第4話
この世には、他人の人生が溢れて漂っている。
他人の人生など、どこかおとぎ話のように思っていた。流行りのラブソングにときめいて、悲しいニュースに絶句する。当事者以外、自分が当事者になることなど考えもしない。おとぎ話のような世界。
1 発端
寒い二月のことだった。小学三年生になる息子と近所のスーパーに行った。カートを押して、ライン工のように次々と品物をカゴに入れる。結婚するまで手料理などしたことのなかった私は、必死に料理を勉強した。もはやどこに何があるのか完璧に把握した店内をスケートリンクのごとく進む。
入店と同時にどこかへ駆け出した拓也を、お菓子売り場にて発見する。じっとしゃがんで見つめているのは、恐竜の骨をモチーフにしたチョコレートだった。
「たっくん、それ食べたい?」
「うん!」
目を輝かせる息子の成長は目まぐるしいもので、つい最近まではこの場所で駄々をこねて暴れていたことを思い出す。
「大きくなったね」
何の話?とこちらを見上げた顔に残るあどけなさを、愛おしく感じた。
結婚と同時に越してきた政令指定都市のスーパーは、平日の昼間といえど大混雑で、会計を終える頃にはすっかりくたびれてしまう。
「ねえねえお母さん、ラゾーナいきたい」
さして不思議なものでもない愛息子の発言に、一瞬辟易してしまう。顔に出てはいないかと即座に口角を上げて答える。
「一回おうちに帰ってからね」
「ここから行けば近いのに」
そんなこと分かってる、は言葉には出せない。
自分自身も幼い頃、大人は何も知らないと思っていた。
だけどそれは、知らないフリをしている方がなにかと都合が良かったのだろうと気づく。
「すごーい!よく知ってるね。
でも、買ったものを家に置かなきゃいけないから」
パンパンに膨れたビニール袋が、私の前腕にこれでもかと食い込んでいる。
渋々といった様子の拓也の手を引いて、黒の軽自動車に乗り込んだ。
家に着き、「要冷凍」のものだけを冷凍庫に入れる。
「またどこか行くの?」と左足に擦り寄ってきた愛猫を撫でて、玄関から急かす声の元に急ぐ。
先ほどまで履いていたパンプスではなく、歩きやすいスニーカーを履いて玄関の鍵を閉めた。
十階建てマンションの五階からは中学校のグラウンドが見える。二月だというのに半袖短パンで走る学生を見て思わず身が震える。
寒さに弱い私は、歩いて二十分の距離を車で移動することにした。
ほんの少しの留守に冷え切った車内で、エンジンをかける指は震えていた。
最大にした暖房が目と喉を乾かすが、ここまでやらないと寒すぎて仕方がない。
土日に比べると空いている温泉通りを進んでいると、窓の外を眺めていた拓也がつぶやく。
「あ、お父さんだ」
踏みつけたブレーキに首が揺れて、体を締め付けるシートベルトに腹の底が疼いた。すぐ後ろにいた車にクラクションを鳴らされて、呼吸が止まっていたことに気づく。
やばい、隠れないと。なぜかそう思い、今度はアクセルを踏むが、隠れるべきは自分ではないことに気づいて失笑する。
「お父さんいたの?」
乱れた呼吸を整え、生唾を飲み込んでたずねる。
「うん、もう見えなくなったけど」
「何してた?」
聞いた途端に、辞めれば良かったと思った。
今朝、夫はいつもと変わらず仕事に向かった。勤務地はこの辺りではない。
女の勘がやめておけと告げているが、気づいた頃には遅かった。
「女の人と歩いてた」
子供は正直だ。人のことを想って嘘をつくことはできない。逆に、この手の嘘もつけないだろう。
ーーやばい、前が見えない。まぶたから顎の先まで皮膚が溶けたように重たくて、頭の毛穴が全て開いた感覚になる。暑いくらいの暖房が効いているのに手足は震えて、ハンドルを握れない。
必死の思いで駐車場まで辿り着くと、長いため息をつく。
「お母さん頭痛くなっちゃったから、遊んでおいで。ゲームのところでしょ?」
「頭痛いの?大丈夫?」
「大丈夫。時間になったら迎えに行くから」
「わかった!」
バン、と重い扉が閉められると同時に痛いほどの耳鳴りがして、それがダム放流のサイレンとなった。
まだ何も決まっていないと分かっていても涙が止められない。息子の見間違いかもしれない。夫に電話でもすれば何か分かるかもしれないが、そんな勇気はなかった。
視界の先に広がる無機質なコンクリートの壁が、重く冷たく、私の心を押しつぶす。
2発覚
その日の夜、夫である祐希はいつも通りに帰宅した。念の為、拓也には昼間のことは何も言わないようにと告げてある。
言いつけを守り、いつも通り父に接する拓也に比べ、当の私は普通の表情すらままならないでいた。
「ただいまー」
「おかえり、先にご飯でいい?まだお風呂溜めてないから」
言えるうちに言いたいことを早口で伝えた。でなければもう言えないような気がした。
「おいしい」といつも通りに笑う夫が不倫なんてするはずがない。やっぱり息子の見間違いだったんだ、と心に平穏が訪れたのは、スーパーに行って以来、実に八時間ぶりのことだった。
その後は、失くしたと思っていたものを見つけた時のように上機嫌で家事を済ませて、先に眠った夫の待つ寝室に向かう。
すやすやと眠る彫刻のように美しい顔を少しの間眺めて、横になり、目をつぶる。
ーー眠れない。夫への疑いが晴れて興奮しているから?
違う。
またもや女の勘が騒ぎ立てているのだ。
読書用に置いてあるランプの下に伏せられた彼のケータイを奪う。
肘の関節がポキッと可愛い音を立てたが、起きる様子はなかった。
夫のロック画面は、拓也がまだ赤ちゃんの頃の写真で、当時から一切変えておらず、理想の父親と言って差し支えないだろう。
いつもはコアラのように抱きついて眠るのだが、今ばかりは背を向ける。
パスワードに私たちの結婚記念日を入力すると、なんの抵抗もなく開いてしまった。
恋人のケータイを覗いたら後悔した、といった類の話はそこらじゅうに溢れている。
今から自分もそうなるかもしれないという不安はあったが、ここまできて引き下がるほど臆病でもない私はメッセージアプリを開く。
縦に並ぶ七つほどのトーク一覧の、上から三つ目、可愛いピンクのアイコンが目立っていた。
名前は、夫の話によく出てくる男友達のものだったが、その違和感が尋常ではなかった。
私は迷わずそのトーク画面を開く。
私には使ったことのない絵文字をふんだんに使った会話は、誰がどう見ても男同士のものではないことが分かる。
暖房の下で眠っていた猫が、何かを察知したのか私と彼のケータイのわずかな隙間に座る。
「どいて」
吐息のようにそう言って、色とりどりのやり取りをひとつづつ読んだ。
3 発狂
あの日の夜に、幸せな一家は崩壊した。
不倫を知った妻の八奈(はな)が狂ったように暴れて、飛び起きた夫の祐希(ゆうき)は、八奈が手に持った自分のケータイを見て全てを察した。
カーテンから光が漏れ出すころ、ようやく落ち着いた八奈はリビングのソファーに横になり、祐希は冷たい床に正座して話し合った。
もっとも、祐希に許してもらおうという気はなかったらしく、不貞行為の時期や経緯を話しただけで、あとは今にも暴れ出しそうな八奈を落ち着かせることに尽くした。
拓也が起きてくる前に部屋を片付けて、涙で歪んだ顔もなるべく元通りにするように努めた。
祐希は、八奈の目の前で会社に休みの連絡をいれて、家を出る。というのも家にいては、拓也に引っ付かれるのが目に見えているからである。
朝ごはんなど作れるわけもない八奈は、頭が痛いからと、菓子パンを食卓に出した。
主婦になって初めての出来事だったが、拓也は意外にも、すんなりとそれを受け入れた。
「いってきます」とランドセルを背負った拓也が家を出たと同時に、八奈からの電話を受け取った祐希は自宅へ走る。
祐希があまりにもあっさり全てを白状したせいか、八奈の怒りも徐々におさまり、事実を受け止た。
養育費等、今後の話をした後に、離婚の手続きをした。
長い長い、時には永遠を感じた結婚生活は、一夜にして終わりを告げたのだった。
4 発火
十三年前、二人は兵庫県で出会う。
名家の長女として生まれた八奈は、大人たちに大層可愛がられ、小学校から大学まで女子校に通わされた。それ故に純情無垢な八奈は、人畜無害な父親以外、男という生き物を知らなかった。
ある晴れた春の日、大学の門の前でスーツ姿の男に声をかけられる。
「すいません」
急に目の前に現れたチェックのネクタイの付け根を見上げながら、左耳のイヤホンを外す。
「…どうされました?」
ネクタイの付け根のその先にある顔に、八奈は目が釘付けになった。少し年上に見えるその男性からは、香水の甘い香りがした。
「道を教えてほしいんですが」
目尻に皺を寄せて笑う男性は、人事異動でこの県に来たばかりで、道に迷っていたらしい。
「ありがとう、助かりました」
そう言って頭を下げる男性から逃げるように、大学へと戻る。心臓が爆発しそうだった。
講義中もあの美しい顔が頭から離れない。
教科書の余白に似顔絵を描いたり、気が付けば顔がニヤついていた八奈は、初めての感情に動揺していた。
それから一週間ほど経ったころ、再びあの男性が大学の前に現れた。どうやらあの時のお礼を言いに来たようだった。これで終わらせたくないと思った八奈は、勇気を出して話しかけた。
「あの、お名前とか」
なぜ名前を聞いたのかは八奈本人にもわからない。
だが、この変な質問が功を奏したのか、そのまま近くの飲食店に行くことになり、八奈は生まれて初めて授業をサボった。
男性の名前は祐希。地元は神奈川で、今年から慣れないかの地に飛ばされたと嘆いていた。
祐希は年齢不詳の顔立ちだったが、八奈と十歳も離れている事に驚いた。
「なんの仕事しとんですか?」
「ただのリーマンだよ。神戸はやっぱり、関西弁とはちょっと違うんだね」
「ちょお、ばり恥ずい!気にした事なかったです。変ですか?」
「いやいや、可愛らしいよ。君みたいな人が使うと尚更ね」
この時既に、八奈は恋に落ちていた。
外出の増えた八奈に、母親はその理由を問う。
「毎日どこ行きようと?」
「大学の友達んとこ。めっさええ子なんよ」
盆栽のように繊細に育ててきた我が子の違和感に気づいた母親は、娘の後をつけることにした。
きらびやかな街で、娘が手を振る先に待っていたのは、スーツを着た、顔の整った男だった。
この時点で母親の気は激しく動転していたため、初の尾行は打ち切りとなる。
父親は意外にも肯定的だった。
年頃なのだから当たり前だ、間違えを起こさなければ見守るのが親というものだ。と気づけば説教を食らってしまった母親は、娘の恋愛に輪をかけて否定的になってしまった。
それから一週間程経った晩飯どき、八奈の一言に
天井が崩落したかのような衝撃が一家を襲う。
「子供ができました」
紆余曲折あり、八奈は大学を辞め、家には勘当され、家族と事実上の絶縁状態となる。
祐希はというと、名家の面倒ごとには関わりたくないと、こっそり嫁と娘の待つ地元に帰ろうとしていた。
ところが、八奈はそれを許すほどぬるい女ではなかった。
「奥さんに全部言うたからな」
全て隠せていたつもりだった祐希は度肝を抜かれる。結果として、現在の妻とは離婚し、八奈と入籍。二度と顔を見せるなと実家を追い出された八奈を連れて、神奈川県川崎市に舞い戻ることになった。
5 発症
ケータイを盗み見て浮気を確信した直後、理性が吹っ飛んだ。呑気に眠るダボを叩き起こし、罵詈雑言の限りを尽くした。
浮気癖は治らないと、なにかの本で読んだことはあったのだが、一度痛い思いをしたあの人に限ってそんなことはないと盲信していた。
白い朝日が差し込む冷たい部屋で、つらつらとよく分からん話を続ける男に、もはや未練などなく、浮気から始まった恋は浮気で終わるのだな。と、そんなことを考えていた。
とりあえず無関係な息子だけは守ろうと、それだけを胸に誓って学校に送り出した。
入れ替わりで帰ってきた夫の難しい話に適当に相槌を打っていると、気づけば離婚していた。
その日の夜、元夫は荷物をまとめて家を出て行った。玄関を出る間際、拓也の頭を撫でながら何やら言っていたが、私の感情はピクリとも動くことはなかった。
拓也は賢い子で、小学三年生ながらに何かを察したのか、リビングのソファーから一歩も動かない私に何も言わず、その日は部屋にこもっていた。
拓也が産まれたのと同時期に、オスとメスの猫を飼った。オスのほうがブチで、メスはマチ。元夫に一向に懐かないことを私と拓也で笑っていたが、今思うと奴の心の冷たさを読み取っていたのかもしれない。
真っ暗で音もしないリビングで未だ放心状態の私に、ブチが擦り寄ってきた。
グルルと喉を鳴らしながら私の腕と腰の細い隙間に顔を埋めている。
気づけば涙が溢れていた。
私の人生はなんだったのか。
あの男はもうどうでもいいはずなのに。
この場に残された不安を片付けようとすると、あの男の顔がチラつく。生活費は?養育費は?ケータイとか、ガスとかの契約は?
甘やかされて育った私は、社会について知らないことがあまりにも多すぎた。
あれから二ヶ月ほど経っただろうか。
鬱屈とした気持ちは晴れるどころか、その暗い底はどこまでも続くように落ち続けている。
起きる時間もまばらで、お腹が空くと冷蔵庫のものを適当に食べていた。立ち上がる気力すらなくて、気づけば涙が流れている。飽きるほど繰り返した日常を飽きずに繰り返していた。
拓也は、毎日決まった時間に起きて、決まった時間に帰ってくる。
私に似てよくできた人間だ。
一昨日くらいから夏休みが始まったのか、拓也は部屋に篭ることが増えた。
6 発表
「大すきなお母さんとお父さん」
ぼくのお母さんとお父さんはとってもなかよしです。お母さんはおかしをかってくれて、やさしくて、とてもかわいいけど、おこったらこわくて、テレビでみるげい人みたいなはなしかたになります。
お父さんはとてもかっこよくて、やさしくて、でも、ブチとマチにきらわれています。
ブチとマチはぼくの兄弟です。
生まれたときからいっしょの、大じな兄弟です。
授業参観で読んだ家族の話に、みんなは拍手してくれた。後ろを見ると、お母さんは泣いているみたいだったけど、僕と目が合うと笑ってくれた。
そんな大好きな家族が、こわれた。
夜、寝ているとお母さんが叫んでいる声で目が覚めた。物を投げているのか、がちゃんと大きな音もして、大変だと思った。
見にいこうと思ってドアの前に行くと、マチがいて、大きな声で鳴いた。
「にゃあー」
「どいて、マチ」
「にゃあー」
「行くなって言ってるの?」
「にゃおー」
マチは僕の足の周りを一周した後、ベットに飛び乗った。
マチが一緒に寝て欲しいときの合図だ。
僕は仕方なく回れ右をしてベットに戻り、マチを抱きしめて目をつぶった。
しばらくするとお母さんの声もしなくなって、僕は眠っていた。
朝起きると、目が腫れて髪もボサボサで、まるで別人みたいなお母さんがいた。
朝ごはんはパンと牛乳だったけど、たまにはこれもいいと思った。
学校から帰ってきて夜ご飯を食べた後、お父さんが家を出て行った。
「出張に行ってくるから」
そう言って頭を撫でてくれたお父さんの目は、全く僕を見ていなかった。
7 発疹
元夫が帰ってきた。行く当てがなかったのか、黙って部屋に隠れているつもりらしい。
拓也の部屋には、知らない子供がいて、拓也は床にぐったり倒れていた。私はその子供を叱って追い出した。
事情を問いただすため、元夫がいるはずの寝室に行くと、あろうことか知らない女とことに及んでいた。
咄嗟に逃げ出した廊下には、よく見ると知らない人がたくさんいた。
おかげで足の踏み場もないくらい、あたしの家が汚れている。
どういうこと?もうやめて
これ以上あたしをいじめないで
8 終発
お母さんが久しぶりに出かけていった。
口紅が真っ赤っかだった。
しばらくして、帰ってきたと思ったら、たくさんのマネキンを家に入れ始めた。
なにしてるの、なにこれと聞いても、にっこりと笑うだけで何も答えてくれなかった。
全部で二十体くらいのマネキンは、僕の部屋にまで入ってきた。
仕方なくマネキンを床に寝かせて、机で夏休みの宿題をしている時だった。
「あんた誰、ここで何しよん」
最初はなんのことかわからなかった。
「拓也、どうしたん、こいつにやられたん」
床に置いたマネキンに必死に語りかけるお母さんをみて、寒気がした。
「うちから出ていけ!」
あの日のお父さんみたいに、こっちを見ていない目でそう叫ばれて、僕は泣きながら部屋を出た。
廊下に散らかっているマネキンを、踏んだらまずい気がして、そろりとリビングに向かった。
リビングのソファーで眠っていると、
「まだおったんか、はよでていき」
とお母さんに起こされた。
今は夜だし、外は危ないからこっそり布団をベランダに運んだ。
ここにいてもバレるかと思ったけど、今日までバレたことはなかった。
昼になると暑くてたまらないから、お母さんが寝ている隙をついて、外に出て遊んでいた。
家に入る時は毎回ドキドキした。そんな生活を繰り返していたある日、玄関を開けると知らない革の靴があった。廊下を数歩すすんで左側のリビングを覗くと、誰もいない。日も暮れて真っ暗なその部屋をそろりと歩いて、いつものようにベランダへの扉を開けると、どこからともなくマチがついて来た。
今日は飛行機公園に行った。友達の春樹くんと、翔太くんがいたから一緒に遊んだ。
学校ではあまり話したことがなかったけど仲良くなったから、早く夏休みが終わって欲しいと思った。
そんなことを考えて、マチを抱っこしながら、ベランダの隙間から見える街の明かりを眺めていると、背中側にあるドアの鍵が締められる音がした。ゆっくり振り向いてもそこには誰もいなかった。夜は風が涼しい。マチは相変わらずあったかい。今日は楽しかった。
眩しくて起きる。いつものこと。
そろそろ暑さに耐えられなくなって、リビングを覗く。お母さんは、いない。「いまだ!」と手をかけた扉はぴくりとも動かない。
ドンドンとガラスを叩いても、誰も気づいてくれない。そういえば、しばらく何も食べてない。
このままここにいたら僕はどうなるんだろう。
もう、何かを考えることもできない。
ただ、暑くて、喉が渇いて、お腹が空いた。
部屋の中からお母さんの笑う声が聞こえてくる。
それを聞くと、ぼくのだい好きなお母さんとお父さんを思い出して、泣いてしまう。
今はただ、暑くて、喉が渇いて
9 出発
元夫が帰ってきたその日は、家が賑やかだった。最初は困惑したけどすぐに慣れた。
でも気づいた。喋っているのは私だけだ。
それにドッと疲れて、ソファから動けなくなった。お腹も空いた。ここは五階のはずなのに、ベランダから視線を感じる。
そんな時、足もとから音もなく拓也がやってきた。
「お母さん、大丈夫?」
「うん、お母さんは元気よ。最近ちょっと疲れてたけど、もう大丈夫。みんないるしね」
「そっか、よかった。僕、お腹すいた」
「ごめんね、作る気力がなくて。今日からは作るね」
「ありがとう。ところでお母さん、
拓也はどこ?」
「えっ?」
「にゃあお」
お腹がすいた。目ヤニでまぶたが開かない。
喉は焼けるように痛いし、目の前に見える自分の腕は枝のように細い。
そんなとき、目の前にあったかくて、白くて、いい匂いのする肉まんが降ってきた。
今はもうなんでもいいから口に入れたい。
思いっきりかぶりついて、咀嚼する。
肉汁が溢れ出てきて、顎を伝う。
軟骨?硬いものが多いが、これもまたいい。
ん、髪の毛入ってるじゃん、クレーム言わなきゃ。
誰か来た
10 発見
「暑いですね」
「暑いな」
「アイス、買って行きません?」
「アホか、仕事中やぞ」
「西野さん、警察のものです。異臭がすると通報がありまして、ご在宅ですか?」
「ほんと、すごい匂いですね…」
「アホォ!聞こえたらどないすんねん」
「あいたぁ、叩かなくても…」
「悪かった、謝るから静かにしてくれや」
「これ、鍵開いてるんじゃないですか?」
「ほんまやな、西野さん、入りますよ」
「うわっ、びっくりした、マネキンか」
「おっきい声出すなや」
「すいません、つい。僕、リビング見てきます」
「うわっ、先輩!先輩!!」
「なんやねん!騒がしいのお!」
「…この人、猫食べてます」
「どうでもええ。まだ生きてはるかもしれん、脈調べえ」
「っ、くぅ〜」
「こちら川崎署皆口。例の異臭騒ぎの件、意識不明者あり。至急応答願います」
「どうや、生きたはるか」
「はい、ただ相当やばいと思います」
「俺ら素人が口出すもんちゃうで。
びょーいんのセンセ呼んだから、俺らは俺らで異臭の原因探さんと」
「は、はい…」
「しかし暑うてかなんわ、窓開けてくれ」
「あれ、現場動かしていいんですか?」
「殺人やなさそうやし、出る時閉めたらええねん」
「うわ、僕無理です!すいません!」
「おい、吐くなや!あとうっさいねんハゲぇ!」
「ずいまぜん、おえぇ。でも見てくださいこ、おええぇ」
「もうええ、退けや」
「こりゃ確かに酷いな。ネグレクトか。
てゆうか顔どうなってんのこれ。猫に食われたんか」
「えっ、猫って人食べるんですか?」
「…まあええわ。俺たちの仕事はここまでや。
お前、さっさとゲボ片付けぇよ」
報告書
令和五年八月十五日午前十時ごろ、神奈川県警察川崎署地域第二系に地域住民より「近隣から異臭がする」と通報が入る。
皆口光太郎巡査部長は同僚である坂口公平巡査を連れ、通報があった川崎市のマンションに向かう。
何度かインターホンを押したが反応がなかった。ドアノブを回したところ開いたため中に入り調査を始める。廊下には、服飾屋でよく見られる型のマネキンが散乱していた。
リビングのソファーにて意識不明の女性を発見。その傍には、腹が裂かれた猫が死亡していた。この女性は脈があったため、直ちに救急に通報している。
さらにベランダにて、十歳前後の男の子を発見。顔面に多数の傷があり、腐敗しているように見えた。室内をくまなく探したが、凶器のようなものは見つかっていない。
じきに到着した救急班によって死亡が確認されている。
現場検証の結果、女性の横で死亡していた猫の歯から、息子と見られる男の子の皮膚細胞が検知された。
神奈川県警察署地域課では、保護者責任遺棄等罪として、病院に搬送後、意識を回復した母親、西野八奈(34)から事情聴取をすることとした。
11 発言
有名なライターになりたくて上京した私は、過酷な職務に追われていた。
現実はとんとん拍子に行くわけないとは思っていたが、こんなに辛いとも思っていなかった。
以前無理矢理やらされた心霊スポットの記事が少し跳ねたこともあって、この手の話題があるとすぐに取材にいかされるようになった。
今日も社長が“ある筋”から仕入れたという育児放棄の母親の元に話を聞きにいけ、と、神奈川県川崎市に向かっていた。
どうやら母親に責任能力が認められず、不起訴になった事件で、その凄惨さから一部のモノ好きが真相を知りたがっているらしい。
事件の概要を聞いたら、社長はいつものように目線を落とし、小声で囁くように言った。
「死んだ息子を食った猫を母親が食った」
それを聞いた私は「はぁ」と、ため息なのか、相槌なのか、曖昧な返事しかできずに会社を出た。
そもそもどんなに行きたくなくても行くしかないのだ。拒否しようもんなら私の首なんてすぐに飛ぶ。今の私にできるのは、事実を書くことだけだった。
「こんにちは、週刊誌の取材で伺いました。
西野八奈さんのお宅でしょうか」
本当はオカルト雑誌なのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
返事はなかったが、すぐに扉の向こうに人が走る音が聞こえて、それが勢いよく開いた。
「いらっしゃい!どうぞ中に」
驚いた私は吸い込んだ息を吐き出す事ができなかった。その女性は痩せこけており、髪はボサボサ。コバエのような虫が頬に止まっているが、気にするそぶりはない。
今まで数々のホラースポットに行ったが、これほどの恐怖を感じたことはなかった。
生きている人間が一番怖いとは本当の事だったのだ。
女性の顔の後ろに見える廊下は昼なのに薄暗く、
マネキンの腕や足が転がっていて、とてもじゃないけどこの中で取材なんて出来るわけがないと全身が震えていた。
「さ、早く入って。マチがでてっちゃう」
恐怖に溺れていた私は、その言葉にハッとする。
彼女の足元には一匹の猫がいた。マチとはこの猫のことだろうか。
なんとなく、断ったら殺されると思った私は、意を決してお邪魔しますと室内に入った。
予想通り散らかっているリビングで、「お茶」だという不気味な飲み物を出される。
「いただきます」と飲むフリをしてから、部屋を紹介して欲しいと告げる。ライターというのは図々しさがものを言うのだ。
しかもなんとなくこの女性は、私という訪問者を喜んでいる気さえした。
「まずは寝室」と紹介された部屋の大きなベッドには、二体のマネキンが横たわっていて、
それを元旦那と知らない女だと言い、呆れたように笑っていた。
そこに隣接した「子供部屋」には違和感があった。学者机の椅子にマネキンが座っているからではない。本当に子供がいたとすれば必要なものが一切無いのだ。
ベッドはあるが、毛布がない。おもちゃや教科書などもない。異様に片付いたその部屋を眺めていると、背中をえぐるような視線に気づく。
「ここは何にもないやろ。取られたんよ、警察に。拓也のもの全部。やからこの子も喋られへんようになってもうた」
そういって椅子の上に“置かれた”マネキンの背中をさする手はまさしく母親のものだったように思う。
確かに異様だが、不思議なもので早くも慣れてしまった私は、リビングに戻って社長の言葉を思い出していた。
「息子を食った猫を食った」
この言葉が事実なら、息子も猫も死んでいるはずだ。だがこの家に子供がいた形跡はないし、ずっとついてくる猫も、少し汚いが大きな傷は見当たらない。もしかすると、全てこの気狂い女の妄想なのではないかと思っていると、ベランダに続くすりガラスの向こうに、何やら物が散乱していることに気づいた。
「ベランダも見ていいですか?」
そう言いながら私は取手に指をかけていた。
「ええ」
痩せこけて落ちくぼんだ目を細くして笑う気味の悪い返事を受け、開いた扉の先には、想像を絶する光景があった。
すりガラスの扉から落下防止の柵まで、およそ60センチほどの幅には、雨で黒ずんだ布団が置いてある。はじめは、洗濯物だと思った。あの女性が取り込むことを忘れていたとしても、なんの不思議もない。
だがそれを否定するようなものが、狭いベランダに転々と散らばっている。
今流行りのキャラクターがあしらわれた掛け布団の上には、黒いランドセルが置かれていて、室外機の上には筆箱と教科書が綺麗に整頓されている。
隣室との壁の隅に置かれた箱の中には、ロボットのおもちゃが入っていた。
ここに、住んでいた?息子が?
まとまりそうな思考が怖くて、勢いよく扉を閉めた。
振り返ると、まださっきと同じ表情の女性がこちらをずっと見つめている。よく見ると、口が動いていて、何か言葉を発しているようだった。
聞きたくない。真実を知りたくない。この場から逃げ出したい。社長の怒った顔が頭に浮かんだが、今はもう逃げることしか頭になかった。
はやく人がたくさんいる場所に行きたい。それから落ち着いて、それっぽいことを書けばいい。
「ご協力ありがとうございました。失礼します」
震えた声でそう告げながら、微動だにしない女性の横を通り、玄関に向かう。
すれ違いざまに聞こえてしまった。さっきからずっとボソボソ言っていた言葉が。
「おいしかった、おいしかった」
香/貌 @Nontan331
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