったけど、あっけなく振り払われる。

「そんな人には見えないけど」

まぁ香がいいならいいか。

こちらを見つめる真っ黒な瞳にそう思い、長かった襟足を撫でようとする左手は空を切った。

 

 それから中学校を卒業するまでの一年と少しの間、結局西野くんに話しかけられなかった香を隣でずっと励ましていた。かなり背伸びをした難関校に二人して合格したことへの喜びも束の間、香の病気が発覚する。

だけど絶望の底から這い上がる彼女の目は希望に満ちていて、余計な心配はよそうと決めた。

都合よく三人一緒になったクラスで、順調に仲を深めていく二人を見守る。

はじめて話しかけた!と子供のように喜んでいた電話の内容は今でも鮮明に思い出せる。

だけど約三年の月日をかけ、ようやく形になろうとしていたものは考えうる限り最悪の形で崩れ去った。

 

 忘れもしない十年前の八月十五日。

いつもより暑い気がした熱帯夜の起き抜けにシャワーを浴びていると、洗面台に置いていたケータイがやかましく鳴り響く。嫌な予感がしてびしょ濡れのままで取った通話口は、やはり香のお母さんだった。

結局さっき脱いだものをそのまま着ると自転車を走らせて病院に向かう。着く頃にはこの短い髪もすっかり乾いていて、切るきっかけとなった男の子の顔を思い浮かべる。


 「西野くんには言わないでいいの?」

力無く横たわる彼女に何度も確認した言葉だ。

心配かけちゃうとか、こんな姿見られたくないとか色々理由をつけて断ってきたくせに、集中治療室に運ばれる直前に言った言葉は

「祐希くんに会いたい」だった。

その言葉にケータイを握りしめて病院の外まで走った。薄暗くなった空に輝く一番星を見つけるとそれが涙でぼやけていく。こんな重大な時にみんな何してんだよ!いつもと変わらぬ騒がしい街に文句を言いたい心を抑えて、無理矢理登録させられた坂口くんの電話番号を探す。

何も悟られぬよう、落ち着いた口調で西野くんの番号を聞き出して、まだ熱いアスファルトに白い石でメモをとる。

その白い文字をケータイに打ち込む指が震えて、コール音が二回三回と繰り返されるたびに泣きそうになってくる。

割と早めに繋がったその声を遮るように自分の名前と用件を伝えるが、「香ならいまここに」と彼が不思議そうに語るありえない言葉に一瞬息が止まった。だけど今はそれどころじゃないともう一度病院の名前を伝えて、急いで集中治療室の前に戻る。

「西野くんを呼びました」

切らした息を整え、小さな声で告げる。

「ありがとう。香も喜ぶね」

憔悴しきった顔で微笑む香のお母さんを見ていると、堪えていた涙が溢れ出てきて止められなくなった。

下を向き必死で涙を抑えていると慌ただしい足音が駆けてきた。顔を上げると肩で息をする西野くんが立っていて、その顔は不安に満ちていた。なにがなんだか分かっていない様子の彼に、香のお母さんが何かを伝えると、彼は頭を抱えて泣いていた。私も何か言ってあげたかったけど相応しい言葉がまるで見つからず、ただ泣きながら手術の成功を祈ることしか出来なかった。

最善を尽くした。と告げるお医者さんの潤んだ目に「お医者さんも泣くんだ」とどうでもいいことしか考えられない。現実を受け止めたくない故の防衛本能なのか、ぴくりとも動かせない体をもどかしく感じていると、西野くんは開いていた扉の中に歩き出した。

しばらくすると聞こえてきた男の人のむせび泣く声に二度目の現実を突きつけられる。


 ようやく動いた体で向かった扉の先の光景にトドメの一撃を喰らう。三度目の正直は心臓に鈍い痛みを与え、呼吸すらままならない。

「どうして」私に気がついて振り向いた彼は焦点の定まらない目でそう繰り返すが、何も答えられない私に絶望したかのように膝をつく。

「ごめん」そう呟き、うなだれる彼を追い越した先に眠っていた香は、まだ生きてるんじゃないかと思うほどに綺麗で、あるはずのない希望にすがって語りかける。

「ごめん、西野くん呼んじゃった」

無理矢理あげた口角を、涙はぐにゃりと滑り落ちた。


 「浪花家」と大きく記された看板の矢印に従って進む。見知った顔が続々と集まってくるこの大きな部屋の前方には、綺麗な花々で囲まれた大親友が眠っている。今ここにいる人はみんなあの笑顔に照らされて、時には救われたり、憧れたりしたんだろう。

転校、卒業、喧嘩。この世に溢れる離別のどれとも比べ物にならない“死別”が、この心に逃れようのない痛みを与える。

「菜々ちゃん」

聞き慣れた声に振り返る。

「お母さん」

小さい頃、香につられて言っていたその呼び名はすっかり定着していた。

「香と仲良くしてくれてありがとう」

「そんな、私の方こそありがとうございます」

「お見舞い、毎日来てくれてたから疲れたでしょ。ゆっくりしてね」

「全然!親友に会えるのに疲れるとかないですよ」

揺れる木漏れ日が、彼女の目の端をキラリと照らす。

「寂しくなったらいつでも言ってください!駆けつけます」

本当はまだまだ話したいことがあったけど、即席の笑顔が限界を迎えそうだったから、香と同じで真っ白な手と握手をすると家路を急いだ。


 −−真っ白なテレビ台の端に目をやると、四人の高校生男女がこちらを見て笑っている。

木でできた写真立てを撫でる左手の薬指には、シルバーリングが光っている。


 無常にも時間は進み続ける。癒えるわけもない傷口を隠すように制服を纏い、一人駅に向かう。予報になかった雨は、晩夏の熱気を孕んでこの身に堕ちる。憂鬱な雨の満員電車に二人分の空席を探してしまった視線が涙で歪む。

少し進んだ先で力無く吊り革を掴む西野くんを素通りして、結局先頭車両の最前列まで来た。

「次は◯◯学校前」というアナウンスに、まだ雨は降っているのかと外を眺める。灰色がかった街が猛スピードで過ぎ去って、見慣れたホームに突っ込んでいく。強くなる車輪の振動と甲高いブレーキ音に混じってけたたましい警笛が鳴る。

何事かと見たホームの先の方には、私と同じ制服を着た人が線路に向かって走り出している。

咄嗟に動き出す周りの静止も振り切って、

こちらに飛び込んできたその横顔から目が離せなかった。「夏織ちゃん」

聞き慣れない音と共に真っ赤に染まる視界に、ようやく伏せた目の裏にはさっきの横顔がこべりついている。耳を塞いでも聞こえてくる惨劇に今起こった事を理解させられるも、それを受け入れることができない。

「そんな簡単に殺さないでよ」

たった半月の間に目の前で二人も亡くしたこの私の心には、神に対する怒りにも似た感情が沸いていた。

やはり先ほどの話題でもちきりの教室に

「香のことも忘れないで」と怒鳴りつけたくなる。ずぶ濡れのまま席に着く私を見て、申し訳なさそうに伏せられる視線が癪に障る。

慌てて駆け込んできた担任が告げる言葉にざわめく教室を愚かしく思う。二人のために設けられた、たった一分間の黙祷は、危うく怒りに支配されそうだった。誰とも話す気になれなかったその日の帰り道、嘘みたいに晴れた空に照らされたこの心は今にも乾いてひび割れてしまいそうだった。

駅を出て住宅街に入り、遠くに見える赤い屋根の浪花家に寄っていこうかと思案する。

「菜々」

聞き慣れた声に聞き慣れた名前を呼ばれたが、その声がその言葉を発していることに驚き、ゆっくりと後ろを振り返る。

立ち並ぶ一軒家の白い壁が、眩しく光る細い道路の中央に、彼はぽつりと立っていた。

「西野くん」

中学生以来の状況に混乱状態の私を、泣き腫らした目で見つめる彼は、力強い声でこう言った。

「教えて欲しいことがある」


 よく行くコンビニのよく見る店員さんに会釈をして当たりつきのアイスを買う。

飛行機公園の藤棚の下にあるベンチに座り、でかいサヤエンドウみたいな木の実を見ていると何のためらいもなしに隣に座った彼は言う。

「僕もよくここ来る」

「え?」

「え?」

口からこぼれたアイスを手で受け止めていると彼は続ける。

「いや、ごめん。香のこと聞きたいんだけど」

予想通りのセリフだった。

宝石のように輝いていた木漏れ日が、流れる入道雲に盗まれて、急な暗点に目が痛くなる。

「うん、なんでも聞いて!」

「ありがとう」

まだチカチカしている視界では、顔を上げた西野くんの表情を読み取ることができなかった。

「香はいつから病気だったの?」

「分かったのは高校の入学前」

「そっか。僕には何も話してくれなかった」

「多分私以外に言ってないんじゃないかな」

「言ってくれてもよかったのにね」

「心配かけたくなかったんじゃないかな。

大好きだったもんね、西野くんのこと」

伸びてきた前髪の隙間からちらりと左を覗く。

広げた足の上に置かれた手は硬く握られて、血管が浮き出している。

「あ、いつから好きだったか知ってる?」

できる限り明るく放った言葉に、彼は上体を素早く起こすと、ボサボサの髪をフリフリと横に揺らした。

「中学二年生からなんだよ。一途だよね」

「え!?」

「え!?」

「いや、ごめん。同じ中学だったんだ」

「えぇ〜〜!?!?」

頭を掻きながら目を泳がせている姿が、ちょうど一年前の彼とシンクロする。

「てことは、私のことも覚えてない?」

「うん、ごめん」

「はぁ〜〜そうなんだ、だからか」

いつまで経ってもよそよそしかった態度に納得すると同時に、中学一年生の恥ずかしい記憶が私だけのものだったことに安堵する。

「人の顔がよく見えないんだ」

耳鳴りのように周囲の音を遮断して届いた彼の声は、その表情やタイミングに見合わず、とても重たいものに感じた。

「どういうこと?目悪いわけじゃないよね」

「多分そういう病気なんだと思う」

「そうなんだ…」

こくりと頷くとボサボサの髪をこちらに向けたままで彼は続ける。

「今日死んじゃった子のこと、ずっと香だと思ってた」

別ルートから辿り着いた裏ボスのような爆弾発言に「ちょっと待って」とセーブを書く。

遠くで鳴り出した雷が雨の匂いを連れてきて、

昔からあるけど行ったことはなかった喫茶店に駆け込んだ。


 「アイスミルクティーと、アイスコーヒーひとつづつお願いします」若い人は珍しいと嬉しそうなおばあさんの顔には、笑顔のシワが深く刻まれている。

やはり降ってきたにわか雨に、慌ただしく走り出す街を、水滴が滑るガラス越しに眺める。

小気味のいいクラシックを流すスピーカーを探して見上げた天井には、少し黄ばんだ大きなファンが音もなく回っている。

「はいどうぞ」コルクのコースターに優しく置かれたグラスに映る逆さの自分と目が合う。

それを手に取って口につけるまでの動きが、窓の外を見続けている彼と寸分の狂いもなかったことに乙女の心は弾んでしまう。

いやいや、いやいやいやいや。閑話休題。

この場の雰囲気にすっかり大人ぶってしまった事に反省して、公園で投げられた爆弾の処理に取り掛かる。

「西野くんは夏織ちゃん、いや、那須さんが亡くなった事と関係あるの?」

自分の放った物騒なセリフは、ちょうど曲間なのか静かになった店内にこだましたような気がした。

「しまった」と横を見る。

笑顔のままでグラスを洗っているおばあさんは「聞こえてないからね」と言っているように見えた。

「ある、かもしれない」

すでに半分ほどに減ったグラスの中の氷が、音を立てて割れた。

「なんでそう思うの?」

「僕に嘘がバレたから。だってずっと香のフリしてたってことだし、それが悪い事だってのも分かってたはずだ。でもそれがバレたからって死ぬことはないと思うけど」

初めて聞いた彼の長台詞はスラスラと頭に入ってきた。

「そうだよね。騙してたのは悪いことだけど」

「騙される僕も悪いよ」

ごもっともなご意見にハンコを押したかったけど、病気を責めることはできない。

「顔がわかんないって大変なんだね」

「いままで大変だと思ってなかったことを本当に後悔してる。香がいつから別人だったかも分かってないし、あの時どんな顔してたか知りたい場面がいくつもある」

「大丈夫、西野くんとの思い出は全部楽しそうに話してたよ」

泣きそうな彼を見て泣きそうになりながら慰めの言葉をかける。

「僕も本当に楽しかった。大好きだった。だけど伝えられなかった」

「絶対ちゃんと伝わってるよ」

「うん」

彼が絞り出した短い言葉は、一瞬の静寂の後に流れ出したショパン/op.10-3にかき消されてゆく。ある種の区切りがついた状況に、窓の雨粒が影となって投影される彼の真っ白なシャツを見つめていた。


 それからというもの、楽しみの九割がなくなってしまった学校に惰性で通った。人が二人も亡くなった事実はそれなりに騒がれたけど、一年経つ頃には誰もその話をしなくなった。当然といえば当然のことだけど、それはとても寂しいことだと思う。小学校の頃から続けたバスケも高校二年生で辞めた。それに伴って伸びてきた髪は周りから不評だったけどどうだっていい。香だったらきっと褒めてくれるから。

勉強しかやることがなくなった私は、ことのほか要領が良かったみたいで、県で一番の大学を目指すことにした。楽しみの残り一割は、隣のクラスの西野くんの様子を伺うことだった。

私と同じく香の件で気を遣われていた彼は徐々に孤立していって、元からの無口な性格に拍車がかかっていた。

結局喫茶店のあの日から卒業まで、西野くんと話すことはなかった。


 大学からの合格通知は、嬉しいというより

当然だという気持ちの方が強かった。

多少は心も弾んだけど、高校の時に比べたらなんて事はない。独りには慣れたつもりだったけど、この凪のような感情を大きく揺らしてくれる人を心のどこか求めていた。

「大学で出会えるかな」

一人暮らしに必要な衣類などをケースに詰めながら呟く。

風の音と共にレースのカーテンが大きく揺れて

柔らかな陽だまりに包まれる。

大好きだった親友に呼ばれた気がして窓の外を覗くと、春の柔らかい日差しに包まれたこの街がキラキラと輝いていた。長い時間と共に変わっていった街の、いつまでも変わらない場所を眺める。

小学校と、そこから程近い中学校では、

豆粒みたいな人達がグラウンドで遊んでいる。

赤い屋根の浪花家。

あれからも一週間に一回は行ってたから、懐かしさはないかな。

めっきり行かなくなった飛行機公園。

相変わらず飛行機はないけど、小学生くらいの子供たちが楽しそうに遊んでる。

全ての場所に香と私がいて、特別な思い出がある。そしてその全てをいつまでも忘れない自信がある。

この街での煌めいた記憶は私の宝物だ。

中学校の横にある信号が赤に変わると、背中の方で口を開けて待っていたケースのことを思い出した。


 大学生活とは存外退屈なんだな。

この県で有名な海水浴場から程近い大学と、その海岸沿いにある色褪せた安アパートとの往復に、私は早くも飽きていた。

有名な海水浴場は、透き通った海や綺麗な砂浜が人気の理由だ。だけど裏を返せば汚すような人が少ないという事なのか、海水浴シーズンの前後は街全体に元気がなくて、たまにすれ違う人も私と同じ学生か、老人ばかりだ。

一人暮らしというものに漠然とした憧れはあったけど、いざやってみるとただ大変なだけで、親のありがたさをひしひしと感じた。

日中は静かなくせに、夜になると暴走族か走り屋みたいなのがうるさくてなかなか寝付けない。窓を閉め、電気代を気にして封印していたクーラーのリモコンを汗だくで探す。

「ふ〜」カビ臭い冷風に、合格通知以来のささやかな幸せを噛み締めて、ペラペラの敷布団に大の字で転がる。

適当な動画を垂れ流しにしていたケータイが熱い。充電ケーブルを引っこ抜き、エアコンにかざして冷やそうと試みる。

「なにやってんだろ」

間抜けなポーズに気づいてどすんと床に座る。

電気を消してあるリビングは、こちらの電気に照らされて少し明るい。いまだに三つ積まれた段ボールを見て、謎のやる気スイッチが入る。

「やったるで〜」

そう息巻いて、胸の高さにある一番上の段ボールを床に下ろすと、わずかに開いた隙間から昔のケータイを見つける。

「これも持ってきてたんだった」

それを充電ケーブルに繋いで枕元に置く。

充電が復活するまでの間に荷解きの続きができればこんなことにはなってない、とようやく残り二つになった段ボールを横目に、二種類のSNSを行き来する。


 興味本位でスイッチを入れた昔のケータイに

いろんな文字そのままに時間が止まる。

今見ると画質の悪さが目を引く写真や、香とのメールのやりとりに、あの頃の記憶が猛スピードで蘇ってくる。

こんなことあったなと笑いつつも同時に虚しくなる。今も香が生きてればどんなに楽しかっただろう。辛くなりホームボタンを押して、笑顔の二人を眺めていた。

8月15日 1:26

画面上部の数字にハッとして呟く。

「帰らなきゃ」


 燃えるような日差しに起こされた私は、いつの間にか眠っていたようだ。まだ八時、よかった。シャワーを浴びて髪を乾かしていると、日差しの割にひんやりとした部屋にゾッとする。

裸のままで来たリビングでは、ボロのエアコンが苦しそうに頑張っていた。

やっぱり。肩にかけたタオルで手を拭いて、電源ボタンを押す。今日は昼飯抜きだな。

来た時の半分のスピードで洗面台に戻ると、長く伸びた髪を乾かした。

「暑いね〜」

玄関を出た先の、ひんやりとしたコンクリートの階段で、お昼寝中の猫に話しかける。

暴力的な陽射しに輝くセスナの尻尾を追いかけて、日陰もないまっすぐな道をひたすらに走る。

信号待ちのワゴンの助手席で、男の子がなんか歌ってる。

やっと見えてきたバス停には珍しく人がいて、このまま駆け寄るのは恥ずかしいと乱れた髪や息を整えながら歩く。

そんな私を追い越していく赤い車に気を取られていると、すぐそこまできていたベンチにぶつかりそうになる。

「菜々?」

そこにいた男性が私の名を呼んでいる。

すぐ隣にある防風林の向こうの波が、勢いよく岩にぶつかる音がした。

見つめていた青いベンチから顔を上げると、夏の日差しに目を細める西野くんがいた。生ぬるい潮風になびく髪は伸びっぱなしで、その彫の深い顔も相まってギリシャの石像みたいになっていた。

「西野くん?なんでここにいるの?」

驚きすぎてむしろ冷静な私は、素直な疑問を口にした。

「いまから香の家にいくんだ。菜々もそうでしょ?」

「そうだけど、違う。なんでこのバス停にいるのか聞きたいんだよ」

「そこからか。そこの大学に通うために引っ越してきたんだ」

彼が指差す方向には、私が通う大学がある。

「え?」

「え?」

数多くの疑問を残したままバスに乗り込む。がらんとした車内の奥の方に座り、カーテンを閉めて話を再開する。

「西野くんもあの大学なの?」

「も、って、菜々も?」

「そうだよ」

「えー!知らなかった、すごいね」

「凄すぎるよ。どの辺にすんでるの?」

「えっとね」ーー

引っ越してくる時には果てしなく思えた距離も、このサプライズが手伝って短く感じた。

久しぶりの街に心が安らぎ、久しぶりの彼に鼓動が高鳴る。

川口の表札を素通りして、赤い屋根を目指す。

チャイムを押すと香にそっくりな声がして、中に通される。玄関を開けた途端、胸いっぱいに広がる太陽の香りに涙がたまる。

「一緒に来てくれたんだ。ありがとう」

「いや、たまたまバス停で会って」

「そうなの!すごいね。きっと香も喜んでる」

畳敷きの仏間には、笑顔の彼女がいる。

何度も何度も見たはずなのに、その度に涙が溢れてくる。震える手で線香をあげ、みんなで掌を合わせる。

「もう二年経ったんだね」

そういいながら出されたお茶とお菓子をいただく。

「香のことは毎日思い出します」

お菓子を頬張っていた隣の彼も大きく頷く。

「あら嬉しい」

香に受け継がれていた屈託のない笑顔が私たちを照らす。

「ありがとうございました!困ったことがあったらすぐ呼んでください」

「ありがとう、また来てね」

振られる真っ白な腕に頭を下げて、来た道を戻る。

「せっかくだし実家に寄ってくる」

「僕もそうしようかな」

「うん、またね」

「また」

なんか名残惜しい気もするけど、まぁ同じ大学だしいっか、と実家の玄関を開ける。


 「ただいま〜」

久しぶりの実家は随分時が経ったような、古臭い感じがした。

「おかえり、どうしたの?」すっぴんの母が顔だけをこちらに向けている。

「香の命日だから」

「そうだったね、お母さんもいかなきゃ」

母はたまに、自分のことを“お母さん”と呼ぶ。

「うん、行ってきな」

バッグを置いて、手を洗い、椅子に座る。

「大学生活はどう?」

ファンデーションのチューブを振りながら母が問う。

「思ってたより楽しくない」

「あんたが楽しもうとしてないんでしょ」

そんなことない、は口に出す前に消えていた。

「香ちゃんの件があってから、暗すぎよ。

気持ちはわかるけど、そんなんじゃ楽しめるものも楽しめないよ」

折り畳み式の鏡の前で、口を縦に開けている母に何か言い返したかったけど、ぐうの音も出ない。

「また元気な菜々が見たいな、私は。香ちゃんもそう思ってるはず」

「うん…」

今までなら「でも、」と続けたであろう感情は、今日をもって捨てることにした。やはり母は偉大だ。

「じゃあちょっといってくるから。夏休みでしょ?泊まってってもいいからね」

いつの間にか化粧を終えていた母はそう言って家を出た。

静かになったこの家には、洗濯機が回る音と、なぜか高鳴る鼓動だけが響いていた。


 「はぁぁ〜〜〜うぇえぇえ!?」

動く気になれず、椅子に座ったまま大きなため息をついていると、久しぶりの着信音に驚く。

母だろうな、と見た画面には西野祐希と表示されていて、変な声が出た。

『もしもし』

『もしもし、どうしたの?』

『晩飯あった?ないなら一緒に行かない?』

『ない!行こう!』

『わかった!六時に飛行機公園集合ね』

『わかった、はーい』

いつの間にか立ち上がっていた。

大きく後ろに飛ばされた椅子に座り直して、深呼吸をする。

病院で電話した後に、ご丁寧にフルネームで登録していたことを思い出す。

しかし向こうはなんで私の番号知ってるんだろ。あの時登録するような性格じゃないしな。

埒があかない思考に、ひんやりした机に顔を伏せて、足をばたつかせる。

さっきの母との会話がなかったら断っていたかもしれないと、タイミングの妙を感じる。

「あの頃の私、どんなんだっけ」

顔を上げて呟き、洗面所で顔を洗う。

すっぴんになれば思い出すかも、といったオカルト的な予測は外れて、ただの少し老けた自分を見つめることになった。

「やば、急がなきゃ」

出しっぱなしになっていた母の化粧道具を拝借して、納得のいかない出来栄えに浮かない心で公園に向かう。

今日を命懸けで楽しむ小さな子供たちと、それを見守る親。何年経っても変わらない光景に、なんだか嬉しくなる。こんなことになるならもっと可愛い服着てくればよかったと、コインランドリーの窓に反射する自分を見て思う。

まぁただのご飯だけど。そう心で呟きながら

襟足を撫でる手が止まる。

「菜々」

見知らぬ車に乗った西野くんが目の前に現れた。

「え、車?」

「そう、母さんの借りてきた」

ニコニコ笑う彼は後ろを振り返り、早く早くと手をこまねく。すぐ後ろにいた車のクラクションに急かされるように、私は助手席に乗り込んだ。


 涼しい車内は、隣のイケメンには似つかわしくないオトナの女性の匂いがする。

男性アイドルの曲が小さな音量で流れているのも、彼の趣味ではないだろう。

知らない場所から眺める街は、全く知らない場所に見えた。

長いことで有名な信号に引っかかると、いろんな意味で眩しい横顔が口を開いた。

「病院いったんだよ」

「え?病院?」

「ほら、顔がわからないやつの」

「あー!どうだった?」

「治った」

「え!?すごい!よかったじゃん!」

「だから今日初めて香の顔を見たんだけど、あんなに可愛かったんだと思って」

なぜかチクっと痛む心の、よくない針を除去する。

「そうだぞ!罪な男だな」

「ほんとだね、もっと早く病院行ってればよかった」

「いつ行ったの?」

「高校卒業してから。明確な治療法が無いって言われたときは落ち込んだけど、簡単なリハビリで治っちゃった」

「へぇよかったねえ」

今日はやけに目が合っていたことに合点がいく。

「着いたよ」

といいつつ何度も切り返して停めた車から降りる頃には、夏の夜はぼんやり暗くなっていた。

「このロイホ、懐かしいね〜」

「でしょ。昼間、地元に着いた時からここに来ようと思ってたんだ」

偶然か、前と同じ席に通されて、前と同じ席に座る。病気を克服した彼は別人のように明るくなっていたけど、大学生特有のチャラチャラした感じは全然なくて、むしろ大人びていた。

子供連れが多く騒がしい店内で、それに負けじと大声で話す。出入り口の上の方に掛けられた時計が十二時を回ろうとしていた頃、客層はガラッと変わる。うるさいバイクと共にやってくる眉毛のない少年たち。紳士風のおじいさんや作業着のおじさん。みんなこの街の人だと思うと心が温まる。

結局話題が尽きなかった私たちは夜更けまで話し込み、目の下にクマを作ってそれぞれの実家に帰った。車を降りて、それが見えなくなるまで手を振った。

夏の明星が好きだ。ひんやりした風と鈴虫の声。このまま寝るのは惜しいと、少し歩いてみる。かつては無限に広がっているように感じたこの街も今では小さく思える。思い出のスタンプラリーがあっても二十分あれば完走できそうだ。

お尻の後ろで手を組んで、まだ薄暗い街を大股で歩く。靴ズレの痛みも気にならないほど心地がいい。伸びきった生垣の葉っぱが二の腕をこそぐる。窓を開けている家からテレビの音が聞こえる。早起きだな。新聞配達のバイクがエンジンかけっぱなしで停めてある。ご苦労様です。大きなあくびが出て、さすがに眠たくなってきたことに気づく。帰るか。

太陽が出てくる前に寝よう!謎のルールを作り、家路を急いだ。


 『いつ戻る?一緒に戻ろう』

交換したSNSアプリに、彼からのメッセージが届く。考えもしなかった展開に少しうろたえて返事を打つ。

『今日の十九時ごろかな』

ベットの上で背伸びをして、トイレのために一階に下りると、懐かしい朝ごはんの匂いがした。

「おはよう、帰り遅かったじゃん」

「どうでもいいでしょ!」

母の含み笑いに腹が立って、大きな声が出てしまう。

久しぶりに食べた実家の朝ごはんは、心身の乱れを整える効果があるようだ。

「今日帰るから」

「あら、もっといてもいいのに」

「課題とかあるから」

「忙しいのね、学生さん」

頬杖をついて語る母に似てきた顔を、冷水で洗って眠気を覚ます。

部屋に残していたアルバム達を眺めていると、五時を告げる懐かしいチャイムが鳴り響いて、のそのそと帰宅の準備を始めると、ベッドに置いていたケータイが震える。

『河川敷きて』

伝わるけど伝わらない文章に、液晶に当たるネイルをカチカチ鳴らして、何度も返事を書き直す。

『河川敷って、スーパーのとこ?今から?』

『そう、今から』

一日に話せる文字数が限られてるのか、言葉足らずな彼にため息をつきつつも、河川敷に向かう足取りは弾んでいた。

近くに踏切があるせいか、テールランプで真っ赤に光る大きな橋を渡る。

紫、ピンク、オレンジ。壮大に色を変え、暮れてゆく空を眺めて歩く。

例の河川敷を上から見下ろすと、既に下に居た彼が、こちらに手を振っている。もう片方の手に握られたビニール袋から何かを取り出して、早く早くと手招きしている。

「どうしたのこんなとこ呼び出して」

「じゃーん、花火」

「えっ!いいじゃん!」

「でしょ、ここじゃ目立つから橋の下行こう」

肩のあたりまで伸びた大きな草をかき分けて進む彼のすぐ後ろを歩く。

懐かしい柔軟剤の匂いに、彼を好きだった事実を掘り起こされる。

香と母の顔が同時に浮かんで、同時に消える。

考えてもどうしようもない感情を、今はもう放っておくことにした。

「菜々、どうしたの?」

「ううん!ていうかさ、なんで下の名前なの?」

「それは…」

「まさか…苗字、知らない…?」

「川田でしょ、川田菜々!」

「川口じゃ!!!!」

両手をあげて駆け寄ると、子供のように笑って逃げていく彼を追いかけて、狭い橋の下をぐるぐる回った。

二人で息を切らして、冷たいコンクリートに腰を下ろす。

「はぁわらった」

「川口だよ、覚えた?」

「いいよ、どうせ菜々って呼ぶし」

「確かに」

「よし、じゃあ花火やろう」

頭上に橋、前後には橋の足、そして左右には背の高い草で囲まれた二人だけの空間で、花火は美しく燃え盛る。一夏の特別な体験に勘違いしそうな乙女の美しくないかもしれない感情は、白く漂う煙で隠した。


 季節はいとも容易く世界を変えてしまい、息を呑む。頭の片隅で微笑んでいた彼は、気づけば心のど真ん中にいた。

学校に行く目的が変わってしまった頃、私は彼に思いを告げた。快く受け入れてくれた彼は少しうつむいて、「でも」と呟く。

「うん?」

「香のことは忘れられない」

「当たり前だよ。私だって忘れたことないし。」

「それでもいい?」

「いいよ。二人でずっと覚えてよう」

「うん。ありがとう」

大学に入って三年目の春、人もまばらな食堂での会話は、いつまでも忘れることはない。


 −−順当に就職活動をして、順当に卒業する。

順当にプロポーズを受けて、それに応える。

“普通”でいいと妥協したはずの結婚生活は、たゆまぬ努力の上に成り立つのだと知る。

もう何十年も変わらないガビガビの音色が、すっかり変わってしまった街に響く。

「やば、ご飯作らなきゃ」

今はもう封印していないエアコンの電源を入れて、台所に立つ。

髪を束ねて袖をまくり、包丁を握る。

天気予報を映すテレビが、明日は雪だと言っている。垂れてきた前髪を、濡れた指で耳にかける。玄関で鍵を回す音がして、自然と口角が上がる。

「ただいま」

「ただいまー!」

「おかえり、寒かったでしょ」

「パパがカイロくれた!」

「そう、よかったね」

「あ、今日のご飯、菜々スペシャル?」

「そう!よくわかったね」

「大好きだからね」

「ほんと好きだよね。あ、ちょっと!そっち行く前に手洗って!」

「はぁ。あ、明日雪らしいよ、今テレビでやってた」

「僕も車で見てた。積もるかもって」

「へぇ、珍しいね」

「もし積もってたら飛行機公園行こうよ。あの子も喜ぶ」

「そうだね、行こ行こ」

「ママー!ご飯!」

「はいはい待ってね」


 例え毎日必死に生きても、死にたいと思いながら生きても、その先の未来はわからない。

幸運なことに今を生きている私に与えられた幸せは、両手では抱えきれないほどに大きなものだった。

いくら願っても叶わないことの方が多いのに、願ってもないのに与えられるものもある。

理不尽で残酷な世界を迷わずに進めたのは、

いつも心に太陽があったから。

私達が駆け抜けた道は鮮やかに香る。

今もあの子はこの魂の羅針だ。


 「ほら、お布団行きなさい」

「うごけない〜」

「風邪ひいちゃうよ、ほら」

「はこんで〜」

幸せの重みとは、手に抱いた我が子の体重の事だろう。

「はい、おやすみ」

「おやすみママ」

可愛い寝息を名残惜しく思い、明かりを消す。

「いつもありがとね」

「美味しいご飯作ってくれてるんだから、これくらい当たり前だよ」

「百点の返しだね。西野くん」

「えっなに急に!」

「昔の祐希なら絶対言わないなと思って」

「確かにそうかも」

「だから嬉しい、ありがとう」

「僕のほうこそありがとうだよ」

「やばい寝ちゃいそう」

「ほら、お布団行きなさい!」

「ふふふ」

愛する人が水と食器で奏でる軽快なリズムを背中に受けて、何もかも満たされた空間に重たくなったまぶたを閉じる。


 



 ーー「ねぇ菜々、運命ってあると思う?」


「どうしたの急に。あるんじゃない?」


「じゃあ私達、大人になっても友達なのかな」


「もちろん、運命に逆らってでも友達でいるよ」


「それ運命って言わないでしょ」


「頭が固いでんなぁ、ナニワはんは」


「うるさいなぁ!」


「ごめんごめん」


「もう、真面目な話なのに」


「私と香はずっと一緒だよ!絶対!」

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