第2話




第三章


 嫌な汗をかいて意識が戻る。

ため息をついてまだ眠いまぶたを薄く開ける。ソファに横たわる愛おしい寝顔が豆電球の灯りに照らされて、思わずその髪を撫でる。

いつのまにかかけられていたブランケットを太ももで挟むと、もう一度深く目を閉じる。


一年二組 浪花 香


 中学二年生の夏、お父さんを亡くした。

止まらない咳に違和感を覚え、医者に頼った時にはもう遅かったらしい。病名なんて覚えてない。思春期真っ只中の私に、いつも優しくしてくれたお父さんが大好きだった。

これからはお母さんと二人きりの生活になるから私もしっかりしなきゃ。と前を向こうとするけど、お父さんの笑顔や、タバコと太陽の混ざった匂いを、ふと思い出しては泣いてしまう。


 ある日の昼休み、タバコを吸ってきたであろう坂口先生と渡り廊下ですれ違う。その匂いに当てられて、胸が詰まった私は誰にも気づかれないよう屋上に走った。いつまでもこんなんじゃお父さんもお母さんも安心できないのはわかってたけど、中学二年生の自分にこの感情はコントロールできなかった。

「大丈夫?」

びっくりすると涙は引っ込んでしまうらしい。

その優しい声に目をやると、一人の男の子が

心配そうにこちらを見ていた。

少しクセのある髪が夏のぬるい風になびいて、切れた雲間から差し込む光の柱が彼を照らした。

その顔は石像のように整っていて、上からの日差しに濃い影を落とした綺麗な瞳は、その視線の先を知り得ない不思議な魅力を持っていた。

「うん、ありがとう。大丈夫だよ」

彼は「そっか」と子供のように笑うとスタスタ歩き、暗い階段に吸い込まれていった。


 一人泣いていた屋上に突如現れ、太陽に照らされて光り輝くイケメンに、興味を持つなというのは酷な話だ。

私はもちろん彼を探していた。隣のクラスの中央で友達と語らう彼を見つけたのは、捜索開始から一分のことだった。こんな近くにいたんだと自分の注意力に落胆しながらも、気づかれないようにまだ名前も知らない彼を眺めていた。

プライバシーのかけらも存在しない学校という空間で彼の情報を集めるのに苦労はしなかった。

名前は西野祐希で血液型はA型。

12月20日生まれのいて座で身長は…と得意げに語る菜々に「ストップ!もういいよ!」と両の手のひらを向ける。

「ひゃくろく…」固まってしまった彼女にありがとうと言いかけると「なになに?ついに香も好きな人できちゃったの?」

と脇腹をツンツンしながらそう聞いてくるので

「そんなんじゃない!」と照れ隠しのように言ってしまった。

どうだか、と不敵に笑う彼女はなんだか憎めない。

「西野くんはやめた方がいいかもよ。こないだも彼女泣かせてたし〜」

彼女、という言葉に胸のあたりが痛む。

「そんな悪い人には見えないけど」

咄嗟に肩を持つようなことを言ってしまった。

「噂によると、名前を呼び間違えちゃったらしいよ。ひどいよね」バスケ部の決まりなのか、長かった髪をバッサリ切った彼女は昔から大人びていた。


 あの日、折れてしまいそうだった心に、光の柱を差し込んだ彼が頭から離れない。胸のざわめきや彼を捜してしまう視線が、恋によるものだと理解したのは、あの日から半年ほど経った頃だった。


 恋は私を前向きにした。三年生にあがると、お父さんを思い出して泣くことも減っていた。

西野くんと同じクラスにはなれなかったのは残念だったけど、今はまだ遠くから見ているだけで満足できた。恋する季節はあっという間に過ぎ去って、私たち三年生は一つの決断を迫られていた。


 「私、みちゃった」夕暮れの帰り道、“一球入魂”と胸に印字されたシャツと、膝下まである中途半端な丈のズボンを見に纏い、肩掛け用のバッグを背中に背負った菜々が言う。

「はいはい」いたずら好きの彼女をいつものようにあしらうが、それでもめげずに、今度は物憂げな表情まで作って語りだす。

「私見ちゃったんだ「はいはいわかったから」西野くんの進路希望のプリント」私に遮られても続いた言葉に「え!ほんとに!?」と大きな声が出てしまう。へっへ〜ん!と得意げなオレンジ色の横顔に腹が立ったけど、ぐっと堪えて聞いてみる。

「どこだった?」

「そんなに知りたいかね?」今度はおじいさんのような口調でそう言う背中のバッグを「おら!教えろ!」とグーで小突いた。

一通り笑い合って、すっかり陽が落ちてしまった頃、私たちは小さい頃によく遊んだ「飛行機公園」のベンチにいた。

西野くんの第一志望は隣町の公立高校らしい。

中学生の自分にいわせると、そこは「頭のいいとこ」で一気に頭の中の彼が遠のいた。

第二、第三志望の欄は空白だったことを聞いて、なんとなくその性格を窺い知れた気がした。

「イケメンで頭もいいなんてズルい」

黒い小石を蹴り飛ばしながら言うと

「香ならいけるでしょ!」と優しく背中を叩かれた。「決めた!私もそこにする。だから一緒に頑張ろうよ」ね?と珍しく本気な菜々は、私の迷いを消してくれた。


 それからは、部活動を引退した菜々と寝ても醒めても勉強に浸かった。何かに真剣に取り組んだのはこれが初めてのことで、二十三時頃に

お母さんが作ってくれるホットミルクが大好きだった。

いつもより早い朝食をとると、いつも通りに仏壇に手を合わせる。「頑張ってくるから応援してね」心の中でつぶやいて、「行ってきます!」と靴を履く。「頑張ってね」と手を振るお母さんは、私よりも緊張してるみたいだ。

まだ眠たい街を起こさぬようにと静かに歩く。

いつもと違う道をゆき、いつもとおんなじ猫に会う。白く漂う鼻息を、走るスーツが追い越して、東の空の太陽の、寝ぼけまなこと目が合った。

駅に着くと人の多さに驚く。私を呼ぶ声に振り返ると鼻の辺りまでマフラーに埋まっている菜々がいた。「いよいよだね」私はひとつ頷き改札口に向かう。どこかにいるはずの西野くんを捜す視線は、学生服を懐かしむ疲れた背中に阻まれる。なんとか電車に乗り込み小さく座るとしばらく忘れていた呼吸をし、もし合格したら毎日これか、とある種の理想にげんなりする。


 目指す校門を目の端に捉える。様々な制服が吸い込まれていく。私たちも同様にその先の緩やかな坂を登る。さっきから壊れたようにぶつぶつと独り言ちる菜々を横目に、その広大な敷地に想いを馳せる。絶対にこの場所で彼と過ごすんだ。邪にも思える動機を胸ポケットに忍ばせて、私は見慣れぬ机上の紙を睨んだ。


 終わってみると早かった受験は、底知れぬ開放感を与えた。

というにはあまりに覇気がない菜々は俯き、

「とぼとぼ」音を出して歩いていた。

「香ぃ、私がいなくても頑張っていける?」

洟をすすりながら眉を八の字にする菜々の今日に至るまでの努力は、私が一番知っている。

「菜々が落ちてるなら私も落ちてるから」

「そっか、それもそうだね」一転してけろっとした表情の菜々にまた腹が立ったけど

「ひとまずおつかれさま、私たち!」と抱きついてきた身体を、私は喜んで受け入れていた。


 雨風に散った桃色の花びらを踏みしめて、緩やかな坂を駆けあがる。あれから自己採点をして自信を取り戻した菜々が私の斜め右を駆けていく。涙を堪えて坂をくだる生徒とすれ違い、私は足を止めてしまった。胸がざわめき、あらぬ妄想がふくらんでゆく。

「香、早く!」小さくなった菜々が叫ぶ。

校舎の壁に貼られた四枚の大きな白い紙の前には共に闘った同志が集まっていた。

恐る恐る近づくとその紙に文字が浮かび上がる。頭の中の四桁を必死に探す。

あった。

途端に肩が軽くなり、血の循環のその細部までわかる気がした。

お父さんありがとう。合格したよ。

お母さんも毎日ありがとう。

菜々にも早く知らせたい、と人混みの中に彼女をさがした。

気づけば目の前にいた彼女の肩を叩く。振り返ったその顔は私と同じく喜びに満ちていた。

ありがとうおめでとうと言い合った二度目の抱擁は、あの時よりもずっと暖かかった。

軽い足取りで家に帰り、ただいまの代わりに「受かったよ!」と伝える。バタバタと台所から出てくるなり泣いて喜ぶお母さんは、やっぱり自分よりもずっと緊張していたようだった。


 百年に一度らしい大寒波は、今年もご丁寧に“到来“していた。

合格の余韻が抜けない私は、首まですっぽりコタツに入り幸せな妄想を膨らます。

結局西野くんを見ることはなかったけど、ちゃんと受かったんだろうか。同じクラスだったらいいな。高校生になったら話しかけてみようかな。でもなんて話しかけよう。そうだ、あの時声をかけてくれたお礼を言わなきゃ。でも覚えてなかったらどうしよう。

堂々巡りの思考の中、気づけば夢の中だった。

お父さんが運転する車に揺られて、知らない街を走っていた。「ここどこ?」と眠い目を擦りながら訊ねる。私の声に肩を弾ませた父は、悲しみに満ちた顔でこちらを振り返り「早く降りなさい」と告げる。「どうして?」と返す声は鬼気迫る母の声に遮られた。

「香!起きて!香!」

辛うじて開いた目は、慌しい白衣の大人たちを捉える。横を向くと母がぼろぼろと涙をこぼしながら何かを言っているようだったが、私のまぶたはふたたび閉ざされてしまった。


 一定のリズムを刻む電子音と、母とよく行く薬局のような匂いに目を覚ます。

安らかな寝息が聞こえて左を向くと、くたびれた様子の母が座ったままで眠っていた。

「お母さん?」動かす口には薄い緑色の管がついていた。なにこれ、と触れる手首にも同じように管がついている。理解し難い状況に慌てふためいていると、それに気づいた母親は私の意識が戻ったことに心から安堵しているようだ。

殆どわかってるけど念の為にここがどこかを問うと、母は◯◯病院だと答える。

こたつで眠っているとき、突然苦しそうにもがきだしたから急いで救急車を呼んでくれたらしい。どこも痛くないことや、意識もハッキリしていることを伝えると、母はようやくいつもの優しい顔に戻った。「お医者さんを呼んでくるね」母が席を立つと同時に、白い引き戸が滑らかに開いた。そこには白衣の男性がいて、「意識が戻られましたか」とこちらに歩み寄る。

深々と頭を下げる母に倣うと、呼吸器科と書かれたカードを首から提げた男性は言う。

「命に関わるかもしれません」

主語も何もないその言葉に、バケツで水をぶっかけられたようになる。続けざまに聞き覚えのある病名のような言葉を発すると、それを聞いた母はまさに絶望といった表情になる。

再検査が必要とか、遺伝性のものとか、漢字だらけのその声を、私の脳は理解しようとしなかった。「非常に症例も少ないため信ぴょう性に欠けますが」と前置きをして、「罹患者の余命は一年から三年」だと告げた。

余命なんて寿命を言い換えたようなもので、要は誰にだって余命はあると思っていたけど、医者の口から聞こえると途端にその意味は変わってしまうのだな、と変に冷静だったのもその実感が全くといっていいほど湧かなかったからだろう。ガンがみつかったとかならわかるけど、私はこたつで寝てただけだもん。

こたつで寝て、起きたら病院で、余命宣告。

そんな笑える状況で、誰一人笑ってないことが、この現実を痛いほどに突きつけた。


 三日間の検査入院を終えて、久しぶりに家に帰った。あのお医者さんも最初は冷たい人だと思ったけど、たったの三日で私を勇気づけてくれたすごい人だった。運動も好きなだけしていいし、治療法だってきっとみつかるって。

母に心配をかけぬように明るく伝える

「運動もしていいし、学校にも普通に通っていいんだって!はぁよかった〜。」

「よかったね、勉強頑張ったもんね」涙声の母に

「やだなぁいつまで泣いてるの」と言いながら泣いた。本当はあの時病院で目が覚めてからずっと泣きたかった。早く帰りたかった。お母さんに笑って欲しかった。菜々に会いたかった。屋上の時みたいに西野くんに慰めて欲しかった。

沈みゆく夕陽が、悲しみの淵にいる母娘をそっと匿した。


 泣いて泣いて泣きやんだら、嘘みたいに晴れやかな気持ちになった。充電の切れていたケータイを見ると、たくさんのメールが届いていた。その大半を菜々が占めていたのはおおかた予想通りだったけど。

菜々だけにはこのことを打ち明けるつもりだった。心配されるのは好きじゃないけど、親友に隠し事をするのはもっと好きじゃない。

『ごめん、病院にいた』わざと含みを持たせたメールを送る。ほんの数分後、外で自転車の甲高いブレーキ音が鳴ったと思えば、すぐにウチのインターホンも鳴った。

脱いでいたスリッパを履き直してドアホンの通話ボタンを押す指を、「香!」と扉の向こうの声が制止する。

「早すぎでしょ」笑いながら玄関の扉を開くと、涙と鼻水をたらして、肩で息をしている菜々がいた。扉を開けたのが私だということを確認するや否や「心配したんだから」と飛びかかる。涙も鼻水もお構いなしに擦り付けてくる頭を引き離すことはせずに「ごめんね」と呟く。なんとか正気に戻した菜々をリビングへ通す。お邪魔します、と腰を直角に折る姿に私も母も笑っていた。気を遣ってくれたのか買い物に行ってくるという母を見送って二人きりになる。いつになく真剣な眼差しの菜々に、私は言葉を探していた。

できるだけ心配をかけたくないけど、嘘もつきたくない。何分かの静寂に耐えられなくなって言葉は勝手に飛び出した。

「お父さんとおんなじ病気になっちゃった」

父が亡くなった時も私と同じように悲しんでくれた菜々は、その言葉を理解するなりボロボロと泣き始めた。もう出し切ったと思ってた涙はまだ残っていたようで、二人して泣いた。

会話できるほどに落ち着いた頃、私自身悲観していないこと、高校にも通えること、そして今まで通り友達でいて欲しいことを伝えた。

未だ泣き止まない菜々は首をブンブンと縦に振るだけだったけど、それはとても有り難くて尊くて、菜々と出会えてよかったと思えた。

いいタイミングで帰ってきた母が、「菜々ちゃんも」とたくさんのお寿司を買ってきてくれた。

とても幸せなその空間に、涙の跡は消えていた。


 「いってらっしゃい、また学校でね」

笑顔の母に見送られ、小春日和の朝を歩く。

すっかり絶望から立ち直ったこの足取りは踊り出しそうなほどに軽い。

ぶかぶかの制服を着た私たちは、時間通りに来る電車に乗り、受験の時より空いている席に深く腰を落とす。出発時刻まで開きっぱなしの扉の向こうを眺めていると、左胸に私たちと同じワッペンをつけた男の子が乗り込んできた。ぐんと跳ね上がる心拍を必死に抑えていると、それに驚いた菜々が私と彼を交互に見て、ニヤリと笑う。

「おーい西野くん!」

よく通る菜々の声に、背を向けて歩き出していた彼がこちらに向きなおる。「西野くんも受かったんだね、おめでとう」という菜々に隠れて「おめでとう」と小声で言ってみる。

少し間をおいて「うん、ありがとう」と微笑んだ彼は、少し離れたところに座った。久しぶりの西野くんに見惚れていると「ちょっと!」と“大きな小声“で菜々がいう。

「いつまで緊張してんの!なんのために大変な勉強してきたの!西野くんと仲良くなりたいんでしょ!」そう言われてハッとした。

訪れるかもわからない遠い将来のために「頭のいいとこ」を選んだのではない。今あそこで大きなあくびをしている彼と仲良くなるためだけに頑張ってきたんだ。

「そうだった、ありがとう」という私の肩を、頑張んなさいよ!と叩いてくれた菜々の顔は差し込む朝日に照らされていた。


 三度目の門を過ぎると引越し先の新居に来た気分になった。下駄箱の前にはそれぞれに割り当てられた教室を示す紙がある。群がる人の隙間から首を上下左右に動かして浪花の文字を夢中で探す。ようやく見つけたその文字は、四枚貼られたその紙の右から二番目、一年二組にあった。「どこー!?」とまだ探している様子の菜々の苗字である川口も見つけてやろうともう一度紙をみる。すると、さっきは気づかなかった西野の二文字が目に飛び込む。それは浪花の文字のすぐ後ろにあった。これまでの全てが報われた気がして思わず漏らした感嘆の声に、周囲の注目が集まる。「すいません!ごめんなさい!」恥ずかしくなった私は、先ほどより大きな声で「どこー!?」と困り顔の菜々を置いて一年二組の教室へと走る。蛍光灯の光を反射して光っている油粘土のような色の廊下を走り、懐かしい木材の香りがする教室へと足を踏み入れる。そこにはすでに何人かの人がいたけど、席についているのは真ん中あたりの女の子一人だけだった。すごい勢いで駆け込んできた私は、またもや周囲の注目を集めながら自分の席を探す。黒板を見るとご丁寧に図で示されていたそれはこの教室のど真ん中で、あの女の子のすぐ後ろだった。周囲の視線が痛い私はひとまず席に着いてカバンから何かを探すフリをする。そうこうしているうちに空席もだんだんと埋まってきて、ついにこの後ろの席にも人が座った気配がしたけど、話しかけることはおろか、振り向くことすらできなかった。

しばらくすると、メガネのおじさん先生が入ってきて、軽い自己紹介を始める。

川口さんか川口くんが座るはずの右隣は未だに空席だ。まさか菜々ではあるまいなと考えていると、「やっと見つけたー」とご本人の登場につい吹き出してしまった。

先生に軽くいじられた菜々に、教室中が笑顔になった。


 高校の授業はとっても難しくて、思い描いたキラキラの高校生活のようにはいかなかった。

六月の蒸し暑い雨の帰り道、間違えて妹のを持ってきたと、可愛いキャラクターが描かれたピンクの傘を差した菜々がいう。

「西野くん、大人気だね」

「そうなの?」そうだろうな、と思いながら返す

「香なら絶対いけるのに、いつまでもモタモタしてたらとられちゃうよ」

でも、と傘の端の雫を見つめる私の頭には病気のことが浮かんでいた。菜々が余命のことを分かった上で今を楽しもうと言ってくれていることはわかるけど、私はこの病気を彼に話しかけられない言い訳にしてしまっていた。

「いつまでもそんなんだと、私も狙っちゃうゾ」

星が飛び出してきそうなウインクを決める菜々に「わかったよ」と覚悟を決めた。


 例の病魔はじんわり確実に私の体を蝕んでいた。朝の支度をしていると発作を起こしてしまい、最初の学力テストを受けられなかった。

言い渡された補講に納得いかなかったけど、意外なことに西野くんもその対象だったから、きたる夏休みに思いを馳せた。


 弾む会話のイメージに頬を緩ませて、真夏の空に繰り出した。お隣のお父さんが家族でキャンプにでも行くのかレジャーシートを畳んでいる。早起きのセミが鳴き出して、どこまでも続くような空を見上げる。あぁ見えてちゃっかりしている菜々は補講をパスしている。

冷房の効いた電車には、いつもは吊り革を掴んでいたおじさんが大股を広げて座っている。

いつもと少し違う日常に心が躍る。

乗り換えたバスは学校に向かい、私は外を眺めていた。交差点をゆっくり曲がると街路樹の向こうに自転車を漕ぐ西野くんを見つけた。

人知れず高鳴る鼓動をそのままに彼を目で追っていると、コンビニの壁に立てかけられた色鮮やかな看板が目に入る。「◯◯公園夏祭り 8/31」きっともう後ろの方でくたびれている西野くんを思い浮かべ呟く。

「誘ってみようかな」


 一時間目の補講が終わって、未だに話しかけられずにいた。どうしても最初の一言が出てこない。そんな時おもむろに席をたった西野くんは、教室を出て駐輪場へと歩いてゆく。

もしかして帰ろうとしてるんじゃ、と思ったと同時に話しかけるなら今しかない、と私も教室を飛び出していた。

「おーい!」思ったより大きな声が出てしまう。

はてなを浮かべて振り返る彼に続ける。

「なにしてんの!補講、あと一時間あるよ」

つい友達と話すように言ってしまった私はテンパっていた。馴れ馴れしいと思われたらどうしよう、いきなり嫌われちゃったかも、なんて心配をよそに、彼はあの時と同じ笑顔で微笑むと

「そうだっけ?」と返す。

「ていうかお前あの時の」という少女漫画的展開は私の脳内だけのものだったようで、それ以上なにも言ってこない彼をつまらなく思った。膨れっ面で背中を見せると彼はとぼとぼ着いてきた。


 緊張して「一時間」と言ってしまった補講はあれから二時間後に終わった。

それを律儀に覚えていた彼に小言をいわれても笑って返せるほどに私の緊張はなくなっていた。これからの予定などを話しながら教室を後にする周囲の声に、そうだ!とコンビニの看板を思い出す。

「◯◯公園の夏祭り、いこう!」声帯を介さず脳から直接出てしまったような言葉に、彼は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしていたが、なにより自分が一番驚いていた。調子に乗りすぎたと反省したのも束の間、断られる前に先手を打つ。時間と場所を早口で伝えて逃げるように教室を出た。坂を下りながら日にちを伝え忘れたことに気づいた私は、戻らなきゃ、でも、と坂の途中でくるくるしていた。


 その日の夜、自室のベッドで今日の出来事を思い出す。夢じゃないことを確かめすぎて右の頬が痛かった。その幸せな痛みを少しでも分けてあげたいと、菜々に電話をかける。

『もしもし』

『あたしも電話しようとおもってた!どう?西野くんと話せた?』

『うん、ほとんど私が喋ってたけど』

『うそ、どういう状況?』

『西野くん、間違えて帰ろうとしててさーー』

目を閉じて、何度でも思い出せそうな今日の出来事を語る。いつもより少し涼しいこの夜に、窓を開けて風を感じる。優しい相槌をくれる電話の声、遠ざかるエンジンの音、夏の匂い、そして“私”に微笑む彼の顔。感じるもの全てがこの体を優しく包んでくれた。


 「よく似合う女性になったね」またもや泣きそうな母は最近涙腺が緩んできたという。

そんな母に、昔使っていたという赤色の浴衣を着せてもらっていた。高校生だった当時、まだ付き合っていなかった父に夏祭りに誘われて、母のそのまた母にこの浴衣を着せてもらったそうだ。それを見た父はとても褒めてくれたそうで、その帰りに告白されて今に至るという。

初めて聞いたそのエピソードに感動しながら

私もそうならないかな、と思ってみる。

だれといくの?の問いに「クラスの男の子」と答えると母はとても喜んでいた。「こんなに可愛いんだからきっとうまくいくよ」いらぬお節介を焼く母に照れ臭くなり「ありがとう、いってくるね!」と、まだ少し早いけど家を出た。

外はまだ暑く、息のしづらい浴衣も相まって

いきなり気分は落ち込んでしまう。

よくもまぁあんなに楽しそうにできるもんだ

と街行く浴衣を眺めながら駅に向かう。

大きなビルの、鏡のようになった窓に映った赤い浴衣の少女はことのほか可愛くて、ただそれだけのことに機嫌が良くなってしまう自分にウケた。

約束の神社についてデパートの時計を見ると、まだ6時20分だった。浮かれすぎた自分を恥じると冷静になる。彼が本当に来るのかを案じたのはその時が初めてだった。ここに来るまで何の疑いもなかったことに驚いた。思い返せばあの時、彼は返事をしていない。来なくても全然おかしくないし、むしろ来ない方が正しいとまで思った。こんな格好をしてるんるんでここまでやってきた自分に泣きたくなっていると、チャラチャラした男達に絡まれた。

最初は無視していたけどだんだん語気も強くなり、腕を掴まれた。ほんとに怖くてどうしたらいいかわからなくなった時「大丈夫?ですか?」

と少女漫画的展開で現れた彼に睨まれて、情けない捨て台詞を吐きながら男達は去っていった。ナンパされた事の恐怖と、カッコ良すぎる彼へのときめきのダブルパンチに心臓は少し破裂していたかもしれない。

息を落ち着かせて、いまだに私に背を向けて男達の向かう先を睨んでいる彼の袖を掴み

「あの…ありがとう」と呟く。

怖い顔のままこちらを振り返ると、驚いた顔になって「きみだったんだ!やっぱり助けてよかった」と悪びれもなく言う。

私だと気づいてなかったことにかなりガッカリ

したけど、知らない人でも助けてあげる優しい人なんだと改めて分かった。

そんな彼と二人きりの空間に耐えられなくなった私は「早く行こう!なくなっちゃうよ」と彼の日に焼けた手を取り、人でごった返す出店通りに連れ込んだ。はぐれないように、食べたかった出店から出店へと忍者のように移動する。買いたいものも買えたので、脇道に入るとそこは結界の外のようだった。背中のすぐ後ろにあるはずの賑やかな声もくぐもって聞こえる。暗くて何だか肌寒いその場所では、数人の疲れた大人がタバコを吸っていた。いまは父を思い出しても泣かないでいられる。こんなに幸せなのだから。ちょうどいいと、大人達から距離をとって石垣の上に腰を下ろす。

結局彼が買ったのはきゅうりの塩漬けだけだった。「それだけでよかったの?」今更聞く私に

「うん、あれ美味しいよ」と目の前に立ったまま微笑む。

可愛い顔に照れくさくなって「河童じゃん」と茶化すと彼は目の尻にシワを作り、声を上げて笑ってくれた。

こんな時間がずっと続けばいいのに。と思うと同時にやはり病気のことが頭に浮かぶ。最高の一日の締めくくりにこんな悲しい顔を見せたら

台無しになっちゃう。河童のくだりでいまだにからからと笑っている彼を横目に、帰ろう!と立ち上がる。「もう?」名残惜しそうな声に胸の辺りが苦しかったけど「お母さんに怒られるもん!」と適当な嘘をついてその場を後にする。彼の言う通り、帰るにはまだ早い時間の駅前はがらんとしていた。同じ中学校だから最寄駅も同じであろうことはわかったけど、楽しければ楽しいほど泣きたくなるこの顔を見られたくなくて、切符売り場の前で告げる。

「今日はありがとう、またね」

震えていたかもしれないその声に彼は

「うん、たのしかった。またね」と優しい顔で手を振っている。

改札を抜けると同時に涙が溢れる。

何で幸せなのに泣かなきゃいけないの

何で病気は私とお父さんを選んだの

何で、と赤い浴衣の袖口をギュッと掴む。

大きな口をいくつも開けて待っていた電車の蛍光灯はいつもより暖かい色をしていた。


 「昨日ぶり!」後ろの席に語りかける私の声は、すっかり元気になっていた。なんて単純な生き物だろうと軽い自己嫌悪に陥るが、昨日の特別な体験を二人だけのものにしている事実が嬉しかった。「なになにお二人さ〜ん。いま、昨日って言った〜?」全部知っている菜々がわざとらしく煽ってくるが、それすらも心地よかった。

当の彼はというと、綺麗な瞳をあちらこちらへ泳がせて、驚くべき言葉を発する。

「同じクラスだったんだね」

一瞬時が止まってこの呑気な男を怒鳴りつけてやろうかと思ったけど、手を叩いて笑う菜々をみてその怒りもおさまり、この感情は呆れに変わった。「ずっとここにいたんだけど!」やっぱりまだ怒っていたかもしれない言葉に

ごめんって、と平謝りをする彼をいとも簡単に許してしまうのは、惚れた女のサガだろう。


 山がその色を変える頃、彼は私の幻想をことごとく砕いていた。

とはいっても悪い意味ではなくて、中学二年生の初登場シーンのせいで神様みたいに尊くて遠い存在だと思っていた彼も、話してみれば優しくて顔のいいただの男子高校生だと気づいたのだ。今ではすっかり普段の自分で話せるようになった彼と、休み時間に教室から見える山を見ながら紅葉の話をしていた。父に付き添ってよく登山に行ったことを思い出し、勢いに任せて彼を誘う。「山にいこう!デートだよ!」勢いに任せすぎたこの口は、またもや脳で考えるより先に言葉を発した。デートという言葉が耳の中で繰り返される。教室を出ようとしていた女の子もその言葉に足を止める。クラス中がざわめき出して恥ずかしさに押しつぶされそうになっていた時、「おう」と俯き加減に彼はこたえてくれた。

その言葉に周りの反応などどうでも良くなる私はやっぱり単純だ。

待ち合わせ場所のバス停に着くと見るからに寒そうな彼がいた。「おーい!」遠くから叫ぶとこちらに気づいて微笑んでくれる。私に気づいた彼の顔が私はとっても好きだった。

バスは横並びで座るものだと、乗り込んでから気づく。本当はその綺麗な横顔を眺めていたかったけど恥ずかしくて、通路側に座るんだったなと後悔して窓の外を眺める。

しばらくそうしていると突然彼が笑う。

何かを小馬鹿にしたようなその笑いに「なんだよ!」と振り返る。

「楽しそうだなと思って」そういって笑う彼が眩しくて、私はまた窓を見る。トンネルに入って鏡のようになったそれに映る彼をこっそり盗み見ていた。

寒い寒いと言いつつもしっかりついてくる彼を尻目に、頂上まで登る。

どう?いいでしょと自慢げにいうと、彼はキラキラした目で360°を見渡した後に言った。

「うん、また行こう」

少しズルだけど彼に初めて誘ってもらった喜びを噛み締めて応える。

「うん!」


 一年に一度の文化祭は、準備期間の時点で学校中を浮足立たせた。かくいう私もその一人で

いつも一緒に帰っている菜々に「今日は先に帰ってて」と伝える。

「了解なり」彼女はコ◯助風に言うと高らかに笑いながら帰っていった。

めんどくさい班に巻き込まれて遅くなりそうな彼の自転車にまたがって、汗ばんだ体を「デオドラント」と書かれたシートで拭いた。

すっかり日が暮れた頃、シャツをパタパタさせながら彼はやってきた。自分の自転車に人が乗っているはずがないとキョロキョロしている彼を面白おかしく眺めていると、ようやく気づいたのかいつもより少し低い声でこう言った。

「それ僕の」

暗くて私を誰だかわかってない様子だ。

「もう暗いから一緒に帰ろう」

彼の口調を真似て茶化してみる。

「浪花?」

初めて名前を呼んでくれた。と母性にも似た感情が涙を流す。ただこれまでの仕返しをてやろうと少し意地悪をした。

「香」

「なにやってんの?」

「かーおーり!」

「香さん、なにをされているんですか」

眉を八の字にしてやれやれといった様子の彼に

よかろう!と偉そうに言ってみる。

その顔のまま「待ってたの?」と聞かれると彼の発した私の名前になんだかむずかゆくなってきていいからいこうと彼の自転車を漕ぎ出した。ポケットに手を入れて歩く彼は何も喋らない。

元々おしゃべりじゃないことはわかっていたけど、二人きりの帰り道くらい話しかけくれてもいいじゃん!と膨れていると「返してよ」と言われる。欲しかった言葉とはかけ離れていたけどこの静寂を切り裂いたのが彼だという事実が嬉しかった。

「二人乗りすればいいじゃん」彼の困った顔を見てやろうと冗談半分本気半分で言うと

「先生にバレたら大変だよ」と言葉とは裏腹にその顔は少年のように笑っていた。

それが嬉しくて駅までの裏道を知っていることを伝えると、眩しいパチンコ店を右に曲がった先の住宅街に入る。

大通りの喧騒から離れたその場所で、彼は自転車の後ろにまたがってきた。

「逆だよね!?」私の雑なツッコミにも彼は楽しそうに笑ってくれる。

後ろの荷台に座り直すと車輪はゆっくり回りだす。憧れていた展開だ。暗くなった帰り道、先生に見つからないように好きな人と二人乗り。ここで自然に腕をまわせたら完璧だったのに、高鳴る鼓動が伝わりそうで、私のこの腕は黒塗りの金属をお尻の後ろで掴んでいた。

そんな自分を情けなく思っていると下り坂が始まった。みるみる上がっていく速度に思わず彼のお腹に手をまわす。すぐ離そうと思っていたけど、その体温や匂いが心地よくてこの腕は離れてくれない。なにも言わないし後ろを振り返りもしない彼も、嫌がってはいないことを理解して、いつもより大きく見える背中に右の頬をのせてみる。

いっそこの鼓動が伝わってしまえとおもった。

今にも喉を飛び出してきそうな「好き」の二文字はこの関係をどう変えてしまうんだろう。

人知れず飲み込んだその魔法のコトバは、涙が出るほどに甘くて酸っぱいものだった。


 「祐希飯行こうぜ」教室中に響く大きな声に、明日のテストの教科書をカバンに詰め込む手が止まる。声のした方に目をやると野球部の坂口くんが軽そうなカバンを振り回していた。いいな、テスト期間が終わったら私も誘ってみよっかな。いつのまにか上がっていた口角を戻しながらカバンのチャックを閉める。

「え、私たちもいきたい!」

右から聞こえたその声に、すごい勢いで首がまわる。案の定そこにいた菜々は、いたずらっ子なような眼差しでこちらを見ていた。

「いいでしょ?」

まだ彼らからの返事もないのにも関わらず、気の早い問いに「いいけど」と答えて、勉強は?と聞くのは野暮だなと言葉を留める。

肩にかけていたカバンを机に下ろすと、駆け寄ってきた坂口くんが菜々と私を交互に見やって「是非是非」と大きな声で言う。

周囲の視線に耐えられず下を向いていると前の席の女の子がわざとらしく大きな音を立て、椅子を引いて教室を出て行った。

ごめんね、と心で呟きながら彼らの方に視線を戻す。「いいだろ?」なぜか中腰の坂口くんに

呆れ顔の祐希くんはゆっくり頷くとそそくさと教室を後にした。

「じゃあ国道沿いのロイホに七時な!よろしく!」そういって祐希くんを追いかけていく坊主頭を眺めていると「あたし達もいそがなきゃ」と中学生の頃と同じく肩掛けのカバンを背中に背負った菜々が走り出す。この場にひとりにしないで!と私も急いで追いかけた。


 『菜々とご飯食べてくる!』バスの中で送ったメールに『はーい』と返事が来たのは自宅の玄関に着いた時だった。「ただいまー!」自室への階段を駆け上がりながらの声に小さなおかえりが聞こえる。電車の中で想像したコーディネートは目の前の鏡に映るとイマイチで、結局無難なワンピースに、太陽の刺繍があしらわれたお気に入りのカーディガンを羽織ると靴下を履き替えて家を出た。約半年ぶりに乗る自転車のサドルは埃で汚れていた。慌てて拭くものを取りに玄関を開けると、同じく玄関を開けた母とぶつかりそうになる。「うわっ!」

「うわ!いってらっしゃい、きをつけてね」

先ほどからの慌てように何かを悟ったのか含み笑いをしている母の脇をすり抜けてリビングからティッシュを二枚ほど取る。「気をつけてね」

二度目の言葉にありがとうと返すと満足げに扉は閉められた。拭いたティッシュどうしよう、ロボットダンスのようにあたふたしていると「どうしたの?!」と息を切らした菜々の声がする。

「いや、大丈夫」自転車のカゴに汚れたティッシュを入れると立ち漕ぎで久しぶりの道を走った。


 「今日一緒に英語やるって言ってたじゃん」

「勉強より大事なこともあるのよ、ナニワさん」

「ご飯の方が大事なの?」

「そこじゃない!わかってるくせに〜」

「うざいな!」

「おーっほっほっ!」

逃げる菜々を追っていると、いつの間にか目的地に着いていた。

既にそこにいた彼らと合流して、店内に入る。

席に案内してくれる店員さんの後ろを歩いて上座に着く。向かいに坂口くんが座って、その隣に祐希くん、ではなく菜々が座った。

必然的に私の隣に座った彼は、子供が一人入りそうなほどに私との距離を空けていた。

「もうちょっとこっちきたら?」なんて言う度胸は私にはなくて、左半身を壁にめり込ませるように固まっていた。

二人きりなら全然大丈夫なのに、お互いの友達に生暖かい目で見られると変に緊張する。

いつものハンバーグを元気いっぱいに頼んで後悔する。いっぱい食べる女だと思われたらどうしよう。案の定ちゃっかりしている菜々は可愛らしいなんたらドリアを頼んでいた。

熱々のハンバーグを口いっぱいに頬張っていると、菜々が突然背中を向けて、写真を撮った。

「もー!なんで今撮るの!?」

「おもひでだよ、おもひで」

「撮り直してよ!」

「あとでね」

結局撮り直されることがなかった写真は、確かにいつ見ても笑えるいい思い出になった。

帰り道、自転車二台分ほどの歩道を彼と上手に並んで走る。時折車が照らす彼の横顔は、胸やけするほど美しい。前を行くうるさい二人の会話に笑うだけの彼はやっぱり無口だ。

私と二人の時は割と頑張ってくれてるんだ、と優越感に浸っていると、早くも別れ道にきた。

「私たちこっちだから!」

そう叫ぶ菜々に合わせて手を振る。

別れ際に彼が小さい声で言った「またあした」

を味がしなくなるまで噛み締めていると、空気の読めないデカ女がうるさい声をあげる。

「げ、明日英語じゃん!!」

「言ったじゃん」

「英語だけはダメなんだよ!助けて」

「ヤダ。もう九時だし」

「かおりさまぁ〜〜」

「分かったからデカい声ださないで!」

「ありがとうございますぅ」

「はいはい、もううちに泊まってったら?」

「マジ!そうする!ダッシュでお風呂入って行くから」

猛スピードで走り去っていく自転車には、漫画のような土ぼこりが見えた気がした。

昔からなぜか放って置けない彼女には、何度も振り回された。

でもそのどれもが微笑ましくて、むしろ助けられてたのは私の方なんじゃないかとすら思う。

現に今日だって。

シャワーを済ませて勉強の準備をしていると菜々が来た。

「どこら辺がわからない?」

「まぁまぁ」

「えっ?」

「まぁとりあえず語ろうや、ナニワはん」

彼女が私を煽る時に使うナニワ呼びは、絶妙に頭にくる。

「英語で語るならいいけど」

「勘弁してぇやぁ〜」

「明日どうなっても知らないから」

内心、このアフタートークを楽しみにしてたことは口が裂けても言えない。

教科書を閉じ、電気を消して始まった“恋バナ”は眠りに落ちる直前まで続いた。


 ことのほか積もった初雪に輝く街を、母の運転する車から眺めていた。

三度目の定期検診で病状は良好と言われ、上機嫌だった私は「せっかくだしここから歩いて帰る!」と家からほど近いコンビニでおろしてもらった。

なにか温かいものを物色していると入店を知らせる電子音が鳴る。反射的に振り向いた出入り口には、寒さで凍ってしまいそうな彼がいた。

運命と言って差し支えない展開に私のテンションは天を衝く。

「ここで会うとは運命かな?」

短い距離を本気で走り、恥じらいも何もかもかなぐり捨てたその言葉に

「コンビニが運命の場所はイヤだな」

と彼は寒さで固まった口角をぐにゃりと上げて笑う。

それもそうだとアクセル全開の私はなんだかんだと理由をつけてこれから出掛けようと提案する。了承の微笑みをくれた彼は「ちょっとこれだけ」とホットコーヒーの会計をしていた。

コーヒーは大人の飲み物だという幼い認識のあった私は、一口くれとせがむ。本当はもっと他の理由があったけれど、そんな素振りはおくびにも出せない。

「苦いよ」案外素直に渡してくれたそれは想像よりずっと苦くて、可愛くない声が出てしまう。彼は「ははは」と目を糸のようにして笑うと、何の躊躇いもなく口をつけて飲んでみせた。してやられた、と悔しい気持ちも、その行為が示す彼の気持ちも、舌の先の苦い味と共にこの胸を温めた。

この街には恋人と行くとその関係がうまくいくというありがちなスポットがある。

まだ恋人ではないけど、と心の中で前置きをして、そこにいこうと伝える。

その噂を知ってか知らずか「いいね」と笑う彼と、私は無邪気に駆け出した。

車でしか行ったことのないその公園は思ったより遠くて、たどり着く頃には眠たくなってしまっていた。案の定カップルだらけのその現場を見て、彼を騙すようなことをして悪かったと反省していると「座ろう」と促される。

「こういうのイヤじゃないんだ」

冷え切った石のベンチに腰を下ろし、忙しなく働く蟻を見ながらボソボソ言う。

「ん?」とこちらを向いた優しい微笑みになんでもないと返す。

燻る想いを見透かすように気を利かせた木枯らしが二人を近づける。

少々ふざけ合ったあと、すっかり暗くなった街に地上の星が輝き出す。ふと右上にある彼の顔を覗いてみると、その目もこちらを見ていた。

はじめて交わるその視線の先には吸い込まれそうなほど綺麗な瞳があった。天国があるとするならこんな場所だろうな。柄にもなくロマンチックなことを考えてしまうのは彼も同じのようだ。

「ここが運命の場所だね」

驚いてもう一度その目を見ても、彼はすでに別の方を見ていた。目を見て言えたら完璧なのに。と高望みな十六歳児の心は、とっくに指の先まで熱くしていた。

わたしにとっての運命の場所はもちろん中学校の屋上だけど、それを彼が覚えていないことを知ってる。だから「ちがうよ」と

今度は私を見つめているであろうその瞳からわざとらしく顔を逸らして言う。

「私にとって運命の場所は、いつか教えてあげる」そっか、楽しみだ。と嬉しそうにする彼と

満点の星空を見上げる。

そうだなぁ。もしも私が生き延びて、あなたにしっかりとこの想いを伝えられる日が来たらその時にまとめて話すよ。あの日救われたこと、あなたを追って同じ高校に来たこと。

だから今はごめん。

どうかありのままのあなたでいてほしい。

本当の私を知らないままでいてほしい。

彼の体温のおかげで寒くないのに震えていた右手を、彼の左手が優しく包んでくれた。

それが嬉しくて嬉しくて、強く握り返した。


 好きな人と手を繋ぐのは初めてでもなんとかなった。でもその離し方はどこに書いてあるのだろうと考えながら歩いていた。昼間の盛況は何処へやらといった商店街に入った時、彼はまたもや突拍子のないことを口走る。

「香の匂い、好きだな」

匂いについて言及されたことがなかった私は

「臭い!?」と慌てふためく。

その様子に微笑む彼は、真面目な顔に戻って語り出す。つらつらと早口なその内容は半分以上わからなかったけど、どうやら顔と名前を一致させるのが苦手だということは伝わった。これまでのことを思い返し、通りで。と納得していると「まぁつまり、いい匂いってことだよ」

と付け加えた。好きな人に言われるとこんな言葉でも嬉しいのだなと思った私は、あたふたしている彼を見て素直に言った。

「そうなんだ、ありがとう」


 家に帰るとご飯のいい匂いがして「おかえり」と台所の母がいう。

「ただいま!お腹すいた〜」手袋を外しながら言うと「遅くなったもんね、西野くん?」と予想外の名前が飛び出す「な、な、なんで」アニメのキャラクターみたいになっていると母は答える。「菜々ちゃんが教えてくれた。香、毎日たのしそうだって」

オーッホッホと高笑いする憎たらしい顔が浮かんで「もう!」と地団駄を踏む。

「お母さん嬉しいわ」微笑みながら真っ白な湯気が立ち込める鍋を掻き混ぜている母をみると、菜々への怒りは消え去った。

母の作る料理は美味しくて大好きだ。

私も早く教えて貰わないと。そう考えていると彼の顔が浮かんで顔が熱くなる。

温かいお風呂に入って、今日の出来事を思い出す。朝、医者に言われたこと。コンビニで彼に会えたこと。間接キスをしたこと。カップルがうまくいく場所に行ったこと。手を繋いだこと。匂いが好きだと言われたこと。

お風呂よりも温かいその記憶たちは、私の心を温めた。

歯磨きを済ませ、リビングでテレビを観ている母に告げる。

「おやすみ。あ、そうだ。柔軟剤変えたりしないでね」

「なんで?」と不思議そうな母に「なんでも」と返す。

暖房のタイマーを設定して、電気を消し、柔らかな布団にくるまって、目を閉じて願う。

「祐希くんの夢を見れますよーに!」


 次の日、願いとは裏腹にイヤな夢を見て目を覚ます。彼が他の女の子と付き合ってしまう夢だった。はぁ、と大きなため息をついて「あと少し」と眠ろうとしたけど、この脳も目も冴えてしまっていた。まだ薄暗い家の中を歩き洗面所に向かう。鏡の向こうに夢の中の女の子が見えた気がして心臓が跳ねる。電気をつけて、正夢にならないことを願い、歯を磨く。

制服に着替えて、お決まりのポニーテールを結んでいると胸に違和感を感じる。

それと同時に咳が出て止まらない。

息ができなくなるほど苦しかった。

慌てて起きてくれた母に病院まで連れて行ってもらうと「しばらく入院しましょう」

と告げられた。

むしろ昨日までのことが夢であってほしかった。

何も考えずに飲み下した幸せを全部吐き出してしまいたかった。どうせ全部奪うなら、最初から何も与えないでよ。行き場のない怒りは真っ白な空間に幽閉された。


 命の灯火が徐々に弱っていくのがわかった。

ご飯は美味しくないし、薬もたくさん増えた。

退屈な部屋に閉じ込められて何もできない。

こんなことされたら誰だって弱っていく。

体調がいい日は先生にOKをもらえると学校に行くことができた。心配そうに見つめる彼に

「大丈夫だから」と伝える声はひどく掠れている。唯一事情を知っている菜々に、みんなにはただの喘息だと伝えてほしいと頼んだ。泣き腫らした目を潤ませて無言で頷く彼女は優しい。

むしろこのタイミングでよかった。あの日もう少し帰るのが遅かったら、次の日学校に行けてたら、三年間の想いを伝えてしまったかもしれない。そうだ。もう、そう思うことにしよう。


 季節の移り変わりを小さな窓が教えてくれる。わずかに覗く痩せ細った枝先に小さな蕾が現れて、やがて鮮やかな葉っぱをつけた頃、妙な胸騒ぎがした。西に妖しく光る黒い雲が、大きな霆を落とす。途端に降り出した雨と共に、両の頬に涙がつたう。

 

 夜眠って朝起きるという十六年間のルーティーンはこうも簡単に変わってしまった。

たまに意識が戻るのは、お母さんや、夏休みになって頻繁に来てくれるようになった菜々が語りかけてくれた時。だけど二人の顔は見れなかった。きっと悲しんでいるその顔を見たくなかった。本当は思いっきり泣いて、怖い辛いと伝えたかった。学校に行きたい、彼に会いたいと叫びたかった。彼に手を握ってほしかった。

お母さん、一人にしちゃってごめん。

その美味しい料理も教わろうと思ってたのに。

そうだ、柔軟剤は変えちゃってもいいよ。

お母さんとお父さんの娘で本当に良かった。

菜々、気を使わせてごめん。

一番に私のことを考えてくれた菜々のおかげで恋のことも病気のことも思い詰めずに済んだよ。菜々が男だったら惚れてたかも。

祐希くん、出逢ってくれてありがとう。

一度も名前を呼べなかったのはちょっと後悔してる。頭の中では毎日呼んでるから!

それで聞いてよ!昨日の病院食がほんとにドッグフードみたいでさ、ってやっぱダメか。

バレてたかもしれないけど、本当に本当に大好きだよ。


第四章

 「大丈夫?怖い夢みたの?」弱々しい冬の朝日にぼんやりと照らされた顔が心配そうにこちらを見ている。

気丈に返した声はか細くて、余計に心配を煽ってしまいそうだ。思い出したくないのに思い出しちゃった。でも忘れちゃいけないこと。あの頃があったから今があるんだ。そう言い聞かせて上体を起こすと久しぶりに二人であの頃の話をした。


二年二組 那須 夏織


 浪花さんの訃報は、学校中を震撼させた。と思う。夏休みだったからわからないけど。

私は下げていく面がなかったから欠席した。

あれからすぐ、西野くんからのメールを届かないようにした。何も手につかない。家族に呼ばれる「カオリ」の響きが憂鬱だ。明日からまた学校か。私がこの身を捧げたところで、満たされるのは私だけだった。いや、正確には私自身も満たされていなかったかもしれない。まぁ、もうどうでもいいか。西野くんにもう一度抱きしめてほしいな。そうしたらもう後悔はないのに。


 朝日という絶望は人の迷惑を考えない。

久しぶりに顔を合わせた母に「じゃあね」

と伝えて家を出る。右に曲がれば学校の交差点を左に曲がって駅に向かう。予報にあったのかどうか、大雨が降ってきた。下着まで濡れちゃったけど、まぁ、もうどうでもいいか。

急ぐ朝の人々は傘もささずに歩く私の心配をしない。それでいいよ。それが正解。

乗らない電車の切符を買って、人もまばらなホームに立つ。次だ。次の電車に西野くんが乗ってくる。きた、あれだ。

うるさいな、さわらないで、さっきまでなにもしんぱいしてくれなかったくせに

ありがとうなにわさん、たのしかった

ありがとうにしのくん、だいすきだよ


二年二組 西野 祐希


 香のお葬式があった。改めて実感した彼女の死に、心が壊れそうだった。でも前を向かないと。泣くのはこれで最後にしよう。

偽物の香に送ったメールは返ってこない。

もうどうでもいいけど。


 例え大切な人が死んでも、世界は止まってくれない。久しぶりの目覚ましがそれを伝える。

歯を磨いて、制服を着て、靴を履いて、歩く。

雨が降ってきて、傘をさして、歩く。

電車に乗って、電車を降りて、その電車で事故があった。自転車に乗り換えて、学校について、教室に入る。

騒然としている教室に何事かと思っていると、同じクラスだったらしい坂口が小声で語りかけてくる。

「なぁ、お前あの電車乗ってたろ」

「すごい音だった。飛び込みらしいね」

「あれ、うちのクラスの女子らしいぜ」

「え、そうなの?」

「那須さんだろうってみんな言ってる。

朝びしょ濡れで駅に向かってるとこ見たって」


「だれ、それ」



 





 


 

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