香/貌

@Nontan331

第1話




 霧の晴れないこの世界に、鮮やかな感情をもたらした。折れてしまいそうなこの心に、光の柱を差し込んだ。それが今、儚く崩れ落ちてゆく。それならば、私がこの身を差し出そう。

強欲な、悪魔の贄になろうとも。


第一章

 いつもの場所に座り、愛する人が水と食器で奏でる軽快なリズムを背中に受けながら、四角い大きな画面を観ていた。「奇跡体験」と銘打ったお節介な番組が取り上げた単語に、あの頃のことを思い出す。なにもかも満たされた空間に重たくなったまぶたを閉じて、胸の奥底に大事に仕舞った記憶の中にダイブする。


一年二組 西野祐希

 

 彼女を認識したのは高校一年生の夏休みだった。ぬるい風が気まぐれに流れ込む午前十時の教室を出て、陽炎が揺れるアスファルトを歩き駐輪場へ向かう。

「おーい!」

うるさいセミの声の隙間を縫うように

爽やかな声が響く。

ふりかえると、夏も真っ盛りだというのに太陽の光を跳ね返す真っ白な脚が駆けてきた。

「何帰ろうとしてんの!補講、あと一時間あるよ」

「…そうだった?」

笑うと横に広く、ちょっとズレた白い歯が印象的な口をむーっと尖らせて「いくよ」と言わんとばかりに僕を教室へと連れ戻した。そこにはやわらかな太陽の香りがあった。


 補講が本当に終わったのはそれから二時間後だった。「あと一時間、じゃなかったの?」

からかうようにいう僕に「そうだっけ?」と、とぼけながらも細い両手を合わせてごめんのジェスチャーをしている。

「あ、そうだ!」

切り替えスイッチを押したように彼女は立ち上がり言った。

「◯◯公園の夏祭り、行こう!」

ここまで強引に女子の方から誘ってもらったことがなかった僕は思わず面食らっていると

「決まり!夜七時、公園横の神社に集合ね!」

「うん」

そのたった二文字を発するのに思いのほか時間を要したのか、この教室には僕の発した二文字と軽やかな足音、そして太陽の香りだけが夏の光を受けてキラキラと舞っていた。


 昼に起きてカレンダーを見る。今日が毎年恒例の祭りの日だ。「本当に来るのかな」と心でつぶやき、手をつけていない宿題を見ないフリして冷蔵庫から麦茶を取り出す。セミ渾身のラストステージが締め切った窓を突き破らんばかりに響いていた。

十七時になりやっと日が傾いてきた頃、兄のジンベイを借りて神社へ向かう。

「まだ暑いじゃんか」と西陽に恨み節を吐き、青々と繁った枝葉の影を通って、うちわを忘れたことを嘆きながら歩いた。駅を出ると漂ってきた炭火の香りが、会場に近づいていることを知らせる。

周りを見渡せば色とりどりの浴衣が道の至る所に散らばっていた。視線の端に待ち合わせ場所である神社を捉えるとドッと血流が速くなる。思えば女の子と二人で夏祭りなんて行ったことがないし、なんならあの子の名前も知らない。この異常事態に今更気付いたが、この体は真っ直ぐに神社へと吸い寄せられた。なにやら騒がしいその場所をよく見てみると、赤色の浴衣を数人の男が囲んでいる。ナンパだろうか。

大型デパートの壁にはめ込まれた時計を見あげるとその針はまだ6時40分を指していた。

助けもせず遠巻きから眺めてる男性に

「あれ、ナンパですよね?」

念の為に確認して僕は首を突っ込んだ。

「大丈夫?」と知り合いのふりをして赤い浴衣の前に割り込むと男たちはあっさりと引き下がった。

さてここからどうしたものかと考えていると

袖口を掴まれた。

「あの、ありがとう」背中の方で聞き覚えのある声がする。祭りの匂いに混じってわからなかったけど、その赤い浴衣は約束をした彼女だった。「きみだったんだ!」と言うとなぜだかガッカリしたようだったけど、しばらくすると元気を取り戻して「早く行こう!」と僕を人混みの中へと連れ込んだ。あれもこれもと動き回る彼女に感心しながら、僕も目についたきゅうりの塩漬けを買う。ようやく満足したのか、あっちあっち!と脇道に連れられる。そこは別世界のように暗くてひんやりしていた。少し歩いた先の石垣に彼女は腰をおろし、僕の手元を見ながらこう言った。

「それだけでよかったの?」

このきゅうりのことか、と気づくのに時間はかかったが「うん、美味しいよ」と答える。

「河童じゃん」

思いもよらぬ言葉につい笑ってしまう。

食欲が満たされた様子の彼女が立ち上がり

「帰ろう!」と一言。

先ほどの時計はまだ7時30分を指している。

「もう?」つい口に出てしまった。

「お母さんに怒られる」という彼女はなんだか寂しげに見えた。

よいしょ、と立ち上がりお尻をはたいたあとに

ぐっ、と背伸びをする彼女は向こうを向いたままで言った。「たのしかった、ありがとう」

楽しげな人々とは逆方向に進み、夕方に来た道を戻る。すっかり体に染み付いてしまった祭りの匂いを、左手の袖口を鼻に当てて懐かしんでいると、少し前を歩く彼女もまた同じことをしていた。

やはりというか、まだ人の少ない駅の改札で「今日はありがとう、またね!」と言われてしまった。買った切符は同じ値段のものだったけど「うん、また」とわざわざ一本遅い電車に乗ることにした。彼女が乗ったであろう電車をホームに上がる階段の影から見送って人もまばらなホームに立つ。背中側を駆け抜ける電車が涼しい夜風をくれた。ふぅ、と一息ついて百円の青いコーヒーを買い、ベンチに座る。

あと三分で来るらしい電車を待つ間、

「またね!」を反芻する。

怒涛すぎて気づかなかったけど、とても楽しかった。またねって、またどこかで会えるんだろうか。途方もない考え事と一緒に電車は僕を夏の終わりまで運んだ。


 夢のようだった一日が終わって、夢ではない学校が始まる。まっさらな夏休みの宿題をカバンに詰める手は鉛のように重く、大きなため息が漏れる。向かっているのは昨日と同じ駅なのに、その道のりは果てしなく続くようだった。「◯◯学校前」と名付けられた都合のいい駅に着くと約一ヶ月ぶりの自転車に再開する。

雲の切れ間から覗く、憎き太陽を避けながら街路樹の影を走る。颯爽と駆け抜けて行くバイクを羨ましく思いながら、門を抜けた先の緩やかな坂を立ち漕ぎで駆け登る。朝から汗だくだ、とカバンから取り出したタオルで顔を拭くと、自室のタオルケットの香りがして無性に帰りたくなる。

自分の下駄箱はどこだったか、と西野の文字を探して、ひんやりとした廊下を歩く。夏の思い出を語らう声が響く部屋に入り、その中央にある自分の席に着くと、目の前に座っている女子から、嗅いだ覚えのある匂いがした。

なんと声をかけようかと、その一つに結ばれた長い黒髪を見つめていると、それはくるりと振り返り「昨日ぶり」と笑った。

「同じクラスだったんだね」

夏の鬱陶しさが吹き飛ぶほどに驚いたが、それを隠してクールに返す。

すると彼女は怒ったような呆れたような声で

「ずっとここにいたんだけど!」

と頬を膨らませた。

愉快な人だなと笑いながら「ごめんって」と平謝りをする。

もう!と座ったままで足をばたつかせているその前の席の女子は「覚えてね」と自分の名前を書いたメモ用紙を渡してきた。

「浪花 香」

その筆跡はまさに彼女自身のように強くてしなやかだった。


 あれからというもの、頻繁に話しかけてくるようになった彼女を意識してしまったのも、あの夏の煌めいた記憶のせいだろう。

秋のとある休みの日に二人で出かけることになった。というのも華奢な見かけによらずアウトドアらしい彼女と休み時間に紅葉の話をしていると思いのほか盛り上がってしまったようで

「山に行こう!デートだよ!」だなんて

スッと筋の通った鼻を膨らませて教室のど真ん中でいうものだから、間髪入れずに「おう」と応えるほかなかったのだ。

登山なのだから動きやすい方がいいかと考え込んだ結果、薄着になってしまった。

少し冷たい秋風に登山なんて元気な学生がやるもんじゃないと悪態をつきながら、集合地点に定めた学校近くのバス停で待っていると

「やっほー!」とやまびこのような大声がやってきた。

バスに乗り込み、初めて横並びに座った。

見慣れた風景を映す窓を見るふりをしながら彼女を見る。同じく見慣れたはずの窓に食い入るように張り付く彼女に思わず笑うと

学校の時と同じく後ろにまとめた長い黒髪を

振り回し「なんだよ!」と振り返る。

「なんでも。楽しそうだなとおもって」

「ふふ」と白い歯を見せてまた窓の方へと頭を戻した。

バス停から十五分ほど緩やかな坂を歩くと、登山口と書かれた看板が現れた。少し冷たい空気はカブトムシの匂いがする。「クワガタの匂いする!」と少し駆け足気味で元気な背中を見て、クワガタ派かとどうでもいいことを思う。

登山といっても崖のようなとこではなく、子供から老人まで登れる、遊歩道があるタイプの山だ。彼女が先行して山もとい階段を登る。

ハッキリ色づいた木々をみて感嘆の声をもらしたり、ふと見上げた頭上にビッシリと枝葉が敷き詰められた様子に感動したり、どちらかというとインドアな僕にはとても新鮮な体験だった。

「どう?いいでしょ」となぜか誇らしげな声の後ろには壮大な景色が広がっていた。赤、黄色、緑であしらわれた大きな絨毯の上にいるような感覚になる。

「うん、また行こう」

僕は考えるより先にそう言っていた。

香は口をぽかんと開けたあと白い歯を見せて「うん!」とだけ言った。

帰り道、夕暮れのバスは国道を走る。

さっきまで口から産まれたかのように喋っていた彼女はいつのまにか眠ってしまっていた。

通り過ぎる車がヘッドライドを点け出した頃

だらんと垂れ下がった白く長い指に触れてやろうかと思ったけど寸前でやめて深く息を吸い込んだ。


 秋といえどその実、半分以上は夏みたいなものだ。そういえば今朝も画面の中のキャスターが真夏日だなんだと言っていたのを思い出す。文化祭の準備で遅くなり、とっくに日が暮れているのに汗ばんでしまったシャツをパタパタさせながら駐輪場へと向かっていた。

暗い学校は新鮮だった。建物は普段より大きく見える。てんてんと点いた蛍光灯は完成間近のパズルのようだ。浮ついた男女の大声に苦笑いしながら自分の自転車を見やると、一人の女子生徒がいた。「それ僕の」と言うと

「もう暗いから一緒に帰ろう」と僕の口調を真似したのか、間の抜けた声がした。

「…浪花?」

「香」

「なにやってんの?」

「カーオーリ!」

「…香さん、なにをされているんですか」

なぜか敬語になった僕の言葉に吹き出し

「よかろう!」と腰に両手を当てている。

「待ってたの?」わざとらしく訊ねてみると

自転車のスタンドをガチャンと外して「いいから行こう」と勝手に漕ぎ出した。正門までの緩やかな坂道を無言で下る。

カラカラ…と回る車輪の音が間を繋いでくれていた。

その静寂を切ったのはぼくだった。駅までは二十分ほどあるのだが一向に自転車から降りる気配がない彼女に「返してよ」と言うと

「二人乗りすればいいじゃん」といたずらっ子のように笑う。「先生にバレたら大変だよ」まんざらでもない僕の心中を察するかのように「私裏道しってる!」と言葉を弾ませた。

大通りを逸れて住宅街に入っていくと様々な夕飯の匂いが立ち込める。ぐーとなりそうなお腹を抑え自転車の荷台に座ると「逆だよね!?」と分かりきった声に「はいはい」と笑う。

座り直すと追い風が吹いた。

制汗剤なのか、柑橘系が混ざったいつもの香りに、誰に見られる恐れのない頬を緩ませた。

等間隔で並ぶ灯りの下を走った。

塀の上の猫が大きなあくびをしている。

下り坂になり速度が上がると、お腹の辺りに白い腕が巻きついた。坂が終わってもその腕は離れず、今度は右肩のあたりに頭を乗せられた。

いつもは太陽のように快活な彼女が見せた

しおらしい一面に心がギュッとなる。

見つからないために来た場所なのに、この幸せな二人を見てほしかった。


 「祐希、飯行こうぜ」テスト期間ということで部活が休みらしい坂口が声を弾ませる。

「いいけど」勉強は?と聞いてもその返事はおおかた予想できたので聞かないことにした。

「じゃあ七時にいつものとこね」いつもより重たいカバンをよいしょと持ち上げ教室を出る。

「え、私たちも行きたい!」

その大きな声に振り返ると背の高い女子がカバンに教科書を詰めながら坂口の方を見ていた。

「おぉー!待ってました!私たちってことは浪花もだよな?是非是非」中腰でお腹の前に手を合わせた坂口が「いいだろ?」とねちっこい視線を寄越してくる。その視線が二つ三つと増えるものだから首を縦に振って教室を出た。

お隣の国の美男美女が映るテレビを観ている母に「今日ご飯べてくる」と告げ、早足で自室に入る。浪花…いや、香も来るのかと思うと服装に悩む。ちょうどいい長袖買っとくんだった、と秋の気まぐれな気候を恨めしんで、ベッドの上に服を散らかしたままで家を出る。チリンという鈴の音の先にはスポーツタイプの自転車に跨ったのびかけの坊主頭がいた。

慣れ親しんだ道を走り、“いつもの“ロイホに向かう道すがら「おい、正直浪花のことどう思う」

と慣れない質問が豪速球で飛んでくる。

キャッチャーミットのど真ん中に飛んできたその球は僕の血流を加速させ、言葉を詰まらせた。

「ん〜わからない」

これまでどんな難問も切り抜けた伝家の宝刀を、白刃取りした坂口は「おい!」と笑う。

「浪花はお前のこと好きだよ絶対。誰が見てもわかる」と両肘をハンドルに乗せながら上体を低くしてこちらを見やる。その目に、だからお前の方はどうなんだ、と再び聞かれたような気がして逃げ場をなくした僕は「降参!」と白旗を揚げた。

「めっちゃ好き」顔を熱くさせながら白状すると、そうかそうかと街灯に照らされた坊主頭は大仏様のようだった。


 色々な食べ物チェーン店が建ち並ぶ通称"デブロード“の一角にそのロイホはある。

人工的な灯りで眩しい駐輪場で、来るはずの二人を待っていた。緊張してきたのかさっきから何も話さない坂口は腕を組み仁王立ちしている。同様に緊張していた僕はP→と書かれた大きな看板を睨みつけている。「先に入ってようよ」

そう言いながらまたもや大仏様のように固まっている坂口に目をやると「お、きたぜ」と道路の方を見ながら手を振りだした。

僕も倣ってそちらを向くと、二台の自転車が背の高い街頭に照らされてゆらゆらと現れる。

「おまたせ〜!」目の前を通る大好きな匂いに鼻腔を開いて大きく息を吸い込む。夢にも見なかった展開に気づけば心は踊り出していた。

「四名でお待ちの坂口様〜」

その声にゾロゾロとついてゆき、四人がけの席に着こうとすると選択を迫られる。前を歩いていた坂口と香はすでに向かい合って座っている。手前側にいる坂口の隣に座ろうとすると、後ろから「西野くんはそっちね」と背中を押され、なし崩し的に香の隣に座ることになった。

目の前にある二つの顔に白い歯が浮かぶ。

隣を見ると、固く閉じた足に両手を乗せて、背筋をピンと伸ばした香がいる。つるんとしたソファに浅く座り、よく喋る女子二人とそれに混ざりたい坂口の会話を聞きながら、コーンが一粒残ったお皿を見つめていた。四人分の会計をスムーズにこなした店員さんに軽く頭を下げて軽快な電子音に見送られる。四台並んで走るには狭すぎる歩道を二列になって進む。テスト期間なんてすっかり忘れて前後左右関係なく飛び交う会話に視線も定まらず、植え込みから伸びる雑草が足首をくすぐる。このコンビニを右に曲がればもうすぐ家に着くというところで、後ろからの声にペダルを押す足を止める。

「あたしたちこっちだからー!」

振り返ると少し後ろに片足をついた二台の自転車がいる。ありがとうまた明日と言いあって右に曲がると、彼女らと同じ方向に行くはずの坂口がついてきた。

「坂口もあっちでしょ」

「バカ言え、緊急臨時集会だ」

「なんだよそれ」

頭の悪そうな集会をおこなうらしい彼に構うことなくいつもの道をいつものスピードで走る。

「はえーって!もうちょいゆっくり行こうぜ」

「もう九時だもん」

「やっぱ浪花ってかわいいよな〜」

「……」

「かわいいよな〜?」

「わかったよ」

奴のいやらしい搦め手に組み伏せられて、近所の公園に向かう。なぜそう呼ばれているかはわからない“飛行機公園”の、向かいにある自動販売機で百円の青いコーヒーを買って、優しい街灯が照らす背もたれがないベンチに腰を下ろす。

「で、そのなんたら会議ってやつはなに」

豆電球みたいな光の周りをゆらゆらと飛び交う蛾に眉をひそめながら問う。

「会議じゃない、緊急臨時集会な」

ものすごくどうでもいい前置きをした後で、

奴はベンチの上に立ち上がりこう言った。

「俺、川口に告るわ!」

「それで?」を噛み殺し、どうみてもご機嫌な彼にテンションを合わせる。

「いいじゃん!」

「だろ?だからお前も浪花に告れよ」

なぜそうなるのか。

「そのうちね」

お茶を濁して背中側のベンチの縁に手をつき、秋の空を眺める。まんまるい月が輝いて、同じように空を目上げる坊主頭の影が、この顔の左側に落ちている。先ほどまで隣にいた香の事を思い出し飲んだ缶コーヒーは、いつもより甘ったるかった。


 秋とは自分勝手なもので、今度は突然寒くなる。その日は季節外れの初雪だった。せっかくだしと外に出てそのまま近所のコンビニに向かう。朝方に積もった雪は昼の太陽に照らされて、目を細めてしまうほどに眩しい。僕はなぜだか夏休みのあの日のことを太陽の香りと共に思い出していた。

二枚重ねの袖口を指先まで引っ張り、背中を丸めポケットに手を突っ込んで歩く。

低い屋根も高い屋根も、車もバイクも

果てには畑に差してある細い支柱の頭にも

雪は互いを押し除けるように陣取っていた。

コンビニに着き、その寒暖差にしばらく動かないでいると「あ!」と爽やかな声がした。

「ここで会うとは、運命かな?」

「コンビニが運命の場所はイヤだな」

「それもそっか!まだ運命の場所の変更間に合うかな?ていうかなんでここにいるの?ねえいまからーーー」

まくし立てるように話す言葉の細部を聞かずとも、今からどこかへ行こうということだな

と相変わらずな彼女に苦笑しながらとりあえずホットコーヒーを買い店を出た。

「コーヒー飲めるんだ!大人だねえ」と感心するカオリ。

いつもは真っ白な頬を赤く染めながら

「ねえちょっと飲んでみたい」というので

「苦いよ」と動揺を隠しながら渡す。

案の定「うげ〜〜!」と可愛げのない声を出すので笑ってしまったあと、「えい!」と見せつけるように飲み下した。


 「ねえ、あの高台の公園いってみようよ」

この街には海まで一望できる公園がある。

「いいね」僕らは無邪気に駆け出していた。

わずかに日が傾いたころ、僕らはその公園のベンチに座っていた。横並びになったのは二度目だ。

寒さのせいか今回は体が触れそうなくらい近い。歩き疲れたのか流石の彼女も少し眠そうに景色を眺めていた。

「あたしんちあのへん」

「どのへんだよ」

「あれだよ」

「指くらい指してくれよ!」

公園には何組かのカップルがいたが、このベンチだけは間違いなく僕らだけの世界だった。

おそらく夏のあの日、僕は恋に落ちた。

ただ会うたびに好きが積もっていた。今日会えたことだって本当に運命なんだと思ってしまっていた。彼女も同じこと思ってくれてるかな。そう思いふと左を見ると始めて目が合った。

その瞳は綺麗な黒色で、黒を美しいと思ったのは初めてのことだった。

「ここが運命の場所だね」

カッコつけてそう言ってみた。

「ちがうよ」意外な言葉が返ってきたので少し恥ずかしくなって黙ってしまった。

「私にとっての運命の場所は…いつかおしえてあげる」顔を背け、珍しく小さな声で話す彼女をとても愛おしく感じた。冷えた左手を白の手袋に重ねると、強く握り返された。


 その帰り道、繋いでしまった手を離すタイミングが二人揃ってわからなくなってしまったようで、結局昼間に出会ったコンビニまで仲良く手を繋いで戻ってきた。

道中、シャッターが閉まった商店街を歩きながら「香の匂い、好きだな」と引かれてしまってもしょうがない言葉が口を衝いてしまった。

香は「!?!」と声にならない声を漏らすも即座にゴホンと咳払いをし「どういうこと!?まさか、におう…?」と凛々しい眉を大きく上にやる。

「いい匂いって意味だよ」

その言葉に香は、握っている手に力を込めてこう言った。

「そうなんだ、ありがとう」


 三学期になり冬も本番になったころ、香は学校を休みがちになった。目の前の太陽の香りが薄く消えかかった頃、久しぶりに登校してきた彼女は、以前にまして痩せたような気がした。どうしたのかと訊いたが、ただの厄介な風邪だから気にしないで、という声はわずかに掠れてはいたものの、確かに今まで通りの明朗な口調だった。だけどまた、太陽の香りだけを残してその日から春休みまで学校に来ることはなかった。


 春休みになったが花粉症の気だるさに負けた僕は何もする気になれなかった。元々インドア気質だしゲームなら何時間だってできると息巻いた時期もあったがそれも手につかず、かといって散歩にでも、と思い外に出てみてもまだ寒いのに散歩なんて!と変な言い訳をつけて結局部屋でダラダラと過ごしてしまう。

カオリに会いたいな…と思っても連絡手段がないし、友達づてに聞こうにも小っ恥ずかしい。

結局何をしたかと拷問しながら問われても

「本当に!本当に何もしてません!」と言うしかない春休みを過ごした。


 二年生になりクラス替えがあった。

花粉症の僕は匂いを感じとれないこの季節が昔から嫌いだった。

止まらない鼻水とくしゃみにうんざりしながら黒板の「西野」の文字だけを確認するとそれに対応する席に着く。教室に入ってくるなり「◯◯と離れちゃった」とか「また一緒だ!」と騒ぎ立てる声の中に彼女を探していた。すると目の前にあの匂いがあらわれた気がした。

「香だ!」心の中でガッツポーズをしながらも喜び満点の顔を見られぬように寝たフリをして机に突っ伏していた。

話しかけてこないカオリを不思議に思いながら

チラリと前を見ると、長かった髪を肩ほどまで切り色もわずかに茶色になったカオリがいた。

いいね、なんでも似合う 三パターンくらいの完璧な回答を準備してまた寝たフリをした。

結局ホームルームが終わるまで話しかけてこなかった彼女に僕は少し不機嫌になっていた。

春休みに何かあったの?など聞きたかったが、なんだかそれもはばかられた。

まぁ今日はいいか、と帰ろうとした時ようやく彼女が話しかけてきた。

「…西野くん」

すっかり掠れてしまった声に対する心配と、やっとかよという安堵、はたまた怒りに心の中がごちゃ混ぜになって

「へ?」と気の抜けた返事をしてしまった。

「また同じクラスだね、これからよろしくね」

まるで人が変わったようにお淑やかになっていた彼女に思わず笑いそうになりながら

「うん、よろしく」と平静を装い答えた。

「ていうか人に下の名前で呼ばせといて自分は苗字で呼ぶんだ。」と怒ったフリをして言うと、

一瞬頭の上にハテナを浮かべた後に

心なしか少し日に焼けた手で顔を覆い

「じゃ、じゃあ…祐希くん…」と呟いた。


 やはり彼女の様子がおかしい。授業中はともかく休み時間すら話しかけてこない。別に付き合っているわけでもないからそれも仕方がないとはわかっていても、なんだかモヤモヤする日々を過ごしていた。そんなある休み時間、唐突に彼女が話しかけてきた。

「今日…放課後…残っててくれるかな…?」

もじもじを体現したように体をくねらせながら言うカオリに喜びの爆発を悟られぬように

「ここでいいの?」と返す。

「うん、みんながかえるまで…」

何を伝えられるのか半分分かったような気もしたが、もし違うことだった時のために何も考えないように曇った窓の外を眺めていた。

放課後になりクラスの大半は部活や帰路についた。

だが、隅の方でブツブツとお経のように会話をしている女子が二人残っていた。それに除霊される霊の如く、彼女らを睨みつけ続けること二十分。大きな雷が落ちると同時にようやくこちらの視線に気付いたのか「ヒェッ」と声をあげそそくさと帰っていき、晴れて教室には僕一人となった。

その様子をどこからみていたのか、

「ふふふ、顔怖いよ」と口元を手で隠したカオリが強くなる雨音と共に入ってきた。

「危うく僕が除霊されるとこだったから」

というと、ポカンと口をあけ小首をかしげた。

「まぁまぁ、それでどうしたの?」

スベッたことを悟られぬように話を戻す。

しばらくもじもじしているカオリを今度は仏のような顔で見守る。

「…祐希くんのこと、好き」

消え入るような声でそう言った、興奮で耳鳴りがして軽く記憶も飛んだ気がした。

「も、も、もう一回いって」

わざとらしく耳に手を当てて目を閉じる

「……祐希のくんのことが好き」

目を開けるとあの雪の日のように頬を赤く染めた彼女がいた。

「僕も香のことが好きだ」

結界寸前だったダムが開放されたようにいろんな感情が込み上げてきた。思わず踊り出しそうになったり、大声で叫んでしまいそうになったり。おそらく傍から見ると小さなガッツポーズくらいはしてしまっていただろう。

「ふふふ」と口元を押さえて笑うカオリに

「付き合おう、僕たち」と、手にグッと力を込め、生まれて初めてのセリフを告げる。

うるさかった雨音も、破裂しそうな心臓の音も聞こえなくなってしまったこの耳に、震えるような、喜びを噛み締めるような声が届いた。

「はい」


 「学校の人たちには言わないでほしい」

うつむいた彼女は照れくさそうに言っていた。その言葉に違和感を感じた僕は、少なくとも一年の時同じクラスだった奴らは気付いてると思うけど、と公表したい気持ちを押し出してみる。

香は「ん〜」と首を捻ると少し間をおいて「恥ずかしいから、お願い」と照れくさそうにうつむいたまま走り去った。

僕も帰るか。教室を出ようとすると野球のユニフォームを纏った坊主頭が「祐希じゃんまだいたのか!ていうか浪花元気か?最近見ねえけど」とすっとんきょうな質問をしてきた。今すれ違ってないの?というのもなんだか質問に質問を返すようで気が引けたため「元気だよ」とだけ返した。

 

 “彼女”との約束を無碍にする理由もないため、学校では極力今まで通りの距離感で接していたが、やはり思春期の自分には耐えられない。

親に頼み込んでケータイを買ってもらったのでメールアドレスを交換し、寝落ちするまで毎日メールを送り合っていた。

目を閉じると君の顔が なんてことはないが、メールを読み返すだけで香をそばに感じることができた。

『一年の時から好きだったよ』

『気づいてたよ(笑)』

『そうなの!?恥ずかしい…』

僕は今どんな腑抜けた面をしているのだろう

ここに鏡がなくてよかった。

そんな幸せな毎日を過ごしている内に、出会った頃を思い出す夏休みが来た。


 一年生の頃と違うのは、離れていても連絡を取れるということ。メールをすればいつだってどこだって繋がっていられる。

ただ、いまだに自分から「会いたい」と伝えたことはなかった。

画面に打ち込んだことは何度もあるが、それと同じ数、削除ボタンを押してきた。

夏休みも中盤に差し掛かった蒸し暑い夏の夜、風呂から上がりお決まりのメールチェックをしていると一件の新着があった。

『暑くて眠れないよ(T . T)

祐希くんに会いたいな』

飲んでいた牛乳を吹き出しそうになりながら、目をこすって画面を近づけたが、確かにそこには『会いたい』と書いてあった。

『いまから行く!家どの辺?!』

ここぞとばかりに男気を見せるのを申し訳なく思いながらもあれじゃないこれじゃないと

「夏の、夜だけど暑くて、かといって風呂上がりだからできたらもう汗をかかないで済むくらい涼しい、でも寝巻きと思われたくない服」を用意する。

ブーブーと携帯が鳴り、何よりも素早い動きで

メールを開封する。

『すごい勢い(笑)

◯◯2丁目の公園でいい?』

心臓が鼓動を早めるのがわかり、早速汗をかいてきたことを不覚に思う間もなく、どこいくの?と問う母に「友達のとこ!」ともはや考えるより先に出た言葉を玄関に残して自転車にまたがっていた。

僕の家→二丁目公園最速RTAを鈴虫が盛り上げてくれている。風を切る音を始めて耳にした。

どこかの家がバーベキューをやっていたのか

炭火のいい匂いがした。

「夏の夜も自転車飛ばせば風涼し」

謎の一句を詠みながら公園に到着した。

切らした息と高鳴る鼓動を抑えながら彼女を待った。

呼吸は元に戻ったが相変わらず鼓動は高鳴っていることに焦り、尚のことそれが早くなっていくことに頭を抱えているとザッザッと砂を踏む音が聞こえ、野生の動物より早く音の方向を向くとおそらく風呂上がりであろういつもより少し艶やかな彼女がいた。

「よっ!こんな時間にいいの?」

興奮を押し殺し、定型分で尋ねる。

「うん、ママには友達と会ってくるって言った」

明るくなった前髪を右手で耳に掛けている。

ここが密室じゃなくて良かった。オスの生物学的本能を悟られぬようにおちゃらける。

「お主も悪よのう」

「ハッハッハ!西野様ほどではございませぬよ」

手首より先をふりふりしながら返ってきたその声はいつもよりも楽しげだ。

香もこの状況にテンションが上がっているのではないかと思うと途端に愛おしくなり抱き寄せてしまった。最初は動揺したようだったが、しばらくすると細い腕が僕の背中に触った。

時が止まったようだった。夜九時の公園、聞こえるのは遠くのエンジン音と鈴虫の合唱。それらをかき消すような僕の鼓動。

背の高い街灯がスポットライトのように僕らを照らす。無意識に目を閉じて、彼女が放つ僕の大好きな匂いを吸い込んだ。

「カオリ、柔軟剤かシャンプー、変えた?」

「…もう、第一声それでいいの?」

カオリの言うように、これでよくないことは明らかだったが、今はそれどころじゃなかった。

僕にとっての浪花香という人物は太陽の匂いあってこそだった。僕の鼻腔に染み込んだものは、僕が好きだった浪花香とのわずかな差異を脳に伝えた。


 気まずい空気を切り裂くように僕のケータイが鳴った。登録してない番号だったが、この空気を打ち消すにはうってつけだと思い、通話ボタンを押した。「あ、でた!西野くん!」

聞き覚えのある声だ、なんだか慌ただしい。

「もしもし!あたし!カワグチナナ!カオリが危ないから早く◯◯病院にきて!早くね!」

「どういう、、カオリなら今目の前に…」

と目の前の顔と目を合わせる。前にも見た美しい黒の瞳、ではなかった。

涙を溜めた茶色の瞳が僕を見つめる。

何がどうなっているのか訳がわからない。

このカオリはカオリではない?でも…

ともう一度ケータイを耳にあてる。

「西野くん!早くね!」乱暴に電話を切られる。目の前が真っ白になって何故だか息がしづらくなっていた。ふと横を見ると走り去るカオリの足が見えた。「待って」確かに言ったはずのそれは自分の耳にすら届かないほど小さなものだった。

 

 しばらく呆然と立ち竦んでいたがさっきの電話を思い出し、わけもわからないまま◯◯病院へと自転車を走らせた。今はもう何も聞こえない。匂ってくるのは涙か鼻水か、かすかに鉄分の香りがするものだった。

病院につき、受付の看護師に浪花香の“友人”であることを伝えると集中治療室に案内された。ドアの上で怪しく光る赤色のランプの下には彼女の母親と見られる女性と、僕らと同年代だろう一人の女子がいた。よく見るとその女子は同じクラスで、彼女と仲が良かった。名前は確か“ナナ”。目を真っ赤に腫らしたナナがこちらを見て口を開く。

「西野くん、香が…」泣きながら話すその声を頭の片隅で処理しつつ、もつれた毛糸玉のような頭の中を少しずつ整理していく。

まずこの扉の奥にいるのが浪花香であることは間違いない。そしてその容態が悪化していて、命の危機であろうことも察した。

一番の問題は先ほどまで一緒にいたもう一人のカオリのことだった。目の前の二人にあれが誰かと尋ねてもいいが絶対に正解が返ってこないことは予想がつく。考えているようでなにも考えられない頭を抱えていると、香の母親らしき女性が太陽の香りと共に歩み寄り、今にも泣き出しそうな声で語りかける。

「あなたが西野くんね。何が何だかわからないと思うけど、今はこの治療の成功を祈ってあげて」

目の前の女性が発した短い言葉は、何日かけてでも質問したい事だらけだった。治療か。だいたいこういうときは成功するんだ。絶対成功する。ていうか何の病気なんだろ、一切相談してくれないなんて、手術が終わったら問い詰めてやる。

固く組み合わせた両手の親指を眉間に押し当てる。呼吸がいつものリズムを忘れて情けない声が漏れてしまう。手の甲を伝うぬるい涙を拭こうと顔を上げる。赤いランプが灯す薄暗い廊下には誰のものかわからない嗚咽と鼻をすする音だけが響いていた。


 何分、何時間だったかもしれない長い時が経ちおもむろに鉄の扉は開いた。おそらく主治医であろう男は悲壮に満ちた目で母親の方を見やって、歯噛みしながらこう言った。

「最善は尽くしました」

ですが、と続くであろうその言葉はしばらくの間そこで途切れたままだった。


 次に見た光景は自室の天井だった。

前の記憶を辿ろうとすると頭が痛い。

どうやってここに帰ってきたのかもわからない。小学生の頃、熊に喩えた天井の木目は徐々にぼやけてゆき、こめかみを伝うぬるい水が、買ったばかりの枕を濡らした。


 泣き疲れて眠った後、ようやくここに来る前にあったことを思い出した。主治医が放った言葉にその場の二人は崩れ落ちた。理解の追いついていない僕だけが主治医の次の言葉を聞き取れたようで、治療室の中へ通された。殺風景で無機質な部屋の中央の、小高い寝台に横たわる一人の女の子。

嗅ぎ慣れない薬品と、嗅ぎ慣れた太陽の匂いが混ざったその場所へ僕はまっすぐ歩いた。理解が追いつくにつれて、僕とその女の子との距離は、教科書で見たどこかの砂漠の如くどこまでも広がっているように感じた。進もうとする足を止めたかった。ボロボロになってたどり着いたその場所に横たわる女の子の顔を見た時、全身の血が急激に下降していくのが分かった。

真っ白な肌に凛々しい眉、筋が通った小さい鼻

無機質な管を通された口元にはちょっとずれた白い歯が隠れている。

そこにいたのは僕が恋した人だった。

ずっと会いたかった人だった。訳のわからないことだらけだったけど、浪花香がたった今亡くなったことだけはわかった。思わず掴んでしまった真っ白な右腕は驚くほど冷たくて、いくら呼びかけても眉ひとつ動かさない香の綺麗な顔を、なにもしてやれなかった愚かな涙で汚さぬようにと跪いた。

初めて声をあげて泣いていた、おそらく気を失ってしまうまで。


第二章

 何故だか濡れていた頬を、袖口で拭っていると突然肩をゆすられる。

「泣いてるの?大丈夫?」

びっくりして振り返るとそこには懐かしい顔があってまたびっくりした。

ーーなんだ、まだ夢か。


一年二組 那須 夏織

 この高校を選んだのは家の近くだったから。

将来何になりたいかなんてわからないし

やりたいことも特にない。

今まで人に同調しながら、流されながら生きてきた自分は「那須 夏織」と品名の付けられた

マネキンも同然だった。

自分の顔が嫌いだ。綺麗な姉と比較されてきたから。自分の声が嫌いだ。だから私は会話も怖い。自分の性格はーー嫌いになれるほどの特徴すらない。

そんな私にも好きな人はできてしまう。

後ろの、そのまた後ろの席でいつも優しそうに微笑んでる男の子。一目惚れだった。

初めて芽生えたこの感情は、今までみたいに他人に流されたってどうにもならないことだけは分かった。結局話しかけることすらできないままあっという間に夏休みがきた。


 夏休みが明けると、私と彼の間の壁は、その天板が見えないほどに高くそびえていた。

色が白くて華奢で、だけど強くて明るくて

誰からも好かれそうな、私とは正反対の人。

私と同じ"カオリちゃん”は気づけば同じ目で彼を見ているようだった。

遠くから眺めるだけだった私とは違い

あの子は彼を間近で見ていた。

ある日の休み時間、いつも以上に盛り上がる二人の会話を聴くことに耐えられなくなった私は廊下に出ようとした。「デート」という彼女の明るい声が私の歩みを一瞬止めたけど、その先の彼の返事を聞きたくない、と逃げるようにその場を去ってしまった。


 いなくなってしまえ。他人にこんなことを思ってしまう自分にビックリした。

みるみる距離が縮まっていく二人を見ていることすらできなくなっていた。クラス中でもお似合いだと騒がれていたし、私自身もそう思っていた。彼は私と目も合わせてくれない。話したことすらないから当然だと言えば当然のことだけど、まるで私のことなんて、見えていないかのようだった。


 私の中で一つの大きな事件が起きた。

それは美術の授業で、ペアを組みお互いに似顔絵を描いていた時のこと。西野くんとペアを組んでいた野球部の坂口くんが「これ本当に俺か?!全くの別人描いてんじゃん!」と注目を集めるように言っていた。

「坂口の顔なんて見てられないよ」

ふざけてそう返す西野くんの言葉にみんなは笑うだけで、誰もその似顔絵を見ようとはしなかった。

坂口くんがああいった直後に、西野くんが一瞬焦ったような素振りを見せたことを私は見逃さなかった。

何か重大な違和感を感じた私は、みんなが教室を出た後に悪いと分かっていながらも、こっそりと西野くんのデッサンノートを盗み見た。

例の似顔絵は確かに別人だったけど、口元より下だけはたしかに坂口くんだとわかるものだった。ただそれより上は明らかに手を抜いたようなタッチに切り替わっていて、あえてふざけて描いたような印象を受けた。

それ以前にも、よく友達の名前を呼び間違えていたことを思い出す。西野くんに対して感じていた違和感が線で繋がり、私は一つの結論を出した。


 冬休みが明けると教室の真ん中に穴が空いたような気がした。

私の後ろはほとんど毎日空席だった。

噂によると浪花さんは重い喘息を患ってるみたいで、理由はわからないけどそれが重症化しているらしかった。

それに伴って西野くんは元気をなくしているように見えた。けれど体調がいいと学校にきていた浪花さん会うたび、私には絶対に向けられないであろう弾けるような笑顔を見せていた。元から細かった彼女はさらに細くなったように見えたし、透き通るような声は、大嫌いな私の声のように掠れてしまっていた。

わずらわしかった彼との壁が崩れだす。

その視線は間違いなく前方の私に向いているはずなのに、それを一切感じられない。

そうか。彼女がいなくたって結局こうなんだ。

何かへんな勘違いをしていたことを恥じた。

そして私はしたたかに燃えていた恋の炎を消した。

 

 進級して心機一転がんばろう!なんて嘘でも言えない私はクラス替えに浮かれた生徒たちの隙間を縫って、新しい教室に向かう。

そこには既に、てんてんと散らばる仲の良さそうなグループがいて、私は深いため息をつく。

また一から「クラスメイト」という超閉鎖的組織の一員にならなければならないのか、ともう幾度目かのこの行事に辟易していた。

大きな声のヒソヒソ話が響くこの教室の中央からそれを邪魔しないようにとくぐもった音のくしゃみが聞こえた。そこに彼はいた。

消したはずの炎はしぶとく燻っていたようで

薪をくべられたかのように一気に燃え盛った。

バカだな、そんな自分にも辟易しながら

黒板に記された自分の席を見る。

那須 西野 確かにそう書いてあった。

浪花さんは別のクラスなんだ!

いてもいなくても変わらないと思い知らされたあの日のことを忘れて喜んだ。

席に着くと、その距離感を考えるだけでドキドキした。「今日こそ話しかけるんだ!」と途端に溢れてきた謎の勇気もすぐになくなってしまった。西野くんはまるで浪花さんがいないことに打ちひしがれるようにずっと机に伏している。

どうにかしなきゃと悩んでいたらあっという間に帰る時間がやってきた。

これからの約束を取り付けるやかましい声達が教室を去っていく中、今しかないと今世紀最大の勇気を振り絞る。

「西野くん」想定より小さくなってしまったその声に、バッ!と上げられた顔は怒っているのか

笑っているのか、なんともいえないものだった。その顔のまま「へ?」と空気が抜けるような言葉が返ってくるものだから、私の緊張は嘘みたいに解けてしまっていた。

「また同じクラスだね。これからよろしくね」

調子にのってしまった。“また”と自分が発した言葉に一瞬で後悔する。もしも「そうだっけ?」なんて言われてしまったらどうしよう

と軽いパニックになっていると、彼はいつもの優しい顔に戻り「うん、よろしく」と言ってくれた。自分を覚えてくれていた、ただそれだのことに心を弾ませていると、奇想天外な言葉が飛んできた。

「ていうか人に下の名前で呼ばせといて自分は苗字で呼ぶんだ。」

眉間に皺を寄せる彼が発したその言葉に理解が追いつかない。

そのとき、天啓ともいえる一つの妙案が浮かぶ。ある種の最終奥義のようなそれは、失敗したら死んじゃう代わりにとても強力だ。でも万が一に成功したとしても那須夏織はこの世から消えてしまうかもしれない。

流されてばかりだった私が初めて直面した問題は、一休さんでも逃げ出してしまうような超難問だった。「どうしたの?」そう言いたげな西野くんを見て私はこの最終奥義を使うことにした。

「じゃ、じゃあ…祐希くん…」


 美術の時間に私が出した仮説は当たってたみたいだ。西野くんは人の顔を認識できない。それも、目が悪いからとかではなくて【相貌失認】という病気があることも調べていた。似顔絵が嫌いなんじゃなくて、人の顔がわからない。目が合わないんじゃなくて目がどこにあるかわからない。人の名前を間違えてしまうのもそのせいだろう。その日から私は“浪花香”として彼と接することにした。浪花さんのふりをする上で心配要素であるこの声も、疑う様子は見られなかった。

この声に感謝する日がくるなんて夢にも思わなかった。

だけど咄嗟に講じたその策は時間が経つほどに私の心臓を締め付ける。

西野くんがクラス名簿を見たら、誰かが私を「那須さん」と呼んだら、本物の浪花さんがこのクラスにきちゃったら。尽きることのない破滅へのシナリオがこの脳内を支配する。

「好きな人に好きになってもらえる。だがもしヘマをすれば残りの人生全てをいただく。」

身勝手な警告を告げた悪魔は鏡に映る自分だった。


 様子を窺っていた、まだ引き返せると。

悪魔に心臓を掴まれた日々はじわりじわりと私を追い詰めていた。浪花さんの皮を被ってもその実、中身は内気で弱虫な那須夏織のままだ。

夏休みまでになんとかしなきゃ、そう決めた私は浪花さんの現状を探った。彼女は向かいの校舎にある四組にいて、相変わらずあまり学校には来れていないみたいだった。病状はおもったよりも深刻なようで周りの生徒も気を遣い、それを騒ぎ立てることはしていなかった。

これで浪花さんが西野くんに会うために、うちの教室に来る心配はしなくてよさそうだ。

西野くんは病気のせいか他人に興味を持たないようで、同じクラスに誰がいるのか確認する素振りはないし、寂しいことだけど私を「那須さん」と呼ぶ人はいない。一年の時に仲良くしてくれた川口さんが「夏織ちゃん」と呼んでくれるのはむしろ好都合だった。

悩みのタネが消え去った私は強欲の魔女と化し「西野くんと付き合いたい」そんな愚の骨頂の想いを小さな胸の内で膨張させていた。


 それがついに薄皮一枚を突き破らんとしていた頃、私の決意は固まった。西野くんに告白しよう。那須夏織では逆立ちしてもできないことも浪花香の姿を借りればいとも簡単だ。

彼がみている私は、彼の大好きな浪花香として揺るぎないものになっていて、これまで感じることのなかった視線も今ではこの背中に痛いほど感じている。

国語の授業を丸々費やして決意の最終確認をおこない、授業終了を知らせるチャイムと共に

後ろを振り返りこう告げた。

「今日の放課後残っててくれるかな」

彼と会話するという事実は何日もかけて固めたはずの決意をすぐに融かしてしまう。

鎧を脱がされた体はその視線を避けようとくねくね動き出した。

「ここでいいの?」

喜びを隠しきれてない様子の彼に、みんなが帰るまで待ってて欲しいと伝えた。

よし、ここまできた。あと一歩だ、あと一歩で彼と付き合えるんだ。念には念を、と浪花さんが言いそうな告白の言葉を選ぶべきだけど、

人生の一大事にまで彼女のことを考えるのは癪に障る。と傲慢の魔女まで現れたから

この際、那須夏織の言葉で那須夏織の想いを伝えることに決めた。

ホームルームが終わり、万が一があってはいけないと四組へ足を運んだけど杞憂に終わった。

戻る廊下から見える西の空は、夏の太陽を切望してしまうほどに厚く重たい雲を湛えて、不意に稲妻を走らせる。それに睨まれたような気がした私の足取りは、ずんと重たくなった。

冷静になったらダメなことはずっと前からわかってる。罪悪感は鏡の中の悪魔に捧げてきた。

ふぅ、と息を整えて彼の待つ教室へ戻ると

二人の女の子と、それをものすごい形相で睨みつける彼がいた。その光景に吹き出しそうになり慌てて物陰へ隠れ、二人が去るのを待っていると、閃光のような稲光と校舎を揺らすほどの轟音に驚いた彼女らは「ヒェっ」と声をあげ教室を飛び出した。

そしてこの広い教室には怖い顔をした彼一人が残った。覚悟を決めて歩み寄ると同時に予報になかった雨粒が窓を叩いた。

それはロマンチックなBGMとなり、二人きりの教室を包む。このときにはもう緊張はしていなかった私は自然な笑顔を纏って語りかける。

「顔怖いよ」

「危うく僕が除霊されるとこだったから」

どういうこと?と聞く前に彼は続ける。

「まぁまぁ、それでどうしたの?」

優しく微笑む彼を前にすると、浪花さんの鎧は私を守ってくれない。

「自分でやりなさいよ!」と、彼女の芯のある声が脳に突き刺さる。

でもでもだって、と駄々をこねたい気持ちとは裏腹に、溢れるこの思いは口を伝って音になっていた。

「祐希くんのこと、好き」

言えた。そう実感するとさっきより勢いを強めた雨音を心臓の音が掻き消していた。彼を見るとその表情をカートゥーンアニメのように忙しなく変化させながら「もう一回聞かせて」とわざとらしく耳に手を当てている。

うるさい心臓は全身に血液を運び、私の顔は今にも燃えそうだった。

「祐希くんのこと、好き」

さっきよりわずかに大きな声で言えた。

とてつもない満足感の湯船に浸かっていると

彼はノックもなしに飛び込んできた。

「僕も香のことが好きだ」

様々な感情が湯船から溢れ出す。

始めての恋が叶った喜び

想いを伝えられた満足感

この上ない幸福

浪花さんへの優越感

そしてわずかに湯船に残った負の感情に浸る

浪花さんへの劣等感

この上ない不安

想いを伝えてしまった後悔

始めての恋が砕けた悲しみ

彼が言った“カオリ”は浪花さんのことで、

那須夏織は恋が叶ったと同時に失恋していた。

もうわけがわからなくなって笑うことしかできなくなった私に彼は言う。

「付き合おう、僕たち」

もう引き下がれなくなったこの関係に血判を押すように応えた。

「はい」


 もしものことがあってはいけないから、学校の人たちにはこのことを秘密にしておいてほしい、と伝えた。大半の奴らは知ってるんじゃない?と返す呑気な彼に、「大半どころか君すらわかってないよ」と嫌味な悪魔を振り払い「恥ずかしいから」と伝えた。

廊下の足音に振り返ると坂口くんがいた。

浪花さんの次に天敵である彼から逃げるように私はその場を去った。


 次の日から、彼は忠犬のように約束を守り今まで通りに接してくれていた。

ある日の放課後、ケータイを買ってもらったと鼻息を荒げる彼とメールアドレスを交換した。

夜な夜な飛び交う電波の中でだけ、わたしは那須夏織でいられた。

『一年の時から好きだったよ』

校正に校正を重ねた爆弾を自室のベットから投下して、タオルケットシェルターの中で返事を待つ。

『気づいてたよ(笑)』脳裏によぎる浪花さんの笑顔が、この狡い女を現実という名の戦場に送り込む。それはそうだよね、あの頃の浪花さんは誰の目から見ても恋する乙女だった。

度々直面する現実に、はぁ、とため息をつきながら適当なセリフを送信した。


 退屈しない日々は猛スピードで進んでゆき、あっという間に夏休みになった。

毎日会えていた人に突然会えなくなることを寂しいと感じるのは、私だけじゃないはずだ。

彼の“カオリ“に対する好意は日に日に増しているようだったけど、会えなくなって二週間が過ぎようとしている今日まで『会おう』と言われることはなかった。私はこの悶々とした気持ちを熱帯夜のせいにしてついに『会いたい』と伝えた。返信を待つときの緊張は何にも例え難いものだ。私は後悔と興奮が入り混じった画面を見ないようにして、夏休みの宿題を眺めていた。ブーと空気を揺らすいつもより遅めの返信が体温をぐっとあげる。断られたらどうしよう、そもそもこの嘘がバレてたらどうしよう。

いつまで経っても消えない不安を抱き、震える手で画面を見る。

『いまから行く!家どの辺?!』

よかった、と何も気づかない彼を認めるたびに

先ほどまでの渦巻く不安は塵となり消える。

会いにきてくれるんだ。小さい頃によく遊んだ公園を伝えると、わたしは姉の長風呂を急かした。


 いつもよりしっかり身体を洗い、姉のタンスから大人っぽい薄手のシャツを拝借した。

友達に会ってくると嘘をつき家を出ると、

見慣れた公園に、ずっと見たかった彼が居た。

サンダルと砂が擦れる音に彼が振り返る。

「よっ!こんな時間にいいの?」

子犬のような笑顔は頭の中のしがらみを取り払ってくれて、素直にこう告げることができた。

「ママには友達と会ってくるって言った」

那須夏織として話せたことが嬉しくて、ただそれだけのことで私は笑顔になれた。

「お主も悪よのお」とご機嫌な彼に

「西野様ほどではございませぬよ」と私もつられておちゃらけてみると彼は不意にこの身体を抱き寄せた。その状況を理解するのに何秒かかっただろう。少し背の高い彼の首筋の香りが胸いっぱいに広がると、身体中の血液が乱高下を始めて少しよろけそうになり、彼の背中に手を回す。ずっとこうしていたい。そんな馬鹿げた思考にまどろんでいる私を彼の声が掬い上げる。

「柔軟剤かシャンプー変えた?」

途端に女の勘がやかましい警告音を鳴らす。

「第一声、それでいいの?」

咄嗟に話題を変えようとするも、彼はくっついた身体を剥がし、神妙な顔で考え事を始めた。

盲点だった。他人の顔を判別出来ない彼はその分他人の匂いに敏感だったんだ。

バレたかもしれない、私は幸せの絶頂からの急転直下に言い訳すらできずにいた。


 本当はすぐにでも逃げ出したいのにこの足は動いてくれない。「助けて、浪花さん」ご都合主義の心が叫び続けている。この心臓を掴む悪魔の手は、それを握りつぶさんとばかりに力を込めていた。

万事休すか…と思われたその時、知らない着信音が鳴り響いた。

「でなよ」と諭すまでもなく彼はピカピカのケータイを耳に当てた。わずかに洩れ聞こえる言葉の端々に、「川口、カオリ、病院」その3つの言葉が確かに聞こえた。おそらく電話の主は川口さんで、浪花さんが危ないから病院に来てくれ、という予測を立てるのはいとも容易いことだった。

完全にバレてしまった。この状況から立て直すことはもうできない。諦めながらも意地汚い私は「最期に」と憧れ続けた彼の横顔を見つめる。

「カオリならここに…」と慌てた様子の彼とはじめて目が合った。決して交わることのなかった視線が濃密に絡み合う。彼の顔は徐々に絶望へと歪み、その視線はもう二度とこちらに向かうことはなかった。茫然自失となってしまった彼に「騙してごめん、大好きだよ」と心で叫びながら、がむしゃらに走った。


 切らした息を整えて「那須」と表札に刻まれた家に入る。震える手で顔を洗い、覗いた鏡にはあの日の悪魔がいて、悲哀に満ちた貌でこう囁いた。  「残りの人生全てをいただく」

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